ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

土御門天皇の時代

・建久9年(1198) 1.11 為仁親王は皇太子となり、後鳥羽天皇の譲位を受けて践祚した(土御門天皇)。近衛(藤原)基通は摂政に任じられた。(『玉葉』)

・建久9年(1198) ?.? 栄西は『興禅護国論』を発表した。

※この著書において、僧侶は座禅、読経、学問などは規定な時間に集合して行うことが解かれている。集団生活による、規律の維持と向上が狙いであった(呉座勇一『日本中世への招待』)。

※この著書において、栄西は慈悲の観念を重視し、他者を利し、自分だけのために解脱は求めないと意志を表明した。開祖Bodhidharma(菩提達摩)の教説とされるものや、『信心銘』『証道歌』『参同契』『宝鏡三昧』といった禅宗聖典には「慈悲」の文字は見られない。慈悲行の強調は、日本に入ったからのものである(中村元『日本人の思惟方法』)。

・建久9年(1198) 3.? 九条(藤原)兼実の求めに応じて、法然源空は『選択本願念仏集』を著した。

※『選択本願念仏集』の冒頭において、既存の仏教の教学と修行は「聖道門(難行道)」、源空称名念仏の教えは「浄土門(易行道)」と位置づけられ、浄土門に入るよう主張している(中井真孝『鎌倉浄土教の先駆者 法然』)。

・建久9年(1198) 12.27 稲毛重成は、自身の妻である御台所政子の妹のために、相模川に橋を架けており、その落成供養が行われた。(『吾妻鏡』)

・建久9年(1198) 12.28 落成供養の帰路にて、鎌倉殿,源頼朝は馬上から倒れた。(『吾妻鏡』)

脳出血と思われる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建久9年(1198) ?.? 相良(藤原)頼景は九州に下向していた。(「相良工藤系図」)

〔参考〕『洞然長状』は、建久4年、頼景は何らかの罪科により、肥後国多良木に下向したとする。そして頼景の子息,長頼が建久9年に肥後国人吉下向したとする。

〔参考〕『求庥外史』は、頼景の子息,長頼が、建久9年に肥後国人吉に下向したとする。

※安田(源)義定の配下であったとすれば、その子息,義資の処刑に連座して下向したという説がある(池田こういち『肥後相良一族』)。

※同族の伊東家が、建久5年に九州に下向したという説がある。建久4年に下向したという所伝は、伊東家に対抗する形で生まれた後世のものだと考えられる。建久9年に下向したという所伝は、伊東家とは無関係に成立したものであり、事実を反映している可能性は十分に考えられる(小川弘和「相良・工藤系図とその周辺」『中世相良氏の展開と地域史料』所収)。

・1198年 オン カン,トオリルはメルキト部族を攻め、大勝した。しかし、テムジンには何も与えなかった。(『集史』)

・建久10年(1199) 1.13 源頼朝は死去した。(『猪隈関白記』『明月記』『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 1.26 土御門天皇源頼家に宣旨を与え、父,頼朝の後を継いで、諸国の守護を奉行することが命じられた。(『吾妻鏡』)

※これにより、源頼家は鎌倉殿の地位を継承した(細川重男『宝治合戦』)。

正治1年(1199) 4.12 鎌倉幕府において、北条(平)時政・義時父子、三浦(平)義澄、和田(平)義盛、小野田(藤原)盛長、比企(藤原)能員、梶原(平)景時、足立遠元、八田(藤原)知家、中原親能・中原広元義兄弟、二階堂(藤原)行政、三善康信の13人が「宿老」に選ばれた。(『吾妻鏡』)

※時政は源頼朝外戚として、義時は「家子専一」として、別々の理由で選ばれている。義澄と義盛、親能と広元といって、同じ一族から2人の選出はあり、北条家が特別なわけではない。また、広元、親能、康信、行政といった、実務能力に優れた文士の重用は頼朝の時代から引き継がれている。頼朝時代からの現状維持とも言える(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※これは、源頼家に対する訴訟の取次先を、13人に限定したのだと考えられる。13人が一同に会するわけではなく、そのうちの数人が訴訟を処理した例は見られるため、「十三人の合議制」という制度が確立したわけではなかった。(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)

正治1年(1199) 7.20 小野田(藤原)盛長の子息、安達景盛の留守中に、源頼家は景盛の愛人を奪った。(『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 8.19 源頼家は、安達(藤原)景盛が愛人を奪われたことを恨んでいるとの報告を受け、小笠原(源)長経らに景盛の討伐を命じた。尼御台所政子は二階堂(藤原)行光(行政の子息)を頼家の元に派遣。自身は小野田(藤原)盛長の邸宅に乗り込み、「もしなお追罰せらるべくば、我まずその箭に中るべし(細川重男訳:もし景盛を討つと言うなら、まず、あたしがその矢に中るわよ)」と頼家に伝えた。(『吾妻鏡』)

※頼家としては、自分から権力を奪うかに思えた、「十三人の合議制」の構成員の子息を標的にしたとも推測できる。景盛が頼家に詫びを入れて、それを許すという筋書きを構想していたのかもしれない(細川重男『頼朝の武士団』)。

正治1年(1199) 10.15 結城朝光は、夢の中で、「頼朝のために念仏を1万回唱えるように」とのお告げがあったと話した。そのためその場にいた者たちで念仏を唱えた。朝光はそこで、「忠臣は二君に事えずとうんぬん。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻、遺言有るの間、出家・遁世せしめざるの条、後悔一に非ず。かつがつ今の世上を見るに、薄氷を踏むがごとし(細川重男訳:忠臣は二君に仕えずって言うけど、オレは御所にメッチャかわいがっていただいてたンだよね。だけど、お亡くなりになった時、ご遺言に従って、出家も遁世もしなかったンだ。後悔しまくりだよ。それに今の世間を見ると、まるで薄い氷の上をビクビク歩くようなモンだしさ)」と述べた。それを聞いた人々はもらい泣きをした。(『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 10.27 尼御台所政子の妹である阿波局は、結城(藤原)朝光に対して告げた。阿波局が言うには、梶原(平)景時が朝光の「忠臣は二君に仕えず」という言葉を捻じ曲げて、源頼家に対して謀叛を企てていると讒言したため、朝光殺害の命令が出たのだという。朝光が友人の三浦(平)義村に相談したところ、義村は和田(平)義盛や小野田(藤原)盛長ほか御家人たちに呼びかけ、頼家に対して景時の非道を訴えた。(『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 10.28 結城(藤原)朝光を救援するために、朝光の兄弟朝政・宗政を含め66人の御家人が集結した。66人の御家人が署名した梶原(平)景時の弾劾状は、中原広元に託された。(『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 11.12 中原広元は和田(平)義盛に圧される形で、源頼家に梶原(平)景時の弾劾状を提出した。頼家は景時を呼び出して申し開きを求めたが、景時は弁明できなかった。(『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 11.13 梶原景時は一族を率いて、所領のある相模国一宮に向けて去った。(『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 12.9 梶原(平)景時は相模国鎌倉に帰還した。(『吾妻鏡』)

正治1年(1199) 12.18 源頼家の命令で、梶原景時は再び相模国一宮に帰還した。景時の邸宅は破壊されて材木は永福寺き寄付された。(『吾妻鏡』)

・1199年 オン カン,トグリルとテムジンは、ナイマン部族のカンを討った。トグリルの子息と弟がナイマン部族に襲われたため、テムジンは援軍を送った。

正治2年(1200) 1.19 梶原(平)景時とその一族は、山城国京都を目指して出発した。(『吾妻鏡』)

正治2年(1200) 1.20 梶原(平)景時出奔の知らせを受け、北条(平)時政、中原広元、三善康信は景時の討伐を決定した。梶原景時とその一族は京都を目指す道中で、駿河国清見関にて地元の武士と遭遇戦になり、殺害された。(『吾妻鏡』)

正治2年(1200) 1.23 三浦(平)義澄は死去した。(『吾妻鏡』)

正治2年(1200) 2.6 畠山(平)重忠、小山(藤原)朝政・長沼(藤原)宗政兄弟、和田(平)義盛、渋谷重国が侍所に集まって雑談していた。渋谷重国は、亡き梶原(平)景時について、「近辺の橋を引き、しばらく相い支うべきところ(細川重男訳:近くの橋を落として館に立て籠りゃァ良かったものを)」と述べた。それに対して重忠は「縡、楚忽に起こり、樋を鑿ち橋を引くの計あるべからず。難治か(細川重男訳:突然のことだったから、堀を作ったり橋を落とすヒマは無かっただろうよ。難しいンじゃねェの?)」と答えた。それに安藤右宗は、「畠山殿はただ大名許りなり。橋を引き城郭を構うること、存知せられざるか。近隣の小屋を橋の上に壊ち懸け、火を放ち焼き落とすこと、子細有るべからず(細川重男訳:畠山殿は大名すっからねェ~。橋、落として砦築くやり方なんかはご存じないみたいスね。近所の小屋をブッ壊して橋の上に乗っけて火ィつけりゃ、橋を落とすのなんて、わけェすよ)」と答えた。(『吾妻鏡』)

※重忠は秩父党の長として大名(有力武士)である。戦場で自分から戦うことはなく、橋を落とす詳しい方法などは知らなかったようである。右宗は自身をそこまで力のない武士だと認めており、率いる武士団の規模に関わらず交流する一体感が生まれていたことを物語る(細川重男『頼朝の武士団』)。

正治2年(1200) 4.26 小野田(藤原)盛長は死去した。(『尊卑分脈』)

※宿老の御家人にが減ったことで、有力御家人間の均衡関係が崩れ、比企家と北条家の対立が顕在化した(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1200年 オン カン,トグリルとテムジンは、タイチウト氏族に勝利した。その後テムジンは、モンゴル諸氏族とタタール部族の連合軍を破った。

建仁1年(1201) 1.23 城(平)長茂は、小山(藤原)朝政の宿所を襲撃した。朝政は在京中であり、家臣たちが防戦、撃退した。長茂は後鳥羽院の御所に向かい、鎌倉幕府を追討すべきとして宣旨を要求するも、叶わなかった。(『吾妻鏡』)

※梶原(平)景時は、京都を目指していたとき、自身が取り立てた御家人である、長茂の軍事力と朝廷の権威を頼りにする算段があったようである。景時亡き後、長茂は自軍のみでその計画を実行しようとしたと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

建仁1年(1201) 2.22 城(平)長茂は大和国吉野にて誅殺された。(『吾妻鏡』)

建仁1年(1201)  4.2 城(平)長茂の甥である資盛が挙兵し、佐渡国越後国の軍勢は鎮圧できていないとの報告が、相模国鎌倉にもたらされた。北条(平)時政、中原広元、三善康信は合議して、佐々木(源)盛綱に討伐させることにした。(『吾妻鏡』)

建仁1年(1201) 4.6 佐々木(源)盛綱は関東御教書を受け取り、城(平)資盛の討伐に出陣した。

建仁1年(1201) 5.14 城(平)資盛は鎌倉幕府の討伐軍に敗れて逃亡した。(『吾妻鏡』)

※資盛は行方不明となり、城一族は記録から姿を消した(細川重男『頼朝の武士団』)。

・1201年 テムジンは、東方の遊牧諸部族の連合軍を破った。そしてモンゴルの有力部族フンギラトがテムジンに臣従した。

建仁2年(1202) 7.23 源頼家征夷大将軍に任官した。(『吾妻鏡』)

※この時点においては、鎌倉殿の地位と征夷大将軍の職の世襲は一体化していなかった(細川重男『宝治合戦』)。

建仁2年(1202) 8.23 北条(平)泰時は、三浦義村の娘(後の法名を矢部禅尼)を妻に迎えた。(『吾妻鏡』)

建仁3年(1203) 5.19 源頼家は武田(源)信光に命じて阿野(源)全成を謀反の疑いで拘束した。頼家はその妻である阿波局も拘束しようとするが、その姉政子は引渡しを拒否した。(『吾妻鏡』)

※これは頼家と比企家による、北条家への圧迫である(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※全成が謀反するとしたら、自身が養育していた千幡(のちの実朝)の擁立を計画していたことになろう。北条家も加担していたかもしれないが、当時の状況で謀叛を計画するのは危険であり、事実ではなかったと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

建仁3年(1203) 6.23 源頼家は、八田(藤原)知家に命じて阿野(源)全成を誅殺させた。(『吾妻鏡』)

建仁3年(1203) 7.19 源頼家の命で、阿野(源)全成の子息頼全が、山城国京都東山にて殺害された。(『吾妻鏡』)

建仁3年(1203) 7.20 源頼家は急病を患った。(『吾妻鏡』) 

建仁3年(1203) 8.27 危篤状態となった、源頼家は譲与の沙汰を下した。(『愚管抄』) 

〔参考〕『吾妻鏡』は、関東28ヶ国の地頭職を一幡が、関西38ヶ国の地頭職を千幡(後の実朝)が継承することに決まったと記す。千幡に対して地頭職を分与するとの決定に、比企(藤原)能員は怒り、北条家を滅ぼそうとしたのだという。(『吾妻鏡』)

※鎌倉殿の外戚という立場を奪われたくなかった北条(平)時政は、合議の末に千幡に対する地頭職分与を呑ませたとも考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

※鎌倉殿の権限を分割して継承させることに、頼家と比企家が納得したとは思えず、実際はほとんどが一幡に継承され、北条家は追い詰められたとも考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

建仁3年(1203) 8.31 一幡への譲与が確定し、源頼家は死に備えて出家した。(『愚管抄』)

建仁3年(1203) 9.1 大江広元は北条(平)時政から招かれた。身の危険を感じた広元は、飯富(源)宗長に対して、自分が襲われたなら自分を殺すよう命じて、時政の邸宅に赴いた。(『吾妻鏡』) 

御家人である宗長は、広元の派閥構成員として活動していたことがわかる(細川重男『宝治合戦』)。

建仁3年(1203) 9.2 北条(平)時政は、比企(藤原)能員を自邸に招いて、仁田(藤原)忠常と天野遠景に殺害させた。そして娘政子の許可を得て一幡の住む小御所を攻めた。比企一族の多くは自害した。(『吾妻鏡』) 一幡は脱出した。(『愚管抄』)

※忠常と遠景は、挙兵以来の御家人であり、時政とは対等なはずであったが、時政の命を受ける、派閥構成員として活動している。御家人が鎌倉殿の家臣として平等だというのは、形骸化していた(細川重男『宝治合戦』)。

建仁3年(1203) 9.2or3早朝 北条(平)時政は朝廷に使者を送り、源頼家が死去したと偽って、千幡(後の実朝)の鎌倉殿継承の承認を要請した。(『吾妻鏡』)

建仁3年(1203) 9.5 源頼家は病状が回復。比企家が滅ぼされたことを知って、和田(平)義盛と仁田(藤原)忠常に対して、北条(平)時政討伐を命じる書状を送った。義盛は頼家に従わず、その書状を時政に渡した。(『吾妻鏡』)

建仁3年(1203) 9.6 北条(平)時政は、比企能員を討ち取ったことを褒めて、仁田(藤原)忠常を自邸に招いた。忠常の帰りが遅くなったことで、その弟たちは兄が殺されたと勘違いして北条(平)義時邸を襲撃した。彼らは返り討ちにあって討死し、それを知った忠常は源頼家の御所に向かう途中で殺害された。(『吾妻鏡』)

建仁3年(1203) 9.7 朝廷により、千幡は従五位下征夷大将軍に任じられた。

※鎌倉殿の継承と、将軍補任が同時に行われた初の例である(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

建仁3年(1203) 10.8 千幡は元服後鳥羽院より「実朝」の諱を与えられた。(『吾妻鏡』)

建仁3年(1203) 11.3 北条(平)義時は刺客を送り、一幡を殺害した。(『愚管抄』)

※それまで一幡を生かしておいたのは、それまで義時が助命のために働きかけたからであり、結局父時政の意向に抗えず殺害したとも推測できる(細川重男『頼朝の武士団』)。

建仁3年(1203) 北条(平)泰時は三浦(平)義村の娘(後の法号を矢部禅尼)との間に子息を儲けた。後の時氏である。

・1203年 オン カン,トグリルはテムジンと利害の対立が生じ、テムジンを襲撃した。テムジンはバルジュナ湖まで逃れた。テムジンはその後トグリルの本拠地を攻撃した。トグリルはナイマン部族に助けを求めるが、国境を守備する兵士に殺害された。

※こうしてテムジンは外モンゴルの覇権を握った(岡田英弘世界史の誕生』)。

元久1年(1204) 3.6 北条(平)義時は相模守に任官した。(『鎌倉年代記』)

元久1年(1204) 7.18 源頼家は刺客に殺害された。(『愚管抄』)

元久1年(1204) 10.14 実朝の御台所を迎えるために、鎌倉幕府から使者が出発した。その中には北条(平)時政と牧の方の子息、政範も含まれていた。(『吾妻鏡』)

※政範は従五位下・左馬権助であり、北条家の後継者であったと考えられる。時政は名誉ある使者の1人として送り出したのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

元久1年(1204) 11.5 北条(平)政範は山城国京都洛中にて死去した。(『吾妻鏡』)

元久1年(1204) 12.10 坊門信清の娘は、源実朝の御台所として、相模国鎌倉に赴いた。(『明月記』)

※坊門信清の姉殖子は、後鳥羽院の母である。実朝の御台所を選んだのは後鳥羽院であると考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1204年ナイマンのカン,タイブカ(タヤン)は西方より外モンゴルに侵入するが、テムジンに敗れて死亡した。タイブカの子息クチュルクはカラ キタイに亡命した。

・1204年  テムジンはナイマン軍に勝利、その後メルキト部族を攻撃、さらにタタール部族を壊滅させた。

元久2年(1205) 6.21 北条(平)時政は子息の義時・時房兄弟を呼び、謀反を理由に畠山(平)重忠を討つことを命じた。それに対して義時は、確たる証拠もなく行動すべきではないと諌めたのだという。(『吾妻鏡』)

※義時としては、人望があり、幕府を支えてきた重忠が謀反を起こすとは思えず、無実の者を討てば批判を受けると理解していたのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

元久2年(1205) 6.22 三浦(平)義村は畠山(平)重保を殺害した。そして北条(平)義時を大手、和田(平)義盛を関戸の大将軍として幕府軍が出陣した。重忠は134の兵で戦ったが討死、申の刻に合戦は終わった。(『吾妻鏡』)

※かつて祖父義明を重忠に討たれていた義盛と義村は、積極的に重忠討伐に参加したのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

元久2年(1205) 6.23 北条(平)義時は鎌倉に帰還し、父時政に対して、畠山(平)重忠は寡兵であり謀叛の疑いは偽りだったと報告し、友を討った悲嘆を表明した。(『吾妻鏡』)

※義時はあえて父の命に従って討伐を行って三浦一族の復讐心を満たし、目前で時政を批判してみせることで、御家人の間での自身の評判を上げたとも考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・?年 ?.? 姫の前は北条(平)義時と離婚し、源具親(村上源氏)と再婚した。

元久2年(1205) 閏7.19 牧の方が、自身の娘婿である平賀(源)朝雅を将軍にして、実朝を排除しようとしたとの風聞があった。(『吾妻鏡』)

※『吾妻鏡』は時政を擁護するために、牧の方を事実以上の悪役にしたとも考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

元久2年(1205) 閏7.19 尼御台所政子は、長沼(藤原)宗政・結城(藤原)朝光兄弟、三浦(平)義村・胤義兄弟、天野政景らを派遣して源実朝を保護。北条(平)義時の邸宅に移した。北条(平)時政が集めた武士たちも実朝を守るために義時邸に移ったことで時政は孤立した。(『吾妻鏡』)

※頼家、実朝と2代続けて源頼朝の子息が征夷大将軍となっており、頼朝の子孫が継承するというのが御家人の間での通念となっていた。源氏一門とはいえ、頼朝の血を引かない平賀(源)朝雅を擁立したことで、時政は御家人からの支持を失ったと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

元久2年(1205) 閏7.20 北条(平)時政は出家し、伊豆国北条に隠遁した。(『吾妻鏡』)

※時政失脚以後、北条(平)義時は江間まで含んだ北条家の当主となったのである(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

元久2年(1205) 8.7 宇都宮(藤原)頼綱の謀叛が発覚したとして、北条(平)義時、中原広元、安達(藤原)景盛は尼御台所政子の御所で合議した。政子の命として、広元は小山(藤原)朝政に広綱の討伐を命じた。しかし朝政は、頼綱の親戚(頼綱の祖父が、朝政の母寒河尼の兄弟)かつ仲がいいことを理由に、討伐は他の者に命じるように言って退出した。(『吾妻鏡』)

元久2年(1205) 8.11 宇都宮(藤原)頼綱は北条(平)義時に対して、反乱の意志はないとの弁明書をしたため、小山(藤原)朝政の手紙とともに提出した。(『吾妻鏡』)

元久2年(1205) 8.16 宇都宮(藤原)頼綱は出家して蓮生と号した。郎従60余りも出家した。(『吾妻鏡』)

※宇都宮武士団の軍事力と結束力を示している(細川重男『頼朝の武士団』)。

元久2年(1205) 8.19 宇都宮(藤原)頼綱は、謝罪のために北条(平)義時邸を訪れた。義時は対面を拒否したため、頼綱は結城(藤原)朝光に自分の髻を預け、義時に渡した。義時はそれを朝光に返し、頼綱の謝罪を受け入れた。(『吾妻鏡』)

※義時は源実朝を中心とした権力集中のために、宇都宮家に打撃を与えたとも考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

元久2年(1205) 12.2 尼御台所,政子のはからいで、源頼家の子息,善哉は鶴岡八幡宮別当尊暁の門弟となった。

・1205年 テムジンは西夏王国に遠征、掠奪を行った。

・建永1年(1206) 10.20 尼御台所政子の命で、善哉は叔父源実朝の猶子となった。(『吾妻鏡』)

・承元3年(1209) 源実朝は「将軍家政所」を開設した。(『吾妻鏡』)

※このころから実朝は、本格的に政治課題の裁許に関わることになる。その「将軍親裁」という体制は、将軍、執権、その他別当、令、知事家が審議して、その決定内容を将軍家政所下文として命じるものであった。鎌倉殿の独裁でも、執権の専制でもない、組織を重視したものである(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・承元3年(1209) 11. 北条(平)義時は、自身の「年来の郎従」を「侍」に任じてくれるよう源実朝に頼んだ。しかし実朝はそれを拒否し、義時は引き下がった。(『吾妻鏡』)

※実朝としては、義時の従者に過ぎない者を「侍」に取り立てれば、鎌倉幕府の身分秩序を壊してしまうため、断ったのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・承元3年(1209) 11.20 北条(平)義時は、守護の交代制を提案したが、千葉(平)成胤、三浦(平)義村、小山(藤原)朝政に反対されて取り下げた。(『吾妻鏡』)

※義時は、自立心の強い豪族の力を削ぎ、政権の安定を画策して失敗したのだと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

源頼朝の挙兵依頼、千葉家、三浦家、小山家は有力御家人であり続け、幕府の執政者に対する拒否権を持っていたのである(細川重男『宝治合戦』)。

・1206年 オノン河の水源地にて、テムジンはクリルタイを開いた。テムジンはカンに選出され、義弟でシャーマンのココチュ テブ テンゲリよりチンギス・カンの称号を授けられた。ココチュは神託として、天には唯一永遠の神がおり、地上には唯一の君主チンギス・カンがいると述べた。そしてその国家を、自らの部族の名を取って、イェケ(大) モンゴル ウルスと名付けた。

※「チンギス」とは、古いテュルク語で「勇猛な」を意味する「チンギズ」に由来する称号とも考えられる(宮脇淳子『モンゴルの歴史[増補新版]』)。

※「チンギス」の由来を、「寛大な」「宏大な」ないしは「強大な」を意味するとの説もあるが、正確な由来は不明である(白石典之『モンゴル帝国誕生』)。

※テムジンは指導者としては十分な血筋であるが、それを振りかざせる程のものではない。厳しい遊牧環境では「老人」である40代のテムジンは経験豊富であり、新興勢力のモンゴルを結合させる核として適切と見なされた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※テムジンがモンゴルと称される氏族集団の出身であったため、新たな遊牧部族連合の名はモンゴルとなった(宮脇淳子『モンゴルの歴史[増補新版]』)。

※「モンゴルの民」には強制的に編入された部族や、自ら志願して編入された部族を含んで成立した。その来歴を問わず、自らがモンゴルを名乗ればモンゴルの民となり、そうした者たちを拒まず受け入れる風潮があった(白石典之『モンゴル帝国誕生』)。

※「イェケ」とは「チンギス カン〔一門〕」を意味する述語である。イェケ モンゴル ウルスとは、「偉大なモンゴル国」ではなく「御大将チンギス カン〔一門〕」という国名であり、チンギス カンの遊牧騎射連合という意味である(『志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』本書の眼目)。

・1206年 モンゴルのチンギス カン,テムジンは、ナイマン部族の残党を攻め、カン,ブイルクを敗死させた。

・1208年 ナイマン世子,クチュルクは、西遼/カラ キタイの君主,チルクの娘クンクを妻に迎え、クチュルクはチルクの妃ガイリスの意向により、キリスト教から仏教に改宗した。(『集史』モンゴル史 チンギス紀I写本)

※この記録は『集史』I写本において、「次のように言われている」と前置きがあることから、伝聞である(志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』第5章)。

・1209年 春 チンギス カン,テムジンは、再び西夏王国を攻め、その首都興慶府を包囲した。西夏王は降伏し、娘を差し出す形で、テムジンに嫁がせた。

元久2年(1210) 3.26 源通具藤原有家藤原定家藤原家隆、藤原雅経らにより、『新古今和歌集』が編まれて奏進された。(『拾芥集』)

※『新古今和歌集』に関して正岡子規は、「新古今ややすぐれたりと相見え候。古今よりも善き歌を見かけ申候。しかしその善き歌と申すも指折りて数へるほどの事に有之候。定家といふ人は上手か下手か訳の分らぬ人にて、新古今の撰定を見れば少しは訳の分つてゐるのかと思へば、自分の歌にはろくな者無之」と評した(正岡子規「再び歌よみに与ふる書」)。

※『三島由紀夫は、古今和歌集』にあった「みやび」に総括された古典主義的な美学が、定家という「一歌人の個性に発したわがままな理論体系」になったと評した。しかしながら収録された一つ一つの歌が各々「複雑に凝結した世界」を成しており、「妖しいほどの光彩を放つフラグメント」や「艶やかな断片」と例えている(三島由紀夫古今集新古今集」『古典文学読本』所収)。

・1210年 チンギス カン,テムジンは金と断交し、内モンゴル華北に侵入を開始する。