ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

舒明天皇~皇極天皇の時代

・629年 1.4 田村王が天皇に即位した(舒明天皇)。(『日本書紀』)

推古天皇崩御から即位するまで10ヶ月程過ぎていたのは、山背王の即位を望む者が多く、群臣間の合意が成されるまでに時間がかかったからとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※田村王の母は王族であることから、近親婚の結果産まれた王子が王統を担うという原理に合致する。そのため、群臣たちの合意が形成され、即位したとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

〔参考〕舒明天皇が大王となった際に、山背大兄王と叔父の蘇我蝦夷の関係に溝が出来ていると噂が立ったという。(『藤氏家伝』)

・629年 4.1 田辺連某を掖玖に派遣した。(『日本書紀』)

・630年3.1 高句麗百済から倭に使者が来て、アジア情勢が伝えられた。(『日本書紀』)

・630年 8.5 犬上御田鍬と薬師恵日を使者として、第1回の遣唐使が派遣された。(『日本書紀』)

・630年 10.12 飛鳥岡のそばに飛鳥岡本宮を造営して、そこに遷った。(『日本書紀』)

岡本宮の北には、先代,推古天皇の時代に建てられた飛鳥寺があり、その南北2つの建物からなる都市空間が形成された。岡本宮が建てられたことで、はじめて飛鳥に大王の政治的な拠点が置かれた(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※飛鳥は推古天皇蘇我馬子が創建した飛鳥寺を中心としている。推古天皇に配慮して、そうした場所に宮殿を建てたと考えられる。飛鳥岡本宮は、舒明天皇が、自身が大王に相応しいことを示すために造営されたものと思われる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※それまで代替わりごとに都を遷したのと違い、代替わり後も使われる宮となった(『佐藤信 編『古代史講義【宮都篇】』)。

・630年 預言者ムハンマドはメッカを陥落させ、アラビア半島を統一した。(イブン=イスハーク『預言者ムハンマド伝』)

・630年 唐は東突厥のカガンを捕らえた。これにより、東突厥カガン国は滅んだ。

・631年 唐の貞観5年 倭は地元の産物を唐太宗李世民に献上した。唐の太宗,李世民は、倭が遠方から来なくてはならないことに同情し、毎年貢ぎ物を贈る必要がないよう取り計らった。そして刺史の高表仁を派遣して、労わっていることを倭に伝えさせようとした。しかし表仁は儀礼に関して倭の皇子と諍いを起こし、国書を読むことすらなく帰国した。(『旧唐書』東夷 倭国)

・631年 3.1 百済王,扶余義慈は、王子の豊璋を倭国に送った。(『日本書紀』)

※『日本書紀』が記す「質(人質)」という表現は、『日本書紀』の編纂者らによる認識と考えられるが、倭国との連携を望んでいたことが伺える(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※唐からの圧力に対抗しようとして生まれた三国の混乱の中、高句麗と唐は緊張関係が高まり、唐では高句麗遠征の声が強まっていた(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

 ※蘇我蝦夷は、百済より追放された王族たちから国際情勢を聞き、彼らを「百済の大井の家」に住まわせた。これは百済の反発もあったと考えられるが、蝦夷朝鮮半島の三国とそれぞれと一定の距離を持った外交を構想していたと考えられる(倉本一宏『蘇我氏』)。

・631年 2.10 〔参考〕掖玖の人が帰化したという。(『日本書紀』)

※この時代に、ヤマト王権は南方に勢力を拡大させたことを窺わせる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・631年 9.19 舒明天皇は大后,宝王と共に、有馬温湯(有馬温泉)にまで行幸した。(『日本書紀』)

・?年 ?.? 〔参考〕舒明天皇の治世の初期に、良い家柄の子弟たちは大錦冠か小錦冠を授かり、家職を継いだ。しかし中臣鎌足は神祇関係の家職を継ぐことを嫌い、三島の別邸に帰ったのだという。(『藤氏家伝』)

・632年 8.? 犬上御田鍬は、唐使,高表仁ほか学問僧,霊雲、新羅送使らを伴って帰国。対馬に到着した。(『日本書紀』)

・632年 10.4 高表仁一行は難波津に到着し、江口にて、舒明天皇から派遣された大伴連馬養に迎えられた。(『日本書紀』)

・632年 Abū Bakrは、khalīfa-rasūl-Allāhを称してIslāmの指導者となった。

※khalīfa-rasūl-Allāhとは「神の使徒の後継者」を意味する言葉である。略称をkhalīfa(指導者)という。Islām共同体の精神的な最高権威者となった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・633年 1.26 高表仁は唐に帰国した。(『日本書紀』)

・634年 ʿUmarが2代目のkhalīfa-rasūl-Allāhとなった。

※khalīfa位は世襲制ではなく、自由身分の成人男子で、法的知識や公正さを備えた、Islāmの領土防衛に精力的であるなどの条件をもとに選定された(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・636年 6.? 岡本宮が火事になり、舒明天皇は田中宮に移った。(『日本書紀』)

・636年(唐暦貞観10) 唐の魏徴は『隋書』本紀5巻,列伝50巻を完成させた。

・636年 正統khalīfah政権はSūrīyahを獲得した。

※正統khalīfah政権に領土を奪われたことで、東RomaはGraeciaを含むBalkan 、Anatoriaのみが領土となる。東RomaはGraecia文化を拠り所として、Graecia語が公用語になった。かつての領土の多くは失われたものの、高純度貨幣nomisma金貨は地中海商業の基軸として機能しており、東地中海における覇権は維持していた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※Islām勢力がSūrīyahを獲得したことは、地中海世界がOrientに回帰したと考えることもできる(岡本隆司『世界史序説』)。

・637年 ?.? 〔参考〕上毛野形名は将軍として蝦夷を討伐し、多くの捕虜を得たという。(『日本書紀』)

※そのままの事実とは考えられないが、ヤマト王権が北方に勢力を拡大したことを示すとも母われる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・637年(唐暦貞観1) 唐の孔穎達は『五礼』を修訂した。(『旧唐書』孔穎達伝)

・〔参考〕唐の孔穎達が記した『礼記』「王制」の注釈は、『爾雅注』を引いて「九夷」の1つを倭としている。

・639年 7.? 舒明天皇百済大宮と百済大寺を造営を開始した。(『日本書紀』)

百済大宮と百済大寺は、百済川のほとりに造営された。その場所は、かつて舒明天皇の祖父,敏達天皇が最初の宮殿を築いた場所である。飛鳥寺に倣って寺を建立することで、舒明天皇としては、その一帯を敏達天皇系王統の聖地にしようとしたのだと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

敏達天皇系王統の伝来の地に建てることを目的としていたため、蘇我氏への対抗意識を読み取ることはできないとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・640年 10.11 南淵請安・高向黒麻呂(玄理)は、百済新羅から倭へのの使者に随行して帰国した。(『日本書紀』)

・640年 10.? 舒明天皇百済宮に移った。(『日本書紀』)

・640年 吐蕃君主ティ・ソンツェン(ソンツェン・ガンポ)の求めに応じて、唐は文成公主をソンツェンの太子に嫁がせた。

・641年10.9以前 大仁,船王後は死去した。(「船王後墓誌」)

※「船王後墓誌」には、王後の墓は「大兄刀羅古首」の墓に並ぶ形で造られたという。刀羅古首が生前に「大兄」と呼称されたかは定かでないが、少なくとも銘文の制作時には「大兄」と認識されていたものと思われる。墓誌銘は「大兄」を王族でない者の呼称に使用しており、「大兄」という言葉が皇太子の先駆的呼称ではなく、長子を意味することの証左とも考えられる(荒木敏夫『日本古代の皇太子』)。

・641年 10.9 舒明天皇崩御した。(『日本書紀』)

舒明天皇の生前には「皇太子」が立てられることはなかった。山背王は古人王よりも年長で、群臣層にも彼を支持する者も多く、蘇我蝦夷もそれらの支持を無視できなかったとも考えられる。また、舒明天皇と宝王との間には、父母両系から天皇の血を引く葛城王が産まれていたため、舒明天皇自身も古人王の後継者指名に消極的であったとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※山背王の父,厩戸王は33年間「皇太子」であった実績があるため、厩戸王の系統から舒明天皇の系統へと、完全に王統を切り替えることができず、在位中に「皇太子」を立てることが出来なかったとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・642年 1.15 宝王は即位した(皇極天皇)。(『日本書紀』)

※山背王と蘇我蝦夷は解消不可能なほど対立を深めていたと推測される。蝦夷としては、山背王を王権の中心である大王に即位させることはできなかったと思われる。ただ、山背王は舒明天皇と同世代の王族として有力者であり、その次の世代の王族を即位させれば皇位継承の紛争が生じる可能性がある。そこで蝦夷は、かつて推古天皇が継承争いを緩和した先例を鑑みて、推古天皇と同じく大后であった宝王に即位を要請し、群臣も同意したと考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

※山背王が即位出来なかったのは、自身が即位すべきだと執拗に主張したことで、人格的に天皇に相応しくないという疑念が、群臣層に生まれたからとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

皇極天皇敏達天皇の曾孫で、3代目の傍系である。また、離婚経験もあるという経歴から、「皇后」には相応しくない立場だという指摘もある。王女でもなく、敏達天皇からも舒明天皇からも3親等の王族が即位するのは不自然であるとして、その即位自体を疑問視する見解もある(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※宝王は欽明天皇の曾孫であるが、その夫,故舒明天皇欽明天皇の孫である。舒明天皇の大后となることで世代が繰り上がり、同世代間の妥当な継承だと認識されたと考えられる。また、大后としての実績や、独自に財部という財力基盤を持っていたことから、大臣や群臣は即位に納得したのだと考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

舒明天皇との婚姻を通して、宝王は欽明天皇の曾孫世代となったのと同時に、彼女の弟である軽王も同世代となっていた。山背王と軽王という同世代の王族間で継承争いが起こるのを防ぐために、推古天皇の前例を考慮して、宝王が即位したとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※軽王よりも姉の宝王が優先されたのは、宝王が世代を繰り上げる直接の要因となったからとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。

・642年 2.2 百済から弔使が倭に派遣され、百済の政変を伝えた。(『日本書紀』)

・642年 2.24 百済王,扶余義慈の弟,翹岐を阿曇比羅夫の邸宅に住まわせた。(『日本書紀』)

・642年 3.6 新羅より、舒明天皇を弔い皇極天皇即位を祝うための使者が派遣された。(『日本書紀』)

・642年9.19 飛鳥板蓋宮の造営のため、近江国から安芸国における国々から丁を摘発した。(『日本書紀』)

・642年 12.21 舒明天皇は滑谷岡に葬られた。(『日本書紀』) 

・642年 12.21 皇極天皇小墾田宮に移った。(『日本書紀』)

・642年 ?.? 〔参考〕蘇我蝦夷は、自身の祖廟を葛城の高宮に立て、「八佾の舞」を行ったという。また、蝦夷は、自身と子息入鹿のための墓を造営した。(『日本書紀』)

※葛城の高宮にあたる場所からは、豪族の館などを含む長柄遺跡が発掘されている。蝦夷が行ったのは父祖ゆかりの土地での祖先祭祀であったと考えられる。『日本書紀』は漢籍を用いた修飾により、君主にしか許されない「八佾の舞」を舞う家臣として蝦夷を描いたとも考えられる(倉本一宏『新説戦乱の日本史』第1章)。

・642年 ?.? 蘇我蝦夷が墓の造営に関して、「上宮乳部之民」を使役したことに対して、上宮大娘姫王(舂米王)は怒りを抱いた。(『日本書紀』)

厩戸王薨去後、彼の壬生部である乳部は娘の舂米王が継承し、管理していたようである(義江明子推古天皇』)。

※舂米王の怒りの原因は、自身が支配する「上宮乳部之民」を蝦夷が無断で使役したことだと考えられる。夫の山背大兄王ではなく舂米王が怒ったことからして、山背大兄王の家財とは独立した、別の権限を有していたと考えられる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

・642年 正統ハリーファ政権はエジプトを征服した。

・643年 9.6 舒明天皇は「押坂陵」に改葬された。(『日本書紀』)

※それに当たるとされる段ノ塚古墳は八角墳であり、大王の陵墓に豪族の墳墓との差異を設けたものであると考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。

八角墳は、天皇が「八隅を知らす(あらゆる場所を統治する)」ことの象徴であり、敏達天皇系王統の権威を誇示するものと考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・643年 9.11 皇極天皇の母,吉備姫王は薨去した。(『日本書紀』)

※『日本書紀』の「吉備嶋皇祖母」という表記から、押坂彦王の子孫からなる王統が意識されていたことが窺える(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。

・642年9.16 近江国から安芸国までの丁を摘発、全国から材木を集めて新たな宮、飛鳥板蓋宮を造営した。

・643年 9.6 舒明天皇は「押坂陵」に改葬された。(『日本書紀』)

※それに当たるとされる段ノ塚古墳は八角墳であり、大王の陵墓に豪族の墳墓との差異を設けたものであると考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。

・643年 10.6 蘇我蝦夷は病気がちで出仕を行わなくなり、子息の入鹿に紫冠を授けて、大臣に擬した。(『日本書紀』)

〔参考〕『藤氏家伝』によれば、彼は南淵請安の学塾で、中臣鎌足とともに才能を評価されていたのだという。

蝦夷が授けた「紫冠」は、大臣職を象徴するものであったと考えられる。大臣職は蝦夷系の蘇我氏による世襲という観念が強まっていたため、病のため叙位の議論に参加できなかった蝦夷が職を譲ったとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・643年 10.12 蘇我入鹿は、舒明天皇王子で自身の叔母法提郎女を母とする古人大兄王を天皇にしようと考えたのだという。(『日本書紀』)

・643年 10.? 蘇我入鹿は、父蝦夷の畝傍邸にて、百済王族と対談した。(『日本書紀』)

※これは蘇我本宗家による僭越な行為ではなく、在宅しながらの執務と考えられる(仁藤敦史「六・七世紀の支配構造」『古代王権と支配構造』所収)。

・643年? 〔参考〕大王位を狙って反乱を起こしかねないとして、蘇我入鹿は、皇極天皇が政治を行っている現状は不安であるとして、国家の安定のためとして山背大兄王を滅ぼす計画を立てた。王子たちは自身に危害が及ぶことを恐れ、不本意ながら賛同したという。(『藤氏家伝』)

〔参考〕『聖徳太子伝補闕記』には、皇極天皇の同母弟,軽王のほかに、入鹿の父,蝦夷、巨勢徳太・大伴氏・中臣氏も山背王の殺害に関与していたと記されている。

※『藤氏家伝』が入鹿に同調したと語る諸王子には、古人王と葛城王も含まれていたとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※入鹿の述べた不安というのは、皇極天皇の在位が長引くことにあったとも推測される。かつて推古天皇は長く在位していたため、その間に有力な皇位継承候補者が世を去り、争いの起こりやすい状態になった。そうした背景から、紛争の原因になりえる山背王を排除し、皇極天皇が譲位を行いやすくする目的があったとも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。

※女性大王の即位は政治的対立の緩和を目的としており、そうした背景から、女性大王の産んだ王子は後継者になれなかったという見解もある。そのため、当代の女性大王,皇極天皇の王子である葛城王は、入鹿から襲撃対象にされなかったとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

朝鮮半島情勢などに関する国際外交を行うにあたって、山背王という紛争の原因となる存在は、 一貫した対外政策の障害になりえる。また、問題点が噴出していた伴造-部民制を転換して権力集中を行うために、入鹿は山背王を排除したとも推測される(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

・643年11.1 蘇我入鹿山背大兄王を攻めた。山背王ら一族は生駒山に逃れた。入鹿は山背王を追撃しようとしたが、駆けつけた古人王から、本拠を離れるべきではないと静止された。(『日本書紀』)

※古人王がどれだけ山背王を滅ぼす行動に関与したかは不明であるが、入鹿の行動を支持していたと考えられる。また、本拠地を失った山背王を攻めるに際して、古人王が過敏に警戒していたことが理解できる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・643年11.11 山背大兄王は、一族とともに自害した。(『日本書紀』)

蘇我系の古人大兄王への早期の皇位継承を望んでいたために、山背大兄王を滅ぼしたと考えられる。高句麗の泉蓋蘇文のように、傀儡の大王に立てる形で自らが中心となる権力集中を望んだと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『聖徳太子伝補闕記』に軽王も参加していたとあることから、山背王を次期大王から排除したうえて古人王の擁立を望む蝦夷・入鹿らと、堪能の弟として、有力な次期天皇候補となった軽王と、その側近の巨勢氏や大伴氏らによる、共同の作戦であったとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※権力集中を望む皇極天皇を中心とした飛鳥の大王勢力と、飛鳥から離れた斑鳩に拠点を持つ山背王の勢力は対立していたとも考えられる。そうした背景から、山背王の一族は滅ぼされたと思われる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・643年11.1 〔参考〕蘇我蝦夷は、子息,入鹿が山背王の一族を自害に追い込んだことを知り、その行為を愚かであると批判し、自らの生命も危うくするだろうと述べたという。(『日本書紀』)

蝦夷蘇我氏の内部でも、意見の相違が見られていた状況を窺わせる記述である(倉本一宏『新説戦乱の日本史』第1章)。

・644年 唐は高句麗の無道を理由として遠征のための兵を集めた。

※そのような情勢下で唐に対抗するために、入鹿は蘇我氏を権力の中心とした中央集権国家を構想していたと考えられる。しかし、指導者層間において外交方針に関する意見の対立が生じていた。蝦夷・入鹿と父子で大臣位を独占したことで、蘇我倉麻呂の子息ら蘇我倉家らとも不満を持ち始め、蘇我本宗家は孤立していく(佐藤信 編『古代史講義』)。

蘇我本宗家の方針に不満を持っていた、舒明天皇皇極天皇の王子の葛城(中大兄)王と中臣鎌足(神職中臣連の出身)は、南淵請安の学塾で蘇我本宗家打倒の計画を練ったという。(『日本書紀』)

南淵請安のような、唐から帰国した者の中には、官僚制に基づく中央集権国家を形成して権力集中を望む人もいた。門地の地位が低い鎌足としては、大臣である蘇我入鹿の下位に立たねばならなかったため、官僚制中央集権国家の形成を望む勢力に味方したと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・645年 6.8 〔参考〕蘇我入鹿を打倒するために、葛城王中臣鎌足は計画を立て、蘇我倉麻呂の子息で入鹿の従兄弟にあたる、蘇我倉山田石川麻呂を引き入れることにしたという。(『日本書紀』)

〔参考〕葛城王は石川麻呂の長女と婚姻することになったという。しかし、蘇我倉山田石川麻呂の弟日向(武蔵)は、石川麻呂の長女を言いくるめて自分のもとに連れ去ったらしい。石川麻呂の次女遠智娘は自分から名乗り出て、葛城王に嫁ぐことになったという。葛城王は日向を処罰しようとするが、中臣鎌足は諌めたのだという。(『藤氏家伝』)

※姉の代わりに妹が嫁ぐという逸話は、『三国史記』の語る新羅の金春秋と金庾信の物語と類似している。あくまで主従の絆を主題とする創作とも考えられる。石川麻呂の本拠地である河内国石川郡は、葛城王の叔父,軽王の本拠地である和泉国和泉郡とも距離が近い。また、石川麻呂は娘,乳娘を軽王に嫁がせていることから、蝦夷・入鹿父子の打倒の中心になったのは軽王とも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。

・645年 6.12 大極殿にて、百済新羅高句麗三韓より進貢の使者が来日する三国の調の儀式が行われた。皇極天皇の傍らには、古人王がおり、蘇我入鹿が出席した。(『日本書紀』)

〔参考〕『藤氏家伝』によれば、葛城王が入鹿を滅ぼすために、偽りの儀式の場を設けたという。

※外交を担当する大臣であった入鹿は、葛城王の計略に騙されたことになる(倉本一宏『新説戦乱の日本史』第1章)。

朝鮮半島の3国からの使者が訪れる場において、皇極天皇の傍に古人王がいたのは、当時の彼が大王を補佐する立場にあり、朝鮮半島とほ外交に携わっていたからとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・645年 6.12 蘇我倉山田石川麻呂が表文を読み始めたときに、刀を預けていて丸腰の入鹿を殺害することとなった。蘇我倉山田石川麻呂が途中で緊張で震えだし、蘇我入鹿暗殺のために雇った葛城稚犬養編田・佐伯小麻呂が潜んでる最中に緊張で嘔吐するなど予期せぬ自体があった。しかし葛城王自身が入鹿に切りかかり、その後に犬養編田・佐伯小麻呂が持ち直して入鹿を殺害した。(『日本書紀』)

葛城王としては入鹿を排除することで、皇位継承候補者として対立関係にある古人王に打撃を与えることを意図していたとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※入鹿殺害の実行者の1人であったことは、葛城王が計画の中心人物ではなかったことの証左とも考えられる。軽王の甥という縁故で参加したとも推測される。また、葛城王蘇我氏に養育されたとすれば、入鹿が警戒しない者として選ばれたのかもしれない(遠山美都男『天智天皇』)。

※網田は「葛城」を冠しているため、蘇我氏の本拠,葛城地方の者であったと考えられ、蘇我氏の影響下の集団からも、反入鹿的立場の動きがあったことが推測される(倉本一宏『新説戦乱の日本史』第1章)。

※古人王を大王として、蝦夷-入鹿系の蘇我氏に権力を集中させようとしていた体制に対して、軽王自身の即位ないしは軽王が姉,皇極天皇を補佐する新体制の構築を目指す、王族・群臣による行動とも考えられる。蝦夷-入鹿系の蘇我氏は政権内で地位を高めたが、反面孤立を深めていたために、彼らが主導する皇位継承を阻止したい王族と、中臣氏や阿部氏ら、冠位制度の導入によって相対的に地位が低下した旧群臣層による共同の作戦であったとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・645年 6.12 古人王は蘇我入鹿が殺害された場から逃れ、私邸に帰還した。彼は「韓人」が入鹿を殺害したと述べ、門を閉ざした。(『日本書紀』)

※入鹿を殺害したのが葛城王と公言することができなかったため、儀式に列席していた百済新羅高句麗朝鮮半島国家からの使節か殺害したのだと、事実と異なる証言をしたとも推測される(倉本一宏『新説戦乱の日本史』第1章)。

※「韓人」というのは、百済新羅高句麗からの貢納に関与していた蘇我倉山田石川麻呂のことだとも推測される。蘇我氏の内部事情を知り得る古人王は、「満智(百済の権臣の名)」「韓子(韓人と倭人の混血の意)」「高麗(高句麗の意)」といった朝鮮半島に関係する祖先を創作していた石川麻呂のことを「韓人」と蔑みを含めて呼称したのかもしれない(遠山美都男『天智天皇』)。

・645年 6.12 蘇我蝦夷を支援するために、東漢直の一族は武装したが、巨勢徳多の説得を受け入れ逃げ去った。(『藤氏家伝』)

※徳太はかつて山背王の一族を滅ぼした者の1人である。すでに蝦夷・入鹿父子とは敵対する立場におり、それらを滅ぼした後には高い地位を約束されていたとも考えられる(倉本一宏『新説戦乱の日本史』第1章)。

※巨勢氏の本拠地は軽王の誕生した大和国高市郡に近い。また徳太は軽王に奉仕していたようであり、軽王が蝦夷・入鹿父子の打倒を企図した中心人物であることの根拠とも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。

・645年 6.13 蝦夷は自邸に火を放ち、一族とともに自害し、蘇我本宗家は滅亡した。この際、国史である『天皇記』と『国記』も焼失したとされる。船史恵尺は『国記』を持ち出して葛城王に献上した。(『日本書紀』) 以上の蘇我本宗家滅亡の顛末を「乙巳の変」と呼ぶ。

※『天皇記』と『国記』の保管場所が蝦夷の邸宅であったことから、ツカサ(司,官)の奉仕先は大王宮に限定されず、当時は有力豪族の邸宅などにも散在していたようである(仁藤敦史「六・七世紀の支配構造」『古代王権と支配構造』所収)。

※『日本書紀』本注に「韓政に因て誅せらるる」とあることから、蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた原因の1つは対外政策であったとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。