ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

桓武天皇の時代(天応、延暦)

・天応1年(781) 4.3 光仁天皇の譲位により、山部親王践祚した(桓武天皇)。(『続日本紀』)

・天応1年(781) 4.4 桓武天皇は、同母弟,早良親王を皇太子とした。(『続日本紀』)

・天応1年(781) 4.15 桓武天皇大極殿において即位宣命を発した。(『続日本紀』)

践祚の儀と即位礼はこの時に分離され、以後の恒例となった(米田雄介:監修 井筒清次:編著『天皇史年表』)。

※即位宣命には、即位の根源として、天智天皇が定めたという「不改常典」が強調されていることから、父,光仁太上天皇のかつての即位とは異なり、新王朝の開始を意味するものであったとも解釈される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・天応1年(781) 4.15 桓武天皇は母,高野新笠を皇太夫人とした。(『続日本紀』)

・天応1年(781) 6.27 内大臣,藤原魚名左大臣とした。(『続日本紀』)

延暦1年(782) 1.7 故光仁天皇を広岡山陵に葬った。(『続日本紀』)

※広岡山陵は、聖武天皇の葬られた佐保山南陵の西にある、後佐保山陵であると考えられる。いわば聖武天皇の婿である光仁天皇は、その陵の近傍に埋葬されることが当然視されていたと考えられる(告井幸男「天智系と天武系」『論点・日本史学』)。

延暦1年(782) 閏1.11 氷上川継の謀反が発覚した。(『続日本紀』)

延暦1年(782) 閏1.14 氷上川継大和国にて捕縛された。桓武天皇の詔により、川継は伊豆国に、その母,不破内親王淡路国に配流となった。(『続日本紀』)

延暦1年(782) 閏1.18 藤原浜成は処罰された。(『続日本紀』)

延暦1年(782) 3.26 三方王、弓削女王(三原王娘)山上船主らは桓武天皇を呪詛していたとして流罪が決定した。(『続日本紀』)

天武天皇の血を引く、他戸親王の排除の末に即位した桓武天皇にとって、前政権との繋がりは自身の正当性を脅かすものとなった。そのため氷上川継に続いて、天武天皇の子孫の皇族や守旧派の官人が処罰されたのだと考えられる(遠藤みどり「桓武天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

延暦1年(782) 6.14 藤原魚名左大臣を罷免された。(『続日本紀』)

延暦1年~2年(782~783)頃 『万葉集』が現存の形として成立した。

上代の人々は、恋愛に人生の意義を認めていたがために、恋歌において素直で束縛のない表現がなされたとも考えられている(中村元『日本人の思惟方法』)。

世の中も 常にしあらねば 宿にある 桜の花のちれる頃かも

現せみは 数なき身なり 山河の さやけき見つつ 道をたづねな

※こうした歌は、厭世観に由来しながらも、それが自然への愛着として現れたものである(中村元『日本人の思惟方法』)。

延暦2年(783) 2.7 桓武天皇は、藤原良継の娘,乙牟漏と、藤原是公の娘,吉子を夫人とした。(『続日本紀』)

延暦2年(783) 4.14 桓武天皇の勅により、皇子,小殿親王は諱を安殿に改めた。(『続日本紀』)

延暦2年(783) 4.18 桓武天皇の夫人,藤原乙牟漏は皇后となった。(『続日本紀』)

※当時、皇后は皇太子もしくは皇太子予定者の母という立場を持っていた。そのためこの立后は、桓武天皇が安殿親王を皇太子にしようとした意志の表れとも考えられる。皇太子,早良親王の地位を脅かす要因にもなるものであった(遠藤みどり「平城天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

延暦2年(783) 5.22 防人が廃止された。(『類聚三代格』)

延暦2年(783) 6.6 坂東8ヶ国に対して、散位の子、郡司の子弟、浮浪者などで、軍人になれる者を、各国で1000人以上500人ほど集めて武器の扱い方を習わせて国防に備えさせるよう命じられた。(『続日本紀』)

※位階を持つが官職のない散位やその子息らや、戸籍上の本貫地を離れて、口分田も耕さず税も収めない浮浪者は、朝廷にとって負担である。仕事のない者たちか軍事面において国家に貢献することが求められ、散位の子息、郡司の子弟、浮浪者が混ざった集団が形成されることとなった(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

延暦2年(783) 6.10 京都畿内において、私寺の建立と、田宅地の寄進による寺領の拡大が禁じられた。(『続日本紀』)

延暦2年(783) 7.19 藤原是公は右大臣に任じられた。(『続日本紀』)

延暦2年(783) 7.30 故藤原魚名左大臣を贈り、かつて左大臣を罷免した際の詔勅官符は焼却された。(『続日本紀』)

※この名誉回復から、早くに冤罪と判明したものと思われる。子息の1人,藤成は当時8歳(『日本後紀』)であり、父親の勢力もないため孤立することとなった(『続日本紀』)。

延暦3年(784) 2.21(or1.17) 大伴家持は持節征東将軍に任じられた。(『続日本紀』)

延暦3年(784) 5.16 桓武天皇は、山背国乙訓郡長岡村に、藤原種継藤原小黒麻呂を派遣した。(『続日本紀』)

※甲子にあたるこの年に、「征夷」と「造都」を行うことで、桓武天皇は自身の皇位の正統性を示そうとしたのだと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

延暦3年(784) 11.3 国司が近隣の百姓を強制的に徴収し、開墾を行わせていたことが問題視された。そのため、国司は水田と畑を所有することが禁じられ、違反者は国司を罷免されたうえで違勅罪に問うと定められた。(『類聚三代格』)

国司の違反を隠蔽した同僚や郡司も同罪になると定められており、互いの違反を黙認し合う関係が構築されていたようである。

延暦3年(784) 11.11 長岡京に遷都がなされた。

桓武天皇は新皇統の創始者として、政治の変革が起きるという甲子の年の間に遷都を間に合わせたとも考えられる。全ての建物が完成したわけではなかった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

長岡京において、外交と物流機構は一体となり、本格的な都市が成立したという見解もある(山中章「難波解体と長岡京遷都」『桓武と激動の長岡京時代』)。

延暦3年(784) 12.13 山地・河川・藪・湖沼から採れる資源を、不法に占拠することが禁じられた。(『続日本紀』)

※山地・河川・藪・湖沼といった場所からの資源は誰もが必要な分だけ使っていいものであった。しかし王臣家や官司や寺院などが土地を占領して資源を独占することがあり、時にはその占拠を周辺にまで拡大することがあったのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

延暦4年(785) 1.1 長岡京大極殿と内裏が完成した。(『続日本紀』)

延暦4年(785) 1.27 舎人親王の孫で三原王の子息,小倉王は少納言に任じられた。(『続日本紀』)

延暦4年(785) 9.23 藤原種継は襲撃された。(『続日本紀』)

延暦4年(785) 9.24 藤原種継は襲撃された際の傷がもとで死去した。(『続日本紀』)

延暦4年(785) 9.24 桓武天皇藤原種継殺害により、大伴継人らを逮捕させた。(『続日本紀』) 実行犯は山崎にて処刑された。(『日本紀略』)

延暦4年(785) 9.28 早良親王藤原種継殺害に関与した疑いにより、皇太子位を廃され、乙訓寺に幽閉された。(『続日本紀』)

※藤原乙牟漏の立后以降、早良親王の皇太子としての地位が脅かされたことで、その側近が暴発したとも考えられる(遠藤みどり「平城天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

延暦4年(785) 10.? 廃太子,早良親王淡路国に配流されている途中、絶食した末に薨去した。(『日本紀略』)

延暦4年(785) 10.8 早良親王淡路国多賀に葬られた。(『続日本紀』)

延暦4年(785) 11.10 桓武天皇昊天祭(郊祀)を行った。(『続日本紀』)

昊天祭は、「中国」において、天子が天地を祀る大礼のことを意味する(遠藤みどり「桓武天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

延暦4年(785) 11.25 安殿親王は皇太子に立てられた。(『続日本紀』)

延暦5年(786) 1.17 桓武天皇は、藤原百川の娘,旅子を夫人とした。(『続日本紀』)

延暦5年(786) 10.28 桓武天皇は、故光仁天皇を田原東陵に改葬した。(『続日本紀』)

聖武天皇の陵から離すことで、天武天皇の系統としての、「前王朝」との断絶を示すことが目的であったとも考えられる(告井幸男「天智系と天武系」『論点・日本史学』)。

延暦6年(787) 1.21 蝦夷から馬や奴婢を購入することが禁じられた。(『類聚三代格』)

※馬の購入費として蝦夷に渡った綿や鉄は、蝦夷の防寒具や農具となっていた。それは蝦夷との決戦を控える朝廷としては不都合であった。また、当時の蝦夷は盗んだ馬や誘拐した良民を売っており、朝廷に送るための馬が減少していたことが理由と考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

延暦6年(787) 2.5 桓武天皇は異母弟,諸勝に広根朝臣、皇子,岡成に長岡朝臣の姓を贈り、臣籍に下らせた。(『続日本紀』)

※これが皇子の臣籍降下の初めである(米田雄介:監修 井筒清次:編著『天皇史年表』)。

延暦6年(787) 2.8 崇道尽敬皇帝の孫で三原王の子息,石浦王は少納言に任じられた。(『続日本紀』)

延暦6年(787) 11.5 桓武天皇昊天祭を行い、昊天上帝とともに光仁天皇が祀られた。(『続日本紀』)

昊天上帝を祀るのは唐制に従ったものである。唐においては創始者李淵(高祖)とその祖父(李虎)も祀られていた。そのため桓武天皇は、父,光仁天皇を高祖、曽祖父,天智天皇を太祖になぞらえ、桓武天皇が新王朝の創始者であると演出したのだと考えられる。前政権との特別な繋がりのない彼としては、革命思想に基づいて、自ら正当性を創出する必要があった(遠藤みどり「桓武天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

延暦7年(788) 7.6 参議,紀古佐美は征東大使(大将軍)に任じられた。(『続日本紀』)

延暦7年(788) 12.7 征東大将軍,紀古佐美蝦夷征東に出発した。(『続日本紀』)

延暦7年(788) ?.? 最澄比叡山延暦寺を創建した。(『伝教大師行状』)

※山岳に寺院を建立したのは、都市仏教のような世俗化した仏教と縁を切るためであったと考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

延暦8年(789) 6.3 征東大将軍,紀古佐美率いる征東軍は、阿弖流為率いる蝦夷軍に敗れた。(『続日本紀』)

延暦8年(789) 9.8 征東大将軍,紀古佐美陸奥国より帰還した。(『続日本紀』)

延暦8年(789) 9.19 桓武天皇紀古佐美の敗戦責任を詰問し、責任者を処罰した。(『続日本紀』)

延暦9年(790) 2.27 桓武天皇は、百済一族は自身の外戚であるとして爵位を授けた。(『続日本紀』)

延暦9年(790) 2.27 大納言,藤原継縄は右大臣に任じられた。(『続日本紀』)

延暦10年(791) 3.23 国忌の数が増えて、政務に支障がきたしているとして、その数を減らして整理した。(『続日本紀』)

聖武天皇と称徳孝謙天皇は国忌の対象から除外されておらず、天武天皇系の歴代天皇が否定されたわけではなかった(告井幸男「天智系と天武系」『論点・日本史学』)。

延暦10年(791) 7.13 大伴弟麻呂は征夷大使(大将軍)、坂上田村麻呂は征夷副使(副将軍)に任じられた。

延暦11年(792) 6.10 桓武天皇は、皇太子,安殿親王の病や、贈皇太后,乙牟漏、夫人,旅子、母,新笠、が相次いで死去したことに関して、亀卜を行ったところ、早良親王の祟りであると結果が出た。そのため桓武天皇淡路国に使者を派遣し、早良親王の霊に鎮謝した。(『日本紀略』)

※当初より、桓武天皇周辺の一連の不幸が早良親王の祟りと見なされていたことが窺える(遠藤みどり「平城天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

延暦11年(792) 7.25 蝦夷が朝廷に帰順した、(『類聚国史』)

延暦11年(792) 8.9 紀伊郡目崎にて洪水が発生した。(『日本紀略』)

延暦11年(792) 8.12 洪水の被害にあった百姓に賑給を行った。(『日本紀略』)

延暦12年(793) 1.5 桓武天皇は、新たな都の建設の地位と見込んだ山背国葛野郡宇太村に、大納言,藤原小黒麻呂紀古佐美を派遣し、視察させた。(『日本紀略』)

延暦12年(793) 2.21 征夷副将軍,坂上田村麻呂蝦夷征討に出発した。(『日本紀略』)

延暦12年(793) 3.9 摂津職は廃止され、摂津国となった。(『日本紀略』)

延暦12年(793) 9.10 桓武天皇は詔を下し、現職の大臣、良家の子・孫は三世王・四世王を娶ることが許された。また、藤原氏は二世王を娶ることまで許可された。(『日本紀略』)

※この詔は、女性皇親の婚姻規制を緩めるものである。また、宮廷における藤原氏の特権的地位を示すものである(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

延暦13年(794) 6.13 征夷副将軍,坂上田村麻呂は、蝦夷を「征討」した。

※それまでの間、朝廷軍と蝦夷との間に、戦闘ないしは交渉があったことが推測される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

延暦13年(794) 10.28 征夷大将軍,大伴弟麻呂蝦夷征討の戦果を報告した。(『日本紀略』)

延暦13年(794) 10.28 桓武天皇は遷都の詔を発した。(『日本紀略』)

延暦13年(794) 11.8 山背国は山城国に、近江国の古津は大津に改められ、新京は平安京命名された。(『日本紀略』)

※この時点で内裏や大内裏からなる平安宮が完成していたわけではなければ、条坊の建設も終わっていなかった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

長岡京において培われた都市性は平安京に受け継がれ、繁栄の礎になったとも考えられる(遠藤みどり「桓武天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

・796年 フランクはアヴァール勢力を滅ぼした。

延暦16年(797) 2.13 『続日本紀』が完成した。(『日本後紀』)

桓武天皇は、称徳孝謙皇帝から、光仁天皇、そして自分へと皇位を継いだ。そのため称徳孝謙皇帝が淳仁天皇から皇位を簒奪したと述べると、自身の地位の正統性がない。そのため藤原恵美押勝は反逆者として描かれる(木本好信「仲麻呂」『図説 藤原氏』)

延暦16年(797) 8.3 任期を終えた国司や王臣の子孫が結託して、百姓を虐げて農業を妨げているとして、大宰府に対して太政官符を下し、それを禁じた。(『類聚三代格』)

※王臣家は都で暮らすことが出来るものの、その子や孫は父や祖父の威光によって生活していた。また、高い官職を持っている者の子孫であっても、親や外戚などの政治力が働かなければ高位に昇ることは不可能であり、自ら収入源を得る必要があった。それらの人々は自らの世襲可能な所領を地方に作り、任期を終えた国司と結託していたのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

延暦16年(797) 8.3 国司と郡司は、浮浪人を浮浪帳に毎年記録し、調と庸を徴収することを定め、荘長が浮浪者調査に協力しなければ罪に問うとした。(『類聚三代格』)

※調と庸を収める義務から逃れるために、浮浪人が王臣家の荘園に入ってその庇護下となり、納税を求める国司から逃れている問題があった。また、その見返りとして浮浪人は王臣家に使役されていた。この法令が定められたことから、それまで荘長は王臣家の威光を背景に調査を拒否していたことが理解できる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

延暦16年(797) 8.3 親王や王臣家の荘長が、個人的な佃を経営し、主人の勢力をもとに百姓の生活を脅かすことを禁じた。(『類聚三代格』)

※荘長は王臣家の名前を振りかざして周囲の百姓を脅し、強制的な無賃労働により自らの佃を耕させている問題が背景にあった。浮浪人は保護してくれた荘長の部活になっており、百姓の内部にも抑圧者側に回ろうとする競走が生じていた(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

延暦16年(797) 9.4 勘解由使の長官が任じられた。(『日本後紀』)

勘解由使律令の規定外の令外官の1つである。誰が政権を担っても運用できる機構を構築するよりも、天皇に直結する、人脈によって動く機構によって事態に対応する傾向性があったことが指摘される(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

延暦16年(797) 12.1 空海は『三教指帰』を著した。(『三教指帰』序)

※この書物は、日本最初のブッダ論であり、また儒教論でもあった。また、途中「無常の賊」という漢詩も入っており「無常の思想」の表明でもあった。道教思想に対する深い理解も示されている。空海の高い編集能力から生まれた『三教指帰』は、日本最初の「グローバル編集思想の試み」とも称される(松岡正剛『千夜百冊』第750夜)。

延暦17年(798) 2.1 美濃国において、「群盗」が百姓を襲撃する際の拠点として自宅を提供した人物か流刑となった。(『日本後紀』)

※これは「群盗」の初見である。群盗とは有閑階級で弓馬術に長けた者が、王臣家に服属せず独自に集団化したものである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

延暦17年(798) 閏5.23 桓武天皇の詔により、五世王は皇親に含まれないことになった。(『日本紀略』)

延暦19年(800) 7.23 故早良親王崇道天皇と追尊された。(『類聚国史』『日本紀略』)

延暦19年(800) 7.23 故井上内親王は再び皇后とされた。(『類聚国史』『日本紀略』)

井上内親王復権したが、他戸親王は後世の史料(「庶人他部」と記されるなど、復権は叶わなかった。桓武天皇側が、他戸親王を恐れていたことの証左ともされる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・800年 ローマ教皇レオⅢは、フランクのレックス,カール/シャルルに西ローマの冠を授け、ローマのインペラトールとした。

延暦20年(801) 5.14 神事の懈怠および穢れに対する刑罰祓が定められた。(『類聚三代格』)

※これにより規定されたのは、穢れを生じさせた罪を祓うことである。穢は、祓や禊を行うことで落とすことができ、その時点で共同体から完全に排除されるわけではなかった(佐々田悠「古代日本の罪と穢れ」『差別と宗教の日本史』)。

延暦20年(801) 9.27 坂上田村麻呂は、蝦夷征討を報告した。(『日本紀略』)

延暦21年(802) 1.9 坂上田村麻呂は、対蝦夷政策のための城(胆沢城)を築くために派遣された。(『日本紀略』)

延暦21年(802) 1.11 桓武天皇は、駿河国甲斐国相模国武蔵国上総国下総国常陸国信濃国上野国下野国の浪人4000人を胆沢城に集めるよう命じた。(『日本紀略』)

〔参考〕胆沢城跡からは、「文選巻第二」と記された紙が発掘されている。

正倉院所蔵の古文書には、『文選』の52巻の一部を抜き書したものがあることから、当時の人々は『文選』の始めと終わりを集中的に学んでいたと推測される。始めの3分の1は韻文、終わりの3分の1は手紙や論文が占めるため、文章の部分が読まれていたと考えられる。詩文の作成技能を持っていたのは知識人に限られていたため、実用的な文章の学習が重視されたとも考えられる(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

延暦21年(802) 4.15 阿弖流為と母礼は、500程の蝦夷を率いて朝廷に降伏した。(『類聚国史』『日本紀略』)

延暦21年(802) 8.13 阿弖流為と母礼は処刑された。公卿会議に際して、坂上田村麻呂阿弖流為らを助命して現地を治めさせることを提案したが、公卿たちは反対したため、処刑される結果となった。(『日本紀略』)

※田村麻呂は、未だ支配の及ばない蝦夷を統治するために阿弖流為と母礼の権威を用いようとしたが、国家の威信としての「征夷」を掲げる桓武天皇の意向によって処刑されたとも考えられる(鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』)。

延暦21年(802) 12.27 桓武天皇の皇子の1人は良岑朝臣の姓を賜り、良岑安世を名乗った。(『公卿補任』)

延暦22年(803) 2.25 菅野真道らによる「延喜交替式」が完成し、桓武天皇の勅により施行された。(「延喜交替式」)

延暦22年(803) 4.2 藤原葛野麻呂は遣唐大使に任じられた。(『日本紀略』)

延暦22年(803) 4.16 第16回遣唐使が出発した。(『日本紀略』)

延暦22年(803) 5.22 遣唐使船は暴風雨で破壊されたため、取り止めとなった。(『日本紀略』)

延暦22年(803) 7.6 第16回遣唐使が出発した。(『叡山大使伝』)

・804年 フランクのレックス,カール/シャルルはアヴァール人の征服を完了した。

アヴァール人の征服により、フランクは東ローマと国境を接する大国となる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

延暦24年(805) 12.7 桓武天皇は、参議,藤原緒嗣と参議,菅野真道に、「天下の徳政」について議論させた。緒嗣は「征夷」と「造都」は天下の人民を苦しめるものだとして、それを中止することを主張し、それを受け入れられた。(『日本後紀』)

延暦24年(805) 桓武天皇は、崇道天皇のために小倉を建て、正税40束を収めさせた。(『類聚三代格』)

※「崇道天皇御稲倉」という倉が存在することで、故早良親王は「天皇」であったという意識が人々の間で形成されていったと考えられる(義江明子『古代王権論』)。

延暦24年(805) ?.? 桓武天皇の皇子,大伴親王は、異母妹,高志内親王との間に恒世王を儲けた。(『日本後紀』)

※強権的な君主を志向したという点においては桓武天皇は「中国」的でありながら、安殿親王と朝原内親王および大宅内親王、神野親王と高津内親王、大伴親王と高志内親王というように、母親違いの自身の皇子女同士を婚姻させるような血統主義的側面が強かったことが指摘される。そのため、実力者を科挙によって登用するような点における「中国」的な側面は薄かったとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

・806年 3. 空海長安を離れる。

空海の帰国の際に、多くの唐人たちが空海詩を贈った。鴻漸や赤少端の贈った詩は、日本出身の空海を神仙の地や徐福伝説と関連させたものだった(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・大同1年(806) 3.17 桓武天皇崩御した。(『日本後紀』)