ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

孝謙称徳天皇・淳仁天皇の時代(天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲)

天平勝宝1年(749) 1. 聖武太上天皇行基から菩薩戒を受けて出家、「太上天皇沙弥勝満」を自称した。(『続日本紀』)

天皇経験者の出家は初であり、天武天皇が現人神としての像を固めた天皇のうえに、仏を位置づけたことになる(渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』)。

天平勝宝1年(749) 2. 陸奥国から金が産出したことが報告された。(『続日本紀』)

天平勝宝1年(749) 4. 聖武天皇東大寺行幸し、自らを「三宝の奴の天皇」として詔を発した。(『続日本紀』)

※百官の前で、仏教と天皇の関係性が述べられた形となった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

天平勝宝1年(749) 7.2 聖武天皇は譲位し、阿倍内親王が即位した(孝謙天皇)。(『続日本紀』)

〔要参考〕光明皇太后は、草壁皇子の系統が絶えようとしていることから、女性であるものの自身を即位させたと、後に孝謙天皇は語った。(『続日本紀天平宝字6.6.3)

※既に子息,基王を失っていた光明皇太后は、孝謙天皇の即位の時点で、草壁皇子の子孫による皇位継承を断念し、別の皇子を将来の天皇にすることを構想してたと考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

天平勝宝3年(751) 11.? 漢詩集である 『懐風藻』が編まれた。(『懐風藻』序文) 編者は淡海三船だと考えられている。

※『懐風藻』の序文は、厩戸王のことを「聖徳太子」と記した最古の文献である。「聖徳」は聖人のような徳を備えたことを讃える諡であり、「太子」は『日本書紀』などの皇太子に立ったという記述に基づく称号である(東野治之『聖徳太子』)。

※『懐風藻』には、宴会の場において詠まれた詩が多く、自然の有様を観て楽しむような、文人趣味的な要素も内包している(末木文美士『日本思想史』)。

・751年 アッバース朝と唐はタラス河畔にて交戦し、アッバース朝が勝利した。

アッバース朝によって捕虜にされた唐人の中には製紙技術者がおり、その後バグダードに製紙工場が作られるなど、イスラーム世界に紙が普及した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※これ以降、ソグディアナはオリエントに帰属、アム川以北のオアシス地域まで支配が及んだ(岡本隆司『世界史序説』)。

天平勝宝4年(752) 4. 東大寺において、毘盧遮那仏像の開眼供養会が行われた。(『続日本紀』)

※大仏は、頭部だけが完成していたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

天平勝宝4年(752) 9.22 天武天皇の孫で長親王の子息,智努王は、文屋真人の姓を与えられて文室浄三と名乗って臣籍降下した。(『続日本紀』)

・755年 11.9 安禄山はトンラ(同羅)、キタン、室韋の兵を従えて、楊国忠という唐の奸臣を討伐するとの名目で、范陽にて挙兵した。その軍は父子軍を自称した。

・755年 12.12 安禄山の軍は洛陽を陥落させた。

・756年 1.1 安禄山は皇帝を称し、国号を大燕とし、年号を聖武とした。

※大燕は、禄山の根拠地の古名に由来する。「聖」と「武」の2文字は、唐の玄宗,李隆基の諡にもあり、当時好まれていたようである(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

天平勝宝8年(756) 5.2 聖武太上天皇は、道祖王を皇太子にすることを遺詔として崩御した。(『続日本紀』)

※自身が崩御するまで孝謙天皇を在位させ続けていたことから、聖武太上天皇は後継者の選定には意欲がなく、最期まで自身の皇子の誕生を願っていたとも考えられる。皇女の井上内親王を、志貴皇子の子息,白壁王に嫁がせていたのは、自身の血統を残すためであったと考えられるが、聖武太上天皇の生前に間に子が誕生することはなかった(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

天平勝宝8年(756) 5.2 先代,聖武天皇の遺詔により、道祖王が皇太子となった。(『続日本紀』)

道祖王の父,新田部親王は、藤原鎌足の娘五百重娘を母に持ち、聖武太上天皇と同じく藤原氏の血を引いていたからとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

※『日本国現報善悪霊異記』を根拠として、聖武天皇には、孝謙天皇道祖王を婚姻させる意図があったという説もある(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

・756年 6.8 唐軍は安禄山軍に敗れた。

・756年 6.16 安禄山の軍が長安を陥落させると、玄宗,李隆基は四川にまで逃れた。

天平勝宝8年(756) 6.21 〔参考〕光明皇太后は、故聖武天皇の遺品を東大寺毘盧遮那仏に奉納したという。(『東大寺献物帳』)

〔参考〕『東大寺献物帳』のに記載のある「黒作懸珮刀一口」は、その所伝によれば、その太刀は草壁皇子が所持したものであり、藤原不比等に下賜され、文武天皇が即位すると不比等から献上され、文武天皇崩御後は再び不比等の手に渡り、不比等の没後に首親王(=聖武天皇)に献上されたのだという。

※当時在位中の元正天皇にではなく、皇太子時代の聖武天皇に献上されたことから、この太刀の由緒は、皇位は本来、草壁皇子の子孫の嫡系男子によって継承される予定であったという認識があったとも考えられる(桜田真理絵「未婚の女帝と皇位継承」)。

※20代で薨去した草壁皇子が、自分の子息への皇位継承戦略を生前に考えていたとは考えられないことから、持統天皇の構想であったとも想定される。しかし不比等の台頭は、持統天皇元明天皇の信任厚い、県犬養橘三千代との婚姻や、娘の宮子が文武天皇のキサキになったことであり、草壁皇子薨去後である。そのことから、草壁皇子不比等に後を託したことは疑わしく、孫の藤原仲麻呂の顕彰に由来する、事実と異なる叙述という見解もある(渡辺育子元明天皇元正天皇』)。

※唐、印度、Graeciaの文明が集まったことで、世界文明の貯蔵庫になったとも評される(辻善之助『皇室と日本精神』)。

・756年 10. 唐の粛宗,李亨はウイグルのカガン,磨延啜(モユン チョルか)と結託した。

・757年 1.5 安禄山は、子息の安慶緖によって殺害された。

※禄山は肥満体により、視力や体調を悪化させ、精神錯乱に近い状態であった。後継者としての地位が危ういと考えた子息によって最期を迎えた(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

安史の乱は唐の衰退を招き、唐に対する朝貢を行って栄えていたシュリーヴィジャヤを衰退させた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

天平宝字1年(757) 1.6 左大臣橘諸兄が死去した。(『続日本紀』)

天平宝字1年(757) 5. 「養老律令」が施行された。(『続日本紀』)

天平宝字1年(757) 7. 橘奈良麻呂らによる謀反計画が発覚した。(『続日本紀』)

天平勝宝1年(757) 3.25 孝謙天皇は勅を出し、藤原部の姓を「久須波良(くずはら)」にするよう通達された。(『続日本紀』)

※天子や貴人の実名と同じ文字の使用を避ける「避諱」の風習である。これは藤原氏を顕彰する意味を込めて、藤原仲麻呂が唐風化政策として導入したのだと考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平勝宝1年(757) 3. 29 孝謙天皇は、聖武天皇の、後継者決定の全権委任の遺詔を根拠として、道祖王を皇太子から廃した。そして群臣に候補となる皇族を挙げさせた。右大臣,藤原豊成中務卿,藤原永手道祖王の兄,塩焼王を、左大弁,大伴古麻呂舎人親王の子息,池田王を推薦した。藤原仲麻呂孝謙天皇の判断に従うと述べた。孝謙天皇は、孝行心の欠如を理由に池田王を、かつて聖武天皇に無礼を働いたことを理由に塩焼王を却下した。そして最終的に、若いながらも悪い風聞を聞かないことを理由に、池田王の弟,大炊王が新たな皇太子に選ばれた。(『続日本紀』)

孝謙天皇の述べる皇太子選定の基準は人格である。選定対象は天武天皇の子孫に限られているという特徴はあるものの、血統主義による継承という理念が薄らいでいることが指摘される(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

光明皇太后は、聖武天皇の遺言を破る形での皇太子選定に異議を唱えていないことから、大炊王立太子を容認していたと考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

光明皇太后としては、草壁皇子の子孫による皇統が、娘である孝謙天皇の代で絶えることから、大炊王を皇太子とすることで、傍系で天武天皇の子孫による皇統を維持することを望んだとも考えられる(木本好信「光明子」『図説 藤原氏』)。

大炊王の妻,粟田諸姉は、元々は仲麻呂の長男,真従の妻であった。真従の死後、諸姉は大炊王と結婚し、2人で仲麻呂の邸宅で暮らしていた。大炊王立太子により、仲麻呂は権勢を強めた(木本好信「仲麻呂」『図説 藤原氏』)。

光明皇太后仲麻呂の意向が強く働いていても、群臣が時期天皇候補者を選定するという形式は残っており、それを上回る権威は、「先帝(聖武天皇)が称徳天皇に決定権を委任した」という話であった(義江明子『日本古代女帝論』)。

天平勝宝9年(757) 5. 『養老律令』が施行された。(『続日本紀』)

※『養老律令』の施行以降、「田令」にある「大和国」という用事が「大倭国」に代わって用いられることが増えた。「倭舞」は「和儛」、「倭琴」は「和琴」に置き換わることとなった(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

※「倭」を「和」に改めるという事象は、それらの持つ「ʔua」と「ɦua」という発音の区別が失われたことを意味する(森博達『日本書紀の謎を解く』)。

天平宝字1年(757) 6. 橘奈良麻呂は謀反計画を立てた。そこでは孝謙天皇と皇太子,大炊王を廃して、塩焼王黄文王安宿王道祖王の中から選んで天皇に即位させようとしたのだという。(『続日本紀』)

奈良麻呂の思惑には、天皇は貴族が選ぶべきだという志向が見て取れる(義江明子『日本古代女帝論』)。

天平宝字1年(757) 7. 2 橘奈良麻呂の謀反計画が発覚した。奈良麻呂から計画への参加を迫られた佐伯全成は陸奥国にて勘文を受けた。全成によれば、最初の計画は天平17年9月、次に計画されたのは天平勝宝7年4月、3度目の計画は天平勝宝8年4月であったという。(『続日本紀』)

※1度目と3度目の計画は、聖武太上天皇の不予を狙ったものだと考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

天平宝字1年(757) 7.2 橘奈良麻呂の謀反計画に関与した備前守,小野東人の自白によれば、藤原仲麻呂を殺害し、鈴璽を奪取し、右大臣,藤原豊成を味方にして孝謙天皇を廃位し、4人の中から新たな天皇を即位させようとしたのだという。(『続日本紀』)

奈良麻呂の発言に関して、皇嗣は男性であるべきであり、女性皇太子を認めなかったという解釈がある(佐藤宗諄「女帝と皇位継承法-女帝の終焉をめぐって」『日本女性史1 原始・古代』所収)。

奈良麻呂一派は女帝による統治を、「牝鶏の晨」として忌避したとの説もある(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

孝謙天皇の生母が藤原氏であることから、奈良麻呂一派としては、孝謙天皇の即位の正統性の根拠とされる、草壁皇子嫡系という観念に疑念を抱いていたとも考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。

天平宝字1年(757) 7.4 道祖王黄文王大伴古麻呂、賀茂角足らは橘奈良麻呂とともに謀反を計画したことで拘束された。道祖王は名を「麻度比」、黄文王は「多夫礼」、角足は姓を「乃呂志」と改名させられた。彼らは獄門にかけられて死亡した。安宿王とその妻子は、佐渡に配流となった。(『続日本紀』)

※麻度比(まとひ)は「迷っているもの」、多夫礼は「気が狂っているもの」、乃呂志は「愚鈍」を意味する。当時、名前はその通りの状態を実現させる力を持っていると考えられた。罪を犯した人間に対しては、悪い意味の言葉に改名させることが、罰を与えるうえで最初に行われたのである(山口仲美『日本語の歴史』)。

天平宝字1年(757) 7.9 左大臣,藤原豊成は、子息,乙縄の引渡しを命じられた。(『続日本紀』)

天平宝字1年(757) 7.12 藤原仲麻呂は、兄の左大臣,藤原豊成太政官の責任者であるにも関わらず、橘奈良麻呂らの謀反計画を知りながら追及しなかったとして、失策であると糾弾した。そのため豊成は大宰府員外師に左降された。(『続日本紀』)

※兄,豊成を左降させることで、仲麻呂は政治権力を自身に集中させた(木本好信「仲麻呂」『図説 藤原氏』)。

天平宝字1年(757) 閏8.? 鈴鹿王の子息出雲王らは、豊野朝臣の姓を賜って臣籍降下した。(『続日本紀』)

橘奈良麻呂の乱に加担した、従兄弟の安宿王黄文王兄弟との類縁を断つためとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

天平宝字1年(757) 12.9 太政官奏により、「大化の改新」に功績のあった藤原鎌足を「大功」、「壬申の乱」で功績のあった臣下を「中功」、『大宝律令』の編纂に功績のあった臣下を「下功」として格付けされた。(『続日本紀』)

※「大化改新」が律令国家の起点に位置づけられていたことを示しており、実際に「大化改新」が行われていたことの証左とも考えられている(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

天平宝字2年(758) 2月以前 大倭国大和国に改名している。(『続日本紀』)

天平宝字2年(758) 8.1 孝謙天皇は譲位し、大炊王が即位した(淳仁天皇)。そして阿倍先帝に「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后に「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られた。(『続日本紀』)

※以降、阿倍のことは「称徳孝謙皇帝」と呼ぶ。

※高齢で病を得た光明皇太后は、天皇大権を行使することが困難となっていた。光明皇太后藤原仲麻呂は、自分たちに忠実な淳仁天皇を即位させ、大権を譲与を望んだと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

天平宝字2年(758) 8.9 故聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」という尊号が贈られ、故草壁皇子が「岡宮御宇天皇」と追号された。(『続日本紀』)

草壁皇子は称揚の結果天皇号を贈られ、その「嫡系」と位置づけられた称徳孝謙皇帝の権威も高められた(義江明子『日本古代女帝論』)。

※「聖武」という諡は、唐の玄宗,李隆基の尊号「開元天地大宝"聖"文神"武"証道孝徳皇帝」を真似たとも考えられる。隆基と対立した安禄山は皇帝を称して年号を「聖武」としたことがあり、その2文字は好まれたようである(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

天平宝字2年(758) 8.25 淳仁天皇藤原仲麻呂を右大臣に任じた。また、広く恵みを施す仲麻呂の美徳を讃えて、藤原の姓に「恵美」の2文字を加え、強敵に勝って兵乱を鎮圧したことから諱を「押勝」にするよう命じた。(『続日本紀』)

※藤原恵美朝臣の賜姓は、仲麻呂(→押勝)の一家が、藤原氏のなかでも特に貴種であることを誇示するものである(木本好信「仲麻呂」『図説 藤原氏』)。

天平宝字2年(758) 8.25 右大臣,藤原恵美押勝は、官名と省官の名称を唐風に改めた。これにより太政官乾政官太政大臣は大師、左大臣は大傅、右大臣は大保、紫微中台坤宮官などに改められた。(『続日本紀』)

天平宝字3年(759) 6.16 淳仁天皇は宣下により、自身の兄弟姉妹が親王号を称することを許した。(『続日本紀』)

天平宝字4年(760) 1.4 淳仁天皇は藤原恵美押勝を大師(太政大臣)に任じた。(『続日本紀』)

※これは臣下の身分で太政大臣となった初の例である(木本好信「仲麻呂」『図説 藤原氏』)。

天平宝字4年(760) 2.? 石川広成は高円朝臣の姓を賜った。(『続日本紀』)

〔参考〕『新撰姓氏録』には、「高円朝臣」について、「高円朝臣広世より出るなり」「もと母の氏に就きて、石川朝臣と為る」と説明する。

※広成と広世は、石川刀子娘が産んだ、文武天皇の皇子だったと見られる。宮子が産んだ首王(聖武天皇)の地位と、藤原氏外戚としての立場を磐石とするために、皇族から除外されたとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

※『新撰姓氏録』からは、広世の母が石川氏であることしか分からず、文武天皇のキサキの刀子娘と同一人物であるという根拠がないという見解もある。また、『新撰姓氏録』が高円氏を「皇別」に分類するのは、文武天皇の皇子だったからではなく、元の出自の石川氏が皇別氏族であったからとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

天平宝字4年(760) 6.7 光明皇太后崩御した。(『続日本紀』)

光明皇太后崩御により、母親に天皇大権の行使を抑えられていた孝謙太上天皇天皇家の家長的立場として、淳仁天皇を傍流と見なして対立を深めた。そのため天皇権力は分裂することとなる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

天平宝字4年(760) 9.27 経師,秦豊穂、安宿大広、高市老人、刑部真綱、能登忍人、石田嶋足ら造東大寺司写経所に務める写経生は、休暇が終わっても戻ってこなかったため、召喚命令が下された。(「正倉院文書」)

※文書には、「其の都中の人等は、宜しく食を充つべし 其の都外の人等には、宜しく食馬を充つべし」とある。そのことから、都に勤務する人の中で、平城京内に居住する役人には食料が、平城京外に居住する役人には食料と馬が支給されていたことが理解できる(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

天平宝字5年(761) 11.17 藤原恵美押勝は、遠江国以東の12ヶ国に関して、150の船と15000の兵を集め、「中国」の兵法書に基づいた布陣を習わせ、弓馬の訓練を行わせた。(『続日本紀』)

天平宝字6年(762) 1.9 淡海三船は文部少輔に任じられた。(『続日本紀』)

〔参考〕『釈日本紀』の引用する『私記』によれば、神武天皇をはじめとする歴代天皇の漢風諡号は、淡海三船によって考案されたのだという。

※神日本磐余彦彦火火出見尊に「神武天皇」という諡が贈られたのは、「日本民族」の統一という業績に「感動」したからだという見解もある(平泉澄『物語日本史(上)』)。

※御間城入彦五十瓊殖天皇の「崇神天皇」という諡は、多くの神々を祀る伝承があったからだと考えられる(肥後和男崇神天皇』)。

天平宝字6年(762) 2.12 藤原恵美押勝は、伊勢国近江国美濃国越前国における郡司の子弟と百姓から、20~40歳の、弓馬術を習得した者を健児として軍に編入することを決定した。(『続日本紀』)

伊勢国には鈴鹿関、美濃国には不破関越前国は愛発関という関所があり、東方面の攻撃から畿内を守る要所であった。そのため精鋭部隊を重要な防衛拠点に配備することを決定したのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

天平宝字6年(762) 6. 称徳孝謙皇帝は、自身が母光明皇太后から、「岡宮御宇天皇の日嗣は、かくて絶えなむとす。女子の継ぎには在れども嗣がしめむ(岡宮御宇天皇(草壁)の系統が絶えようとしており、(阿倍は)女子であるけれども後を継がせる)」という命により即位したと主張した。そして「国家の大事賞罰」は自身が行うと宣言した。(『続日本紀』)

※称徳孝謙皇帝は、自身の統治権の根拠を、岡宮御宇天皇嫡系という血統と、皇太后の意志に求めた。称徳孝謙皇帝と淳仁天皇の共同統治は、次期天皇を指名した側の権限の行使により破綻したといえる(義江明子『日本古代女帝論』)。

天平宝字6年(762) 百済豊虫は、両親の菩提を祈願するために、『金光明最勝王経』を書写させた。(西大寺本『金光明最勝王経』願文)

天平宝字8年(764) 9.2 藤原恵美押勝は兵を集結させようとしていた。「朝廷の咎」を述べた文書を奏上しようとしていたらしい。(『続日本紀』)

天平宝字8年(764) 9.15 藤原恵美押勝は氷上塩焼を「今帝」として天皇に擁立した。(『続日本紀』)

皇親天皇の後継者ではなく、天皇として擁立することは、前例のないことであった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

天平宝字8年(764) 9.20 称徳孝謙皇帝は、出家の身の天皇がいるのだから、出家の身の大臣がいるべきだとして、道鏡を「大臣禅師」に任じた。(『続日本紀』)

※称徳孝謙皇帝は、皇権を維持し、倭国以来の理念である仏法統治の実現のために、先帝からの委任という遺詔を絶対化して、血統に拘らず、自ら「天のゆるして授けむ人」を選び、仏法を基礎とした共同統治の実現を目指したのだと思われる(義江明子『日本古代女帝論』)。

天平宝字8年(764) 9.22 藤原恵美押勝が改めた、官名や省名を和名に戻した。(『続日本紀』)

天平宝字8年(764) 9.25 藤原蔵下麻呂は右兵衛督に任じられた。(『続日本紀』)

天平宝字8年(764) 10.9 称徳孝謙皇帝は、かつて聖武天皇が「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも汝の為むまにまに」と自身に述べたことを根拠として、淳仁天皇を廃位して「親王」「淡路公」とすることを詔した。(『続日本紀』)

孝謙太上天皇は、父.聖武天皇が自身に語った言葉を理由として淳仁天皇の廃位を宣言している。実際の聖武天皇の発言だとすれば、孝謙太上天皇は父の天皇観を継承したものであり、彼女が創作したものだとすれば、自身の天皇観を述べたものとなる。律令を超越した太上天皇の立場でなければ、天皇を廃することは出来なかったとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

天平宝字8年(764) 10.9 称徳孝謙皇帝は再び即位した(称徳天皇)。(『続日本紀』)

天平宝字8年(764) 10.9 称徳孝謙皇帝は、「天のゆるして授けむ人」を見出すまでは皇太子を立てないと詔した。(『続日本紀』)

※詔の内容は、現時点において皇太子を選ばないことに対する弁明である。決定すべき日が来ることを述べたものであり、皇太子候補者がいないとは述べていない。このことから、道鏡を即位させることを望んでいたものの、その時点で指名するのは唐突であるため仄めかす程度に留めたとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

天平神護1年(765) 1.7 藤原田麻呂は外衛大将に任じられた。(『続日本紀』)

※これは藤原恵美押勝討伐における功績を評価されてのものである(木本好信「百川」『図説 藤原氏』)。

神護景雲1年(767) 2.28 藤原雄田麻呂は右兵衛督に任じられた。(『続日本紀』)

※異母兄,田麻呂同様、藤原恵美押勝討伐における功績を評価されてのものである(木本好信「百川」『図説 藤原氏』)。

※百川の異母兄,田麻呂は外衛大将、異母弟の蔵下麻呂は近衛大将であり、式家の兄弟3人は兵部卿の在職として軍事を掌握し、朝廷における発言権を強めた(木本好信「百川」『図説 藤原氏』)。

天平神護1年(765) 称徳孝謙皇帝は、新規の開墾を禁止した。(『類聚三代格』)

※飢饉が発生する中であっても、王臣家は百姓を強制徴収して開墾に動員しており、それが問題視されたのである。開墾による富の享受が停止されたため、国司の土着も見られなくなった。しかし、開墾は国家事業であるため、停止はいずれ解除されるものであった(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

天平神護2年(766) 10.20 吉備真備は右大臣に任じられた。(『公卿補任』)

藤原氏のような門閥に属さない、地方出身の能力が高い学者が重用されている。称徳孝謙皇帝の時代には、個人として人が注目される傾向性があったことが指摘される。ただ個人を登用するための科挙のような制度は誕生せず、君主の判断での抜擢に留まったとも評される(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

神護景雲3年(769) 5.25 不破内親王は、称徳孝謙皇帝を呪詛して寿命を縮め、子息の氷上志計志麻呂を天皇に即位させることを計画したとして逮捕された。不破内親王内親王位を剥奪され、厨真人の姓を与えられて臣籍降下して厨女と改名させられた。志計志麻呂は土佐国に配流と決定した。(『続日本紀』)

※こうした処罰は和気王の処罰と同様に、道鏡天皇に即位させるための、称徳孝謙皇帝の意図との関係が指摘される(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

神護景雲3年(769) 5.? 大宰主神は、道鏡皇位に就けるべきという宇佐八幡神の信託を伝えた。(『続日本紀』)

神護景雲3年(769) 9.25 称徳孝謙皇帝は、和気清麻呂が伝えた八幡神の神託を、清麻呂が創作したものであると述べた。(『続日本紀』)

※神託であろうとも、神託に従うか否かを決定するのは天皇である。称徳孝謙皇帝は、神託は偽証であると決めつけていることからも、道鏡天皇即位は、彼女が望んだこととも考えられる。易姓革命を受容していなかった貴族層は、君主と臣下は別であるという論理によって、称徳孝謙皇帝の構想を阻んだとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

宝亀1年(770) 8.4 〔参考〕称徳孝謙皇帝は、異母姉,井上内親王の夫である白壁王を後継者に指名して、崩御したという。(『続日本紀』)

〔異伝〕『日本紀略』所引の「百川伝」によれば、称徳孝謙皇帝は後継者を定めずに崩御したという。

太上天皇、皇后、皇太后、皇太子といった王権を補完する立場の者が不在であったため、称徳孝謙皇帝が崩御により、王権を担う者が一時的に誰もいなくなった。当時の王権の脆弱さを示すものである(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。