ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

安徳天皇・後鳥羽天皇の時代

・1180年(和暦治承4) 2.21 高倉天皇の譲位により、言仁親王践祚した。藤原基実は摂政を続けた。(『玉葉』)

・1180年(和暦治承4) 4.9 以仁王源頼政と共に謀議し、源行家を遣わして、平家追討の令旨を諸国の源氏などに伝えた。延暦寺興福寺の僧兵の橋梁も取り付けた。(『玉葉』『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 4.27 源行家は甥の源頼朝のもとを訪れ、以仁王の令旨を届けた。その令旨を読んだのは、頼朝と舅の北条(平)時政のみであった。(『吾妻鏡』)

※『吾妻鏡』は、令旨を読んだ頼朝は挙兵を決心したとあるが、実際のところ、政争に巻き込まれたくなかった頼朝と時政は、誰にも知らせずに黙殺したのだと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・1180年(和暦治承4) 5.10 下河辺(藤原)行平は源頼朝に使者を派遣し、以仁王の挙兵計画を伝えた。(『吾妻鏡』)

※行平は頼朝の乳母、寒河尼の夫小山(藤原)政光の甥である。こうした関係から頼朝と接点があったのだと考えられる。そのように考えると、流人時代から、寒河尼の実家八田家と小山家は頼朝を支援したとも推測できる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・1180年(和暦治承4) 5.15 以仁王の挙兵計画が発覚すると、以仁王は強制的な臣籍降下となり名を源以光とされ、土佐国への配流が決定した。平清盛は福原から上洛して、以仁王のいた三条高倉の御所を検非違使に包囲させることにした。(『玉葉』)

・1180年(和暦治承4) 5.26 以仁王は三条高倉の御所を脱出するも、平家軍に追い付かれて殺害された。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 6.19 三善康信は弟の康清を源頼朝に派遣した。康信が伝えるには、以仁王の令旨を受け取った源氏を、追討する命令が下されたのだという。康信は奥州に逃れることを提案した。(『吾妻鏡』)

※平家は伊豆国目代源有綱(頼政孫)の追捕を大庭(平)景親に命じたのであって、無関係な源氏である頼朝を殺害しようとしたのではない。康信の勘違いである。(呉座勇一『頼朝と義時』)。

※康信は、独立勢力であった奥州藤原氏の元に逃れれば平家も手出しは出来ないと考えたのかもしれない。しかし頼朝としては、藤原秀衡が自身を庇護してくれる保証はないと考え、平家妥当を決心したのだと思われる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・1180年(和暦治承4) 6.24 源頼朝は、かつて河内源氏に仕えていた者の一族の協力を得るため、小野田(藤原)盛長と中原光家を派遣した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 6.27 三浦(平)義澄と千葉(平)胤頼(常胤の子息)は源頼朝を尋ねた。(『吾妻鏡』)

※頼朝の使者が派遣されたのは3日前であり、挙兵計画を知って訪れたわけではない。以前から頼朝と交流があったと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

※2人は頼朝に山城国京都の情勢とともに、後白河院の密使を伝えた可能性が指摘されている(元木泰雄源頼朝』)。

・1180年(和暦治承4) 8.2 大庭(平)景親が相模国に帰国した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 8.17 源頼朝一派が、早朝に平兼隆を攻める日の予定であったが、協力する予定の佐々木四兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)が来なかったので延期となった。四兄弟は洪水により遅れ、未の刻に到着した。同日子の刻、頼朝一派は挙兵し、兼隆を討ち取った。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 8.22 相模国の三浦(平)義明・義澄父子ら一族は、源頼朝の軍と合流するために西に向かった。

※三浦一族が頼朝に味方したのは、平家の世が続いた場合、大庭(平)景親の勢力が拡大して圧迫される可能性があったからだとも考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・1180年(和暦治承4) 8.23 源頼朝軍は、相模国石橋山に布陣した。対して大庭(平)景親は河村義秀、渋谷重国、糟谷盛久、海老名季貞、曾我祐信、山内首藤(藤原)経俊、長尾(平)為宗・定景兄弟らを率いて布陣した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 8.23 三浦軍は頼朝軍と合流しようとしたが、雨により叶わなかった。頼朝軍と景親軍は、雨の降る夜に衝突した。頼朝軍は壊滅し、三浦一族では義明の甥である佐那田(平)義忠が討死した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 源頼朝には土肥(平)実平が付き、他の者と別行動をすることにした。北条(平)時政・義時父子は、甲斐国を目指して箱根湯坂を通った。義時の兄である宗時は平井郷に至ったが、伊東(藤原)祐親の兵に囲まれて討死した。三浦軍は頼朝の敗北を知ると、本拠地の三浦半島に戻ることにした。途中、鎌倉由比ヶ浜にて平家方の畠山(平)重忠し戦闘となるが、それを退けて半島を目指した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 8.26 三浦一族は衣笠城に籠城した。畠山(平)重忠ら秩父党はそれを包囲し、攻めた。惣領の義明は城に残り、その間に子息義澄ら一族が安房国に逃れた。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 8.27 三浦(平)義明は討死した。北条(平)時政・義時父子は舟で逃れて安房国を目指し、その途中で三浦一族と合流した。(『吾妻鏡』)

※『吾妻鏡』8月25日条は、時政は源頼朝の居場所を把握してから甲斐国に赴こうとしたと記す。しかしそれは27日条と矛盾する(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1180年(和暦治承4) 8.28 源頼朝は土肥(平)実平が用意した舟に乗って安房国を目指した。(『吾妻鏡』)

※北条も三浦も頼朝も目指す先が安房であることから、事前に敗戦後の集合先を決めていたようである(細川重男『頼朝の武士団』)。

・8.1180年(和暦治承4) 29 源頼朝安房国に到着し、残党に迎えられた。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 9.5 平清盛の牛耳る朝廷は、孫,維盛らに対して源頼朝の討伐を命じた。(『玉葉』)

※平家への反乱勢力で頼朝だけが名指しされているのは、山城国京都で活動経験があり、官職を得た経験があったからだと推測される(呉座勇一『武士とは何か』)。

・1180年(和暦治承4) ?.? 藤原定家は日記に「世上乱逆追討、耳に満つといえども、これを注さず。紅旗征伐、吾が事にあらず」と記した。(自筆本『明月記』)

※定家の書き残した言葉は、平維盛源頼朝の討伐に向かったことに関するものと考えられる。当時の定家は、歴史的に重要な内乱を生きながらも家族の看病の必要に迫られていた。記録者になれない悔しさを誤魔化すために、戦乱に自分は興味がないのだと強がりの備忘録を書いたとも推測される(呉座勇一『武士とは何か』)。

・1180年(和暦治承4) 9.8 源義光の子孫である甲斐源氏を味方に付けるため、北条(平)時政・義時父子は甲斐国に向けて出発した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 9.9 小野田(藤原)盛長は源頼朝の元に帰参し、千葉(平)常胤の協力を取り付けたことを報告した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 9.11 北条(平)時政は甲斐国に到着した。(『吾妻鏡』)

※前日、武田(源)信義は独自の判断で信濃国に出発している。(『吾妻鏡』) 『吾妻鏡』は甲斐源氏源頼朝に従っているかのように記すが、実際はそうではなかった(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1180年(和暦治承4) 9.19 上総介(平)広常が軍勢を率いて、源頼朝に従うことにした。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 9.20 〔参考〕源頼朝甲斐国の武田(源)信義に使者を派遣した。頼朝は、安房国上総国下総国の兵を従えたことを伝え、駿河国にて平家方を討つので、北条(平)時政を先達として黄瀬川に来るよう要請したのだという。(『吾妻鏡』)

※この記述は、甲斐源氏を頼朝の下位に置こうとする、『吾妻鏡』の作為が伺える。頼朝は武田家の援助を得る立場から、連携する立場に進んだのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1180年(和暦治承4)10.1源頼朝の異母弟である阿野(源)全成が、頼朝の陣を訪れた。時期は不明であるが、全成は北条(平)時政の娘(後の阿波局)と結婚する。(『吾妻鏡』) 

・1180年(和暦治承4) 10.2 源頼朝のもとに、寒河尼とその子息が訪れた。頼朝は烏帽子親となって寒河尼の子息を元服させ、諱の「朝」を与えて「宗朝」と名乗らせた。(『吾妻鏡』) 彼は後に朝光を名乗る。

・1180年(和暦治承4) 10.4 畠山(平)重忠率いる秩父党が源頼朝に服属した。頼朝は三浦(平)義明を討ち取ったことを許し、三浦一族と和解させた。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 10.6 源頼朝は軍勢を率いて、相模国鎌倉に到着した。(『頼朝』)

・1180年(和暦治承4) 10.13戌の刻 駿河国に滞在中の北条時政・義時父子の元に、長田入道の計略で駿河国目代橘遠茂が攻めてくるとの知らせがあった。(『吾妻鏡』)

・ 1180年(和暦治承4) 10.14 武田(源)信義・安田(源)義定兄弟ら甲斐源氏の軍は、駿河国に兵を進め、 鉢田にて橘遠茂軍と遭遇した。武田軍は長田入道父子、を討ち取って勝利し、遠茂を処刑し、80余りの敵の首を路頭に晒した。(『玉葉』)

・1180年(和暦治承4) 10.16 平維盛率いる追討使が、駿河国高橋宿に到着した。(『玉葉』) 源頼朝は平家の追討使を討つために鎌倉を出発し、黄瀬川の宿に到着した。そこに信濃源氏甲斐源氏、そして北条(平)時政が合流した。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 10.17 武田(源)信義は、平維盛に書状を送り、浮嶋原で合戦しようと伝えた。敵の挑発に激怒した平家方の伊藤忠清は、使者を殺害した。(『玉葉』)

※単独で書状を出したことからして、勢いづく甲斐源氏は、源頼朝との連携をさほど重要視していなかったようである(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1180年(和暦治承4) 10.18 維盛軍4000余りは、翌日の明暁に敵を攻めることに決めた。しかし平家の追討使から数百騎が敵に寝返って1000~2000にまで減った。伊藤忠清平維盛を説得し、撤退した。(『玉葉』)

※宣旨があったものの、徴兵が上手くいかず、味方の橘遠茂は既に討たれ、使者の殺害で動揺が広がっていた(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1180年(和暦治承4) 10.19 源頼朝は配下に対して、逃げた追討使を追って上洛するよう命じた。しかし、三浦(平)義澄、千葉(平)常胤、上総介(平)広常はそれに反対した。頼朝はその意見を受け入れ、相模国鎌倉に帰還することにした。(『吾妻鏡』)

※義澄、常胤、広常らが頼朝に従ったのは、在地における競合相手を退けるためである。彼らとしては本拠地を離れて上洛するわけにはいかなかった。対する頼朝も彼らの協力が必要であった。この頼朝の決断により、一時的な拠点のはずだった鎌倉が、「武家の都」というべき軍事拠点の道を歩むことになる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1180年(和暦治承4) 10.19 伊東(藤原)祐親は鯉名泊から逃亡を図るが、頼朝方の天野遠景に捉えられた。(『吾妻鏡』) 娘婿である江間次郎は討死した。(『曾我物語』真名本)  頼朝は、祐親の娘婿三浦(平)義澄の願いを聞き入れて、罪名が定まるまで子息祐清とともに三浦家に身柄を預け置くとした。(『吾妻鏡』)

※祐親の娘,八重は、江間次郎の妻となっていたものの、意に沿わない婚姻であった以上、殉死したとは考えられない。頼朝の元妻である以上丁重に扱われ、姉婿の義澄に預けられたと推測できる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1180年(和暦治承4) 10.19 黄瀬川を離れる際、源頼朝のもとに、異母弟の義経が現れた。(『吾妻鏡』)

〔要参考〕『玉葉』には、義経は頼朝の養子になったとある。

・1180年(和暦治承4) 10.23 桓武平氏良文流で、一族の大庭(平)景親に味方していた長尾(平)定景は、三浦(平)義澄の捕虜になった。(『吾妻鏡』)

・1180年(和暦治承4) 11.17 侍所別当,和田(平)義盛が着到の儀を行い、311人の武士の名を記帳した。(『吾妻鏡』)

※こうして源頼朝の配下である「御家人」が誕生した。頼朝は御家人を格付けした。上から清和源氏により構成される「門葉」、侍や子弟から頼朝が選抜した「家子」、その他の御家人「侍」である。鎌倉幕府の構成員は御家人とその家臣であり、御家人ではない武士は「本所一円之地住人」と呼ばれた(細川重男『頼朝の武士団』)。

※所領分割が進んで行き詰まった結果、東国では既存の秩序を破壊して新たに構築するための殺し合いが行われていた。頼朝の武士団によって成立した御家人制は、敗れた勢力の所領を総取りにして再分割する形で新たな秩序を構築し、それ以上の争いを停止するために構築されたものであった(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・1180年(和暦治承4) 11.7 源頼朝と武田(源)信義を追討する宣旨が下された。(『吉記』)

※信義も追討対象になったことからも、富士川における平維盛軍に対する勝利は、武田軍によるものだったことが理解できる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※宣旨は信義を追討対象に含んでいるが、頼朝の挙兵に呼応したという認識であった。平家側としては反乱の中心勢力は頼朝だと考えていたようである(呉座勇一『武士とは何か』)。

・1180年(和暦治承4) 平重衡東大寺興福寺などを焼いた。(『山槐記』)

・1181年(和暦養和1) 2.1 源頼朝の命により、北条(平)時政の娘の1人は、足利(源)義兼と結婚した。また同じく頼朝の命令で、加賀美(源)長清は上総介(平)広常の娘と結婚した。(『吾妻鏡』)

※義兼や長清といった源氏一門などの婚姻を仲介することで、有力御家人の掌握や、北条家を介した自分の派閥の形成を図ったのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1181年(和暦養和1) 閏2.2 〔参考〕延慶本『平家物語』によれば、平清盛は、自身の墓前に源頼朝の首を供えるよう遺言したという。

〔要参考〕『玉葉』養和1年8月1日条によれば、「我が子孫、一人生き残る者と雖も、骸を頼朝の前に曝すべし(呉座勇一訳:平家一門は最後の一兵になるまて頼朝と戦い続けよ)」と遺言したという。

※清盛は、反平家活動は頼朝を中心に起こったものだと誤解していた。そのため、頼朝の首を求める遺言も不自然ではないとも考えられる(呉座勇一『武士とは何か』)。

・1181年(和暦養和1) 閏2.4 平清盛は死去した。(『玉葉』) 熱病に悶絶した末に死去したとの噂が流れた。(『明月記』)

※福原への遷都を計画した清盛は、同時代人の価値観からして、先例の順守による秩序を破壊する「悪行」をなした人物である。そのため熱病に苦しんだ最期になったとも考えられた(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

・1181年(和暦養和1) 3.13 安田(源)義定が派遣した使者,武藤五が、鎌倉に到着した。彼が伝えるには、義定は平家方の襲来に備え、遠江国橋本にて要害を作るために人夫を徴収していたという。しかし現地の武士,相良(藤原)頼景と浅羽宗信は協力しないばかりか、義定に挨拶をしないなど、無礼な態度を取ったという。義定は2人に野心があると考え、処罰を求めた。(『吾妻鏡』)

※相良は、『吾妻鏡』では「相良三郎」と記される。『求庥外史』に従い、その諱を「頼景」と記すことにする。

・1181年(和暦養和1) 3.14 源頼朝は、安田(源)義定からの一方な訴えを受容することに慎重であった。しかし武藤五から説得され、相良(藤原)頼景と浅羽宗信の所領を没収とし、義定への態度に相応の理由があるならば、逆に義定を処罰すると裁定した。(『吾妻鏡』)

※その後、長らく相良家は『吾妻鏡』に現れない。義定の配下として活動していた可能性も指摘される(池田こういち『肥後相良一族』)。

・ 1181年(和暦養和1) 4.30 浅羽宗信は源頼朝に謝罪した。頼朝は浅羽荘の内、紫村と田所職を返付した。(『吾妻鏡』)

遠江国の在地領主として、宗信は多くの郎党を従えていた。遠江国における平家との戦に備え、彼を含めた在地領主を懐柔するためにも、領土と職を返付してみせたのだと考えられる(池田こういち『肥後相良氏』)。

・1181年(和暦養和1) 4.7 源頼朝は、御家人の中から、弓矢に優れ信頼できる者に、寝殿を警固させることにした。寝所祗候衆である。それには三浦(平)義澄の弟,義連、梶原(平)景時の嫡男,景季、北条(平)時政の子息,義時が選ばれた。(『吾妻鏡』)

※この時点の義時のことを、『吾妻鏡』は「江間四郎」と記す。江間次郎の死後、江間は領主が不在であったと考えられる。江間は北条に隣接するため、領地の拡大を望んだ北条側が頼朝に申請し、江間の領有を認められたのだと考えられる。義時は頼朝から土地を与えられ、時政の子息という立場から、独立した領主、そして御家人になったのである(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※義連は、「侍」である兄義連の家子であると同時に、頼朝の家子になったのである。義時もまた、「侍」時政の子息であるのと同時に頼朝の家子であった(細川重男『宝治合戦』)。

・1181年(養和1/治承5) 4.- 山城国京都の道路に、餓死者の死体が溢れた。(『吉記』)

〔要参考〕『方丈記』によれば、大飢饉の際に、仁和寺の僧侶隆暁法印が、山城国京都内の40000もの遺体の額に、阿字を書いて回ったのだという。

※貴族出身の官僧が、庶民を弔ったところに、当時の貴賤を超越した仏教活動が見て取れる。またこれは、勧進のための情報網を用いた活動でもあった(末木文美士『日本思想史』)。

・養和1年(1181) 7.5 源頼朝は、石橋山の戦いにて敵対した長尾(平)定景を赦免し、御家人となった。(『吾妻鏡』)

※この際定景は、身柄を預かっていた相模三浦家の派閥構成員になったと考えられる(細川重男『宝治合戦』)。

・治承5年(1181) 7.14 治承から養和へと改元された。

源頼朝らは安徳天皇の下での改元を否定し、治承年号を使用し続けた。これは改元を定めた(ことになっている)天子(安徳天皇)の支配を否定するとこであり、反乱勢力であることを自認したことになる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・治承5年(1181) 8. 後白河院は宣旨を発し、藤原行隆を造東大寺長官、重源を東大寺大勧進職に任じ、勧進活動を行わせた。(『東大寺続要録』)

※重源の活動により、勧進の流れは後白河院や鎌倉殿から波及し、平泉から九州にまで及んだ(末木文美士『日本思想史』)。

・寿永1年(1182) 2.14 政子が懐妊したとの噂が立ったことで、それを機会に三浦(平)義澄は源頼朝意向を伺った。そのため頼朝は義澄の姑伊東(藤原)祐親の恩赦を決めた。(『吾妻鏡』)

※政子が祐親の孫であることから、北条家からの嘆願もあったと推測される(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・寿永1年(1182) 2.15 伊東(藤原)祐親は自害した。(『吾妻鏡』)

・寿永1年(1182) 9.25 源頼朝の同母弟である希義は平家の手により、土佐国にて殺害された。(『吾妻鏡』)

・寿永1年(1182) 11.10 牧の方は義娘政子に対し、夫頼朝が亀前という女性と不倫していることを伝えた。政子は、牧の方の父(もしくは兄)である牧(藤原)宗親に命じて、亀前の住んでいた伏見広綱の屋敷を破壊させた。(『吾妻鏡』)

※政子はあえて、京都育ちの頼朝の当てつけとして、都の風習である「後妻打ち」を決行したのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※伊豆の豪族の娘である政子は、身分的に頼朝と不釣り合いであり、正妻の立場を失う可能性もある。そのことから、屋敷を破壊させるという過激な命令を出したのだと考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・寿永1年(1182) 11.12 源頼朝は、牧(藤原)宗親に伏見広綱の屋敷を破壊した一件を問い質した。宗親は謝罪するも頼朝は許さず、彼の髻を切った。(『吾妻鏡』)。

※男性が出家する際には髻を切るものであるが、その意志もないのに切られるのは恥辱であった(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・寿永1年(1182) 11.14夜 北条(平)時政は、義父牧(藤原)宗親に対する源頼朝の仕打ちに不満を抱き、頼朝に無断で伊豆国に帰国した。頼朝は激怒したものの、梶原(平)景季を遣わして、北条(平)義時が伊豆国に帰っていないか確認させた。義時が鎌倉に残っていると知った頼朝は、義時を褒めて褒美を与えようとした。(『吾妻鏡』)

※頼朝は怒りを表明しながらも、自分の少ない身内である時政が帰国したことに狼狽していたかもしれない(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・寿永2年(1183) 8.20 後白河院の詔によって、尊成親王践祚した。(『玉葉』)

・寿永2年(1183) 12.20 上総介,平広常は、梶原(平)景時と双六を行っている最中、景時により殺害された。これは源頼朝の命であった。(『愚管抄』)

※当時の双六は金品を賭けて勝負するものであり、広常は殺されるとは思わないほど熱中していたのだと思われる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・寿永2年(1183) ?.? 北条(平)義時は、子息金剛を授かった。後の頼時、改名して泰時である。(『吾妻鏡』)

※『鎌倉年代記』などは、彼の母を「阿波局」とするが、事績は不明である。「阿波局」は伊東(藤原)祐親の娘,八重であったという仮説がある。源頼朝が身内派閥を形成するうえで、江間に住んでいた元妻の八重と、江間の領主になっていた義弟の義時を娶せたという推測である(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・元暦1年(1184) 1.22 松殿(藤原)師家は関白・内大臣を辞任した。(『玉葉』)

※松殿家は衰退したため、御堂流は主に近衛家九条家に分かれることとなった。近衛家が所持する『御堂関白記』自筆本全36巻は、この時点で2つに分けられたと考えられる。1年は全て上下巻に分けられており、1年の上下どちらか片方が近衛家に伝わった。恐らく当時は嫡流だった近衛家が、上下巻の内、重要な出来事が書かれた部分を所持したのだと推測される(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・元暦1年(1184) 6.16 一条(源)忠頼は、源頼朝の宴会の主賓として呼ばれ、そこで頼朝の命により謀殺された。(『吾妻鏡』)

※忠頼は頼朝からの酒宴の誘いに、疑うことなく乗ったわけであり、幕府に居酒屋としての役割があったことが見てとれる(細川重男『頼朝の武士団』)

・元暦1年(1184) 6.18 源頼朝は、一条(源)忠頼の家臣であった大中臣秋家を招き、御家人として召抱えた。(『吾妻鏡』)

・元暦1年(1184) 7.8 平信兼鈴鹿関を塞いだため、朝廷内は動揺した。(『玉葉』)

・元暦1年(1184) 8.6 源義経は左衛門少尉に任じられ、検非違使を兼ねた。(『玉葉』)

※西国は平家が、山陰道北陸道源義仲が掌握しており、後白河院らによる朝廷への食糧輸送は源頼朝が統治する関東のみが担っていた。しかし、東国から食糧を輸送するための中継地点である鈴鹿関は平信兼が塞いでしまった。朝廷は義経に信兼の討伐とその後の始末を任せるために、検非違使に任じたとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

・元暦1年(1184) 9.14 源頼朝の斡旋により、源義経は河越(平)重頼の娘と結婚した。(『吾妻鏡』)

河越重頼の娘は、母方の祖母が比企尼である。自身の乳母の孫を嫁がせることで、頼朝は弟との関係を強化し、嫡子頼家の藩屏になってもらうことを期待したとも考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

※頼朝は相模国鎌倉に留まり、追捕使である弟,範頼は九州における戦争を担っていたが、機内の治安維持を担う検非違使義経まで九州に赴いては機内が不安定になる。そのため重頼の娘を京都に送って妻に迎えさせ、その功労を労ったとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

・元暦1年(1184) 10.6 公文所が新設された。そこでは中原広元が別当(長官)となり、広元の義兄中原親能や、元主計允藤原行政(藤原南家)、藤原邦通、中原光家、足立遠元、大中臣秋家などが寄人(職員)となった。(『吾妻鏡』)

※親能と広元は、母親同士が姉妹であり、どちらも外祖父中原広季の養子となったため義兄弟である。行政に関しては、母は藤原季範の妹である。つまり、母方の従兄弟という縁から抜擢したのだと考えられる。都から招いた者や、流人時代の家臣や、家系の不明な者たちなどで構成されており、当時の文士層の薄さを伺わせる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・元暦1年(1184) 10.20 源頼朝の邸宅の、大廊下の1部に立て札を掲げ、「問注所」を定めた。三善康信がそこの執事(長官)となった。(『吾妻鏡』)

三善康信中宮少属として中宮藤原育子の世話をしていたことがあり、そうした政界中枢に通じた経歴もまた、抜擢の理由と考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・元暦1年(1184) 11.19 源義仲の兵は天台座主の明雲や、円恵法親王を殺害した。(『玉葉』)源俊光の兄,少将坊は円恵法親王を庇って「あに」と言って立ち塞がったが手を切り落とされたという証言があった。(『愚管抄』)

※「あに」とは危急の際に発した感動詞である(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

・元暦1年(1184) 11.22 九条(藤原)兼実は円恵法親王薨去を惜しむ言葉を日記に残した。(『玉葉』)

〔要参考〕『玉葉』には、後白河院は自営の人々の死を特に嘆いている様子はなかったという証言を書き残している。

〔参考〕『平家物語』によれば、後白河院は、明雲は自分の身代わりとなって死んでくれたと嘆いたという。

※様々な修羅場を経験した57歳の後白河院が、この状況下で泣くという『平家物語』の描写は不自然とも考えられる。『平家物語』の登場人物は、泣くべきときに泣く、笑うべきときに泣くという形式が決まっていることが指摘される(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

・寿永2年(1184) 12.20 上総介(平)広常は、源頼朝の命を受けた梶原(平)景時によって殺害された。(『吾妻鏡』)

・文治1年(1185) 4.27 源頼朝は従二位に叙されて公卿に列した。(『吾妻鏡』)

・文治1年(1185) 6.15 源頼朝は袖判下文を発給し、惟宗忠久を、平家から没収した伊勢国波出御厨の地頭職に任じた。(『歴代亀鑑』)

※下文において、伊勢国における平家方の反乱は「謀反」と表記され、国家反逆(謀叛)ではなく朝廷への反逆と位置づけられていたことが理解できる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

・文治1年(1185) 11.25 北条(平)時政は1000の兵を率いて上洛した。源頼朝追討の宣旨を発行した後白河院を難詰するためである。後白河院は勅許を下して源頼朝の要求を受け入れ、源義経を捜索することを名目に、源頼朝が「守護」と「地頭」を設置することを許可した。(『吾妻鏡』)

※頼朝は、池禅尼宗子の姪を妻とし、京都に人脈のあった時政を使者に抜擢したものと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)

・文治2年(1186) 2.26 頼朝の女官である、常陸入道念西(伊達朝宗?)の娘大進局は頼朝の子息を出産した。政子がそれに怒りを覚えたため、出産の祝いの儀式は省略された。(『吾妻鏡』)

・文治2年(1186) 3.12 近衛(藤原)基通は摂政・藤氏長者を辞任した。(『公卿補任』)

・文治2年(1186) 3.12 源頼朝の推薦により、九条(藤原)兼実は摂政・藤氏長者に任じられた。(『玉葉』『公卿補任』)

・文治3年(1187) 9.20 藤原俊成によって、『千載和歌集』が編纂された。(『千載和歌集』『無名草子』)

鴨長明の歌も1首採用された。

思ひあまり うちぬる宵の 幻も 浪路を分けて ゆき通ひけり

長明は自身の歌が採用されたことの喜びを綴っている。(『無名抄』)

※長明はその後、歌風を藤原俊成の子息定家や寂蓮のような「近代(今風の意)」に変化させ、新しい日本語の調子を気取ったとも評される(松岡正剛『千夜百冊』第42夜)。

※俊成は歌論書『古来風体抄』を著し、仏道を妨げる煩悩に由来する営みとされる物語や和歌を、仏道に入るきっかけならば否定されないとして擁護した。僧侶歌人も多くおり、『源氏物語』を著したことで地獄に堕ちたとの説もあらわれた紫式部らを擁護する必要があったのである(末木文美士『日本思想史』)。

・1187年 7. Yūsuf(Ṣalāḥ al-Dīn)はḤiṭṭīnにて、十字軍を破り、Yerushaláyimを奪回した。

※十字軍国家の存立に暗雲が立ち込める中、Europaにおいて、噂が広がるようになった。東方には、Nestorius派Christ教のRexにて司祭,「Presbyter Johannes(英:Prester John)」がいて、「Persia」の首都を落とし、Yerushaláyimに向かおうとしたというのである。危機的な十字軍を救ってくれるかもしれないという期待から、噂は広まった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※「Presbyter JohannesがPersiaを破った」という噂は、耶律大石がSelçuklu朝を破ったことが発端かもしれない。大石自身は仏教徒であったが、Nestorius派Christ教徒の遊牧民も、従っていた可能性はある(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・文治4年(1188) 11.14 藤原親能の養子,大友(藤原)能直は右近衛将監に任じられた。(『吾妻鏡』)

※能直の実父は、藤原秀郷の子孫、相模国古庄郷司,近藤/古庄(藤原)能成である(野津本『大友系図』)。

・文治5年(1189) 1.5 源頼朝は正二位に叙された。(『吾妻鏡』)

・文治5年(1189) 7.25 源頼朝は、下野国の宇都宮二荒山神社に詣でた後、宿に入った。小山(藤原)政光が、弁当を献上するために訪れた。そこで政光は、頼朝の傍に侍る若者について尋ねた。頼朝はその若者を「本朝無双の勇士」で、父,熊谷(平)直実と共に命を棄てるような働きで手柄を立てた直家であると紹介した。それを聞いた政光は、「君のために命を棄つるの条、勇士の志す所なり。いかでか直家に限らんや。ただしかくのごときの輩は、顧眄の郎従無きにより、直に勲功を励まし、その号を揚ぐるか。政光のごときは、ただ郎従らを遣わし、忠を抽んずばかりなり(細川重男訳:御主君のために命を棄てるなンてこたァ、勇士だったら誰だって思ってることっす。ナニも熊谷に限ったことじゃござンせん。ただ、熊谷みてェなヤツらァ、世話してやってる郎従(家臣)がいねェから、てめェでケンカして、てめェで手柄立てて、そいで御主君に忠義を尽くしてるンでさァ)」と述べ、自身の子息の朝政・宗政・朝光および猶子の吉見頼綱に対して「所詮今度においては、自ら合戦を遂げ、無双の御旨を蒙るべきのよし(細川重男訳:だったら、今度の戦じゃ、おめェら、てめェでケンカして、並ぶ者無ェ勇士ってホメていただけ!)」と命じた。頼朝は政光の言葉を面白がった。(『吾妻鏡』)

※政光の言葉からは、北坂東の有力勢力としての自負が読み取れる。また、頼朝は小勢力出身の直家を傍らに置き褒めたたえるなど、軽んじていなかったことが理解できる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・文治5年(1189) 7.26 源頼朝は、参陣した佐竹(源)隆義の掲げる旗が、頼朝と同じ「無紋の白旗」であることを咎め、月を描いた扇を下賜して旗の上に付けさせた。(『吾妻鏡』)

※頼朝は、清和源氏嫡流を称する者として、「無紋と白旗」の独占を図ったのである。(細川重男『頼朝の武士団』)。

・文治5年(1189) 奥州攻めに際して、梶原(平)景時は、預かっていた城(平)長茂を「無双の勇士」として源頼朝に推薦した。頼朝は長茂を軍勢に加えた。(『吾妻鏡』)

・文治5年(1189) 8.8 九条(藤原)兼実は法然源空より受戒を受けた。(『玉葉』)

・文治5年(1189) 9.3 藤原泰衡は、郎従の河田次郎に殺害された。(『吾妻鏡』)

中尊寺金色堂に収められる泰衡の頭部には、いくつかの傷があり、複数の刺客に狙われたと考えられる。刺客らは首を落とそうとして2度失敗し、3度目で殺害したと推測され、また、短刀ではなく太刀で殺害したようである(細川重男「太刀、あれこれ」『論考 日本中世史』)。

・文治5年(1189)12.9 相模国鎌倉の北東の谷戸を寺領とする、永福寺の建立が開始された。(『吾妻鏡』)

※平泉の二階建ての寺院を模して作られていた。藤原行政はその地域に屋敷を持っていたため、その家系は二階堂家となる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・文治5年(1189) ?.? 足利(源)義兼は北条時政の娘との間に子息を儲けた。(『吾妻鏡』) 後の義氏である。

・建久1年(1190) 11.21 鎌倉殿,源頼朝は、吉田(藤原)経房から、自身を征夷大将軍に任じるという後白河院院宣を受け取った。(『吾妻鏡』)

〔要参考〕『吉口伝』によれば、北条(平)時政が伊豆国目代に捕縛された際に、経房はその対応を行ったのだという。道理に沿った事案の処理に時政は感心し、朝廷との交渉役として頼朝に推薦したのだとされる。

・建久2年(1191) 1.23 源頼朝は大進局に伊勢国の所領を与え、上洛を命じた。(『吾妻鏡』)

※政子の怒りがその後も解けなかったための、事実上の鎌倉からの追放であり、伊勢国の所領は手切れ金のようなものと推測される(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・建久2年(1191) 6.25 九条(藤原)良経は、一条(藤原)能保の娘と結婚することになった。(『愚管抄』) 一条能保の妻の兄である源頼朝は、嫁取婚を勧めた。しかし良経の父兼実は、一つに摂関家の嫁取婚がかつて不吉な結果を生んだこと、二つに嫁を迎えるための家が用意できないことから反対した。(『玉葉』) 結果として、兼実の意向の通りに、婿取婚となった。

※頼朝が嫁取婚を勧めたのは、武家社会においてそれが普及していたからとも考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・建久2年(1191) 7.? 禅宗を学んでいた栄西は、日本に帰国した。(『興禅護国論』)

※帰国後、栄西は『出家大綱』を発表し、僧侶の食事を早朝の粥と正午の2食に限るべきと主張した。これは基本的な欲望である食欲を抑え、煩悩を払うという、『臥雲日軒録抜尤』で唱えられた「少欲知足」の主張に基づく。当時の日本寺院では軽視されていた(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・建久3年(1192) 5.19 政子の嫉妬が収まらなかったため、大進局が産んだ頼朝の子息は、出家のために上洛した。後の貞暁である(『吾妻鏡』)

・建久3年(1192) 7.? 源頼朝は「大将軍」に任官することを望んだ。朝廷は候補として、惣官、征東大将軍征夷大将軍、上将軍を挙げた。惣官は平宗盛が、征東大将軍源義仲がかつて任官していたことを凶例として、上将軍は日本で例がないことから退けた。坂上田村麻呂が任官していたことを吉例として、頼朝には征夷大将軍が授けられることになった。(『山槐記』)

・建久3年(1192) 7.12 朝廷は源頼朝征夷大将軍に任じた。(『吾妻鏡』)

・建久3年(1192) 7.20 源頼朝のもとに、姉婿の一条(藤原)能保が訪れ、征夷大将軍任官を知らせた。(『吾妻鏡』)

※能保の位階は正三位、官職は権中納言・左兵衛督でありながら京都守護を務め、義弟頼朝の勢力を背景に京都にて存在感を持っていた(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建久3年(1192) 源頼朝征夷大将軍家として、政所開設の式典である政所始を行った。(『吾妻鏡』)

※政所とは、天皇皇親を除いた、最高位の人の最高位家政機関である(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建久3年(1192) 8.9 政子は頼朝の子息、千幡を出産した。後の実朝である。千幡の叔母である阿波局が乳母となった。(『吾妻鏡』)

・建久3年(1192) 9.25 北条(平)義時は、比企(藤原)朝宗の娘,姫の前と結婚した。(『吾妻鏡』)

※一般の東国武士が複数の妻を持つとは考えられず、金剛(後の泰時)の母は死去していたと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・建久4年(1193) 5.28 曾我祐成・時致兄弟は、工藤(藤原)祐経を殺害した。祐成は仁田(藤原)忠常に討ち取られた。時致は源頼朝の居場所まで進もうとするも捕らえられ、その後処刑された。(『吾妻鏡』)

・建久4年(1193) 9.25 北条(平)義時は、源頼朝の仲介で、比企(藤原)朝宗の娘である姫の前と結婚した。(『吾妻鏡』)

※『吾妻鏡』には「嫁娶の儀を定む」とあるため、嫁取婚であると考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

※義時の程度の東国武士は、複数の妻を持つとは考えられず、泰時の母である「阿波局」は既に故人とも考えられる。義時の妹である阿野(源)全成の妻が、『吾妻鏡』において「阿波局」と呼ばれるのは、兄嫁の名を継承したからだという推測もある(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・建久4年(1193) 11.27 永福寺薬師寺堂にて供養が行われた。安田(源)義定の子息,義資は、聴聞に来た女房に恋文を送った。(『吾妻鏡』)

・建久4年(1193) 11.28 前日の供養の際に、女房に恋文に発覚した、安田(源)義資は処刑され首を晒された。(『吾妻鏡』)

・建久5年(1194) 2.2 北条(平)義時の子息,金剛は源頼朝を烏帽子親として元服。頼朝の偏諱を受けて諱を頼時とした。頼朝は三浦(平)義澄を呼び、頼時を婿にするよう命じ、それに応えて義澄は孫を嫁がせることを約束した。(『吾妻鏡』)

※理由は不明であるが、頼時は後に泰時に改名している。以下、泰時と表記する。

・建久6年(1195) 3.12 源頼朝は、東大寺供養に参列した。その日の大和国奈良は大雨であったが、頼朝に随伴した御家人たちは、何ともない様子で雨に濡れており、慈円は「中々物ミシレラン人ノタメニハヲドロカシキ事ナリケレ(常識ある人にとっては驚くべきことであった)」と記している。(『愚管抄』)

※頼朝に恥を搔かせまいとする忠誠心が、御家人を駆り立てたのだと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建久6年(1195) 9.23 慈円比叡山延暦寺の大乗院にて、勧学講という講座を開いた。(『玉葉』)

天台宗真言宗の寺院においては、高い身分の出身の僧侶「学生」しか学問は出来ず、出身身分の低い僧侶は「堂衆」と呼ばれ、掃除などの肉体労働をしていた。しかし勧学講は出身身分の低い僧侶であっても受講を可能とした。これは、学生と堂衆の対立からなる、混乱を沈静化させようとしたからである。また、勧学講においては、経典を理解しやすいように、1年目に『浄名経』、2年目に『妙法蓮華経』、3年目に『法華玄義』を学ぶことを推奨した。

・1195年 金は同盟条約に違反したTatar部族を攻撃した。Kereid部族長To'orilと、Mongγol部族のTemüǰinは、Tatar部族長を敗死させる功績を挙げた。To'orilはOn(王)の称号を与えられOng Qanと呼ばれるようになる。Temüǰinは百人隊長の位を与えられた。

・1195年 Kereid部族では内紛が起き、Naiman部族が介入するなどあった。Ong Qan,To'orilの弟J̌aqā-gambōは、Temüǰinに助けを求めて保護された。To'orilは大夏(西夏)から天山Uyγur-qaγan国を経て、Qarā Khitā'ī/西遼に至って助けを求めるも拒まれた。そこで弟同様にTemüǰinを頼った。TemüǰinはTo'orilを父に擬制して同盟を結んだ。

※Kereid部族は北Mongγol最有力部族であったため、実際のところ臣従であった(宮脇淳子『世界史の中の蒙古襲来』)。

・1197年 TemüǰinはMerkit部族を攻め、獲得した捕虜をOng Qan,To'orilに与えた。