ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

宇多天皇の時代(仁和、寛平)

・仁和3年(887) 8.26 定省親王践祚した。(『日本紀略』)

宇多天皇の日記は、本康親王に続いて古いものである。かつて臣籍降下した経歴も日記を書いたことに影響していると考えられる(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・仁和3年(887) 11.21 宇多天皇は、太政大臣,藤原基経に万機を「関(あずか)り白(もう)」させることを決定した。(『日本紀略』『政治要略』)

・仁和3年(887) 閏11.27 宇多天皇藤原基経を再び関白に任じようとした。しかし、勅答の文章において関白のことを差した「阿衡」の文字を問題として、基経は出仕を拒んだ。(『日本紀略』『政治要略』)

※「阿衡」というのは、「中国」殷の時代に伊尹が任じられたという職である。ただ、阿衡には具体的な職掌がない。基経は、自身が実態のない名誉職に押し込まれてしまうと主張することで、宇多天皇を牽制しようとしたと考えられる。基経が出仕をしなくなったことで、政務は滞った(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・仁和4年(888) 6.1 宇多天皇は、参議,橘広相、右少弁,藤原佐世らに、「阿衡」という文字の解釈について議論させた。(『政治要略』)

・仁和4年(888) 6.2 藤原基経を「阿衡」に任じるのは宇多天皇の意志に背くものであるとして、宇多天皇藤原基経を関白に任じた。(『政治要略』)

天皇側が折れなければ紛議が解決しないということが世の中に明らかとなり、その権威を低下させたとも考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・仁和4年(888) 9.22 橘広相の娘,義子と、藤原高藤の娘,胤子は宇多天皇の更衣となった。(『日本紀略』)

・仁和4年(888) 10.6 太政大臣,藤原基経の娘,温子は宇多天皇後宮に入内し、女御となった。(『日本紀略』)

・寛平1年(889) 5.12 葛原親王の孫,高望王は上総介に任じられたという。(『神皇正統録』)

〔参考〕長門本平家物語』によれば、高望王の父,高見王は生涯無位無官であったという。

※情報が少ないため、高見王の実在を疑う見解もあるが、子孫には無位無官の先祖を捏造する必要性がないほか、『平家物語』は出世譚でもないため、若くして死去した人物とも推測される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

皇親としての威光があるために、現地の反乱を鎮圧する期待を受けて任じられたとも考えられる(関幸彦『武士の誕生』)。

※当時の群盗は違勅罪も顧みずに略奪や殺戮を行う集団であったため、皇親が地方官に任官することに権威性はないという見解もある(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

高望王には、少なくとも2人以上の妻がいた(『将門記』)。赴任した上総国において人脈を形成するために複数の婚姻関係を持ったとも考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・寛平1年(889) 5.13 上総介,高望王は、平朝臣の姓を与えられた。(『日本紀略』)

〔参考〕『平家勘文録』には、「民部卿宗章朝臣」という人物を追討した功績により、寛平2年5月12日に上総守となり、朝敵を「平らげた」功績により、平朝臣の姓を与えられたとある。

※「宗章」という人物は他の史料に見えず、当時の民部卿源能有である。また、平姓は高望以前にも与えられており、それらの人々は朝敵を「平らげ」ていないため、の由緒は虚偽であると考えられる。桓武天皇が、長岡京時代に儲けた皇子に、長岡朝臣の姓を与えていることから、平安京の「平」に由来すると推測される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・寛平3年(891) 9.11 近年、京都に戸籍のある王臣子孫や民が、地方に住んで現地の女性と結婚し、無法者たちと結託して年貢を収めず、武力を誇示して民を脅しているとして、その状況を調査することが命じられた。(『類聚三代格』)

※こうした風潮に、都に戸籍がある百姓も加担していた点で、それまでとは違った。都の戸籍を持つ者は調が他の半分、庸を免除されたよいという特権があったため、戸籍を都に移すための虚偽の申請も横行していた(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・寛平5年(893) 1.22 橘広相の娘,義子と、藤原高藤の娘,胤子は女御となった。(『日本紀略』)

・寛平6年(894) 8.21 参議,菅原道真は遣唐大使に、右少弁,紀長谷雄は副使に任じられた。(『日本紀略』)

・寛平6年(894) 9.30 予定されていた遣唐使は、参議,菅原道真の提案により(『菅家文章』)停止された。(『日本紀略』)

※当時は、活発に活動していた海商から唐の物品の入手が可能となっていた。そのため外交使節を派遣する必要性が低下したことが、停止の理由であると考えられる。また、交流の活発化に伴い海賊の活動も盛んとなり、航海の危険性が高まったことも理由の1つである(河内春人『新説の日本史』第1章)。

・寛平8年(896) 4.2 百姓が諸院や王臣家に訴えを持ち込むことは禁じられた。(『類聚三代格』)

※王臣家は免罪特権と武力を保持していたため、地方において彼らを味方につけた者は争いに勝つことができた。既存の法に逆らっていた王臣家が、自ら地域の公権力に変化していったのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・896年 マジャール人ドナウ川中流域を占領した。マジャルロザーク(ハンガリー)と呼ばれる地である。