ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

仁明天皇の時代(弘仁、天長、承和、嘉祥)

・承和2年(835) 4.2 葛原親王甲斐国巨麻郡の馬相野に、500町の土地を与えられた。(『続日本後紀』)

※「巨麻」という名が示すように、駒(馬)の生産地であり、馬を天皇に献上する牧が集まる場所であった。葛原親王は、常陸国における弓馬術に長けた有閑階級が拠り所とする王臣家でありながら、弓馬術の文化を支える牧の所有者という、2つの顔を併せ持っていた(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・承和3年(836) 1.3 仁明天皇は、嵯峨太上天皇・檀林太皇太后,嘉智子に朝覲行幸を行った。(『続日本後紀』)

※これ以降、皇室の行事として定着することとなる(岩田真由子「嵯峨天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

・承和4年(837) 2.8 陸奥国から朝廷に、武器庫にある弩の修理と弩の指導者の雇用が要請された。(『続日本後紀』)

蝦夷の弓を操る騎兵に対抗するためには、殺傷力の高い弩と、それを使えるよう訓練する人が必要だと考えられたのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・837年 ホラーサーンからソグディアナにかけて、イラン系のサーマーン朝が建てられた。

※サーマーン朝は、サマルカンドなどのオアシス地帯を支配し、アッバース朝の東方防衛の要として振舞った(岡本隆司『世界史序説』北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※サーマーン朝の影響により、ソグディアナと中央アジアイスラーム化が進んだ。それ以降ソグディアナの地は、アラビア語のマー・ワラー・アンナルフ(アム川のむこうの地)という呼び方が定着する(岡本隆司『世界史序説』)。

・承和5年(838) 2.9 畿内において、群盗たちが大っぴらに活動し、放火や殺人を行っていた。(『続日本後紀』)

※群盗が隠れようともしなかったことから、衛門府検非違使を恐れていなかったことが理解できる。検非違使別当は武官を歴任する氏族出身者が務めたが、末端は警備を担う舎人であり、兵士ではなかった。時に群盗の襲撃は合戦の様態をなすが、兵士でもない検非違使は対応できなかったものと思われる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・承和5年(838) 12.15 嵯峨太上天皇の意向を受け、太政官の執奏により、小野篁は官位を剥奪したうえで隠岐国への配流が決定した。(『続日本後紀』)

※政治に関与したものの、あくまで太政官が執行した処分であり、嵯峨太上天皇が、太上天皇としての権限を行使したわけではない(目崎徳衛「政治史上の嵯峨上皇」『貴族社会と古典』)。

・承和7年(840) 5.6 淳和太上天皇は、自身の崩御後の散骨を望んだ。それに対して藤原吉野は反対意見を述べた。そこで淳和太上天皇は嵯峨太上天皇に決めてもらうよう命じた。(『続日本後紀』)

※決定を委ねたのが仁明天皇ではなく嵯峨太上天皇であることから、その立場が窺える(岩田真由子「嵯峨天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

 ・承和7年(840) 7.? 〔参考〕『尊卑分脈』によれば、藤原藤成の子息,豊沢は下野権守になったという。

※「下野権守」になったというのは後世の捏造と思われるが、下野国の任用国司になったのは事実と考えられる。『尊卑分脈』によれば、豊沢の母は下野史生,鳥取業俊であり、藤成を婿に向かえることで、貴姓を取り入れたのだと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・840年 北方のテュルク系キルギス人からの攻撃を受け、ウイグル カガン国は滅んだ。

ウイグル人が散り散りになると、中央アジアにおいて、ペルシア系言語よりもテュルク語が話されるようになった(岡田英弘「中央ユーラシア、世界を動かす」『岡田英弘著作集Ⅱ』)

・840年 国家を滅ぼされたウイグル人の一部は、タリム盆地を超えて西に進み、現地のカルルク人と融合、カラ カン朝が形成された。

※カラ・ハン朝に住む人々の多くは、サーマーン朝の影響によりイスラーム教徒であった(岡本隆司『世界史序説』)。

・841年 新羅において、清海鎮大使,弓福(唐名:張保皐)は反乱を起こした。福が殺害されたことで、反乱は終結した。

※反乱は短期間で終わったが、新羅の王権が弱体であることや、地方勢力が台頭していったことを物語る。唐を中心とした政治・文化的な圏域が崩壊し、各々の地域が芽生え、独自の路線を歩みはじめたことの証左であった(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・841or842年 吐蕃君主,ダルマ・ウィドゥムテンは宰相の一党に殺害された。

※以後、君主位継承を巡ってティベットは分裂し、150年間ほどの記録のない時代となる(岡田英弘世界史の誕生』)。

ウイグル カガン国が滅んだのに続いて、吐蕃が勢力を減退させたことで、唐は2つの勢力の圧迫から解放された(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・承和9年(842) 7.17 阿保親王は檀林太皇太后,嘉智子に封書を送り、伴健岑橘逸勢が、皇太子,恒貞親王を擁立して、東国で挙兵する計画がある、と伝えた。(『続日本後紀』)

・承和9年(842) 7.18 伴健岑橘逸勢らは勘問された。(『続日本後紀』)

・承和9年(842) 7.23 恒貞親王の直曹が包囲され、武装解除をさせられた。また、大納言,藤原愛発、中納言,藤原吉野、参議,文室秋津が処罰された。(『続日本後紀』)

・承和9年(842) 7.24 恒貞親王は皇太子を配された。(『続日本後紀』)

・承和9年(842) 7.28 橘逸勢伊豆国に、伴健岑隠岐国に配流される側とが決まった。(『続日本後紀』)

※この一件は、藤原良房による他の氏族の排除が目的ともされるが、当時、橘氏と伴氏には、かつてのような権勢はなかった。そのため良房の実際の目的は、恒貞親王、およびその側近を失脚させることであったと考えられる(樋口健太郎「良房」『図説 藤原氏』)。

・承和9年(842) 8.4 道康親王が皇太子に立てられた。(『続日本後紀』)

※こうして両統迭立の体制は終わり、皇統は一本化された。また、妹の産んだ道康親王が皇太子になったことで、藤原氏内において藤原良房の地位が確立した(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・承和9年(842) 10.14 仁明天皇の勅を発し、左右京職と東西の悲田院に経費を渡して、嶋田や鴨河原などの髑髏約5500を焼いて埋葬させた。(『続日本後紀』)

※当時の京都内の河原には大量の死体が放置されており、それらの清掃や葬送は悲田院に任されていたようである(佐々田悠「古代日本の罪と穢れ」『差別と宗教の日本史』)。

・承和11年(844) 1.11 藤原長良は参議に任じられた。(『続日本後紀』)

・承和15年(847) 1.10 藤原良相は参議に任じられた。(『続日本後紀』)

※こうして議政官の内の藤原氏は、ほとんどが北家が占めるようになった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・承和15年(847) 2.10 上総国において、俘囚,丸子廻毛が反乱を起こしたことが朝廷に知らされた。そこで相模国上総国など坂東5ヶ国に廻毛追討が命じられた。(『続日本後紀』)

※5ヶ国からの動員があったことから、反乱は小規模ではなかったことと、降伏した蝦夷は依然として坂東で不穏な動きをしていたことが理解できる(関幸彦『武士の誕生』)。

・嘉祥1年(848) 1.10 大納言,藤原良房は右大臣に任じられた。(『続日本後紀』)

・嘉祥2年(849) 1.7 恒貞親王は出家し、法号を恒寂とした。(『日本三代実録』)

恒貞親王は母,正子内親王とともに淳和院で暮らすようになった。淳和院の母子の元には、尼僧が集まるようになった(岡野友彦『源氏長者』)。

・嘉祥2年(849) 1.13 藤原高房は越前守に任じられた。(『日本後紀』)

※高房の子息,時長の妻は、越前国秦豊国の娘である(『尊卑分脈』)ことから、高房は越前国に土着(『今昔物語集』)しており、時々都に出仕していたようである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。