ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

聖武天皇の時代(神亀、天平、天平感宝)

 ・神亀1年(724) 2.4 元正天皇は、皇太子で甥(文武天皇と宮子の皇子)の首親王に譲位した(聖武天皇)。(『続日本紀』)

 ※聖武天皇即位宣命は、文武天皇が首親王(聖武天皇)に「天下の業」を賜ったが、若年だったために「皇祖母」元明天皇に授け、元明天皇元正天皇に授け、将来は「不改常典」に従って首親王(聖武天皇)に授けるよう命じたとの由緒を述べる。

宣命では元正太上天皇聖武天皇を「ワガコ(=吾が児/朕が子 など)」と呼んでおり、故文武天皇の皇后格として、擬制的な息子として皇位を継承させることを宣言した(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

元明天皇の即位宣命においては、首親王文武天皇の後継者として言及していない。また、元正天皇の後継者としては、首親王(聖武天皇)と長屋王・吉備内親王およびその子息が選択肢にあった。しかし、文武天皇から聖武天皇への父系嫡系継承が規定路線であったと語ることで、元正天皇から聖武天皇への譲位を正当化したのである(義江明子『日本古代女帝論』)。

 聖武天皇の妻安宿媛(不比等の娘)は夫人となった。

聖武天皇の即位に伴い、叙位が行われた。一品舎人親王は500戸増封され、三品新田部親王は二品に昇った。長屋王は正二位・左大臣となり、その妻吉備内親王は二品となった。長屋王・吉備内親王夫妻の子息膳夫王従四位下、娘の智奴王、および長屋王の妻長娥子(藤原不比等娘)は従三位長屋王の妹山形王は正四位上となった。(『続日本紀』)

長屋王の親族の存在感が増している(森公章『奈良貴族の時代史』)。

神亀1年(724) 2.4 聖武天皇は、母宮子の称号を「大夫人」とする勅を出した。(『続日本紀』)

神亀1年(724) 3.? 左大臣長屋王は、聖武天皇の母宮子の称号を「大夫人」とする勅に対して、反対意見を奏上した。(『続日本紀』)

※これは、令には皇太夫人という称号はあっても大夫人という称号はなく、令と勅が矛盾するからである。

神亀1年(724) 3.? 聖武天皇は2月4日の勅を撤回し、母宮子について、文章では皇太夫人、口頭では「大御祖(オオミオヤ)」と呼ぶとの詔を出したことで決着した。(『続日本紀』)

※非皇親の生母,宮子に対して、「皇」の字を用いることを最初は遠慮して徳を示し、貴族からの要請という理由付けを行うことで実現させたとも考えられる。そのような手順を踏んだのは、人心への配慮であるのと同時に、宮子に対して「皇」を用いることが適切かどうか懸念があったとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※「皇祖母(スメミオヤ)」である元正上皇に遠慮し、生母,宮子に「皇」を用いた称号を贈ることを憚かったことも理由の一つとされる(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

※文書上において、宮子は称号に「皇」の字を得たため、出身氏族の藤原氏は準皇親としての地位を得ることができたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※「オオミオヤ」は「スメミオヤ」に準じるものであり、聖武天皇藤原氏は、長屋王の意見を容れながらも、それなりの称号を贈ることが出来たとも考えられる。ただ、長屋王が「オオミオヤ」の称号に異を唱えなかったところからみて、宮子「オオミオヤ」の称号を贈るために、あらかじめ定められた筋書きとも推測される(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天皇律令に従い勅を撤回したという点で、律令を超越する存在であった「中国」の皇帝とは性格が異なる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

神亀1年(724) 4.14 聖武天皇は坂東9ヶ国の兵30000に「騎射」を習わせた。(『続日本紀』)

※徴兵した民に弓馬術を習わせる初の試みであった。徴兵対象が坂東出身者に限られていたことから、畿内や西国とは違い、坂東では農民階級でも弓馬術を習得できるほど弓術との接点が密接であったとも考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

神亀1年(724) 5.5 左京、右京、五畿内、近江国などの郡司・子弟・庶民から、見栄えが良い者たちを「猟騎」として動員した。(『続日本紀』)

※「猟騎」とは軍装で美しく飾られた弓騎兵と考えられる。この際に動員された「庶民」は、私有する墾田から富を得て、生じた余暇を武芸につぎ込んだ富豪百姓のことであると思われる。ただ、廷臣としての責任感は庶民に期待できない。そのため動員された中で要となったのは、郡司の財力を背景に、その余暇を用いて、他の有力者に対抗するための弓馬術を身につけた、郡司の子弟であったと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

百済王家の祖とされる朱蒙は、弓の名手としての逸話があるほか(『三国史記高句麗本紀)、同じく朱蒙を王家の祖と位置づける高句麗では、舞踊塚古墳の壁画に騎馬武人の狩猟の様子が描かれた。多数の百済王族や遺臣が近江国に定着して以降、そうした騎射文化も定着したため、弓騎兵の供給源として近江国が選ばれたとも考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

神亀2年(727) 閏1.4 朝廷に降伏した蝦夷,俘囚の内144人が伊予国、578人が筑紫国、15人が和泉国に配置された。(『続日本紀』)

蝦夷を各地に分散させる形で移住させ、勢力を弱めて統治を行いやすくするためとも考えられる(関幸彦『武士の誕生』)。

神亀3年(727) ?.? 〔参考〕『出雲国風土記』によれば、群家と同じ場所にある土地の名を「狭結」に改めたという。その地名の由来は、古志国の佐与布(サヨフ)という人が住み、「最邑(サヨフ)」と言ったからだという。

※内容は地名起源説話である。「最(sai)」と「邑(opu)」が連続して「sajopu」と発音されており、副母音「i」がヤ行子音となり、「邑」の母音「o」と結合して音節化している(沖森卓也『日本語全史』)。

神亀4年(727) 陸奥国多賀城が築かれた。(『続日本紀』)

※こうして東方経営の拠点が整備に向けて進んだ(森公章『奈良貴族の時代史』)。

神亀4年(727) 靺鞨と高句麗の移民が建国した渤海が、日本に使者を派遣した(『続日本紀』)。

その後、日本と渤海は互いに使者を派遣するようになる。

神亀4年(727) 官人が集められ、長屋王によって聖武天皇の勅が読み上げられた。勅において、災異が起こる原因は聖武天皇が徳を施す方法を知らないからなのか、それとも官人が奉公しないためなのかと述べられた。(『続日本紀』)

※責められているのは、天皇の不徳と官人の怠慢である。文章を読み上げた長屋王天皇の不徳を責める形となってしまい、また、官人層からも孤立したとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

 ・神亀4年(727) 閏9.29 聖武天皇安宿媛との間に基親王(基は某の誤記か)が産まれた。(『続日本紀』)

神亀4年(727) 11.2 基親王は生後23日で皇太子に立てられた。(『続日本紀』)

藤原氏所生の皇子を皇嗣にすえることは、藤原氏による強引な意志が働いたと見える。しかし貴族支配層の全てが納得したわけではなかった(義江明子『日本古代女帝論』)。

※皇太子の地位は、天皇にいつでも即位可能な立場にいる皇親に与えられる。つまり成人していることが原則となるため、基親王立太子は異例と考えられる。聖武天皇は皇統の直系を受け継ぐ立場にありながら、生母が非皇親であったとも考えられる。そのため、藤原氏に特別待遇を与え、藤原氏を生母とする皇親が皇統の継承者であると示すために、藤原氏を母とする基親王を幼いながらも立太子させたとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※皇太子拝謁のために百官が旧藤原不比等邸を訪れた際には、長屋王は欠席している。天皇に徳を求める彼としては、統治能力を持たない皇太子は容認できなかったものと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

神亀4年(727) 〔参考〕行基河内国の大野寺に土塔を建立したという。(『行基年譜』)

※土塔から出土した須恵器には、天皇祖先供養の願文が刻印されていた。そのことから、当時の行基は指弾された経験に学び、国家と親和的に応対しながら、仏教による救済事業を行っていたと考えられる(鈴木景二「国家仏教と行基」『論点・日本史学』)。

神亀5年(728) 4.25 聖武天皇は、諸国の郡司らの部下の中で、弓馬術素手の格闘術に優れた者を常時都に貢ぐことができるよう命じた。(『続日本紀』)

※そうした武芸に優れた者たちの集団は、国司や郡司などにより、最上級の貴族や皇族に提供されていた。その有用性を知っていたのは、聖武天皇だけではなかったのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

神亀5年(728) 11.2 基親王薨去した。(『続日本紀』)

長屋王とその一族は、皇位継承資格を持つ皇親としての存在価値が、支配者層に認識され、藤原氏に危機感を抱かせたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

 ・神亀5年(728) ?.? 聖武天皇県犬養広刀自との間に安積親王を産まれた。(『続日本紀』)

 ・神亀6(729)年 2.10 左大臣長屋王が「左道」を学んで国家を傾けようとしていると、藤原麻呂に密告があった。藤原宇合は左右兵衛府、左右衛士府、五門府、中衛府の兵を率いて、長屋王邸を包囲した。(『続日本紀』)

 ・神亀6(729)年 2.11 太宰大弐多治比県守、左大弁石川石足弾正尹大伴道足が参議に任じられた。舎人親王新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂、右中弁小野牛養、少納言巨勢宿奈麻呂が長屋王の罪の糾問に赴いた。(『続日本紀』)

※武智麻呂は、律令制を定着させるうえで、前時代の、自立可能な「宮」を継承する長屋王家を阻害要因と見なし、舎人親王新田部親王といった、天武天皇の皇子も味方に引き入れて、打撃を与えようとしたのだと思われる(森公章『奈良貴族の政治史』)。

長屋王は、皇女を妻に持つ当時唯一の皇親である。聖武天皇は彼を危険視し、自身の子孫のみに皇位継承が可能であるという合意を形成するために、長屋王と、吉備内親王所生の間に産まれた男子を排除したかったのだとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・ 神亀6(729)年 2.12 長屋王は妻の吉備内親王と、その間に産まれていた膳夫王鉤取王・葛木王、石川夫人との間に儲けた桑田王とともに自害した。(『続日本紀』)

 ・神亀6(729)年 2.18 石川石足鈴鹿王のもとに派遣され、長屋王の昆弟、姉妹、子孫、妾らは赦免するとの勅が伝えられた。(『続日本紀』)

長屋王の子女の内、不比等の娘長娥子が産んだ安宿王黄文王、山背王、教勝らは赦免されていることから、標的は吉備内親王の産んだ、皇位継承の可能性が高い子息だったと考えられる(森公章『奈良貴族の政治史』)。

 ・神亀6(729)年 3.? 藤原武智麻呂は大納言に任じられた。(『続日本紀』)

※事実上の最高実力者として太政官を掌握したことになる。長屋王の排除は、武智麻呂を中心として計画されたと思われる。また、一連の記述に、他の兄弟と違って房前の名が見えないのは、長屋王の主催する詩宴に参加するなど、房前と長屋王は親しく、中立の立場であったからとも推測される(森公章『奈良貴族の政治史』)。

天平1年(729) 8.24 安宿媛は皇后となった(光明皇后)。光明皇后立后は、聖武天皇が皇后としての脂質を慎重に検討した末の決断であることや、「王祖母天皇(元正太上天皇)」から賜ったキサキであること、そして仁徳天皇がかつて葛城氏出身の皇后を立てたという『日本書紀』の記述を根拠とした。(『続日本紀』)

※安積親王が成長する中で、藤原氏としては安宿媛の地位を高める必要があったことが立后の理由だとも思われる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※伝説上の仁徳天皇の例を持ち出すなど、正当性の根拠は強弁に近い。かつて宮子に「大夫人」号を贈ることに反対したように、異を唱えることが想定される長屋王を、事前に排除したとも推測される(森公章『奈良貴族の政治史』)。

※『日本書紀』は、敏達天皇のキサキだった広姫など、子孫が皇位を継いだ者を「皇后」と叙述する。文武天皇の子孫による皇位継承が決定した時点で、光明皇后のような非皇親立后は想定する形で『日本書紀』は編纂されていたとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

立后において重要視されたのは、皇太子(既に故人の基親王)の生母であり、最有力のキサキだったということである(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

※皇太子の不在は、国家の不安定さを示してしまうこととなった。そのため安宿媛が皇后となったと考えられる。将来的な皇太子は安宿媛が産んだ皇子に限られ、それが叶わないとしても阿部内親王に限定したとも考えられる。そのため、皇后という地位には、皇太子の母としての意味合いも加えられた。こうした定義の付加や変更は、皇后という地位の歴史の浅さのために可能であったとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。

 ※基親王薨去によって、その後の直系での皇位継承路線が不透明となったため、光明皇后立后宣命では、文言は官人を説得するような論調であり、基親王立太子が正しかったと語られている。今度も光明皇后が産むであろう皇子が将来皇位を継承することが期待されたとも考えられる。また、立后宣命では、聖武天皇元明太上天皇の意志によって安宿媛を妻としたことが語られており、藤原氏所生の皇子による直系継承という構想は、元明太上天皇、しいては文武天皇の構想であったとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

天平2年(730) 9.? 藤原武智麻呂と並んで大納言であった多治比池守が死去した。(『続日本紀』)

天平2年(730) 11.1 大宰帥,大伴旅人は大納言に任じられた。(『公卿補任』)

天平2年(730) 11.? 大宰府からヤマトに帰還する大納言,大伴旅人は、遊行女婦,児島から歌を送られた。

倭道は 雲隠れたり 然れども わが振る袖を なめしと思ふな(『万葉集』巻6 966番歌)

旅人は

日本道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の子嶋 思ほえむかも(『万葉集』巻6 967番歌)

と返した。

※倭道/日本道(やまとぢ)は、九州から畿内の大和に続く道のことを示す。旅人は意識して「日本道」と表記するほどに「日本」という字を意識していたことが理解できる(吉田孝『日本の誕生』)。

天平3年(731) 7.? 多治比池守の後任の大納言大伴旅人が死去した。(『続日本紀』)

※これにより、藤原武智麻呂は唯一の大納言として、太政官の首班となる。参議には弟の房前、宇合、麻呂、知太政官事には、かつて長屋王の変に共同で対処した舎人親王がいた。議政官藤原氏とその協力者で占められた(森公章『奈良貴族の政治史』)。

 ※藤原四兄弟が政権を担っている期間には、郡稲などの雑稲が正税に編入され、国衙財政が確立。律令国家が完成に向かった(佐藤信『古代史講義』)。

天平4年(732) 旱魃天然痘が流行するなど、天運に恵まれなかった。

天平4年(732) 聖武天皇が、中国の皇帝が着る冕服を着用した。(『続日本紀』)

※形状などは不明であるが、儒教的な権威も用いて新たな天皇像の創出を意図したと考えられる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

・732年 唐において、張守珪が范陽節度使に任じられた。彼は安延偃の養子,禄山を取り立てた。

・732年ウマイヤ朝は、トゥール・ポワティエ間にてフランクに破れた。

※こうしてピレネー以北はキリスト教圏となった(岡本隆司『世界史序説』)。

・732年 ハザールのカガンの娘チチェクが東ローマ君主レオン3世の子息コンスタンティノスに嫁いだ。後に2人は一子レオンを儲ける。

※アラブの国に対する防衛と、北方の国境の安全を守ることを望んだ東ローマは、ハザールと同盟したのである(岡田英弘世界史の誕生』)

 天平5年(733)1.11 県犬養橘三千代が死去した。(『続日本紀』)

三千代が前夫美努王(敏達天皇後裔)との間に儲けていた葛城王・佐為王兄弟は、母の姓を継ぐことを願い出て認められ、橘諸兄橘佐為として臣籍降下する。

諸兄は、不比等と三千代の儲けた娘多比能、つまりは異父妹を妻として間に子息奈良麻呂を儲けた。諸兄の同母妹牟漏女王は藤原房前の妻となり永手・八束(後に真楯)・御楯などを儲けた。

天平5年(733)4. 第9回遣唐使が出航した。

※第9回は優れた技能を持つ外国人を日本に招くという任務を帯びており、唐人袁晋卿・皇甫東朝・道璿・インド出身のブラーフマナ(婆羅門)僧ボーディセーナ(菩提遷那)・ベトナム僧侶仏徹・ペルシャ人李密翳が、遣唐使に招かれて来日した。ただ、道士を呼ぶことはしなかったように、道教を持ち込むことには消極的であった。老子李耳を祖先に位置づける唐帝室の祖先崇拝を日本に持ち込まないようにしたのだと考えられる(河上真由子『古代日中関係史』)。 

天平5年(733) 12. 出羽柵は秋田村高清水に移され、雄勝村には郡が置かれた。(『続日本紀』)

※出羽柵はその後「秋田城」と改称された。

〔参考〕秋田城の井戸の跡から出土した木簡には、『文選』19巻「洛神賦」の手習いをしたものがある。

※対蝦夷の前線基地において、『文選』の詩文を書いていたのである。地方役人が書いていたのかもしれないが、流行していた中央文化が持ち込まれたもので、地方の文化の表象ではない。管理登用試験で出題されてきたことからして、中央の役人が『文選』に傾倒していたことを示す物証であると考えられる(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

天平5年(733) ?.? 〔参考〕『東大寺要録』によれば、東大寺に法華堂が建立され、本尊,不空羂索観音菩薩像が安置されたという。

※当時の仏像彫刻には、「理想と写実との調和がとれ、自由で雄渾な気迫を感じさせる」作品が多いとも評される(田中卓『教養 日本史』)。

天平6年(734) 1.? 藤原武智麻呂は右大臣となった。(『続日本紀』)

※武智麻呂は遣唐使の派遣を通して文化を輸入し、政権を安定させた(森公章『奈良貴族の政治史』)。

 ・天平7年(735) 新羅が日本に無断で国名を「王城国」に変更したこと反発して、日本は新羅使を追い返した。すると新羅も報復として日本からの使節の入国を拒むといった事態が発生した。(『続日本紀』)

※両国の緊張関係が高まったが、そのような中で兵士制の解体が進んでいた。藤原四兄弟の政権下では、新羅に対して「糾問使を派遣する」「征討軍を派遣する」といった強硬意見を唱える諸司が多数となった(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

天平7年(735) 7.14 「安宿家佐弥等所」に写経のための本経が貸し出された。(「写経目録」『大日本古文書 七』)

※「安宿」とは、長屋王の子息安宿王であり、「等」とは彼の兄弟のことと思われる。また、「写経目録」には皇后宮職大倉家主と思われる名前も見えることから、安宿王ら兄弟は光明皇后の庇護の下で、出家・謹慎生活を過ごしていたとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平7年(735) 9.30 新田部親王薨去した。(『続日本紀』)

天平7年(735) 11.14 舎人親王薨去した。(『続日本紀』)

天平8年(736) 唐の玄宗,李隆基は聖武天皇に国書を送った。(『唐丞相曲江張先生文集』)

※国書は天皇のことを「日本国王 主明楽美御徳(スメラミコト)」とあった。このことから、対外的には君主号に「皇」の字を使用していたことを隠していたのだと推測される(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

※『唐丞相曲江張先生文集』によって、当時の日本人は唐において自国の君主のことを「スメラミコト」と呼んでいたことが理解できる。文面には「勅す。日本国王」とあるが。勅書の書式からして、「国王」の次には宛先の君主の名前が書かれる。そのため唐側は「スメラミコト」を日本の君主の名前だと誤解していたと考えられる(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※唐の高宗,李治の尊号である、「天皇」との混合を避けたとも考えられる。また、天皇が自ら「王」を名乗ったのではなく、唐側が天皇を「王」と位置づけたとも考えられる。唐は日本の君主を「日本国王」と見なしていることから、日本を「不臣」の朝貢国と認識していたことが理解できる(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

天平8年(736) 10月中 疫瘡(天然痘か)が流行した。農業もままならず、凶作となった。(『続日本紀』)

天平9年(737) 1. 帰国する遣新羅使に、疫病の罹患者が続出した。

天平9年(737) 藤原麻呂は遣陸奥持節大使として、下野国などの6国の騎兵1000を率いて多賀城に赴いた。(『続日本紀』)

※これは多賀城から雄勝村までの連絡通路の開通を目的としていた。藤原四兄弟が率先して政策を進めていることが見てとれる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平9年(737) 4.17 参議藤原房前は病死した。(『続日本紀』)

天平9年(737) 6.1 百官人に疫病の罹患者が続出したため、告朔の儀は中心となった。(『続日本紀』)

天平9年(737) 6.11 太宰大弐小野老が死去した。(『続日本紀』)

天平9年(737) 6.23 中納言多治比県守が死去した。(『続日本紀』)

天平9年(737) 6.26 太政官符が下され、全ての民に対して、病状、治療法、食事に関する指示が通達された。(『類聚符宣抄』第3 疾疫)

※全人民への通達は、他に例のないことであり、政権も一丸となっての対処が必要と考えていたようである(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平9年(737) 7.13 参議,藤原麻呂が死去した。(『続日本紀』)

天平9年(737) 7.25 右大臣,藤原武智麻呂が死去した。(『続日本紀』)

天平9年(737) 8.5 参議,藤原宇合が死去した。(『続日本紀』)

天平9年(737) 8.? 租賦、出挙未納が免除された。(『続日本紀』)

天平9年(737) 9.? 私出挙が禁止され、防人が停止された。(『続日本紀』)

天平9年(737) 10. 左右京の徭銭が免除された。(『続日本紀』)

※一連の、納税などの免除措置は、民力の回復を狙ってのものである(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平9年(737) 鈴鹿王を知太政官事、光明皇后の異父兄で不比等の娘婿の橘諸兄を大納言、多治比広成を中納言藤原武智麻呂の長男豊成を参議とした。豊成の弟乙麻呂、房前の次男永手、宇合の長男広嗣は従五位下を授けられた。(『続日本紀』)

藤原房前の長男,鳥養は早世したと思われる。そのため房前が牟漏女王との間に儲けた次男永手が北家の長になった。しかし伯父である諸兄から疎まれたのか、しばらくは従五位下に留まった(倉本一宏『藤原氏』)。

 ※諸兄政権下では、それまでと変わって、新羅への強硬路線は反主流派となった。藤原豊成も同様に反新羅政策には与しなかった(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

天平9年(737) 10.20 安宿王従四位下黄文王従五位下円方女王、紀女王、忍海部女王に従四位下というように、長屋王の子女に位階が授けられた。(『続日本紀』)

※これは、長屋王の弟鈴鹿王が知太政官事に就任したことに起因する、長屋王家の復権である(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平9年(737) 12 大倭国を大養徳国に改名した。(『続日本紀』)

 ・天平10年(738) 1. 13 阿倍内親王が女性皇族として初の皇太子となる(律令制下では2人目の皇太子である)。

※それまで皇太子が立てられなかったのは、藤原氏が、聖武天皇光明皇后との間に皇子が誕生することを期待していたからであったと考えられる。藤原氏に対抗する貴族層は、安積親王が次期天皇になることを期待しており、安積親王の即位を阻むために、藤原氏の意向で阿倍内親王立太子したのであり、それまでの間に婚姻の契機が失われたとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

天平10年(738) 12. 右大弁高橋安麻呂は太宰大弐に、藤原広嗣は太宰少弐に任じられた。(『続日本紀』)

※安麻呂は右大弁を兼任していたために、大宰府に赴任しなかった可能性が高い。事実上、師も大弐も不在であり、広嗣は現地の最高責任者であった。ただ、官職は従五位下相当であり、親族との紛糾の末の左遷かもしれない(森公章『奈良貴族の時代史』)。

 天然痘の流行により官人が減り、官人の質を担保する必要に迫られたため、五位以上の貴族の子孫と六位から八位までの官人の子息に大学寮での修学が義務づけられた。

※これにより算術が重視されるようになったと考えられる。こうして、算術を得意とした、豊成の同母弟,仲麻呂が評価されやすい環境が形成された(仁藤敦史『藤原仲麻呂』)。

天平10年(738)  但馬国の正税帳が作成された。(「但馬国正税帳」)

※正税帳からは、貢上のための蘇を製造するに際して5壺分作るために、乳牛13頭必要で、稲を賃金として雇われた人夫によって都に運ばれたことが理解できる。同年の周防国の正税帳には、大きな壺は3升、小さな壺は1升入りであったという。なお、日本においては、羊乳で蘇が作られた記録はない(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

天平12年(740) 8. 藤原広嗣は、時の政権の政治を批判し、玄昉と右衛士督吉備真備の排除を訴えた。(『続日本紀』)

天平12年(740) 9. 藤原広嗣は、大宰府管内の兵を集めて反乱を起こした。(『続日本紀』)

※広嗣は対新羅強硬派であり、その点で従兄弟の豊成と対立していたことも理由と考えられる(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

※太宰大弐を左遷と考え、政権中枢から外された理由を求めて挙兵したとも思われる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

・朝廷は、蝦夷との戦いで功績のあった大野東人を大将軍として藤原広嗣を追討した。(『続日本紀』)

天平12年(740) 10.23 追討軍が広嗣を誅殺すれば報酬があるとの勅符を配布、広嗣との言葉の応酬の末に退かせるなどすると、広嗣の味方が次々と離反し、広嗣は捕らえられた。(『続日本紀』)

天平12年(740) 11.1 広嗣は弟の綱手・清成・菅成らとともに処刑された。広嗣のすぐ下の弟、宿奈麻呂は乱に関与しておらず、連座して伊豆に流されたものの、2年後に赦免された。(『続日本紀』)

 ・天平12年(740) 10. 聖武天皇は東国へ行幸、その後恭仁京に赴き、遷都した。藤原豊成平城京の留守として留まり、その同母弟仲麻呂は新たな都に移った。(『続日本紀』)

仲麻呂聖武天皇光明皇后夫妻に同行したことで、地位を高めることとなった(倉本一宏『藤原氏』)。

・740年 唐は府兵制から募兵制に切り替わった。

※募兵として活動したのは、主に遊牧民であった(岡本隆司『世界史序説』)。

天平12年~13年(740~741) 歌人,田辺福麻呂は、遷都後に荒廃した平城京を哀しみ長歌を詠んだ。

さす竹の 大宮人の ふみならし 通ひし道は 馬もゆかず 人もゆかねば 荒れにけるかも(『万葉集』巻6 1047番歌)

※遷都した後の都が急激に衰退する様が窺え、当時の都の人為的な側面を示す歌である(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

天平13年(741) 吉備真備東宮学士に任じられた。

※唐への留学経験のある学者を皇太子阿倍内親王に付けることで、将来の天皇として阿倍内親王を育成する体制が整備されたといえる(義江明子『日本古代女帝論』)。

 天平14年(742) 聖武天皇紫香楽宮に赴くことが増える。

天平14年(742) 塩焼王流罪となる。それに伴い妻の不破内親王は父聖武天皇から内親王号を剥奪された。

※これは不破内親王が異母姉阿倍内親王を呪詛したことが理由だと考える説もある(勝浦令子『孝謙称徳天皇』)。

後に塩焼王・不破夫妻は赦され皇籍に戻っている。

そのころ、聖武天皇紫香楽宮で大仏を造立することを願っていたが、それに同意していた藤原仲麻呂と、造立に消極的な橘諸兄との間には溝ができはじめていた。

天平15(743) 5.5 皇太子,阿倍内親王は、五節舞を群臣の前で披露し、聖武天皇はそれを元正太上天皇に奉献した。(『続日本紀』)

阿倍内親王立太子が、元正太上天皇の意向の通りに行われたのだと、群臣に示したのである(義江明子『日本古代女帝論』)。

 天平15(743)年 5.27 墾田永年私財法が交付された。(『続日本紀』)

※こうして、開墾した土地は永久の私有を認められた。民間において開墾の意欲は高まり、天然痘の流行以降、荒廃していた土地は開発され、水田面積が拡大することとなる。開墾された田は輸租田として田図に登録された(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※将来朝廷から回収されることはなくなったため、墾田を開墾・所有する利点が高くなり、購入が促進された。王臣家には、債務者の百姓を強制的に使役したり、百姓から購入するなどして、田地を私物化する者もいた(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

 天平15年(743) 10.15 紫香楽宮において、聖武天皇は大仏建立の詔を発した。(『続日本紀』)

天平16年(744)正月 聖武天皇は百官と市人に恭仁と難波のどちらを都とすべきかを問い、恭仁にすべきという意見が多数となったが、聖武天皇難波宮への遷都を断行。天皇の命令発行に必要な駅鈴などを取り寄せ、元正太上天皇橘諸兄によって難波宮を「皇都」とすることが宣言された。(『続日本紀』)

難波宮遷都の是非に関して、熟年した聖武天皇と、元正太上天皇との間に拮抗関係が顕在化したとの見解もある(義江明子『日本古代女帝論』)。

天平16年(744) 閏1.13 安積親王薨去した。(『続日本紀』)

藤原仲麻呂による、暗殺との説もある(横田健一「安積親王の死とその前夜」『白鳳天平の世界』所収)

天平16年(744) 閏1.13? 大伴家持は、安積親王薨去を悼んで挽歌を詠んだ。

はしきかも 皇子の命の あり通ひ 見しし活道の 道は荒れにけり(『万葉集』479番歌)

※家持は安積親王のことを「皇子の命(ミコノミコト)」と呼んでいる。女性である阿倍内親王よりも、安積親王聖武天皇の後継者だと見なす風潮があったことは否定できない。ただ、他に安積親王を指して「皇子尊」と呼んだ史料もないことから、家持は彼を皇子尊に準えたのだと思われる。律令制が確立していた当時、かつての高市皇子のような皇子尊(天皇の権限の部分的代行者)の必要性はなくなっていた(東野治之『聖徳太子』)。

天平16年(744) 10.14 国司が郡司や百姓の娘を妻や妾にすることが禁じられ、隣国の百姓の娘であっても同様とされた。(『類聚三代格』)

※貧しい百姓との婚姻は利点がないため、これは富豪百姓の娘との婚姻が問題視されていたことを示す。また、任期を終えた国司としては、婿入りをすることで失業したとしても妻の実家で暮らすことができた。また、富豪百姓や郡司としても、元国司を味方に付けることで、新たな国司から収奪されることを防ぐことができた。天皇代理人である国司が、郡司や百姓と馴れ合うことは威厳を保てなくなるほか、私的な主従関係を結ばれることを防ぐ意図があった(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

天平17年(745) 9. ? 難波にて危篤状態となった聖武天皇は、駅鈴と内外印を取り寄せ、孫王を招集した。(『続日本紀』)

皇位継承の資格を持つ皇親を集め、無用な策動を戒めようとしたのだと考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平17年(745) ?.? 〔参考〕橘奈良麻呂は佐伯全成に対して謀反を持ちかけたという。(『続日本紀』)

奈良麻呂は「猶皇嗣を立つること無し」と発言したとされる。謀反計画が実際のものであるかは不明であるが、安積親王も故人となった当時は、阿倍内親王が皇太子であるものの、聖武天皇の皇統を継ぐべき「皇嗣」がいないと考えられる状況下であったと推測される。

・745年 ウイグル人は、東突厥を滅ぼした。

ウイグルの君主氏族,ヤグラカル氏は、それまでのテュルク国家と同じくカガンを称した(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

天平19年(747) 3.16大養国の名前を大倭国に戻した。(『続日本紀』)

※既に完成していた『養老律令』の「田令」には、「大倭」ではなく「大和」とある。ただ、天平19年時点では施行されていなかったことから、このころは「大倭」という用事の使用を続けていたと考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

天平感宝1年(749) 閏5.20 聖武天皇は出家し、法号を「沙弥勝満」とした。(『続日本紀』)

※これは事実上の皇太子,阿倍内親王への譲位であったという見解もある(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。