ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

光格天皇の時代

・1781年 イマヌエル カントは『純粋理性批判』を刊行した。

※批判(kritik)とはギリシア語の「分ける」を意味する言葉に由来する。この著書の目的は、人間の理性が何を知ることができるか、その限界を明らかにする(「批判」する)ことである(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

※人間の認識は、全てが経験に由来する(ア ポステリオリ)のではなく、経験を可能にするア プリオリ(より先なる)形式が設定されているとイマヌエルは考えた(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

・1782年  『ゲッティンゲン学報付録』にて、『純粋理性批判』の書評が掲載された。

・1783年 イマヌエル カントは『学問として登場することのできるあらゆる形而上学のためのプロレゴーメナ』を刊行した。

・1784年 イマヌエル カントは論文「啓蒙とは何か」を発表した。

※この論文において、彼は啓蒙運動のモットーを「自分自身の悟性を使用する勇気をもて」だと述べた。また、人間の未熟さを「未成年状態」と表現し、それは自分自身に責任があるのだと説いた(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

天明7年(1787) 12.? 本居宣長は『玉くしげ』を著した。

宣長は外国の教えが流入する前の時代を理想的に捉えている。しかしながら、世の中の変遷は善き神と悪き神によるもので、理由があるとも説いている。外国の悪い風俗に影響されていたとしても、古い時代のように戻そうとする行為は神の意志に逆らうものであるとして否定的であり、現状の追認と肯定が特徴として指摘される(水谷千秋『教養の人類史』)。

・1788年 イマヌエル カントは『実践理性批判』を刊行した。

※この著書は、人間は何をすべきであり、何をすべきでないかという、善悪を明らかにすることを目的としている(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

・1789年 7.14 バスティーユ牢獄が破壊された。

・1789年 11.? メッツ県知事の子息のシャルル ドゥポンは、エドマンド バークに手紙を送り、フランス人が革命によって祖国のために働いていることを述べ、賛意を求めた。

※かつてシャルルはエドマンドのもとを訪問した際、エドマンドを自由の闘志と見なして敬意を抱き、革命に協力する自分の行動の是認を望んだのである(半澤孝麿『フランス革命省察』解説)。

・1790年 11.4 ユニテリアン牧師のリチャード プライスは、説教『祖国愛について』を発表した。

※これを読んだエドマンド バークは憤慨し、シャルル ドゥポンへの私的書簡という予定は残しながらも、自身が刊行する予定の著書の、批判の対象はリチャードに定められた(半澤孝麿『フランス革命省察』解説)。

・1790年イマヌエル カントは『判断力批判』を刊行した。

・1790年 11.1 エドマンド バークによる『フランス革命省察』初版が刊行された。

・1793年 イマヌエル カントは『たんなる理性の限界内の宗教』を刊行した。

・1793年 プロイセン自由都市ダンツィヒ支配下に置いた。

・1793年 プロイセンの支配を嫌った商人,ハインリヒ ショーペンハウアーは、妻ヨハンナ、子息アルトゥールを連れて、財産没収をされながらもダンツィヒを離れてハンザ自由都市ハンブルクに移ったを

※ハインリヒは、「自由のないところに幸福はない」という家訓を実行したのであり、アルトゥールは少年時代を商都ハンブルクで過ごすことになった(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1794年 10. フリードリヒ ヴィルヘルムⅡにより、イマヌエル カントに宗教や神学に関する執筆を禁じる勅令が出された。

・1795年  イマヌエル カントは『永遠平和のために』を刊行した。

・1797年 イマヌエル カントは『人倫(道徳)の形而上学』を刊行した。

・1797年 7.9 エドマンド バークは死去した。

・享和2年(1802) 十返舎一九(重田貞一)による滑稽本東海道中膝栗毛』が刊行された。

※人気となり続編が望まれたことから、当時の庶民が江戸語を誇りに思ってたとも考えられる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・1804年 Heinrich Schopenhauerは妻,Johanna、子息,Arthurと共にFranceの旅行をしていた。Arthurは後に、「生・老・病・死を目撃したのbuddhaように」生の苦悩についての関心を持つようになったと回想している。

・1805年 Heinrich Schopenhauerは倉庫から河に転落して死亡した。

※自殺といわれるが、不明である。父の死に対してArthurは衝撃を受け、精神的に消耗したという(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1806年 Johannaは子息,ArthurをHamburgに残して、娘,Adeleと共にWeimarに移住した。

・1806年 10. George Hegelは『Phänomenologie des Geistes(精神現象学)』を脱稿した。

・1806年 10. France軍はJenaにてPreußenを破った。

・1806年 10. Jena会戦に際して、Arthur Schopenhauerは母,Johannaに手紙を送り、戦争の悲惨さと、絶望も時が去れば忘れてしまうことを述べた。(『芸術についての創造的構想』所収)

※Arthurは高揚するものを押しつぶす「日常」ついて恐れを持ち、日常の対局として芸術を見出した。芸術、特に音楽には人々の心を慰め、鎮静させるものと考えたのである(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1808年 Johann Fichteは『Reden an die deutsche Nation(deutsch国民に告ぐ)』を刊行した。

※はNapoléon Ⅰの占領以後のdeutsch国民の外国崇拝と道徳的な退廃を問題視し、新たな国民教育の必要性を訴えたのである。この講演録は、分立国家の集合体であったdeutschに共同体意識を芽生えさせたとも評価される(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・文化6年(1809) 式亭三馬による『浮世風呂』が刊行された。

※作中の台詞に、比丘尼が連れの比丘尼,西光に対して「おまへ(お前)」と呼びかけるものがある。対等関係の者に対する人称代名詞として用いられており、「お前」という言葉の含む敬意の程度が下がり、対等ないしは目下の者に使用する語となっていたのである(山口仲美『日本語の歴史』)。

※上方の女性が、江戸の女性に対して『百人一首』の「百」は「しゃく」ではなく「ひゃく」と発音するのだと訂正していることから、「ひ」を「し」と読むことが江戸訛の特徴であったことが理解できる。また、「うなぎ」「にんげん」といった言葉の濁点が白抜きされており(白圏)、それは「g」ではなく「ng」という発音であったことを表現しているのだと考えられる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・1809年 Arthur Schopenhauerは成人となり、母,Johannaから、残っていた父親の財産の3分の1を与えられた。また、家の山林田畑の管理代として毎年収入が保証された。彼は金銭的な困難がなく、研究や瞑想に専念できたと述懐している。

1810年 Arthur SchopenhauerはGöttingen大学における専攻を、医学科から哲学科に変えた。

※ゴッドリープ シュルツェはアルトゥールに対して、最初の勉強はプラトンとイマヌエル カントに注力するよう助言した。アルトゥールはその助言を受け入れ、プラトンイデア論、およびイマヌエルによる物自体と現象の区別を学んだ。彼の後の哲学体系において、契機になったといえる(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1811年秋 アルトゥール ショーペンハウアーベルリン大学に移り、そこで鳥類学、両棲生物学、魚類学、動物学、地学、天文学、生理学、詩学などの講義を受けた。

※彼はフリードリヒ シュライエルマッハーの「キリスト教時代の哲学の歴史について」という講義を受けたことは分かるが、ゴットリープ フィヒテについては具体的に何の講義を受けたかは不明である。アルトゥールはフリードリヒとゴットリープについてはあまり満足をしなかった。アルトゥールが傾倒したのは、フリードリヒ アウグスト=ヴォルフによるギリシア古代史、文学史詩学の講義であった(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1813年 10.18 アルトゥール ショーペンハウアーは「充足理由律の四根について」という論文をイェーナ大学に提出し、哲学博士の学位を取得した。

・1813年 ヨハン ゲーテは「充足理由律の四根について」を読んで才能を感じ、アルトゥール ショーペンハウアーに対して、「色彩論」に関する研究を勧め、必要な道具を貸し与えた。

・1813年冬 アルトゥール ショーペンハウアーは、アンティケティル デュペロンがペルシア語から訳した『ウパニシャッド』に出会った。

※あらゆる本質が同一であることや、現象界の悲惨さ、そして瞑想によって解脱の平和が得られると、彼は読み取り、受容した(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・文化10年(1813) 平田篤胤は『霊の御柱』を著した。

※篤胤はこの著書において、『bereshit(創世記)』に登場するAdamとḤawwāhは、日本神話の伊弉諾伊弉冉が西洋に伝わったものだと主張している。彼は『古事記』の世界と儒教の世界を連続させようともしており、海外から流入した神話体系を排除せず、日本神話を更新しようとしたとも評される(東浩紀『訂正する力』)。

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・1816年 5.4 アルトゥール ショーペンハウアーは論文『視覚と色彩について』をヨハン ゲーテに送った。

※アルトゥールの色彩論は、ヨハンと同じくアイザック ニュートンとは対立するものであったが、ヨハンとも違った。白色に関して、アルトゥールは色にまつわる感情を分析し、網膜の活動の中に白色を見出した(遠山義孝ショーペンハウアー』)。