ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

欽明天皇の時代

 539年 10.?〔参考〕『日本書紀』によれば、広庭王は、はじめ自らを若年(当時31歳)で未熟だとして、春日山田王に代わりに大王になってもらおうとしたという。

〔参考〕『元興寺伽藍縁起』の引用する「丈六光銘」には、名は「広庭」とある。

※この逸話から、31歳は大王として政務を行ううえで未熟と考えられていた節がある。また、熟年の前々天皇のキサキは、政務を行うに十分な資質があると見られていたことが理解できる(義江明子推古天皇』)

539年 12.5 広庭王は天皇として即位した(欽明天皇)。(『日本書紀』)

〔異伝〕『上宮聖徳法王帝説』は、欽明天皇の即位を531年とする。

※このことから、当時の王統は安閑・宣化系と欽明系に分裂しており、蘇我氏欽明天皇に協力することで勢力を伸ばしたという説もある(倉本一宏『蘇我氏』)

欽明天皇は、継体天皇即位後に誕生しており、継体天皇崩御時点には若年(20代?)であった。大王に実績と熟年が求められる当時において、異母兄と大王位を争ったという説には疑問が呈されている。安閑天皇は本拠地が勾、宣化天皇は檜隈にあり、欽明天皇が即位するまでの「中継ぎ」を引き受けたとの説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

欽明天皇の和風諡号「天国排開広庭」は、「天と国を押し開いて広庭を創られた御方」という意味である。「広庭」とは祭祀を行う神聖な場所である磐余のことを指すと考えられる。諡号は生前の偉業を鑑みて贈られるため、欽明天皇は、天香久山三輪山に囲まれた磐余に、大王家にとっての聖域としての意味を加えたのだと思われる。また、天神の住む世界である「天」と大王が治める地上である「国」が諡号にあることから、天上と地上の世界が一対の両極であるという概念が成立していたことが伺える(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

540年 1.15 〔参考〕欽明天皇は、宣化天皇と橘仲皇女の間に産まれた石姫王を「皇后」に立てたという。(『日本書紀』)

安閑天皇宣化天皇の派閥と、欽明天皇の派閥の抗争を収束させるために婚姻がなされたという説もある(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※近親婚を繰り返すことで、他の系統とは区別される特殊な血統を形成し、豪族の長とは異なる継承原理を持つことで、王統の維持を企図したとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※石姫王は大王の姪という血統を有していたために王権を分担して担うことが可能であり、大王の正妻、大后としての立場を持っていたとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

540年 9.5 任那割譲したことを物部尾輿に非難され、大伴金村は失脚したとされる。(『日本書紀』)

※金村に対する譴責は30年ほど前の事案であり、このときになって追及されることは不自然さを感じさせる。ただ、『日本書紀』は金村が百済から賄賂を受け取った話などを語っており、任那割譲とは直接関係がないとしても、物部氏と対立し、外交問題が理由で失脚したことは実際にあったとも推測される(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

540年?.? 欽明天皇と堅塩媛の間に、橘豊日王が誕生した。(『東寺王代記』)

541年 3.?  欽明天皇は、宣化天皇の王女,稚綾姫王・日影王姉妹と、蘇我稲目の娘堅塩媛・小姉君姉妹、春日日抓臣の娘糠子を正式にキサキとした。(『日本書紀』)

蘇我氏は伝統のない振興氏族であったため、将来的な地位のために大王との積極的な婚姻関係を築こうとしたのであり、欽明天皇としても、群臣会議を束ねる実力を持つ稲目に、次世代の大王候補を託そうとしたのだと考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・545年(梁暦大同11) 夏以前 梁の皇侃は『論語』の注釈書『論語義疏』を著した。

〔参考〕『論語』「子罕篇」は、孔子が乱世となった「中国」を離れて「九夷」に移り住むことを願うものであるが、『論語義疏』は「夷」の内の1つを倭であると説明する。

・548年? ?.? 百済の聖王,扶余明禯は、倭国に仏像、経典を贈った。(『三国史記』「武寧王墓誌石」)

〔異伝〕『上宮聖徳法王帝説』は538年10月12日とする。

〔異伝〕『日本書紀』は552年とする。

※先代の百済王、武寧王,扶余斯麻の崩御年は、その陵の墓誌石によって523年であるとわかる。つまり明禯の即位年も同様であるため、即位26年は548年となる。百済は541年に、仏教が隆盛していた時代の梁から導入しており、そのまま倭国にも伝わったことになる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※『日本書紀』には、明禯の上表文とされるものが記載されている。上表文には『金光明最勝王経』の表現が見られるが、saṃskṛtamの原文から漢訳されるのは702年のことである。そのため上表文は後世の創作と考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

〔参考〕『日本書紀』によれば、蘇我稲目百済から贈られた仏像を「小墾田の家」に安置し、「向原の家」を寺にしたという。

〔異伝〕『隋書』には、倭から百済に求めて仏教を導入したとある。また、仏教の経典がもたらされて、始めて文字を持ったとある。

※『隋書』に従えば、当時の「中国」である隋を中心とした秩序への参入を意図して、仏教を導入したと考えられる(河上麻由子「遣唐使と仏教」)。

※当時の倭国は、「中国」の梁とは直接の交流を持たなかったが、百済を介して先進文化が伝わったのである(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※仏典によって文字がもたらされたというのは誇張にしても、漢字・漢文をより浸透させる起点になったことは確実と考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※当時の「中国」と朝鮮半島は仏教の盛んな時代であり、文明の象徴として需要されたのは、儒教儀礼・教学よりも仏教であった(末木文美士『日本思想史』)。

百済新羅高句麗と対立しており、援助の見返りとして、新文化、仏教の代表である、仏像と仏典を送ったのだと考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

※当時の倭国の支配層は、国家の運営のために利用できる思想としてではなく、ただ贈り物として考えていたと思われる(本郷真紹『仏教伝来』)。

和辻哲郎は、当時の倭の「一般人」は、大乗仏教思想を理解するには「あまりにも無邪気であり朗らか」であって、「ただ単純に、神秘なる力の根源としての仏像を礼拝し、彼らの無邪気なる欲求-現世の幸福-の充たされんことを願ったに相違ない」と述べている。また、「死後にこそ、真実の生活がある。そうしてそれをこの人のすがたをした仏が保証する。この信仰によってこそ彼らは死の悲哀を慰めることができた」としている。  (和辻哲郎『日本精神史研究』)。

・6世紀中頃 アルタイ・モンゴル高原に、突厥(テュルク)が現れた。突厥アラル海カスピ海北岸にまで勢力を拡大した(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・550年 グプタ朝は滅んだ。

・552年 突厥柔然から離反した。

・552年 欽明天皇が石姫王との間に儲けた第一王子、箭田珠勝大兄王は薨去した。(『日本書紀』)

※これにより、箭田珠勝大兄王の同母弟,渟中倉太珠敷王が将来的な継承者になったと考えられる。

※渟中倉太珠敷王の「珠敷」は特別な立場にある王子の美称であり、兄の「珠勝」と並ぶ名であるとも考えられる(本居宣長古事記伝』)。

552年10.?〔参考〕『日本書紀』は、仏教導入に賛成する蘇我稲目と、反対する物部尾輿中臣鎌子が対立したと記している。

※尾輿と鎌子は、倭国は「天地社稷」の百八十神を祀っていることを述べたとされるが、天照大御神伊勢神宮の祭祀に関して言及していない。このことから、当時はその祭祀が成立していなかったと考えられる(新谷尚紀『伊勢神宮出雲大社』)。

物部氏蘇我氏に対抗して、渡来人氏族である西漢氏と関係を深めていたほか、物部氏の拠点から石上廃寺や渋川廃寺などが発掘されたことから、物部氏も仏教を需要していたことが判明している。『日本書紀』に記される欽明天皇の代からの蘇我氏物部氏・中臣氏の間の対立は、蘇我氏物部氏の勢力圏に侵攻するなどした権力争いや、大王位継承に関する争いという説もある。(佐藤信 編『古代史講義』)。

552年10.?〔参考〕欽明天皇は、百済からもたらされた仏像を蘇我馬子に預けて拝ませることにしたという。(『日本書紀』)

三輪山の宿る神を信仰する三輪氏や、剣に宿る神を祀る物部氏などと同じような感覚で、仏に宿る神の管理を馬子に委ねたとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・552年 疫病が蔓延した。物部尾輿中臣鎌子は、仏教崇拝が原因であるとして、欽明天皇に仏像の廃棄を提案して許可された。(『日本書紀』)

〔参考〕『延喜式』の風神祭の祝詞によれば、欽明天皇の時代に飢饉が起こり、それは天御柱命国御柱命の意志だと判明したため祭祀が開始したという。

〔参考〕『本朝月令』の引用する「秦氏本系帳」によれば、欽明天皇の時代に風雨のために民衆が愁いたのだという。そして原因が賀茂神の祟りだと判明したため、4月の吉日に競馬の祭祀が開始したという。

※552年の疫病との関連性は不明であるが、欽明天皇の時代には天候不順や飢饉が起こったことになる。天皇の祭祀は、神を原因とする天候不順や飢饉を回避することが目的にあったと考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

・553年 欽明天皇は仏像2体を造らせた。(『日本書紀』)

・554年 ?.? 欽明天皇と、蘇我稲目の娘,堅塩媛との間に王女,額田部王が誕生した。(『日本書紀』)

額田郡という諱は、額田郡氏出身の乳母に養育されたことを示す。彼女の誕生に際して、奉仕集団「額田郡」と、それを統轄する額田郡氏という氏族が誕生したのだと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・555年 2. 〔参考〕百済の聖王,扶余明禯が戦死した後、百済より王子,恵が派遣された。その知らせを聞いた「蘇我卿」は恵に対して、百済は祖神を祀らないというが、神霊を奉斎すれば国家は栄えるだろうと伝えたという。(『日本書紀』)

※群臣になれるのは氏族1つにつき1人であるため、この「蘇我卿」は稲目のことであると推測される。崇仏派の中心の蘇我氏であっても、日本古来の神祇を軽視していたわけではないことが伺える(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・555年 7.4 吉備に派遣された蘇我稲目が白猪屯倉を設置した。

※白猪屯倉は政権がその地域の鉄資源を掌握するために、児島屯倉は瀬戸内海において水軍を直属させ新羅との戦争の準備をするために設置したものと思われる(倉本一宏『蘇我氏』)。

※渡来人を率いる蘇我氏屯倉に派遣され、田籍による新たな到着機構の導入を担ったとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※稲目は屯倉に派遣され、そこで渡来人を駆使して田籍による新たな管理機構を取り入れようとしていたことが伺える(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・555年 突厥のカガン,ムカンは、柔然を滅ぼした。その後に本拠をモンゴル高原に移した。

※ソグディアナは東から勢力を伸ばした突厥によって支配される(岡本隆司『世界史序説』)。

突厥は政治・経済・外交・諜報において、ソグド人を協力者とした。草原に覇を唱えた突厥の軍事力と、オアシスに情報網を築いたソグド人の経済力が統合した形である(杉山正明遊牧民から見た世界史 増補版』)。

・557年冬 アヴァール人は東ローマ君主ユスティニアヌスに使者を遣わした。

ユスティニアヌスは、アヴァール人に毎年定額の支払いを行う引き換えに、東ローマ辺境を脅かす遊牧民を討伐させた(岡田英弘世界史の誕生』)。

・557年 華北にて宇文覚が西魏の皇帝を廃位して北周を建てた。

・561年 アヴァール人がウラル川を越えて、ドナウ川に至った。

※その後、アヴァールは中部ヨーロッパにて覇権を握った(岡田英弘「中央ユーラシア、世界を動かす」『岡田英弘著作集Ⅱ』)。

・562年 新羅伽耶地域の大伽耶を降伏させた。(『日本書紀』)

※これにより、朝鮮半島において倭国は拠点を失った(倉本一宏『蘇我氏』)。

・562年 新羅伽耶地域の大伽耶を降伏させた。(『日本書紀』)

※これにより、朝鮮半島において倭国は拠点を失った(倉本一宏『蘇我氏』)。

・570年 2.? 橘豊日王は、欽明天皇と小姉君との間に産まれた穴穂部間人王、つまりは父方の異母兄弟にて母方の従兄妹を妻に迎えた。(『聖徳太子伝暦』)

・570年 3.1 蘇我稲目は死去した。(『日本書紀』)

※都塚古墳がその墓と考えられる(倉本一宏『蘇我氏』)。

※稲目の時代が、最後の巨大前方後円墳が築造された時代であることから、都塚古墳は稲目の墓としては小規模に過ぎるという見解もある。そのため、平田梅山古墳が稲目の墳墓という説もある(佐藤長門蘇我大臣家』)。

571年 4.15 欽明天皇は病を患い、新羅を討って任那を再興するよう遺詔した。(『日本書紀』)

571年 9.? 欽明天皇は「檜隈大陵」に葬られた。(『日本書紀』)

宮内庁は平田梅山古墳をその陵として管理しているが、その北方にある五条野丸山古墳に比定する説も有力である(義江明子『女帝の古代王権史』)。