ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

平城天皇の時代(大同)

延暦25年(806) 3.17 八尺瓊勾玉草薙剣東宮に移され、安殿親王践祚した(桓武天皇)。(『日本後紀』)

※これが「剣璽渡御の儀」の初見である。それまでは、天皇崩御から新天皇践祚までの間に政治的空白が生じていたものの、神器が皇太子に渡る儀式を行うことで、大権委譲の進行を容易なものとしたのである。それまでの天皇と違い、譲位による皇位継承が行われなかったのは、かつての孝謙太上天皇淳仁天皇のように、同等の権限を持つ前帝と新帝が対立すれば争いが起きるかもしれないからと思われる。「中国」のような、終身在位の継承方針を定めるために儀式が整えられたとも考えられる。また、剣璽渡御によって継承が滞りなく行われると確信していたからだと思われる。(遠藤みどり「平城天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

※この際、践祚の儀は制度化された(米田雄介:監修 井筒清次:編著『天皇史年表』)。

・大同1年(806) 5.18 平城天皇は即位した。(『日本後紀』)

・大同1年(806) 5.19 故高野新笠太皇太后、故乙牟漏に皇太后が贈られた。(『日本後紀』)

・大同1年(806) 5.19 平城天皇の同母弟,神野親王は皇太弟な立てられた。(『日本後紀』)

・大同1年(806) 5.19 大納言,藤原内麻呂は右大臣に任じられた。(『公卿補任』)

・大同1年(806) 5.24 平城天皇は六道観察使を設置した。(『日本後紀』)

※参議に六道を1つずつ担当させ、地方の実体を調べるために設置された(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・大同1年(806) 6.9 平城天皇は、皇太子時代の妃,故帯子(藤原百川娘)に皇后を追贈した。(『日本後紀』)

・大同1年(806) 閏6.16 平城天皇勘解由使を廃止した。(『日本後紀』)

・大同2年(807) 2.13 斎部広成の編纂による、『古語拾遺』が完成した。(『古語拾遺』)

※序文において、日本に文字のない時代、貴賤や老若を問わず、古人の言葉や事績は口承で記憶していたことが述べられる。漢字渡来以前に、日本に固有の文字がなかったことの根拠となる(山口仲美『日本語の歴史』)。

※『古語拾遺』の伝承には、豊玉姫が鸕鷀草葺不合尊を出産に関するものがある。出産に際して海浜に産屋を建て、天忍人命が産屋の中の蟹を箒で掃いたため、彼の子孫は儀礼の蓆や薦を司る掃守連になったたという。蟹を掃いたというのは産屋から逃げないようにしたという意味である。なぜその伝承が収録されたかは不明であるが、脱皮を行う蟹は死と再生を繰り返す長寿の動物と見なされていたことが理解できる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・大同2年(807) 4.16 平城天皇は参議を廃止した。(『日本後紀』)

※こうした太政官組織の改変に対して公卿たちは動揺し、反感を抱いたと推測される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・大同2年(807) 5.16 平城天皇は全国の采女貢上を停止した。(『日本紀略』)

※かつて男性官人と女性官人は対になって天皇に奉仕する存在であったが、当時は女官は天皇の性愛対象へと変化していた。そのため平城天皇は改革を行い、キサキと女官を区別したのである(遠藤みどり「平城天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

・大同2年(807) 7.24 平城天皇は、守に10町(和泉のみ8町)、介に8町、掾に6町、目に4町、史生に2町までの田地の所有を許可した。(『類聚三代格』)

※私的な利潤の追求を、制限付きで認めたならば、国司らの暴走を止められると考えたのだと思われる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・大同2年(807) 10.29 藤原宗成は、伊予親王に謀反を勧めていたことが発覚したという。(『日本紀略』)

・天同2年(807) 11.2 伊予親王とその母,吉子は河原寺に幽閉された。(『日本紀略』)

・大同2年(807) 11.12 藤原吉子伊予親王母子は、服毒自殺した。(『日本紀略』)

・大同2年(807) 11.13 藤原宗成は配流された。(『日本紀略』) 

・大同3年(808) 5.19 観察使より、山陽道播磨国備中国備後国安芸国周防国において、延暦4年から24年までの庸の未進が累積していることが報告された。(『日本後紀』)

長岡京遷都に続いて、延暦24年までに行われていた平安京の造営は、民にとっての負担となっており、税の未進を悪化させたのだと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・大同3年(808) 平城天皇は官司を整理統合した。

平城天皇は官僚組織の効率化のために無駄を省こうとしたと考えられる。しかし、天皇は支配者層の利益の実現するために存在するのであり、平城天皇は貴族社会からは浮いてしまうこととなる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・大同4年(809) 4.1 平城天皇は病を理由として、皇太弟,神野親王への譲位の意志を表明した。しかし、神野親王は固辞した。しかし平城天皇はそれを許さなかった。(『日本後紀』)