ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

光仁天皇の時代(宝亀、天応)

神護景雲4年(770) 群臣は、称徳孝謙皇帝の遺詔を根拠として、白壁王を皇太子に立てた。(『続日本紀』)

〔参考〕『日本紀略』所引の「百川伝」によれば、左大臣,藤原永手、右大臣,吉備真備、参議,藤原宿奈麻呂・雄田麻呂・近衛大将・蔵下麻呂兄弟、藤原縄麻呂、石上宅嗣らによって合議が行われたのだという。吉備真備文室浄三文室大市を推薦したが、結果として称徳孝謙皇帝の遺詔を根拠として白壁王に決定したとされる。その遺詔は雄田麻呂らによって偽作されたものだという。

※真備の娘,由利は、称徳孝謙皇帝が崩御するまでの100日ほどの間、臥内に1人だけ出入りしていた。そのため真備は娘を通して称徳孝謙皇帝の意向を知っており、その意志の通りに天武天皇系の人物を後継者に推薦した可能性が指摘される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※雄田麻呂の職掌は、偽りの遺言を作るような工作が可能であることから、実際に彼らによる陰謀が巡らされたとも考えられる(木本好信「百川」『図説 藤原氏』)。

※白壁王は、聖武天皇の皇女,井上内親王を妻として間に他戸王を儲けていた。他戸王は聖武天皇の血を引いていたものの、両親のどちらも天皇でなかったためすぐには即位できず、父親の白壁王が中継ぎとして次期天皇に選ばれたとも考えられる。臣籍降下した浄三や大市よりは、支配者層は中継ぎとしての白壁王の即位に納得しやすかったものと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※遺詔の内容が事実であったかは別として、長年君主であった称徳孝謙皇帝の言葉は重みを持ち、白壁王の擁立を貴族支配層に納得させたのだと考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。

宝亀1年(770) 10.1 白壁王は、「倭根子天皇(称徳孝謙皇帝)」より授かったとして、天皇に即位した(光仁天皇)。(『続日本紀』)

光仁天皇の即位に伴い、藤原宿奈麻呂は良継に、異母弟,雄田麻呂は百川に諱を改めた。

宝亀1年(770) 10.1 光仁天皇は詔して、兄弟姉妹および皇子女を親王とした。(『続日本紀』)

※以降、親王宣下は慣例となり、二世王であっても、親王宣下によって親王になることが可能となった(米田雄介:監修 井筒清次:編著『天皇史年表』)。

宝亀1年(770) 11.6 光仁天皇は、父,故施基親王に春日宮天皇と追尊した。(『続日本紀』)

宝亀1年(770) 11.6 光仁天皇は、井上内親王を皇后に立てた。(『続日本紀』) 

※皇統が交替し、その権力基盤は脆弱であった。そのため、聖武天皇の皇女を内親王の皇后として立后することで、権力基盤を補強したのである(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

宝亀2年(771) 1.23 他戸親王は皇太子に立てられた。(『続日本紀』)

※称徳孝謙皇帝の時代から政権を担っていた藤原永手が中心となり、聖武天皇の皇女を皇后とし、孫を皇太子とするような、前政権との連続性を強調した構造を構築したのだと推測される(遠藤みどり「桓武天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

宝亀2年(771) 11.23 藤原百川は参議に任じられた。(『続日本紀』)

宝亀2年(771) 光仁天皇は、明経・文章・音博士・明法・算術・医術・陰陽・天文・暦術・貨殖・恪勤・ 工巧・武士の13分野における優れた55人を賞した。(『続日本紀』)

※賞したのは、重要視された順番である。儒教経典を理解する才能(明経)、儒教関連文献を応用して作文する才能(文章)、儒教経典や詩文を正確に発音する才能(音博士)が上位に置かれた。そして「礼」の理念を実現するために必要な、明法・算術・医術・陰陽・天文・暦術が重視されたが、学問が必要ない商才(貨殖)や、才能なくとも真面目であること(恪勤)、土木や工作(工巧)や武芸はその下であった。流通や加工による付加価値を理解できず、貢献度は低いが社会にないと困ると見なされたため、商工業は蔑まれたのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

※「武士」は専門的な職能として確立したことが理解できる。ただ、この時点における武士は個人的に武芸に優れた者であり、社会集団のことではなかった。人を傷つける点で、価値あるものを壊すだけの才能として、最底辺の才能と見なされたと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

宝亀3年(772) 3.2 皇后,井上内親王は、宮人の粟田広上、安都堅石女と共に光仁天皇を巫蠱によって呪殺しようとしたと密告があった。井上内親王は皇后を廃された。(『続日本紀』)

〔参考〕『公卿補任』所引の「本系」によれば、藤原百川が、親交のあった、他戸親王の異母兄,山部親王を皇太子にするために策謀を巡らせたのだという。

※百川の母,若女は久米連の出身である。久米氏は石見国が出自であるともされるが、百済系渡来氏族という説も有力視される。山部親王もまた百済系渡来氏族を母に持つことから、百川と親密な関係であったとも推測できる(木本好信「百川」『図説 藤原氏』)。

聖武天皇の系統との連続性を演出しようとした藤原永手が死去したことで、山部親王立太子を望む良継・百川兄弟が台頭し、起こった事件とも考えられる(遠藤みどり「桓武天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

立后の2年後には廃されていることから、光仁天皇天武天皇系を娘婿として継承したというよりは、天智天皇系の皇統を復興したという認識が強かったとする見解もある(岡野友彦『源氏長者』)。

井上内親王は皇太子の母であると同時に、彼女自身も皇位継承の可能性があるため、それを危険視されて皇后を廃されたという可能性も指摘される(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

宝亀3年(772) 5.27 謀反を起こした人物の産んだ子を皇太子にしておくべきではないとして、光仁天皇の詔により、他戸親王は皇太子位を廃され、庶人にまで降格した。(『続日本紀』)

宝亀3年(772) 10.14 光仁天皇は、百姓を苦しめてはならないという条件付きで新規の開墾を許可した。(『類聚三代格』)

・774年 フランクはランゴバルドを滅ぼした。

宝亀6年(775) 4.27 廃后,井上内親王他戸親王薨去した。(『続日本紀』)

宝亀6年(775) 10.13 光仁天皇は67歳となり、この日を「天長節」と名付け、朝廷の百官に酒を振舞った。(『続日本紀』)

※これは唐の玄宗,李隆基が、自身の誕生日を「天長節」として祝い事を行ったことに由来する(呉座勇一『日本中世への招待』)。

宝亀9年(778) 12.15 唐からの使者が入京するに際して、六位以下の子孫で、騎兵となれる者を募集したところ、800人が集まった。(『続日本紀』)

※こうして六位以下の廷臣「士」による有閑の弓騎兵が編成された。地方の郡司層と中央の廷臣層が弓騎兵の供給源となり、集団としての「武士」の源流になったとも考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

宝亀10年(779) 10.13 光仁天皇の誕生日が「天長節」として祝われた。(『続日本紀』)

※以降、明治になるまで、天長節は記録に現れない(呉座勇一『日本中世への招待』)。

宝亀11年(780) 3.16 太政官は、諸国の兵士が国司や軍毅(軍団長)に勝手に労働に使役されて薪などを運ばされており、軍事訓練を施されていないほか、弓や馬も使わないうえに歩兵としても役に立たず、多くが軟弱であると苦言を呈した。(『続日本紀』)

宝亀11年(780) 3.16 太政官からの苦言を受け、朝廷は徴兵制を廃止し、伊勢国美濃国越前国と辺境以外の兵士は解散となった。(『続日本紀』)

※こうして朝廷は弱い兵士を訓練する形から、強い兵を募集する形に方針を転換した。そのため、武芸に優れた富豪百姓には出世する可能性が高まった(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

宝亀11年(780) 7.26 北陸道諸国の軍は、兵士の出身国に応じて合理的に配置することが命じられた。(『続日本紀』)

日本海側には、対岸の渤海人が漂着することがあったが、そのような状況下で兵士が熟練していないため、国防のために再編したのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

宝亀11年(780)前後 このころ『万葉集』が成立したと考えられる。

※巻1には雄略天皇舒明天皇、皇極/斉明天皇天智天皇天武天皇持統天皇と続いている。舒明天皇以降は、8世紀の人々の世界に君臨した皇統を担った歴代の天皇である。それらの天皇の歌の前に置かれる「籠もよみ籠持ち」から始まる最初の歌は、天皇の支配を謳歌する歌が雄略天皇に仮託されたものである。雄略天皇天皇支配の理念的な象徴として捉えられていたとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも われはなりなむ(『万葉集』巻3 348番歌)

生ける者 ついひも死ぬる 者にあれば 今の世なる間は 楽しくをあらな(『万葉集』巻3 349番歌)

※これらの大伴旅人の歌には、仏教における輪廻転生への嘲りが込められており、無常説への反抗が見える(中村元『日本人の思惟方法』)。