ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

花山天皇の時代(永観、寛和)

・永観2年(984) 8.27 円融天皇の譲位により、師貞親王践祚した。(『日本紀略』)

・永観2年(984) 8.27 円融院の皇子,懐仁親王が皇太子に立てられた。(『日本紀略』)

※円融院は藤原兼家に屈服する形で譲位したものの、懐仁親王を皇太子に立てることで、自身の一代限りの天皇という立場を転換させ、子孫に皇統を伝える道を開いたとも考えられる(倉本一宏『一条天皇』)。

・永観2年(984) 11.28 針博士,丹波康頼医学書『医心方』を撰上した。 (「医心方跋文二種影刻」)

※これは日本最古の医学書である。傷口の縫い方や、塗る薬、包帯の巻き方や止血についても解説されている。また、目医者や目医師と呼ばれる人々が薬だけでなく鍼灸も行ったことが確認できる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

※『養生要集』という本が引用されており、蘇を常食していれば、筋力が付き、胆が強くなり、肌艶が良くなるといった効能が説明されている。蘇が高級な美容健康食と見なされていたことが窺える(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

・永観2年(984) 11.? 源為憲は『三宝絵詞』を完成させた。

※女性に仏教の教理をわかりやすく教えることを目的として書かれており、平仮名で表記されたと思われるが、寺院に伝わる伝本は片仮名が用いられている。片仮名は経典を読み下す際の訓点として使用が始まったといわれることとの関連性が指摘される(網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』)。

・984年 奝然は宋に渡った。奝然は宋の太宗,趙炅に謁見し、紫地の衣を賜り、太平興国寺に留めてもらった。宋太宗趙炅は奝然より、天皇位が1つの系統で世襲していることや、臣下の位も世襲であることを聞いて感心し、「島国の夷」でありながら理想を体現していると述べた。(『新唐書』)

※炅が日本に理想を見出す姿勢は、「中国」にとって、日本が古代への憧れを掻き立てる対象であったことを理解させる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

※この時代、日本の支配者層は、王朝交替がないという点において「中国」より優越しているという観念を有していたことが伺える(遠山美都男『天皇誕生』)。

・寛和1年(985) 4.? 良源の弟子恵心僧都源信は『往生要集』を著した。(『往生要集』『扶桑略記』)

・『往生要集』は序文において、当時の世は「濁世末代」であり、顕密の教えは「理智精進の人」には実行可能であるが、自身を含めた「頑魯の者」では困難であり極楽への往生にはほど遠いと説いている。そして誰しもが、念仏を重視する浄土教に帰依すべきだと主張している。

※『往生要集』により浄土信仰は体系化した。源信阿弥陀如来のいる極楽浄土を称え、そこに「往生」することを勧めている(末木文美士『日本思想史』)。

※臨終に際して、阿弥陀如来像の手に5色の糸を結び、その端を持って念仏を唱えるという作法は、『往生要集』が広めたものである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

源信は念仏とともに、仏を思念する「観仏」を重視した(清水正之『日本思想全史』)。

・寛和1年(985) 2.13 円融太上天皇の野遊びの宴が催された。その場において、丹後掾,曾祢好忠は追い立てられた。(『小右記』)

〔参考〕『今昔物語集』巻28第3「円融院ノ御子ノ日ニ参リタル曾祢吉忠ノ語」は、曾祢吉忠(好忠)が野遊びの宴に無断で参加したところ、葬式の際のような身なりであったため、その場から引きずり出され、複数の殿上人に足蹴にされた話である。

※『小右記からして、『今昔物語集』の収録した逸話は事実と考えられる。好忠の身なりが粗末だったのは、丹後掾のような三等国司につしか就けない下級貴族だったからである。野遊びには、末席の公卿として、藤原兼家の子息,道隆が参加しており(『小右記』)、彼が好忠を叩き出したとも推測される(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・寛和2年(986) 6.23 花山天皇は出家して退位した。(『小記目録』)

〔参考〕『大鏡』によれば、右大臣,藤原兼家の手引きで、その子息,道兼が花山天皇に対して共に出家することを勧めたが、道兼だけは出家しなかったのだという。