ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

淳和天皇の時代(弘仁、天長)

弘仁14年(823) 4.16 嵯峨天皇からの譲位を受け、大伴親王践祚した(淳和天皇)。(『日本紀略』)

弘仁14年(823) 4.16 淳和天皇は、嵯峨前帝に太上天皇号を贈ろうとした。一度は辞退されるが、淳和天皇は再び詔を発し、尊号が贈られた。(『日本紀略』)

以降、新天皇が前天皇太上天皇号を贈ることが慣例化され、一度辞退のうえで再び尊号が贈られるという尊号の儀が成立した(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

※嵯峨太上天皇と平城太上天皇の対立は、平城太上天皇が譲位後も天皇と同等の権限を持っていたことに起因していた。そのため嵯峨太上天皇は直接政治に関与することはなく、共同統治者としての太上天皇の立場を否定した。そのため天皇が唯一の君主となった(岩田真由子「嵯峨天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

・天長6年(829) ?.? 藤原良房と源潔姫との間に、娘,明子が産まれた。(『日本紀略』)

※良房は高貴な所生の潔姫に遠慮したのか、他の妻を持たず、娘は明子1人しか産まれなかった(岩田真由子「嵯峨天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

・天長7年(830) 11.7 藤原三守らによって、『弘仁格式』が奏進された。(『類聚国史』)

※「穢悪の事」として、死や出産などを挙げ、それらに接触した場合に忌む必要のある日数を定めている。喫宍、弔喪、問病の日数も規定されていることから、祭祀に関する禁忌全般が「穢悪の事」と呼ばれたと考えられる。また、穢に関して展転規定があり、穢が伝染するものという観念が見て取れる(佐々田悠「古代日本の罪と穢れ」『差別と宗教の日本史』)。

・天長7年(830)頃 空海は『秘密曼荼羅十住心論(十住心論)』を著した。

※『十住心論』は、人間の世俗的で動物的な領域から『大日経』の教えに従って10段階を経て、悟りに到達する過程を説明している。人間の段階は、善悪や因果を知らない凡夫の心「異生羝羊住心」からはじまる。これは心の病すなわち「無明」の状態である。第2の住心は、因果を信じ、善に赴こうとする契機の「愚童持斎住心」である。第3の段階は仏教以外の宗教にて安らぎを得る「嬰童無畏住心」、第4に声聞乗の修行を行った「唯蘊無我住心」、第5に縁覚乗の修行を行った「抜業因種住心」、第6に大乗仏教の利他の行を行う法相宗の段階「他縁大乗住心」、第7に三論宗の修行を行う人の心「覚心不生住心」、第8に天台宗の修行を行う人の心「一道無為住心」、第9に華厳宗の修行を行う人の心「極無自性住心」と進み、最終的に密教の悟りの心(秘密荘厳住心)に到達するのだという(清水正之『日本思想全史』)。世俗の法は低い次元に位置づけられるが、それでも地位を与えられたことには変わりなく、世俗と仏法の関わりは真言宗においても生まれた(末木文美士『日本思想史』)。

・天長2年(825) 葛原親王は、異母弟,淳和天皇に対して、自身の子女を皇親から外して平朝臣の姓を賜ることを申し出た。しかし淳和天皇は拒否した。

※嵯峨太上天皇が推進した「礼」の秩序においては、兄は弟より偉い。そのため淳和天皇は異母兄の自己犠牲を簡単に受け入れなかったのだと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・天長2年(825) 7.6 葛原親王の再度の申請が受け入れられ、淳和天皇は、高棟王ほか葛原親王の子女に平朝臣の姓を与えた。(『日本後紀』)

・天長3年(826) 9.6 清原夏野の奏上により、親王任国制度が発足した。(『類聚三代格』)

桓武天皇の時代以降、八省の卿には政務に向かない親王が任じられることが問題となっていた。そのため八省の卿から親王を外すため、上総国常陸国上野国の3国に長官を設けてそれを「太守」と呼び、親王のみが就ける職とした。それらの国は単に親王の収入源であり、次官である介が事実上の長官として政務を行った(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・天長4年(827) ?.? 藤原高房は美濃介に任じられた。(『日本後紀』)

※高房は美濃国にて民に害を与える呪術者を処罰するなど、武人的性格を有していた。この気質は、かつて蝦夷征伐に従事し、かつ武人を排出した氏族である、母方の祖父,紀古佐美に由来するとも推測される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)

・天長7年(830) 1.? 葛原親王常陸太守に任じられた。(『日本後紀』)

常陸国蝦夷との戦争において兵站の拠点であった。そこに政務も行わず収入を得るだけの太守を任じたことから、蝦夷との戦争が集結した後に余裕が生まれたことが窺える(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・天長10年(833) 2.24 淳和天皇は淳和院(西院)に居を遷した。(『日本紀略』)