ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

弘文天皇(仮)・天武天皇の時代(朱鳥)

・ 大友王子は、左大臣に赤兄、右大臣に中臣金を任じ、果安・巨勢人・紀大人を重用した。(『日本書紀』)

・672年 5.? 〔参考〕大友王は山稜造営のために人夫を摘発していたが、人夫には武器を持たせていたという。(『日本書紀』)

※これは対新羅戦争のための徴兵であり、尾張国美濃国の拠点に兵士が集結していたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・672年 6.22 大海人王は村国男依などを美濃国

派遣して、大友王打倒のために挙兵を命じた。(『日本書紀』)

天智天皇が大海人王を後継者に考えていた場合、大海人王に積極的な挙兵理由はない。そのため、鸕野讚良王が主体的に行動し、大海人王子の後に、自身の子息である草壁王に大王位を継承させようとして、大友王子を排除を狙って挙兵を促したとの説もある(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)。

※大海人王を長年支援してきた諸豪族が、大海人王が大王になることを望み、その動きを抑えられず、決起したとの説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※対新羅の戦争を計画する大友王を倒すことで、百済救援で多くの犠牲を払った諸豪族の恨みが自分に向くことを回避する意図があったとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

〔参考〕『古事記』序によれば、大海人王の軍は赤い旗を掲げていたという。

※かつて劉邦が赤い幟を使用していたことに由来すると思われる。大海人王は大友王と同じ父系集団に属するが、大友王の打倒は、大海人の認識としては「革命」であったとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。

・672年 6.24 大海人王は、鸕野讚良王・草壁王母子、忍壁王らを率いて吉野を脱出し、東国に向かった。(『日本書紀』)

 ・672年 6.25 大海人王は伊賀国から伊勢国に移り、長男,高市王と合流した。(『日本書紀』)

・672年 6.26 大海人王は伊勢国朝明郡にて、天照大御神を拝した。大海人王の元に、子息の大津王が合流し、桑名の郡家に宿泊した。(『日本書紀』)

天照大御神天皇の守護神として現れている(上田正昭『私の日本古代史』)。

・672年 7.2 大海人王は美濃国から大和国近江国に向けて進軍した。(『日本書紀』)

・672年 7.22 大海人王軍は、大友王軍を破り、大津宮を陥落させた。(『日本書紀』)

 ・672年 7.23 大友王は自害した。(『日本書紀』)

・672年 8.25 大海人王の命で、右大臣,中臣金は処刑され、左大臣,蘇我赤兄、大納言,巨勢比等らは流罪となった。(『日本書紀』)

・672年 冬 大海人王は、岡本宮の南に造営した、飛鳥浄御原宮に移った。(『日本書紀』)

・673年 2.27 大海人王は飛鳥浄御原宮にて即位した(天武天皇)。(『日本書紀』)

※軍にも守られていない状況から挙兵し勝利した天武天皇は神と称えられることになった。「大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ」(『万葉集』巻19 4261番歌)。

※「中国」の皇帝と対置し、新羅の王を従えるような新たな君主号として、「天皇」を制定したのは天武天皇とも考えられる。彼は道教や卜占に傾倒していたことから、道教最高神である「天皇」を採用したとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※初期の道教では「天皇」は最高神でないという見解もある(下出積與説)。

※「大王」という称号の「大」と「王」の画数を増やして「天」と「皇」にしたのであり、字義として大きな違いはないという見解もある(大津透「「日本」の成立と天皇の役割」『古代天皇制を考える』)。

・673年 4.14 天武天皇大来皇女を「斎王」とした。

・673年 義浄はシュリーヴィジャヤを経由して、インドに至った。彼はナーランダー寺院にて仏教を学んだ。(『南海寄帰内法伝』)

※当時の北インドヒンドゥー教を奉じるプラティパーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝が争っており、仏教は衰退期にあった。そのため後に義浄は引き返すことになる。南インドではデカン高原のチャールキヤ朝、東海岸パッラヴァ朝、南部のチョーラ朝がインドと東南アジア間の交易で栄えながら覇権を争っていた。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・674年2. 新羅高句麗の反乱衆を支援し、百済の土地を奪った。このことに唐の高宗,李治は憤慨し、新羅の文武王金法敏の官爵を剥奪した。李治は法敏の弟仁問を新たな新羅王と定め、翌年に新羅を攻めた。これに対して法敏は謝罪し、官爵は元の通りとなった。

新羅への対応に追われる間、今度は東突厥が唐を圧迫し始めたため、その後、唐は東方への軍事行動を控えるようになる(河上麻由子『古代日中関係史』)。

・674年 3.7 対馬国から銀が産出した。(『日本書紀』)

※『日本書紀』は、倭国(=日本)のことを、時代に関わらず「日本」と記す。しかしこの3月7日条には「倭国」とある。原資料に「倭国」とあったものをそのまま記したのであり、974年時点では、まだ国号は「倭国」であったようである(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・674年 10.9 斎王,大来皇女は、伊勢国に赴いた。(『日本書紀』)

伊勢国という、政治の中心から離れた土地に祀られたことからして、天照大御神もまた他の日本の祟る神と同様に、敬われて遠ざけられる神であったと考えられる(藤縄謙三『ギリシア文化と日本文化』)。

天皇の祖先を祀った伊勢太廟の前には「御裳濯川」が流れていたことから、天皇の系統は「ミモスソ川」と呼んだとされる(和田英松『官職要解』)。

・675年 4.10 天武天皇は、竜田の風神を祀るために美濃王を、広瀬の大忌神を祀るために間人大蓋を派遣した。(『日本書紀』)

天武天皇の時代に、風神祭や賀茂神の祭祀などが国家的祭祀に組み込まれたとも考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

・679年 1. 天武天皇は諸王に対して、母親が「王」号を持っていない場合、母親に対して拝礼してはならないと詔した。(『日本書紀』)

※この時点で、大友王子と同様に采女を母とする武市皇子や、天智天皇皇子の中では川島皇子志貴皇子などは皇位継承候補からは外れていたと考えられる(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)。

・679年 5.? 天武天皇は、草壁皇子大津皇子高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子、芝基(志貴)皇子を吉野宮に集めて、「朕が男(わがこ)」たちによる将来の皇位継承争いを防ぐために、母親が違っても鸕野讃良皇女を母として慈しむよう誓わせた。誓詞を述べる順番は、序列に従い草壁皇子大津皇子高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子、芝基(志貴)皇子であった。讚良皇女は皇后に立てられた。(『日本書紀』)

※鸕野讃良皇女を皇子たちの「母」とすることで、鸕野讃良皇女の実子である草壁皇子の優位を明確化させようとしたのだと考えられる。また、それは鸕野讃良皇女を介して、草壁皇子の権威を補強する必要があったことを示している。なお、誓約を行った者には皇女は含まれていないのだが、継承は男子を優先としながら、もし男子がいなければ女子が継承する予定だったと考えられる(義江明子「持統王権の歴史的意義」『日本古代女帝論』所収)。

※次世代の継承者を「コ(子)」と見なす観念は、当時の氏族の系譜意識として存在していた(義江明子「児(子)系譜にみる地位継承」『日本古代系譜様式論』所収)。

大津皇子の母,大田王は故人であって後見人はいなかったのに対して、草壁皇子は生母が皇后であり、より「皇太子」に相応しい立場である。ただ、文武両道で(『懐風藻』)、祖父,天智天皇から寵愛された経験があり(『日本書紀』)、草壁皇子より人望を集める可能性があった。そのため、鸕野讃良皇女は、草壁皇子に筆頭として誓約を行わせることで、その地位を確固たるものにしようとしたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※この盟約においては、皇子の上位に鸕野讚良皇女が置かれている。また、天武天皇の皇后として、その同世代かつ、有力な諸皇子にとっての「ミオヤ」と位置づけられた。吉野盟約は立后儀に相当するものであり、彼女が誓詞を述べた諸皇子よりも先に即位することが確定していたとの見解もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

天武天皇は、草壁皇子を自身の後継者と位置づけ、さらに天智天皇の皇子である川嶋皇子・志貴皇子を自身の子息として扱うことで、簒奪者としての汚名を払拭する意図があったとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・679年 5.? 諸皇子が盟約を結ぶのために吉野に行幸した際、天武天皇は歌を詠んだ。

よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見(『万葉集』巻1 27番歌)

吉野を讃え、皇子たちに吉野を今後も良く見ることを求める歌であり、天武天皇が吉野を重視していたことを窺わせる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・680年 11.12 鸕野讃良皇女の病気平癒のために、天武天皇薬師寺の建立を発願した。(『日本書紀』)

薬師寺の東塔に設けられた裳階は、「美しい調和と律動」に富んでいるとも評される。法隆寺の壁画などからも当時の美術水準の高さが指摘される(田中卓『教養 日本史』)。

薬師寺には金堂薬師三尊像(薬師如来日光菩薩月光菩薩像)や東院堂聖観音像がある。

※白鳳期以降の仏像について、和辻哲郎は、「健やかに太れる嬰児の肉体においてのみ見られるあの清浄な豊満さを認め」ている(和辻哲郎『日本精神史研究』)。

・681年 2.〔参考〕草壁皇子は「皇太子」になったとされる。(『日本書紀』)

厩戸王天智天皇が「皇太子」になったのは18(数え20)であったとされる(『日本書紀』)。そのため皇太子になるには成人していることが求められ、その先例に従い、この歳に立太子したとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※18(数え20)歳という若年で、政治経験も不十分な草壁皇子が、世継ぎと定められることが不自然であることから疑問が呈されている(成清弘和『女帝の古代史』)。

・681年 3.17 天武天皇川島皇子忍壁皇子、広瀬王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安雲稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首に命じて「帝紀」と「上古諸事」を「記定」させた。(『日本書紀』)

※歴史を撰集するという行為が、天皇の命令によって「記し定める」ものだと考えられていたことが理解できる(吉田一彦『『日本書紀』の呪縛』)。

飛鳥京跡から発見された木簡の削り屑には、681年と思われる「辛巳」の干支や、「大友(大友王か)」「大津皇(大津皇子か)」「伊勢国」「尾張国」など壬申の乱天武天皇との関わりのある言葉が書かれていた。修史事業の際に用いられた木簡であったかもしれない(森博達『日本書紀の謎を解く』)。

※『古事記』には、大己貴命素戔嗚尊から与えられる試練を乗り越え、大国主命という名を与えられて国土を統治するようになる物語が勝たられる。これは実力によって皇位を継承した天武天皇を正当化する意図があったとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・681年 10.3 黒売刀自の墓に墓碑が建てられた。(「山ノ上碑」)

※碑文からは、「大児臣に娶して産める児」という言葉が「大児臣娶生児」というように日本語の語順で表記されており、助詞「に」が文字化されていないことが理解できる。「オホ」は「大」、「コ」に「児」の字を充てて複数回表記されていることから、訓が固定化されてきたと考えられる(今野真二『図説 日本語の歴史』)。

・682年 3.13 天武天皇は境部連石積らに命じて、『新字』1部44巻を編纂させた。(『日本書紀』)

※『新字』というものは、国史を編纂する際に、字体と字訓の一定化の必要性に迫られたことで編纂された、漢和辞典のようなものだと考えられている(嵐義人「[覚書]新字についての補考」)。

682年 内モンゴルのテュルク人クトルグがエルテリシュ カガンを名乗り、第二次突厥カガン国を建国する。

※これによって、唐の置いた安北都護府は南に後退した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※東突厥は漢字文化に対抗して遊牧民独自の文化を主張するために、ソグド文字を元にして突厥文字を作成した(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・683年 2.1 大津皇子は、「朝政を聴く」ことを始めた。(『日本書紀』)

※「朝政を聴く」とは、国政に携わる、草壁皇子に準ずる特別な地位を与えられたことだと考えられる。天武天皇は、大津皇子の才覚を活かすために、草壁皇子を補佐する地位を与えて、それと引き換えに将来の皇位を諦めさせたとも推測される。天武天皇は、天皇の権威を高めるうえで次期天皇候補との一定の年齢差が必要だと考えており、そのため父子継承を実現させることを望んだという見解もある。そのため、草壁皇子と阿閉皇女との間に子息,珂瑠王が産まれたことに起因して大津皇子に地位が与えられたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・684年 真人・朝臣宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置という八色の姓を定め、真人から忌寸までは五位を授かることができるとされた。(『日本書紀』)

※最上位の真人は、6世紀以降に皇族から分派した氏族や、継体天皇擁立に功績のあった氏族、壬申の乱の際に功績のあった氏族に与えられた。真人・朝臣宿禰・忌寸が上級貴族の姓とされたほか、元々の臣と連の姓を持っていた氏族の内、有力者には朝臣宿禰の姓を与えられた。その際その2つの姓を与えられなかった朝臣宿禰は、格が落ちることとなった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※上級官人となることのできる系統には宿禰姓が与えられ、同族でもそれ以外は連に留められるなど、家柄が分化した(佐藤信 編『古代史講義』)。

※冠位には諸皇族も組み込んであり、天皇を唯一最上位とする体制が整えられた(義江明子『日本古代女帝論』)。

※皇族を含め、全ての支配者層を官僚にしようとする意図があったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・684年 国史の編纂が開始した。(『日本書紀』)

倭国(=日本)の起源を神話の時代から叙述して、天皇の支配の正統性を主張し、各氏族が天皇に仕えるようになった由緒を、神話の内容として記すことを目的としていた(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・684年 留学生の士師甥と白猪宝然が唐より帰国した。(『日本書紀』)

※一般的には、『永䘗律令』が倭国にもたらされたのは、第6回遣唐使が帰国した669年であると考えられるが、その間は唐と倭国は交戦中であり、実際にもたらされたのはこの時だと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・685年 1.? 天武天皇爵位の号を定め、草壁皇子に「浄広一」、大津皇子に「浄広二」、高市皇子に「浄広三」が与えられた。(『日本書紀』)

草壁皇子の地位は、大津皇子の1段だけ上であり、最上位とはいえ他と隔絶したものではない。皇太子とは冠位を超越した存在であり、この時点においては未成立だったと考えられる(荒木敏夫『日本古代の皇太子』)。

・685年 1.? 天武天皇は冠位四十八階を定めた。(『日本書紀』)

・686年 7.15 天武天皇は群臣たちに対して、政務の全ては鸕野讃良皇女と草壁皇子に述べ伝えるように命じた。(『日本書紀』)

※この命令は、草壁皇子の後継者としての地位と、草壁皇子を補佐する者としての大津皇子の地位を周知させるものであったとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・686年 7.20 〔参考〕『日本書紀』によれば、新しく元号「朱鳥」を制定したという。

※『日本書紀』には、白雉以降で朱鳥以前に使用された元号に関する記録がない。また、それらの元号を記した木簡も出土していない。そのため、大化、白雉、朱鳥という元号は創作と考えられる(吉田一彦『『日本書紀』の呪縛』)。

・朱鳥1年(686) 8. 草壁皇子大津皇子高市皇子に対して封400戸、川嶋皇子と忍壁皇子に対して100戸が加増された。(『日本書紀』)

大津皇子高市皇子に対しては、草壁皇子と同等の加増である。最大限の厚遇により、2人には草壁皇子の補佐を期待したとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・朱鳥1年(686) 9.9 天武天皇崩御した。