ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

円融天皇の時代(安和、天禄、天延、貞元、天元)

・安和2年(969) 8.13 冷泉天皇の譲位により、守平親王が即位した。(『日本紀略』)

・安和2年(969) 8.13 藤原実頼は摂政に任じられた。(『日本紀略』)

※こうして、天皇が幼少の間は摂政を置き、天皇が成長すれは関白を置くという「摂関政治」が確立した(田中卓『教養 日本史』)。

・天禄2年(971) 源為憲は、藤原為光の子息で、7歳になった松雄君(後の誠信)のために『口遊』を著した。(『口遊』序文)

※『口遊』には、多くの細々とした知識のほかに、掛け算の九九も載っている。当時の貴族の一般教養だったのだと思われる。当時の九九は9×9からはじまり1×1で終わる。庶民にまで広がるのは、それが逆転して以降である(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・972年 キエフ公スヴャトスラフはチェネグ人に敗れて死亡した。

※スヴャトスラフの頭蓋骨には金が張られ、チェネグ人がそれで酒を飲んだという(岡田英弘世界史の誕生』)。

・貞元2年(977) 10.11 藤原兼通は関白職を藤原頼忠に譲った。除目が行われ、藤原兼家は右近衛大将から治部卿となり、代わって権中納言,藤原済時が右近衛大将に任じられた。(『日本紀略』)

※兼通は冷泉太上天皇後宮に娘を入内させることが出来ず、円融天皇に入内させた媓子は皇子女を産むことがなかった。兼家が外戚としての位置を固めることを恐れた兼通は、兼家を左遷した形になる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・979年 宋は太原を陥落させて北漢を滅ぼした。

天元3年(980) 7.9 暴風雨によって羅生門が倒壊した。(『日本紀略』)

※その後羅城門が再建されることはなかった。つまり、『今昔物語集』「羅城門上層ニ登リテ死人ヲ見シ盗人ノ語」の説話は天元3年以前を背景としている。その説話には、盗みをしようと上京しようとした男が羅城門上層で多くの白骨死体を目撃する描写がある。窃人がいて死体が放置されるという状況は、繁栄が終焉した後のことではなく、平安京の都市本来の性質であったとも考えられる(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

天元5年(982) 2.27 この日、円融天皇は、最近都の内は騒がしく「群盗」が蔓延っており、連日殺人が起こっていることを述べた。(『小右記』)

※当時の「群盗」による犯罪は、家に押し入って盗みをはたらくだけでなく、その家の者を傷つけたり殺害するものもあった(繁田信一『平安朝の事件簿』)。