ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

一条天皇の時代(寛和、永延、永祚、正暦、長徳、長保)

・寛和2年(986) 6.23 懐仁親王践祚した。藤原良房の先例に従い、右大臣,藤原兼家は摂政に任じられた。(『日本紀略』)

・寛和3年(987) 1.24 平貞盛の弟,繁盛が金泥で書写した『大般若経』1部600巻を延暦寺に奉納するに際して、朝廷は美濃国司に道中の安全保障を命じた。(「太政官符案」『平安遺文 9』4573)

太政官符は繁盛の主張を載せている。それによれば、繁盛は平将門追討に尽力したものの、兄,貞盛と違って恩賞を与えられなかったという。とはいえ繁盛のことを「散位従五位下」と表記していることから、生涯無位無官ではなかったようである(近藤成一「平将門」『歴史のなかの人間』)。

・永延2年(988) 6.14 源信を含めた楞厳院の僧侶を中心として、「二十五三昧衆」が結成された。(『横川首楞厳院二十五三昧起請』)

※二十五三昧衆は比叡山延暦寺における念仏修行の始まりとなった(清水正之『日本思想全史』)。

※二十五三昧衆は病人を世話し、その死後は遺体の処理も行った。こうした個人の生死に関する、実践を旨とした仏教が興隆したのである(末木文美士『日本思想史』)。

・永延2年(988) 12.4 権中納言,藤原道長は従者を使って、式部少輔,橘淑信を拉致した。道長は、官人採用試験を受ける甘南備永資の受験結果を改竄するよう淑信に圧力をかけた。(『小右記』)

※淑信は官人採用試験の試験管であった。家柄が高くない者は、採用試験で好成績を残すことが出世において重要であった。道長は懇意にしていた永資を官人にしようとしたのである(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・永延2年(988) 恵心僧都,源信は、宋の人々も極楽往生することを望み、商人に『往生要集』を持たせて、宋に流通させようとした。

源信の行動が異例であることからも、日本の仏教が、「中国」に影響を及ぼしていなかったことを物語る(中村元『日本人の思惟方法』)。

・988年 キエフ公スヴャトスラフの子息ウラディーミル1世は同盟していた東ローマの君主バシレイオス2世の妹を妻に迎えギリシア正教に改宗した。

〔参考〕『原初年代記』には、ムスリムのブルガール人がイスラームへの帰依を勧めるも、豚肉や酒の禁止が気に入らず改宗を拒んだという話が記されている。

※この逸話は、ギリシア正教の称揚のための創作とされる(岡田英弘世界史の誕生』)。

ギリシア正教を受容したルースィでは、教会の公用語はスラヴ語であり、ギリシア語の神学書がスラヴ語に翻訳された。しかし、ギリシア哲学・文学・科学についての古典は翻訳されなかったため、かつてのギリシア精神の影響は少ないものであった(岡田英弘世界史の誕生』)。

・正暦1年(990) 1.25 藤原道隆の娘,定子が、一条天皇後宮に入内した。(『権記』)

・正暦1年(990) 10.5 藤原道隆の娘,定子は中宮となった。円融院の中宮,遵子は皇后とされた。

中宮は本来、皇后の別称ないしは太皇太后・皇太后の総称である。定子が中宮、遵子が皇后とされたことで、皇后と中宮の地位は分離した(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と野望』)。

・正暦2年(991) 9.7 藤原道長権大納言に任じられた。(『権記』)

・正暦2年(991) 9.16 皇太后,詮子は出家し、院号東三条院とした。(『左経記』)

※詮子は初めての女院である(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・正暦2年(991) 11.3 東三条院,詮子は、同母弟,権大納言,藤原道長の土御門邸に赴き、そこを御在所として過ごした。(『小右記(『院号定部類記』所引)』)

姉弟の親しい関係は、公卿社会にも広まったことと思われる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・正暦5年(994) 8.28 藤原伊周内大臣に任じられた。(『権記』)

※これは伊周の上位の3人を超越しての叙任である。道隆は自身の子息を後継者として扱ったことになる。しかし、公卿社会や東三条院,詮の意向とは違ったものであったと思われる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

長徳1年(995) 1.2 東三条院,詮子の元に、一条天皇は朝覲行幸を行った。左大臣,源重信、右大臣,藤原道兼内大臣,藤原伊周が付き従った。藤原朝光、藤原道長藤原済時らは参加しなかった。(『小右記』)

※朝光、道長、済時らは、伊周に官職を超越された者たちである。不参加は、伊周の父,道隆に対する不満の表明と考えられる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

長徳1年(995) 1.28 内大臣,藤原伊周大臣大饗を行った。しかし、左大臣、右大臣、大納言らは参列しなかった。(『小右記』)

※父,道隆の強引な引き立てによって昇進した伊周に対して、公卿社会の人々は不満を持っていたのである(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳1年(995) 4.10 前関白,藤原道隆は死去した。(『小右記』)

※疫病が原因とも、持病の糖尿病が原因とも考えられる(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・長徳1年(995) 4.27 一条天皇は、右大臣,藤原道兼を関白に選んだ。(『日本紀略』)

※世代交代を忌避し、道隆から道兼という同母兄弟間の世代交代を望んだ、東三条院,詮子の意向が影響したと考えられる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と野望』)。

・長徳1年(995) 5.8 関白,藤原道兼は死去した。(『日本紀略』)

・長徳1年(995) 5.11 一条天皇は、かつて藤原兼通太政官雑事に命じられた先例に準じるとして(『小右記』)、権大納言,藤原道長に内覧宣旨を下した。(『御堂関白記』『小右記』) 

〔参考〕『大鏡』には、東三条院,詮子が清涼殿夜御殿に押しかけ、涙を流しながら子息,一条天皇を説得し、宣旨を出させたとある。

※定子の兄である藤原伊周を政権担当にしたい一条天皇と、道長を関白に任じてもらいたい詮子との、交渉や妥協の末の結論と考えられる。こうして道長は兄2人の死後、突然政権の座に就くことになった(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

※早くに結婚して家を出た兄である道隆・道兼兄弟と比べて、晩婚だった道長は詮子と同居している期間が長かった。そのため道長と詮子は親しかったのだと思われる。詮子は母親として一条天皇にも意見できたものと考えられる(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・長徳1年(995) 6.19 藤原道長は右大臣・太政官一上に任じられ、氏長者となった。(『御堂関白記』『小右記』)

※関白に任じられると、太政官の長である一上から外れることになっていた。しかし、関白にはなれず内覧になったことで偶然に一上を兼任することが可能となったのである。内覧と一上を兼任したことで、文書を読んで天皇に助言する立場でありながら公卿会議を主宰するという立場になった(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

※当時の政治は、公卿を頂点とする太政官組織が中心となって運営されてた。道長は関白にならず、太政官一上として公卿議定を主宰できる立場となり、結果的に権力基盤を固めることが出来た(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳1年(995) 7.24 陣座において、右大臣,藤原道長内大臣,藤原伊周は口論した。(『小右記』)

・長徳1年(995) 7.27 右大臣,藤原道長の従者と、内大臣,藤原伊周の従者同士が、七条大路にて合戦に及んだ。(『小右記』)

・長徳1年(995) 8.2 中納言,藤原隆家は、叔父、右大臣,藤原道長随身を殺害した。(『小右記』)

※これは隆家の兄,伊周と、道長の従者同士が合戦に及んだことの報復措置と考えられる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳2年(996) 1.16 花山院は、内大臣,藤原伊周中納言,隆家兄弟と、故一条太政大臣,藤原為光邸にて遭遇した。隆家の従者と花山院の従者の間で乱闘があり、伊周・隆家兄弟は、花山院に随身していた童子2人の首を持ち去った。(『野略抄(『三条西家重書古文書』所引『小右記逸文)』『小記目録』)

・長徳2年(996) 2.5 一条天皇検非違使別当,藤原実資に対して、精兵を隠している噂のある、内大臣,藤原伊周の家司の邸宅を捜査することを命じた。実資は権佐,源孝道と検非違使に命じて、伊周の家司を捜索させた。(『小右記』)

※実資に詳細な指示を出したのは、一条天皇であったと理解できる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳1年(996)  2.11 一条天皇は、内大臣,藤原伊周中納言,隆家兄弟の罪名を報告するよう命じた。蔵人頭近衛中将,藤原斉信がそれを右大臣,藤原道長に伝えると、その場の全員が傾き嘆いた。(『小右記』)

※このことからも、花山院と伊周・隆家の従者の乱闘に、道長ら公卿は関与しておらず、裁定を主導したのは一条天皇であったことがわかる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳2年(996) 4.1 内大臣,藤原伊周が、臣下が行ってはいけない太元師法によって右大臣,藤原道長を呪詛していたと奏上された。(『日本紀略』)

※真偽は不明である(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳2年(996) 4.24 除目が行われた。内大臣,藤原伊周は太宰権帥、中納言,藤原隆家は出雲権守として左遷されることになった。(『小右記』)

藤原道長は伊周・隆家兄弟という政敵を退けることに成功した。ただ、一条天皇は伊周の妹である皇后,定子を寵愛し続けており、道長の地位は磐石といえるものではなかった(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳2年(996)  5.1 皇后,定子は出家した。(『小右記』)

・長徳2年(996) 6.14 大納言兼右近衛大将,藤原顕光の邸宅に、「群盗」が押し入った。彼に仕える橘内成の子息は鉾で突かれて負傷し、「群盗」が放った矢は馬に当たった。(『小右記』)

※「群盗」というものは、弓矢や鉾で武装した強盗集団であったことが理解できる(繁田信一『平安朝の事件簿』)。

・長徳2年(996) 7.20 右大臣,藤原道長は、左大臣に任じられ、正二位に叙された。(『小右記』)

道長は内覧という立場によって権力を掌握したため、左大臣になっても内覧を辞めることはなかった(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・長徳2年(996) 12.16 皇后,定子は、一条天皇の皇女である脩子を出産した。(『日本紀略』)

※このまま一条天皇が定子を寵愛し続ければ、いずれ皇子を産む可能性がある。左大臣,藤原道長の長女,彰子はまだ9歳であり、道長を焦らせたものと推測される(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と野望』)。

・長徳3年(997) 3.25 東三条院,詮子の病気の回復を願って、大赦が行われた。(『小右記』)

・長徳3年(997) 4.5 藤原伊周・隆家兄弟は、大赦により召喚された。(『小右記』)

・長徳3年(997) 6.5 河内国若江郡にて、美努公忠は馬兵と歩兵を率いて、同族で前淡路掾を称する美努兼倫の屋敷に夜襲をかけ、彼とその家族や従者を捕縛した。騒動に気づいた近隣の人々は兼倫の屋敷に駆けつけた。上野掾,源訪は公忠が兼倫を捕縛している正当性を問い詰め、退散させた。兼倫は命拾いをした。(「前淡路掾美努兼倫解」「三条家本『北山抄』裏文書」所収)。

※公忠は美努一族の主導権を握るために、兼倫を殺害しようとしたとも推測される。彼は美努氏の本拠である若江郡にて、武士団を構成していたのかもしれない。兼倫は郡司に代わって現地の刀禰を取りまとめて、課せられた税を全て納めるような優良な納税者であった。そのため訪としても重要な人物であり、命を助けたのだと考えられ(繁田信一『平安朝の事件簿』)。

・長徳3年(997) 7.5 藤原実資はこの日、左大臣,藤原道長や、東三条院,詮子が政務を主導していることを批判する文言を日記に記した。(『小右記』)

※この頃道長は、異母兄の道綱を大納言に任じていた。無能と考えていた道綱に、官職を超越されたことに対して、実資は怒りを表明している。実資は日記では道長を批判しながら、日常においては道長と親しかった。彼の日記は当時から広く読まれていたが、それを道長が怒った形跡はない。他人に貸与した部分は、儀礼などの箇所だけを抜粋したものであったかもしれない(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・長徳4年(998) 3.3 左大臣,藤原道長は腰病を理由に出家の意向を上表した。それに対して一条天皇は、外戚であり重臣である道長がいなくては、自分を補佐してくれる者がいないと述べ、ただ、出家を妨げれば罪過があるだろうとして、病気の回復後に出家することを勧めた。(『権記』)

道長の病気が回復したならば、一条天皇は次の執政者を任じるつもりであったことが伺える(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・999年 カラ カン朝はサーマーン朝を滅ぼした。

中央アジアはテュルク系の人々によって占められるようになり、ソグディアナはトルキスタン(テュルク人の土地)と呼ばれるようになる。カラ・カン朝の下で、テュルク人のイスラーム化が進んだ(岡本隆司『世界史序説』)。

・1000年 このころ、日本語の音韻に「ハ行点呼音現象」と呼ばれる変化が起こったと推測される(今野真二『かなづかいの歴史』)。

※かつてハ行の発音は、「フ」を発音するような唇の形で、「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」のような音だった。その後次第に、喉音へと変化したのだと思われる(今野真二『かなづかいの歴史』)。

・1000年 このころ、ア行の「オ」とワ行の「ヲ」の発音が同じものとなった(今野真二『かなづかいの歴史』)。

※発音は同じになったものの、「お/オ」と「を/ヲ」という文字を、人為を別として、どちらも続けて使われることになった(今野真二『かなづかいの歴史』)。

・1004年 キタンはかつてのウイグルの都市カトゥン バリクを修復し、鎮州建安軍を置いた。

※キタンの本拠地であるシラ レムン川流域から、鎮州建安軍に至る道を確保するため、オルホン川のほとりと東方を結ぶ交通路と、都市がつくられた(岡田英弘「中央ユーラシア、世界を動かす」『岡田英弘著作集Ⅱ』)。

・1004年 防衛費用に苦しんだ宋は、毎年銀・絹・茶を贈るという条件で、宋の真宗,趙恒遼とキタンの聖宗,耶律文殊奴を兄弟として、国境を定めて、互いを「北朝」「南朝」と呼び合うほぼ対等な関係で盟約(澶淵の盟)を結んだ。

※これは中国において唯一であるべきという、皇帝=天子の観念からすれば矛盾を孕むものであった(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・寛弘2年(1005) 8.13 藤原保昌肥後守に任じられ、太宰少弐を兼ねた。(『御堂関白記』)

・寛弘3年(1006) 12.29 賀茂臨時祭が挙行され、尾張兼時は舞人を務めた。紫式部はこの年までの兼時は、舞人として相応しかったと述懐している。(『紫式部日記』)

紫式部は宮中で賀茂臨時祭を見ていることから、この時点において、一条天皇中宮,彰子のもとに出仕していたと考えられる(倉本一宏『紫式部藤原道長』)。

※当時は彼女の父,藤原為時は無位無官であり、『源氏物語』の執筆に必要な大量の紙を調達できたとは考えられない。そのため、紙を支給して『源氏物語』の執筆を依頼したのは藤原道長であったと推測される。道長の目的は、『源氏物語』を一条天皇に見せることで、自身の娘,彰子に対して寵愛の心を抱かせることであったと考えられる(倉本一宏『紫式部藤原道長』)。

※『源氏物語』第2帖「帚木」には、ニンニクか何かの薬を熱冷ましとして服用することを「極熱の薬草を服し」と表現している箇所がある。当時、漢語が多様されたことを窺わせるものである。唐の文学を吸収したことで、漢文学を基盤として日本文学が発展したことの証左とも考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

※『源氏物語』第34帖には、「こだいのひが事どや侍りつらむ」という言葉が見え、古くから「古代」という用語があったことが理解できる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

・1007年 外モンゴルのオルホン河畔に牧地を持っていたケレイト部族の君主は聖職者を招いて、ネストリウス派キリスト教の洗礼を受けた。

※キタンが外モンゴルに都市を建設して以降、外モンゴルと中国が繋がり、西方からもキリスト教が伝わるようになったのである。キリスト教信仰は内モンゴルのオングト部族にも広まった(岡田英弘世界史の誕生』)。

外モンゴルに対しては、ネストリウス派キリスト教とともにアラム文字が伝わった。それを利用することで遊牧民は自らの言葉を書き表すようになった(岡田英弘世界史の誕生』)。

・寛弘4年(1007) このころ、『拾遺和歌集』が編纂された。(『後拾遺和歌集』序)

〔参考〕『後拾遺和歌集』の序には、花山院が『古今和歌集』や『後撰和歌集』に入らなかった和歌を拾って収録したため、「拾遺集」と名付けたとある。

※花山院は和歌の名手として知られ、古くから『拾遺和歌集』の編纂に携わったと伝えられる。勅撰和歌集として初の連歌を収録したものであり、花山院の意向であるともいわれる(美川圭『院政 増補版』)。

・寛弘5年(1008) 7.20 紫式部は日記を書き始めた。(『紫式部日記』)

※仮名によって書かれた日記である。藤原道長が紙を与え、後の自身の家系から排出される后妃のために、先例の記録を残すことを命じたとも推測される(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・寛弘5年(1008) 9.10明け方 彰子は出産な苦しんでいた。彰子の苦しみは物の怪の仕業と考えられ、物の怪を退散させるために、多くの験者と陰陽師、そして僧正や僧都らが祈祷を行った。その場に立ち会った紫式部(馨子?)が一部始終を日記に記している。(『紫式部日記』)

※摂関期以降、仏教は国家儀礼よりも貴族個人の現世利益に注力するようになった。当時は病や出産の際に命の危険があることは物の怪の仕業と考えられており、験者の祈祷に頼ることが多かったのである(末木文美士『日本思想史』)。

・寛弘5年(1008) 9.11 中宮彰子は敦成親王を出産した。(『紫式部日記』)

・寛弘7年(1010) 10.20 藤原保昌から藤原道長に、唐の品物が贈られた。(『御堂関白記』)

※太宰少弐であった保昌は、その時代以降、唐商人との繋がりを持っていたとも考えられる(野口実『列島を翔ける平安武士』)。