ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

仁徳天皇から宣化天皇の時代

・418年 倭国に人質としていた新羅王子,未斯欣(美海)は新羅に帰国した。(『三国史記新羅本紀)

※『日本書紀』は気長足姫が摂政だった時代のこととする。この逸話に登場する葛城襲津彦が活躍するのは応神天皇以降の時代であるため、『日本書紀』の時代設定は誤りと思われる。応神天皇崩御後、天皇が不在の時代に「皇太后」的な人物が政務を行っていたため、それが気長足姫の摂政時代と誤解されていたとも考えられる。『日本書紀』が応神天皇の皇后だと伝える仲姫命であったかもしれないが、実際に応神天皇の正妻だったかも不明であり、確証はない(若井敏明『仁徳天皇』)。

・420年 百済王,扶余腆支(直支)が崩御し、王子,映が即位した(久尓辛王)。(『三国史記百済本紀)

※『日本書紀』は映の即位を応神天皇の時代のこととする。413年に晋に使者を派遣した際の倭国の君主が応神天皇であれば、既に応神天皇崩御していたと推測される。そのため、倭国では新たな天皇が即位していなかった状態だったとも推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

・420年頃? 〔参考〕大鷦鷯と菟道稚郎子は、互いに皇位を譲り合ったという。(『古事記』『日本書紀』)

※『日本書紀』によれば、菟道稚郎子は父,応神天皇より寵愛され、後継者に指名されていたという。ただ、応神天皇の諸王子では最年少と思われ、母親が品陀真若王の娘でもない菟道稚郎子が即位することに、諸豪族からの合意を得ることができたか疑問が呈される(若井敏明『仁徳天皇』)。

・420年頃? 〔参考〕応神天皇の王子,大山守王は天皇になることを望み、異母弟,菟道稚郎子を殺害しようと挙兵を計画したという。(『古事記』『日本書紀』)

・420年頃?〔参考〕菟道稚郎子は異母兄,大鷦鷯王より大山守王の挙兵計画を知らされ、大山守王を滅ぼしたという。(『古事記』『日本書紀』)

※『古事記』には大山守王の遺体は訶和羅にて発見されたとある。訶和羅の場所は木津川の流域であり、その付近で戦闘が行われたと推測される。つまり、菟道稚郎子は挙兵後、山城国南部から大倭国に向けて進軍したとも考えられるため、大山守王は大倭国の政権中枢にいたとも考えられる。そのため、実際のところは大山守王ではなく、菟道稚郎子と大鷦鷯王が反乱を起こした側であったとも思われる(若井敏明『仁徳天皇』)。

・420年頃? 〔参考〕大山守王の同母兄弟,額田大中彦は、「倭の屯田」は本来「大山の地」であるとして、そこを領有することを望んだ。それを知った菟道稚郎子は大鷦鷯王に判断に委ねた。大鷦鷯王は、「倭の屯田」は本来天皇の直轄領であるとして、額田大中彦の願いを却下したという。(『日本書紀』)

※『日本書紀』には、大山守が滅ぼされる前に記載されているが、『古事記』には記載がない。そのため、本来は大山守王と菟道稚郎子の争いとは無関係な逸話と思われる。「倭の屯田」が「大山の地」であり、かつ「天皇の直轄領」であったとすれば、応神天皇の本来的な後継者は大山守王であったことを示唆するとも推測される。大山守王の薨去後に「倭の屯田」は管理者が不在となったため、彼は同母兄弟として屯田の領有と次期天皇の候補者に名乗り出たとも考えられる(若井敏明『仁徳天皇』)。

・420年頃?〔参考〕菟道稚郎子と大鷦鷯王は、互いに皇位を譲り合っていたが、菟道稚郎子薨去したという。(『古事記』『日本書紀』)

〔参考〕『日本書紀』には、異母兄が天皇になることを望んだ菟道稚郎子は自害したとある。

・420年頃?〔参考〕応神天皇崩御後、その王子,大鷦鷯王が即位したという(仁徳天皇)。(『古事記』『日本書紀』)

菟道稚郎子と大鷦鷯王による皇位の譲り合いの真相が、実際はどのようなものであったかは不明である。仁徳天皇の即位は正統なものとして伝承されてきたために、実態を探ることは困難とされる(若井敏明『仁徳天皇』)。

・420年 6.14 劉裕は晋の恭帝,司馬徳文より禅譲を受けて皇帝に即位し(武帝)、国号を「宋」とした。(『宋書武帝本紀)

・421年(宋暦永初2) ?.? 宋の武帝,劉裕は、遠方より貢ぎ物を贈るその誠意を評価し、倭王,讃に官職を授ける詔を発した。(『宋書』夷蛮 倭国)

※ 『宋書』には讃を「倭讃」と記述しており、倭国王は「倭」という姓を用いていたことがわかる。この姓に対しては、中国や朝鮮において姓を持たないことは賤民を意味するため、外交のために、対外的な理由で用いられたと考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※一文字の名を対外的に名乗るのは倭国高句麗新羅のみであり、国際競争に参入したゆえの対抗意識が見て取れる(河内春人『倭の五王』)。

・425年 5.? 〔参考〕倭国より竹葉瀬・田道兄弟が高句麗に派遣され、田道は騎兵を率いて新羅軍と交戦したという。(『日本書紀』修正紀年) 

※竹葉瀬を祖とする上毛野君の祖先伝承に由来する記事であり、信憑性は定かでないものの、倭国の軍が騎兵による戦闘が可能になるほど、騎馬文化が定着していたことを示すと考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・425年 倭王,讃は宋に司馬曹達を派遣した。(『宋書』夷蛮 倭国)

※「司馬」は、宋の将軍と認められた者が本拠地に置くことを認められた府官である。つまり、讃は宋の将軍と認められたことが理解できる(篠川賢『継体天皇』)。

※府官制を導入することで、倭王はその権勢を強めたと考えられる(鈴木靖民「倭国と東アジア」『倭国史の展開と東アジア』)。

 ※中国の官爵秩序を例に倭国内の身分が編成されたことで、首長の男性化が促進化されたとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・427年?〔参考〕丁卯の年、仁徳天皇崩御したという。(『古事記』)

※『古事記』に記される最後の干支「戊子」の年(628)から遡って、最初の「丁卯」の年は427年となる(末松保和「古事記崩年考」)。

・427年? 〔参考〕『日本書紀』によれば、仁徳天皇の王子,大兄去来穂命は、弟の住吉仲王と争ったという。住吉仲王は隼人の刺領巾(『古事記』では曽婆訶理)に殺害されたという。

※神話を除いて、『古事記』『日本書紀』において刺領巾(曽婆訶理)は最初に登場する隼人である(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・427年? 2.1 〔参考〕大兄去来穂別が即位したという(履中天皇)。

〔参考〕岩崎本『日本書紀』は、「大兄」の読みを「オホエ(皇極天皇紀2.10. 戊午)」「オヒネ(皇極天皇紀3.1乙亥朔)」とも表記する。

〔参考〕『日本三代実録』「清和天皇即位前紀」には、「大枝謂大兄也」とある。

〔参考〕『古事記』は「大兄去来穂別」を「大江伊邪本和気」と表記する。

※『日本三代実録』と『古事記』から、少なくとも『日本書紀』が編纂された時期には「大兄」の「兄」は「江」「枝」と同じ「ye」の発音であり「オホエ」と読まれたと考えられる(荒木敏夫『日本古代の皇太子』)。

履中天皇の兄弟には名前に地名を含む者がいるため、その「大兄」というのは、難波の大江を意味するとも推測される(米田雄介『歴代天皇皇位継承事情』)。

倭王,讃は、『古事記』『日本書紀』において仁徳天皇の王子でその次に即位した、履中天皇のことだと考える説もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・430年? 8. 戊戌 〔参考〕履中天皇は、諸国に国史(フミヒト)を設置し、地方情勢を報告させたという。(『日本書紀』)

※「中国」は他国からの使者を迎える際に、その国の歴史、地理、風俗などを尋ねることが通例であった。書記官の名称が国史であるか、諸国の範囲はどこまでであるかは不明である。ただ、履中天皇は宋との外交を行うに際して、倭国の歴史や地理などの情報を整理したとも考えられる(関根淳『六国史以前』)。

・431年? 9.壬寅〔参考〕『日本書紀』「履中天皇5年9月壬寅条」には、履中天皇が淡路島で狩猟を行った際に託宣を行うと、島の神,伊弉諾神が河内飼部の血の臭いに堪えられないと訴えてきたとある。

伊弉諾命は、淡路島の島神であったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

※河内馬飼部の名前があることや、履中天皇の王子には御馬王がいることから、倭国では馬養集団が編成されていたことが窺える。また、神武天皇日本武尊の出征には騎馬が見られないことから、それらの伝承の基本形は履中天皇以前に形成されたとも推測される(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・423年? 1.6 〔参考〕『日本書紀』によれば、履中天皇は草香幡梭王(応神天皇王女)を皇后に立てたという。

※草香幡梭王の母は日向泉長媛であり、履中天皇は日向系と親密であったことを窺わせる。久宝寺遺跡からは、南九州で使用された成川式土器に似た土器が出土しており、遺構も類似していることから、5世紀中頃に日向の隼人集団が河内湖岸地域に移住していたという背景を反映した記事であるとも考えられる。また、後出古墳群三号、七号墳および北原古墳では、南九州の墓に多く見られる蛇行鉄剣が出土していることから、5世紀の大倭国宇陀地域には、南九州と深い関係を持つ集団が居住していたと考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・432年? 〔参考〕壬申の年に履中天皇は防御し、その弟,多遅比瑞歯別が即位したという(反正天皇)。(『古事記』)

〔参考〕『古事記』と『日本書紀』によれば、反正天皇は歯が揃っていたという。

※『古事記』と『日本書紀』の歯に関する記述は、「ミズハ」という名の由来を説明するものである。しかし、『古事記』と『日本書紀』に登場する水の神が「弥都波能売/罔象女(ミツハノメ)」であることから、「ミズハ」とは水に関する名前であると推測される。反正天皇の名前に関する説明は、本来の意味が忘れ去られた後に創作されたものと考えられる(古市晃『倭国』)。

※この時代の皇位は兄弟継承であったとも考えられる。ただ、履中天皇の王子,市辺押磐王がまだ成人していなかったことが反正天皇の即位の理由とも考えられる(若井敏明『「神話」から読み解く古代天皇史』)。

〔参考〕『宋書』「夷蛮 倭国条」には、倭王,讃の死後、その弟,珍が後を継いだとある。

※「珍」とは、反正天皇の諱と考えられる、瑞歯別(ミツハワケ)のミツ(有難いもの)の意訳とも推測される(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※「讃」を仁徳天皇、「珍」を反正天皇だとした場合、『古事記』『日本書紀』の語る系譜とは矛盾が生じる。そのため、『宋書』の「讃死、弟珍立」と文言は、本来は「讃死、世子〇立。〇死、弟珍立」であったという推測もある。その場合、履中天皇に相当する倭王への言及が、『宋書』の編纂過程で誤脱したか、写本される間に抜け落ちたということになる(田中卓「古代天皇の系譜と年代」『日本国家の成立と諸氏族』)。

※「中国」の史書にある続柄の情報は、朝貢国側の報告を中国王朝が承認したことを意味している。つまり、実際に珍が讃の弟であるとは限らない(義江明子『女帝の古代王権史』)。

〔参考〕『古事記』によれば、反正天皇は、丸邇許碁登の娘,都怒郎女・弟比女をキサキに迎えたという。

・?年 倭王,珍は宋に対し使者を派遣して貢ぎ物を贈り、自分の名乗る使持節・都督倭・百済新羅任那・秦韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を正式に認めてもらうことを望んだ。そこで宋の文帝,劉義隆は珍を安東大将軍・倭国王に任命した。また、倭王珍は倭隋ら13人の臣下たちに平西・征虜・冠軍・補国将軍の称号を授けてもらうことも求め、それも許可された。(『宋書』夷蛮 倭国)

※「持節」とは、皇帝より信任を意味する旗を与えられ、それを持った者が、皇帝の職務代行として、専殺権を持ったことに由来する。やがてそれは職名となった。持節には3つの格があり、珍が求めた最上位の「使持節」は、大臣格の者を殺害する権限を持つ職であった(富谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「都督○諸軍事」は、「都督○諸州軍事」が正式名称である。「州」の民事行政を管轄する長が「州刺史」であり、「府」の軍事を管轄する長が「都督」である。しかし、曹魏は都督が州刺史を兼任しており、以降、都督州軍事が置かれるようになった。また、別の職であった使持節と合わさり、「使持節都督」という職名が一般化した(富谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

朝鮮半島に進出するに際して、その正当性を確保するために、倭・百済新羅加羅・秦漢・慕韓を統率する官職名を欲したのである。

※単独で「任那」という場合は加耶地域を意味し、任那加羅という場合は、任那加耶地域南部の金官国加羅加耶地域北部の大加耶国を意味すると考えられる。秦韓・慕韓は、かつての辰韓馬韓の地で、新羅百済支配下に入っていなかった地域のことであると考えられる(篠川賢『継体天皇』)。

※倭隋は「倭」を姓としていることから、王族とも考えれられる。ただ、13人全てが王族なのではなく、有力豪族や、倭王の側近もいた可能性がある(篠川賢『継体天皇』)。

・437年?〔参考〕丁丑の年、反正天皇崩御したという。(『古事記』)

※『古事記』の記す最後の干支「戊子」の年(628)から遡って最初の「丁丑」の年は437年となる(末松保和「古事記崩年干支考」)。

・437年?〔参考〕 『日本書紀』によれば、反正天皇崩御後、その弟,雄朝津間稚子は即位を打診されるが辞退し、1年間は空位であったという。

・438年(宋暦元嘉15) ?.? 倭国は宋に朝貢を行った。(『宋書』文帝本紀)

※「倭王済」の朝貢は、元嘉15年の使者派遣を差すとも考えられる。珍は反正天皇と同一人物であるとも推測されるが、『古事記』の記す反正天皇崩御した年「丁丑」が正しく、437年のことだとすれば、彼は既に故人である。ただ、『日本書紀』が語るように一年間天皇空位であったことから、使者を生前に派遣したものの、宋から安東将軍に任じられたときには反正天皇崩御していたとも推測される(田中卓「古代天皇の系譜と年代」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・438?年 〔参考〕反正天皇崩御後、その弟,雄朝津間稚子宿禰が即位したという(允恭天皇)。(『日本書紀』)

・443年 倭王,済は使者を派遣して宋に貢ぎ物を贈った。済は宋より安東将軍・倭国王に任じられた。(『宋書』夷蛮 倭国)

〔参考〕『梁書』「倭伝」は、済を彌(珍)の子息であると記す。

※『梁書』は『宋書』を引き写して書かれているため、済が珍(彌)の子息であるという記述は信憑性が低いと考えられる(河内春人『新説の日本史』第1章)。

履中天皇(イザホワケ)と反正天皇(ミツハワケ)が諱に「ワケ」を持っている。対して允恭天皇(ヲアサツマワクゴノスクネ)は「スクネ」と称している。ことことも、履中天皇(讃)系と允恭天皇(済)系が別系統であることの根拠とされる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※珍と済は共通して「倭」姓を名乗っていることから、両者は同一の父系親族に属するとの見解もある(関和彦「『宋書倭国伝の再検討」『東アジアの古代文化』32号所収)。

※珍とは別の王系であることを宋に知られたくなかったため、同じ「倭」姓を使用したとの説もあるが、易姓革命が常である「中国」は、実力ある支配者であれば王として承認するため、仮に済が別の王系であれば「倭」姓を名乗る必要はないため、珍と済は同じ王系であるとの説もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

※『宋書』は他王朝の血縁関係について、注意を払っていることから、血縁関係はなく、倭王を排出する王統は複数あったという見解もある。『日本書紀』はそれまでの大王が大和国の豪族からキサキを迎えていることを記すが、允恭天皇のキサキは近江国出身の忍坂大中姫である。そのこともまた、異質性として指摘される(古市晃「雄略天皇」『人物で学ぶ日本古代史 1』)。

・?年 7.14 〔参考〕允恭天皇の即位後5年、地震があった。允恭天皇反正天皇の殯の状況を見に行かせたところ、殯を担当していた葛城玉田宿禰はその場におらず宴会を行っていたという。(『日本書紀』)

・?年 ?.? 〔参考〕允恭天皇は、反正天皇の殯の役割を放棄した葛城玉田宿禰を呼び出した。玉田宿禰允恭天皇に殺害されることを恐れて鎧を着込んだが、それが発覚して殺害されたという。(『日本書紀』)

※説話的な物語であり、実際はどのようなことが起こったかは不明である。ただ、玉田宿禰の行動からして、葛城氏出身者をキサキとしない允恭天皇の治世は、葛城氏にとって不利な時代であったことを示すと考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・451年 宋は倭王,済に使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓六国諸軍事の官職を与えられ、安東将軍の地位もそのままとした。また、済が上奏した倭の23人も将軍や郡長官となった。(『宋書』夷蛮 倭国)

倭王の諸軍事から百済が外されたのは、既に百済が宋に服属しており、百済王を倭王の部下にさせるわけにはいかなかったからである(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

倭王,済に使持節と都督諸軍事の肩書が認められたのは、宋より征東大将軍に認められた高句麗王、鎮東大将軍に認められた百済王との釣り合いをとるためである(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

※倭の要求の多くを受け入れたのは、倭を自営に引き入れて確固たる従属の関係を築き、宋の「中華」意識を称揚し、北魏高句麗を牽制する狙いがあったと考えられる(富谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

・451年 倭王,済は安東将軍から安東大将軍へと称号がより高いものとなった。(『宋書』文帝本紀)

倭王済への大将軍授与は、大将軍である高句麗王と百済王との釣り合いの考慮であろう(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

 ・允恭天皇は氏と姓の混乱や仮冒を正すために、焼けた石を熱湯の中から取り出させ、火傷が軽いか重いかで罪の有無を判断するという、盟神探湯を行わせたとされる。(『日本書紀』)

・454年? 甲午の年、〔参考〕允恭天皇崩御した。(『古事記』)

※『古事記』の記す最後の干支「戊子」の年(628)から遡って最初の「甲午」の年は437年となる(末松保和「古事記崩年干支考」)。

※大仙古墳は、5世紀中頃から第3四半期という造営年代の推定からして、在位年数の長い倭王,済の陵墓に比定する説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・?年〔参考〕允恭天皇の王子である木梨軽王は、同母妹軽大娘王との近親相姦が発覚し、軽大娘王は伊予国に流された。木梨軽王は暴虐を行って婦女にかまけて人望を失い、その弟穴穂王に支持が集まった。軽大娘王は、捕らえられて伊奈に流され、そこで自害した。(『日本書紀』)

〔異伝〕『古事記』では、木梨軽王が人望を失う理由自体が同母妹との相姦関係に求められている。そして流刑先の伊奈にて兄妹揃って自害したのだという。

※同母兄弟姉妹との婚姻は、好ましく思われなかったことを示していると考えられる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

允恭天皇の王子,穴穂王は即位した(安康天皇)。(『日本書紀』『古事記』)

履中天皇反正天皇が儲けた王子は、母親が氏族出身者であった。それに対して允恭天皇は王族の忍坂大中姫を妻としており、間に王子を儲けていた。そのため允恭天皇から安康天皇へと、その子孫への直系継承の流れが形成されたとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・?年 倭王済の死後、「世子」の興が使者を派遣した。(『宋書』夷蛮 倭国)

※「世子」という記述からして、正式に即位していなかったのであり、自力での王位の維持が困難であったことから、宋から倭国王冊封されることを望んだとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『宋書』が興を「世子」として記すのは、政情不安によって正式に即位出来ていなかったことを意味するのであって、安康天皇(穴穂)が木梨軽王と対立していたことを記す『古事記』『日本書紀』の記述と符合するとの指摘もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・462年 宋の孝武帝,劉駿は、興の忠節と貢ぎ物の献上を評価し、安東将軍・倭国王とする詔を発した。(『宋書』夷蛮 倭国)

・?年〔参考〕安康天皇は眉輪王に殺害されたという。(『古事記』『日本書紀』)

安康天皇が市辺押磐王を後継者に考えていた(『日本書紀』)とすれば、葛城氏は将来的に再び外戚の地位を得ることができる。そのため葛城氏側には安康天皇を殺害する理由はなく、眉輪王の私怨であるとも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・?年〔参考〕眉輪王は葛城円の邸宅に逃げ込んだ。(『古事記』『日本書紀』)

・?年〔参考〕大泊瀬幼武王は葛城円の邸宅を取り囲んだ。円は自身の娘,韓媛と屯倉を差し出して降伏を申し入れた。(『古事記』『日本書紀』)

・〔参考〕大泊瀬幼武王は眉輪王、坂合黒彦王、葛城円を焼き殺したという。

極楽寺ヒビキ遺跡には火災の痕跡があることから、円が焼き殺された場所とも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・?年 韓媛は大泊瀬幼武王のキサキとなった。(『日本書紀』)

※大泊瀬幼武王は、穏当な形で王族や豪族と婚姻関係を結べなかったことを窺わせる(古市晃『倭国』)。

※葛城氏の没落後、その地盤を継承した豪族が、高市地方に進出して蘇我氏となった説が有力視される(佐藤信 編『古代史講義』)。

※元々高市地方に拠点のあった大伴氏は、磯城十市地方へと拠点を移したと考えられる(佐藤信 編『古代史講義【氏族篇】』)。

・?年 眉輪王に仕えていた難波日香蚊は首を切って殉死した。(『日本書紀』『日本書紀私記甲本』所引,『帝王紀』逸文)

※『帝王紀』は『日本書紀』を編纂す際に参考にされた史料の1つと考えられる。『日本書紀』は日香蚊を高く評価するが、『帝王紀』の評価は低い。とはいえ首を切って自害するという描写は一致していることなどから、大草香王の殺害から眉輪王らが殺害されるまでの一連の語りは事実に即しているとの説もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・?年 大泊瀬幼武王は、履中天皇の王子,市辺押磐王を狩猟に誘い、殺害した。(『古事記』『日本書紀』)

※『日本書紀』には「市辺宮治天下天万国万押磐尊」、『播磨国風土記』には「市辺天皇命」と、市辺押磐王の称号が伝わる。『古事記』と『日本書紀』には記載がないものの、即位していたとも推測される(古市晃『倭国』)。

・?年 市辺押磐王の遺児は、日下部使主に連れられて逃亡した。(『日本書紀』)

※日下部連は「日下(クサカ)」という名称からして、元は大草香王の部民であったと考えられる。大草香王の薨去後に市辺押磐王に従っていることからして、大草香王の殺害には市辺押磐王が関与しているとも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・〔参考〕大泊瀬幼武王は、泊瀬の朝倉に「壇」を設け、即位式を行って即位したという(雄略天皇)。(『日本書紀』)

※『日本書紀』において、これは「壇(たかみくら/高御座)」の初見である。実態は不明であるものの、君主の地位と権威が高まったことを受けて、即位に際して大王がその上に立ち、豪族を見下ろす形で即位式を行ったとも考えられる(高森明勅『日本の10大天皇』)。

※脇本遺跡からは、初瀬朝倉宮の建物跡が見つかっており、権威を象徴するように濠が巡らされていたことが明らかになった(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

〔参考〕興の弟,武は、兄の死後倭王となり、使持節・都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王を自称していた。(『宋書』夷蛮 倭国)

雄略天皇による即位前の王族殺害を語る『古事記』『日本書紀』の記述からして、興が死んで武が王になったと記す『宋書』を参照し、興が武に殺害された可能性もあるとも指摘される(倉本一宏『はしめての日本古代史』)。

※宋が滅亡寸前であることを察した武は、それにつけ込んで最高位の官職を要求したとも考えられる。宋としても倭の不相応な要求を呑んで、国の立て直しを謀ったとも推測される(富谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「武」とは、雄略天皇の諱と考えられる幼武(ワカタケル)のタケル(勇猛なる者)の意訳とも考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※当時、「武」を「タケ」と訓読みした証拠がないことから、武を雄略天皇に比定することはできないという説もある(河内春人『新説の日本史』第1章)。

・〔参考〕雄略天皇は即位に際して、平群真鳥を大臣に、大伴室屋物部目を大連にしたという。(『日本書紀』)

※葛城氏の没落後、平群氏と巨勢氏が大臣になれるほどの勢力は持っていないという見解も根強いほか、任命の記述を即位の後に記すのは書式的なものであり、史実の反映とするのは難しいとも考えられる。ただ、物部氏と大伴氏は、目と室屋の地位をその後も継承していったことは否定できないとも考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

雄略天皇1年 3.? 雄略天皇は春日和珥深目の娘,童子君をキサキに迎えた。(『日本書紀』)

※ワニ(和邇,丸邇,和珥)氏からキサキを迎えたことは、反正天皇と同様である。『古事記』『日本書紀』の記すワニ氏には女性が多い。そのため巫女的な属性を継承する豪族であり、大王の妻に相応しい存在として尊重されたとも考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「雄略天皇2年10月是年条」によれば、雄略天皇は史戸(フミヒトベ)と河上舎人部を設置したという。

〔参考〕『古語拾遺』には、東と西の文氏に三蔵の出納を記させたとある。

※『日本書紀』と『古語拾遺』はそれぞれ別の表記で同様の出来事を伝えており、信頼できると考えられる。対宋外交を展開するにおいて、雄略天皇は文筆能力したものと思われる(関根淳『六国史以前』)。

・466年 7.? 百済から倭国に逃れて来た者がいた。名を貴信といった。(『日本書紀』)

※この時代、百済より渡来して、朝廷に召し抱えられる人は少なくなかった(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

・468年 石上神宮の七支刀は、この年に制作されたという説がある。

※銘文に刻まれた元号、「泰○」の○を「和」と考えるのは、残っていた縦線を「禾」と推測したからである。また、「丙午」の日がある「泰」の字を用いた元号がないことや、「泰」は「太」に音が通じるとして、「泰和」年間の根拠とされる。しかし、銘文の「五月丙午」というのは、鏡や刀剣を鋳造するうえで、火気が盛んと考えられた五月と丙午の文字を刻んだものである。つまり、実際に鋳造日が五月丙午であったとは限らない。「泰」をそのまま読めば、泰始4年(468)が考えられる。この年は百済高句麗の侵攻に悩まされており、百済から倭国に、同盟の証として贈られたと推測する見解がある(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、雄略天皇は穴穂部を設置することを命じたという。

・辛亥年(471?) 7.? この年、とある鉄剣に銘文が刻まれた。その銘文は、杖刀人の首である「乎獲居臣」の系譜と、彼が「獲加多支鹵(わかたける)大王」を補佐していたことを語る。この鉄剣は稲荷山古墳から発見された。

※人名の尊称として用いられる「ワケ(=獲居)」の前には「ノ」が用いられない。そのため、「乎獲居」は「乎獲居」は「ヲノワケ」ではなく「ヲワケ」と読むと考えられる(田中卓「ヲワケノオミの実像」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

※「獲」の韻尾と「居」の頭子音は同じ「k」であるが、「獲居」は「ワケ」と読み、字音の韻尾は省略される。つまり鉄剣の銘文には略音仮名が見られる(沖森卓也『日本語全史』)。

※『和気氏系図』には「倭子乃別君」という人名が見られ、「別君」の前に「乃(ノ)」の字が見える。「別君」に相当する「臣」の前には「ノ」を入れて読んだと考えられ、「乎獲居臣」は「ヲワケノオミ」も発音したと推測される(田中卓「ヲワケノオミの実像」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

※その鉄剣は、獲加多支鹵大王=雄略天皇に仕えた乎獲居臣が、自身を懸賞するために銘文を彫り、後に彼の死後に副葬されたのだと考えられる(篠川賢『継体天皇』)。

※乎獲居の祖父「多沙鬼獲居(タサキワケ)」までは名前に「ワケ」の称号が見えるが、その後の系譜には見られない。また、『上宮記』の引用する系譜には、垂仁天皇(伊久牟尼利比古大王)の王子,伊波都久和希の系譜があるが、伊波都久和希の曾孫は阿波波智君とあり、称号が「ワケ(和希)」から「君」に変化していることが見受けられる。『和気系図』は7代目の黒彦別までは「ワケ」の称号を持っているが、9代目の加禰古乃別君以降は「君」を名乗っている。各地の有力豪族も用いていた「ワケ」という称号を天皇の血族が独占するようになり、豪族首長は「臣」や「君」を名乗ってウジ・カバネ制に組み込まれたとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史』)。

※「臣」とは臣下を意味する漢語であり、大王に仕えることを示す称号であるとも考えられる。称号として、後の「姓(=カバネ)」と同様の性格を持つものである(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※「杖刀人首」とは、刀を持って護衛を担う者の首長のことだと考えられる(田中卓「刀銘一一五字の解読」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

※杖刀人は王権の護衛に携わる職と考えられる。銘文からして、ムリテは杖刀人のことを大王を補佐する職務であると認識しているため、倭王権を構成する首長らは、各人で職務を分担していたこが伺える(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※関東にあける部の設置に伴って中央官人の派遣がおこなわれており、その一貫として「乎獲居」は武蔵国に移ったとも考えられる(田中卓「ワカタケル大王の世界」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

天皇の子孫を称する氏族は、孝元天皇以前から分かれたことを主張している場合、持つ姓は「臣」である。鉄剣には「乎獲居臣」とあることから、「乎獲居臣」が自身の祖先だと主張していた「意富比垝」を大彦命と同一人物と考える見解もある(田中卓「ヲワケノオミの実像」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

※銘文は乎獲居の祖先として、オオヒコの名を記しており、『日本書紀』において崇神天皇の叔父とされる大彦命のことだとすれば、少なくともこの時点において、大彦命に関する伝承は成立していたとも考えられる(吉村武彦『古代天皇の誕生』)。

※『日本書紀』は大彦命のことを8代天皇,孝元天皇の皇子だと述べる。しかし銘文にはそのことに対する言及がないため、鉄剣が制作された当時はそうした系譜が構想されていなかったとも考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

※オオヒコとは男性の尊称の「ヒコ(彦)」に美称の「オオ(大)」を付けたものであり、一族の始祖の名前としては一般的だとの見解もある(遠山美都男「崇神天皇は実在したか」『日本書紀の読み方』)。

〔参考〕『本朝皇胤紹運録』には、大彦命の孫として「豊韓別命」を記す。

※オオヒコの子息として銘文に「多加利足尼」の名が見える。「足」の韻尾「k」の後に母音「u」が付いて韻尾が音節化する二合仮名であり、「足尼」と書いて「スクネ」と読む(沖森卓也『日本語全史』)。

※「豊韓別(トヨカラワケ)」という名前は、鉄剣の「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」に音が似ており、どちらも「オオヒコ」の孫である。そのため、乎獲居は豊韓別の子孫である阿部氏の一族とも推測される(田中卓「ヲワケノオミの実像」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

※乎獲居の祖父として銘文に「半弖比」の名が見える。「半」という文字の韻尾「n」と「弖」の子音「t」は融合して、濁音「nd」の子音を表したと考えられる。草創期の万葉仮名であり、韻尾の表現にも配慮されていたことが窺える(沖森卓也『日本語全史』)。

※ヤマト政権の先兵として各地に派遣された武将を参考にしてオオヒコの伝承が生まれ、それが『日本書紀』に取り入れられて大彦命に関する記録が形成されたとの見解もある(塚口義信「初期大和政権とオオビコの伝承」横田健一 編『日本書紀研究』第14冊所収)。

※当時の地方の首長は、生前から墳丘の形態を中央から指定されており、副葬品なども中央から下賜されていた。そのため、鉄剣も副葬品と共に下賜されたとも考えられる。乎獲居はオオヒコの子孫を称することを許可されたのであり、中央には文字化された形で天皇の系譜が形成されていたとも考えられる(関根淳『六国史以前』)。

※乎獲居に至るまでの8代は、「世々」朝廷に仕えてきたと銘文にある。「世々」とは倭国の君主に代々仕えてきたことを示すとして、同じ血統で天皇の位が受け継がれていたことを示すとの説もある(高森明勅『日本の10大天皇』)。

※『日本書紀』「景行天皇紀53年10月条」には「磐鹿六鴈(イワカムツカリ)」という人物が見えることから、銘文に見える「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」の「カリ」とはヤマト王権で用いられた言葉だったとも推測される(田中卓「ヲワケノオミの実像」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

※「キ」に「鬼」、「ワ」に「獲」という文字を当てるのは、『三国史記』における朝鮮語の固有名詞の表記と共通している。文章全体は漢文で記し、人名は朝鮮半島と同じ漢字を用いて音を表現するこが、当時の最新の表記方法であったと考えられる(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

※「オ」を「意」、「富」を「ホ」、「已」を「ヨ」に当てるのは古い時代の漢音に由来し、朝鮮半島からの渡来人がもたらした「古音」である。鉄剣の銘文には、「斯鬼」と書いて「シキ」と読むような、無韻尾で1音節表記する全音仮名が見られる(沖森卓也『日本語全史』)。

・?年 8.? 「獲〇〇〇鹵大王」と刻まれた鉄刀が作成された。その鉄刀は、江田船山古墳から出土した。稲荷山古墳出土の鉄剣と同様に、獲加多支鹵大王=雄略天皇のことであると考えられる。

※この鉄刀は、「典曹人」として雄略天皇に仕えた「无利弖(ムリテ)」が、自身の統治の安定を願って銘文を刻んだものだと考えられる(篠川賢『継体天皇』)。

※稲荷山古墳出土鉄剣の銘文には、ヲワケが伝説上の人物と祖先を繋げる系図があるが、江田船山古墳出土鉄刀の銘文にはない。ムリテは、伝説上の系譜に自身を結びつけることや、「臣」の称号の使用を許されない身分であったのだと推測できる(篠川賢『継体天皇』)。

※銘文には、鉄刀を作成したのは伊太和(いたわ)で、銘文を書いたのは張安とある。伊太和は倭人、張安は中国系に思われる。「伊太和」を現代日本語を参考にして解釈することは困難であり、当時の倭人の言葉が、後の時代考証に直接繋がらない場合もあったと考えられる(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

※銘文に「治天下獲〇〇〇鹵大王」とある。本来「天下」は全世界を意味する用語であったが、日本列島を中心とした小世界として用いられていたことが理解できる(熊谷公男『大王から天皇へ』)。

※4世紀の末に高句麗王は「太王」を称して新羅を支配し、百済と抗争を続けていたことから、倭国の君主もまた新羅加耶百済の支配権を主張して「天下」の支配者として「大王」を称したとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・478年 倭王武は宋に使者を派遣して上表文を送った。その上表文には、自分の先祖が東方の95ヶ国を平定したことや、宋に入朝しようとするも高句麗に妨害されていることと、宋に忠節を尽くす志が述べられている。そこで宋順帝劉準は倭王武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任じた。(『宋書』夷蛮 倭国)

※上表文において、武は宋を中心とした国際秩序の中に自らを位置づけ、その王権が正当であると主張し、朝鮮半島において軍事的な優位を確立することを望んでいる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※武は上表文において父,済の名前を記しているが、稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文などからして、当時の倭人が1文字の名前であったとは考えられない。そのため、高句麗百済の影響を受けて、それらの国の王と同様に、意図して「中国」風の1文字の名前を対外的に使用したとも考えられる(河内春人『新説の日本史』第1章)。

※上表文は、四字句を基本とし、対句も用いるなど、正統漢文の様態を成している。また、『春秋左氏伝』、『詩経』、『論語』子罕篇などの、中国の書の条文を意識した表現が散見される。この時代の倭人は、漢文に習熟していたとは考えられず、朝鮮半島から渡来した人々の手によって、上表する文章は作成されたと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※宋は、強い軍事権を持つ開府儀同三司を高句麗王に与えていたため、倭王,武に対してそれを認めることはなかった。百済の都督も以前と同様に認められていない(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

※上表文において、武は先祖の偉業を誇示している。そのため、倭王(天皇)の血統は済(允恭天皇)以前から繋がっているとの見解もある(高森明勅『日本の10大天皇』)。

※上表文にある「祖禰(祖先)」とは、数世代前の人々も含む。そのため、武の語る「祖禰」とは、武の父の済と兄の興だけでなく、珍・済とも血縁があったのであり、天皇は実力だけで選ばれたわけではないとの見解もある(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

※祖先が自ら甲冑を纏って戦を行っていたという上表文の内容は、『古事記』における日本武尊の伝承を思わせる。日本武尊の伝承が雄略天皇の事績に由来する説話なのか、それとも雄略天皇の名「幼武(ワカタケル)」が日本武尊(ヤマトタケル)の伝承に由来するのかは定かではない(吉田孝『日本の誕生』)。

※上表文には、武の先祖が東西に遠征して海北(朝鮮半島)にまで進出していたことが語られる。この時代には、雄略天皇の祖先である景行天皇日本武尊仲哀天皇神功皇后による熊襲征討や三韓征伐の伝承が存在していたとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

・476年 西のRomaのImperator/Caesar,Romulus Augustusは、Odoacerによって退位させられた。

478年5.?  倭王,武は宋に使者を派遣して貢ぎ物を贈った。宋は倭王武を安東大将軍に任じた。(『宋書』順帝本紀)

479年 宋の順帝,劉準より禅譲を受け、蕭道成は皇帝となり(高帝)、国号を斉とした。(『南斉書』高帝本紀) 南朝斉と呼ばれる。

479年 倭王,武は斉より、安東大将軍から鎮東大将軍に格上げされた。(『南斉書』倭国伝)

502年4.8 斉の和帝,蕭宝融からの禅譲を受け、蕭衍は皇帝(武帝)となり、国号を梁とした。(『梁書武帝本紀)

502年4.10 〔参考〕『梁書』「武帝本紀」「倭国」には、梁は倭王,武の称号を鎮東大将軍から征東将軍に格上げしたとある。

〔要参考〕『南史』「校勘記」の「倭国伝」には武(恐らく倭王,武)を征東大将軍にしたとある。

※鎮東大将軍から征東将軍に格上げというのは不自然なため、征東大将軍が正しいと思われる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

倭王武の、476年と502年の称号の格上げは、倭から使節が派遣されたのではなく、新王朝を開いた皇帝による、形式的な冊封である(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・?年 〔参考〕『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の時代、丹波国の豊受神を伊勢神宮に迎え、外宮を設けてそこに祀ったという。

天照大御神は太陽神と農業神という属性を持っていた。そこで農業神である豊受神を祀ることで、天照大御神を純粋な祖先神として称揚したとも考えられる(田中卓「ワカタケル大王の世界」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・〔参考〕『万葉集』巻1の冒頭は、雄略天皇の作とされる歌である。

この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和国はおしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ(山口仲美訳:この岡で菜をお摘みの娘さんよ、お家をおっしゃい。名をおっしゃいな。この大和の国は、ことごとく私が治めている国だ。すみずみまで私が治めている国だ)

雄略天皇が、美しい乙女を見つけて、名を教えてもらうことを望む歌である。かつて女性は、自分の名を知られることは、相手の支配下になることを意味した。つまりこの歌は求婚の歌である(山口仲美『日本語の歴史』)。

※『万葉集』は、雄略天皇の歌を「相聞歌(私的な恋の歌)」ではなく、「雑歌(儀礼歌、公的な歌)」に分類している。雄略天皇を主人公とした原始的な歌劇の中て、春の国見歌として詠われたとも考えられる(伊藤博萬葉集釋注』)。

※『万葉集』の冒頭に採用されたのは、編纂過程で、古い時代の日本の代表的な天皇と見なされていたからだとも考えられる(高森明勅『日本の10大天皇』)。

・?年 雄略天皇崩御後、その王子である白髪王が即位した(清寧天皇)。(『日本書紀』)

・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、清寧天皇大伴室屋を諸国派遣して、白髪部舎人、白髪部膳手、白髪部靫負を設置したという。

〔参考〕『古事記』には、雄略天皇が自身の王子である白髪王の名代として白髪部を定めたとある。

〔参考〕『日本霊異記』には、武蔵国多摩郡小河の郷の人である正六位上,大真山継の妻は白髪部の氏の出身とある。

雄略天皇から清寧天皇の時代にかけて、武蔵国を含む諸国に白髪部が設置されていったものと考えられる(田中卓「ワカタケル大王の世界」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・?年〔参考〕清寧天皇には王子がいなかったため大王位継承候補者を探させた。その結果、履中天皇の孫で市辺押磐王の子息,億計王・弘計王兄弟が発見されたという。(『日本書紀』)

允恭天皇が即位してから清寧天皇まで、履中天皇の子孫からは大王位継承候補者は現れなかった。そのため、王統は履中天皇系と允恭天皇系に分裂したのではなく、允恭天皇の子孫の男子が不在になったことで系統が転換したとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・?年 弘計王が即位した(顕宗天皇)。(『古事記』『日本書紀』)

顕宗天皇の母,荑媛は葛城葦田宿禰の孫とされていることから、玉田宿禰の系統は雄略天皇に滅ぼされたものの、葛城氏の全ては没落していないとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・?年 顕宗天皇崩御後、兄の億計王が即位した(仁賢天皇)。(『日本書紀』)

・?年 仁賢天皇は、雄略天皇の王女,春日大娘王をキサキに迎えた。(『日本書紀』)

雄略天皇の王統が断絶したことにより、雄略天皇の娘である春日大娘王の血統は重要性を増したとも考えられる。仁賢天皇は、雄略天皇の血統を非父系によって継続させる役割も担っていたとも推測される(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・?年 12.? 〔参考〕仁賢天皇が春日大娘王との間に儲けた王子,小泊瀬若鷦鷯王が即位したとされる(武烈天皇)。(『日本書紀』)

※鷦鷯(ササギ)とはミソサザイのことであり、民話などにおいては鳥の王として捉えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※実際は雄略天皇(=武)の王子だという説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・?年 3.2 武烈天皇雄略天皇の王女春日娘子をキサキに迎えたとされる。(『日本書紀』)

・?年 『日本書紀』には、「妊婦の腹を裂く」「爪を剥いだ人に芋を掘らせる」などの、武烈天皇の暴虐さを示す行動が記されている。しかし、『古事記』にはそのような記述はない。

・癸未年(503?) 男弟王は意柴沙加宮に移ったという。(隅田八幡宮所蔵「人物画像鏡」銘文)

※銘文は、斯麻(武寧王,扶余斯摩か)が、男弟王の長寿を祈って青銅鏡を贈ったとも解釈される。男弟王を「ヲホド王・フト王」、意柴沙加宮を「忍坂(オシサカ)宮」として、『古事記』『日本書紀』における男大迹王のことだとする見解もある。男大迹王が大和国の忍坂を根拠地とする有力王族であることを示すともされるが、長寿を願うのは時の倭国の大王であるべきとして、鏡の贈る対象が別人であるとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※鏡そのものは「中国」製を模倣して倭国で作成されたものであるとの説もある。「斯」に「シ」「麻」に「マ」という音に当てはめるのは、朝鮮半島の文献に見られるものである(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

・506年 12.8 武烈天皇は防御した。(『日本書紀』)

※『日本書紀』には、仁徳天皇から武烈天皇までの間に、王統から分かれた氏族が記録されていない。つまり、仁徳天皇系の王統の後裔を称した氏族は存在しない。ただ、『日本書紀』は、清寧天皇崩御した後について、「天皇崩りましし後、天の下治らしめすべき王なかりき」とある点が、武烈天皇崩御後の「天皇既に崩りまして、日続知らすべき王なかりき」に類似していることから、天皇の王子がいない状態になったことを差すと考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

・〔参考〕『日本書紀』によれば、武烈天皇には男子も女子もいなかったことから、大伴金村の提案で、丹波国桑田郡にいる、仲哀天皇の5代後の子孫,倭彦王を新たな大王として迎えることを提案したという。しかし、倭彦王は自分を迎えに来た兵を見てそれを恐れ、山谷に逃げて行方不明となったという。

・507年〔参考〕『日本書紀』によれば、大伴金村は、慎み深く人徳に篤い、応神天皇の5代後の子孫である男大迹王を天皇として迎えることを提案したという。物部麁鹿火や許勢男人らも賛成し、越前国に兵を派遣して男大迹王を派遣したのだという。その姿は既に大王のようであったという。数日間の思案の末に、男大迹王は大王への推挙を承諾したのだという。

※倭彦王と男大迹王は、どちらもかつての天皇の5世孫であることは同じであるが、よりそれまでの王統に近いのは応神天皇の5世孫である男大迹王となる。倭彦王は、人格的にも血統的にも男大迹王に劣る人物に描写されており、丹波国桑田郡に王族がいたことは安易に否定は出来ないとしても、男大迹王を引き立てるために創作された人物と考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

〔参考〕『日本書紀』には、継体天皇の父彦主人王以前の祖先の名は記されていない。『釈日本紀』が引用する『上宮記』の逸文には、凡牟都和希-若野毛二俣王-意富富杼王(太郎子)-乎非王-汙斯王(彦主人王)-男大迹王という系譜が説明されている。

※『日本書紀』に継体天皇の系譜が詳細に記されていないことについては、『日本書紀』にはかつて別巻の系図が付いていたことから(『続日本紀』)、本文にて言及されていないことは不審ではないとの見解もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

※凡牟都和希は通説では「ホムタワケ」と読み応神天皇のことだとされるが、「ホムツワケ」としか読めず、垂仁天皇の王子誉津別命であるとも考えられる。『上宮記』は継体天皇と対立する勢力によって書かれ、出自を貶めるために誉津別命と記したという説がある(佐野仁應「継体天皇の出自」『東アジアの古代文化』所収)。

※『古事記』『日本書紀』が記す垂仁天皇は、時代の離れた2人の君主の伝承を合わせて創作された人物であり、より新しい時代の君主の子供(ホムツワケ)が、継体天皇の祖先だという説もある(坂田隆『巨大古墳の被葬者』)。

※『上宮記』の逸文が、『古事記』や『日本書紀』以前の系譜伝承を伝えるものだとすれば、誉津別命の子孫という伝承を、応神天皇の子孫に修正したとも考えられる(原田実『異説・逸話の天皇列伝』)。

※『上宮記』は「凡牟都和希」が垂仁天皇の子であるとは語っていないことや、『古事記』と『日本書紀』において「凡牟都和希」に発音が近い名前は「品陀和気=誉田別」のほかにはないことから、「凡牟都和希」は応神天皇(品陀和気=誉田別)であるとも考えられる。

垂仁天皇第1皇子の名は「ホムツワケ」とも「ホムチワケ」とも記されており、タ行において母音「u」と「i」は交替が起こりうるという説もある。そのため、タ行の母音が「u」が「i」に交替したことで、応神天皇の名は「ホムツワケ」から「ホムタワケ」に変化したのであり、応神天皇と「凡牟都和希」は同一人物であるとの見解もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

※そもそも、このころには大王の位の世襲が確立していないとの観点からは、仁賢天皇以前の大王に、どこまで血縁関係が認められるかは定かではないとも主張される。「倭の五王」にしても、朝貢を行った王朝が伝えない限りは正確な系譜が中国の史書に記されないことも考慮に入れなくてはならない(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※隅田八幡宮所属の人物画像鏡にある、「男弟王」をオホド、「斯麻王」を百済武寧王,扶余斯摩に比定する解釈がある。その解釈に従えば、斯摩は継体天皇を「王」、つまり君主の血統を持つと認識していたことになる。そのため、異国の百済においても、継体天皇は王統に連なると見なされたのであり、『古事記』『日本書紀』が語るように、王族であったという見解もある(高森明勅『日本の10大天皇』)。

※人物画像鏡を贈る対象が時の倭王であったとすれば、男弟王は既に即位していた人物である。すると『日本書紀』の年代と矛盾が生じる。503年時点で継体天皇が即位していたか、鏡の贈る対象は継体天皇以前の倭王となる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

継体天皇の出自は、近江国坂田郡を拠点する豪族、息長氏だという説がある。ヤマト政権から王族待遇を受けており、神功皇后の諱「息長足姫」にもその字が見えることが根拠となっている(岡田精司「継体天皇の出自とその背景」『日本史研究』第128号所収)。

※『古事記』は意富富杼王の後裔氏族として息長氏を置くことからも、血縁的に近かったのではないかという指摘もある(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

意富富杼王の姉妹である忍坂大中姫は、允恭天皇のキサキとなっている。そのため、意富富杼王の家系は天皇を排出する資格があり、継体天皇は軍事的資質によって選出されたとの説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※ヤマト政権の有力者たちは、継体天皇が有していた勢力圏とヤマト政権を統合することで、勢力圏を機内より外に拡大し、近江国における鉄を生産する基盤を手に入れようとしたとの説もある(山尾幸久『日本古代王権形成史論』)。

・507年 2.4 男大迹王は、大伴金村らの推挙により、樟葉宮にて大王となった(継体天皇)。(『日本書紀』)

※樟葉は淀川の河渡点として重要視されていたことから、琵琶湖から淀川を渡って機内に入る際に、最初の拠点になったのだと考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

・507年 2.4 〔参考〕継体天皇は、物部麁鹿火大伴金村を「大連」に、許勢男人を「大臣」としたという。(『日本書紀』)

※乎獲居のような氏族の持つ「臣」とは異なる称号として、継体天皇の即位を支持した麁鹿火と金村が、天皇に連なるという意味を持つ「連」を称したとも考えられる。その性格に応じて各々の称号が与えられたことで、この時代に「姓(=カバネ)」が成立したとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※『日本書紀』は男人の行動をほとんど記さないほか、『古事記』は名前すら記載がない。彼の後に巨勢氏で大臣になった人物もいないうえに巨勢氏が失脚したという記録もない。後に男人が巨勢氏であったというのは誤りで実際は雀部であったという訴えが認められていることから(『続日本紀天平勝宝3.2.?)、男人が大臣ではなかったとも考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

※『日本書紀』に採用された所伝は、巨勢氏が勝手に創作したと思えないことから、疑問視されるものではないとも考えられる。巨勢氏の本貫は大倭国高市郡巨勢郷であり、曽我川の上流であった。巨勢氏の同族である鵜甘部首氏は、巨勢郷に隣接する宇智郡阿陁郷を本拠地とし、鵜養部を率いて鵜飼を行い、鮎などを朝廷に献上していたとも推測される。宇智郡には「阿田」という地名が多くあることから、南九州から移住した阿多隼人の末裔の鵜飼が居住していたとも考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・507年 3.5 継体天皇は、仁賢天皇の王女手白香王をキサキとした。(『日本書紀』)

※手白香(タシラカ)という名前から、実際は、彼女は清寧天皇(白髪=シラカ)の姉妹であり、履中天皇(=讃)の系統に属するとの説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※『古事記』は継体天皇の系譜について詳細に語らないほか、系図も付属していない。しかし、「手白香命と合せて、天下を授け奉りき」というように、手白香王との婚姻によって皇位を継承したように語られていることから、その詳細な出自は省略したものと考えられる。この婚姻は、かつて仁賢天皇と春日大娘王と婚姻したのように、後を継ぐべき王子が不在の場合の措置として、入婿のような形で王族が大王位を継承したのだと考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

※大王位を継ぐべき男性が、武烈天皇の近親に見られないことから、当時の王族人口の多くは女性が占めていたとも考えられる。そのため大王位継承者の対象となる男性の範囲が拡大されたとも考えられる。新たな王統が創始されるにあたって、手白香王をキサキとすることで、前王統との連続性を主張できるようになったとも考えられる。手白香王のそうした立場から、ヤマト王権におけるキサキの地位は高まったとも思われる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

・507年 3.14 継体天皇は複数のキサキを迎えた。(『日本書紀』)

〔参考〕『日本書紀』によれば、手白香王以外の継体天皇のキサキは、①尾張連草香の娘,目子媛、②三尾角折君の妹,稚子媛、③坂田大跨王の娘,広媛、④息長真手王の娘,麻積媛子、⑤茨田連小望の娘(もしくは妹),関媛、⑥三尾君堅楲の娘,倭媛、⑦根王の娘,広媛であったという。

〔参考〕『古事記』には、茨田連小望の娘(もしくは妹),関媛と、根王の娘,広媛に該当する継体天皇のキサキは記されていない。

※広媛の産んだ兎王と中王は、それぞれ酒人君と坂田君の始祖とされるが、それらの氏族が、祖先系譜を語るために創作した人物であると考えられる。稚子媛、麻積媛子、坂田大跨王の娘,広媛、三尾角折君の妹,稚子媛という、4人のキサキは近江国出身で割合が最も多く、越前国出身者がいないことから、継体天皇近江国出身とも考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

継体天皇のキサキの内、三尾君の出身であるこや、『上宮記』には継体天皇の母,布利比弥命が三尾君の出身とあることから、婚姻において深い関係性が伺える。また、『古事記』は稚子媛(若比売)を列挙するキサキの先頭に置くことや、間に産まれた王子が長男を意味する「太郎子」の名を持つことから、稚子媛が最初の妻であったと考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

雄略天皇崩御後、顕宗天皇仁賢天皇を擁立する勢力と、継体天皇を擁立する勢力が対立しており、継体天皇と手白香王の婚姻により和解が成立したとの説もある(大橋信弥『日本古代の王権と氏族』)。

・507年 3.9 継体天皇は詔により農業と養蚕を推奨し、キサキらは蚕を飼育した。(『日本書紀』)

・508年 梁の武帝,蕭衍は、将軍号を改めた。四征将軍は四撫将軍となった。

倭王にこれまで与えられていた、征東将軍は撫東将軍となったが、倭王がその称号を与えられた形跡はない。高句麗王や百済王に対する称号賜与も次第に途絶えたことからも、「中国」から与えられた称号よりも、実力で朝鮮半島における支配権の獲得を狙う方針に転換していったと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

・508年 10.3 武烈天皇は傍丘磐杯丘陵に葬られた。(『日本書紀』)

・509年 2.? 日本は百済に使者を派遣した。(『日本書紀』)

・509年 ?.?  継体天皇と手白香王との間に広庭王が誕生した。(『日本書紀』)

〔参考〕『元興寺伽藍縁起』は、名を「広庭」とする。

・511年 10.? 継体天皇山城国の筒城宮に遷都した。(『日本書紀』)

・512年 4.6 継体天皇は穂積臣押山を百済に派遣した。(『日本書紀』)

・512年 ?.?〔参考〕百済から求められて、大伴金村任那4郡を割譲し、それを後から知った勾大兄王は憤慨したという。(『日本書紀』)

任那倭国の直轄領だったという記述には疑問があり、実際は、百済がその土地を領有することの承認を金村に求めたことと思われる(熊谷公男説)。

※割譲の記述は、『百済本記』に基づいた記事とも考えられ、信憑性が高いという見解もある(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

継体天皇の「世子」とある勾大兄王は、朝鮮半島の外交に関する国政に関与していたとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※『古事記』は勾大兄という名を記しておらず、「広国押」を全面に出していることから、実名は「武金日」とも考えられる(田中卓「古代天皇の実在」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。以下、「武金日」と記す。

513年 6.? 百済から日本に、五教博士の段楊爾が訪れた。(『日本書紀』)

※五教博士の派遣は、百済任那方面に領土を拡大することを認めてくれたことに対する見返りとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※「中国」において、2文字の姓は異民族を意味するものであり、百済も2文字の姓が多かった。このころ「物部」「大伴」「蘇我」といった2文字の氏族名が生まれたのは、五教博士を通してそうした影響が伝わったものであると推測される(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

513年 11.5 朝廷は百済より来倭した将軍を引見し、己汶と滞沙の土地を百済に与えた。(『日本書紀』)

514年 1.? 継体天皇は、仁賢天皇の王女、春日山田王に匝布屯倉を与えた。(『日本書紀』)

・518年 3.9 継体天皇は弟国宮に遷都した。(『日本書紀』)

・522 ?.? 司馬達等(達止)が来倭し、大和国高市郡坂田原に草堂を建立し本尊を安置した。(『扶桑略記』)

・526年 9.13 継体天皇大和国の磐余の玉穂宮に遷都した。これにより、継体天皇天皇となって初めて大和国に入ったことになる。(『日本書紀』)

継体天皇の大和入りが遅れたのは、大和国河内国にいた、継体天皇を認めない一部の豪族が妨害したからだという説もある(塚口義信「継体大王家の成立」『古代天皇のすべて』)。

※磐余地方は大伴氏の勢力圏であることから、継体天皇の擁立を推進した大伴金村が自らの本拠地に招いたと考えられる。また、継体天皇と目子媛の間に産まれた2人の王子,勾大兄と檜隈高田という名は、蘇我氏の勢力圏に由来すると思われることから、継体天皇の一族を大和盆地に招いた勢力には蘇我氏も含まれていたと考えられる。大和入りを助けた功績から、蘇我氏が台頭したとも推測される(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

継体天皇が都を営んだ磐余の周辺は、天香久山の東方一帯、かつ三輪山の西南麓一帯である。『日本書紀』が語るような天照大御神の祭祀と天香久山の関係性を語る説話は未成立であるとは考えられる。しかし、大王は天上を支配する神の子孫であるという神話は既に形成されており、天神の祭祀に必要な物資を採集する山として、天香久山は崇敬を集めていた可能性が指摘される(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・527年 〔参考〕倭国は「任那」を復興するために、新羅への派兵をしようとしていた。しかしその最中、北九州の有力者筑紫君磐井は、新羅と結託してヤマト政権に反乱を起こしたという(磐井の乱)。(『日本書紀』)

〔異伝〕『古事記』は「筑紫君石井」が天皇の命令に従わなかったため討伐されたとだけ記されている。

・527年 8.1 大伴金村の推挙により、物部麁鹿火が磐井の討伐のために派遣された。(『日本書紀』)

継体天皇の勢力と反対勢力の対立によって、地方に対する支配が弱まり、九州の磐井のような地方勢力が強大化していたが、継体天皇が大和に入った後に政権の基盤を安定させることに成功し、磐井の討伐を遂行したのだと考えられる。磐井の台頭によってヤマト政権は危機感を抱き、中央豪族は結束力を持ち、継体天皇の大和入りが実現したとも推測できる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

・528年 11.11 物部麁鹿火は磐井を敗死させ、磐井の乱は鎮圧された。(『日本書紀』)

〔異伝〕『釈日本紀』が引用する『筑後国風土記』によれば、勝てないことを悟った磐井は、豊前国上膳県に逃れて、南山の嶺の隅で死去したという。

※磐井が攻撃を逃れたという話は、磐井に同情する民衆の願望によるものと考えられる。また、豊前国上膳県にまで逃れたという伝承からは、そこまで磐井の勢力圏であったことを伺わせる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

〔参考〕『釈日本紀』が引用する『筑後国風土記』によれば、磐井の墓には、猪を盗んだ人が全裸で跪き、盗んだ馬や猪が並べられ、衙頭(政所)にて処罰内容が決定される様子が石像として表されていたのだという。

※並べられた石人と石馬は磐井の権力構造を表現したものであり、刑罰の執行が政庁で決定されていることを表していることから、磐井は地域的政治権力として国家形成意志を持っていたことを示すものであり、「磐井の乱」とは機内と九州の勢力が国家形成を目指して衝突した戦争であるとの見解もある(吉田晶「古代国家の形成」『岩波講座 日本歴史 Ⅱ』)。

※祭祀を行う場において罪人を裁く光景を再現することは古墳造営の目的や当時の罪の概念から外れており不自然であるとして、『筑後国風土記』はあくまで石人と石馬の伝承を語るものであり、『風土記』編者による創作とも考えられている(岡田精司「風土記の磐井関連記事について」『神々の祭祀と伝承』所収)。

※石人と石馬の由来は、民間伝承により生まれた可能性を捨てきれないとの見解もある(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

※磐井の墓と考えられる岩戸山古墳は、その巨大さから中央政権に対する力の誇示が伺える。そのことから、九州北・中部勢力はヤマト王権への反乱を企てたほか、磐井が登場するあたりから自立志向があったと推測され、「磐井の乱」とは、その自立の動きを制圧したものとも考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

・528年 12.? 磐井の子息,葛子は、直轄領糟屋屯倉を差し出して朝廷に降伏した。(『日本書紀』)

※葛子は赦免されていることから、磐井の反乱には参加していなかったとも推測される。子息すら参加していないことから、大規模な反乱ではなかったとも考えられる(高森明勅『日本の10大天皇』)。

※ヤマト政権に従属した各地の有力首長は、「国造」という地方官に任じられた。国造は、地位の保証の代わりに政権に軍事力を提供し、物資を供給することが義務付けられた。彼らの中には屯倉の管理に携わっていた者もいた(西山良平・勝山清次 編著『日本の歴史 古代・中世編』)。

※磐井が「筑紫国造」として『日本書紀』に記されるのは、ヤマト王権に葛子が服属した後に、その職を子孫が世襲したからとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・529年 3.? 倭は加羅の多沙津を百済聖王扶余明禯に与えた。

・529年 4.7 任那王が来倭し、朝廷に対して、新羅から侵攻されたため援助を要請した。(『日本書紀』)

・530年 2.? 継体天皇は、「磐余彦の帝」と「水間城の王」の時代より、賢い臣下が補佐したことにより繁栄が保たれていると述べた。胆瓊殖の時代には、大彦がいたことを例に挙げた。(『日本書紀』)

崇神天皇大彦命を重用したという伝承が、胆瓊殖(イニエ)という実名と共に伝承されていたことを示すものと考えられる。また、神武天皇が「ハツクニシラス」天皇として見えるのは継体天皇の時期である(小林敏男邪馬台国再考』)。

・?年 ?.? 〔参考〕継体天皇の時代、麻多智という人物が、谷の葦原を開拓して田を開墾しようとしたが、そこに夜刀(蛇)の神の群れが現れて開墾を妨害した。麻多智は夜刀の神々を追い払い、山の下の田が人のものであることを宣言し、末代まで神を祀ることを主張して、祟りを起こさないよう乞うた。(『常陸国風土記』)

※この逸話は、人間が自然を支配ながらも、人間の支配が及ばない地域に関しては神格化して祀るという、打算的な宗教性が見て取れる(藤縄謙三『ギリシア文化と日本文化』)。

・531年 2.7 継体天皇崩御した。(『日本書紀』)

〔異伝〕『日本書紀』の引用する『百済本記』は、天皇、皇太子、皇子が同時期に死去したと記す。それを参照して、「或本」の所伝として534年に継体天皇崩御したという分注がある。

・531年 12.5 継体天皇は藍野陵に葬られた。(『日本書紀』)

宮内庁は太田茶臼山古墳継体天皇陵としている。しかし大田茶臼山古墳は5世紀中盤の古墳であることから、今城塚古墳こそが藍野陵だと考えられている(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

・534年1.? 武金日王は大王になり(安閑天皇)、勾金橋宮に遷都した。(『日本書紀』)

安閑天皇の即位年は、『百済本記』を参照したことで534年としたものの、継体天皇崩御年は531年のまま訂正をしていなかったため、『日本書紀』の本文には2年の空位ができたという見解もある(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※実際に即位したかには疑問も持たれている(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)

・534年 3.6 〔参考〕『日本書紀』によれば、安閑天皇は、仁賢天皇の王女の春日山田王をキサキとしたとされる。

〔参考〕『日本書紀』は、安閑天皇のキサキとして物部木蓮子の娘,宅媛の名を記す。

※実際に物部氏からキサキが排出されたかは不明であるものの、継体天皇系の支持勢力の中に物部氏がいたことを示しているとも考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

・535年 5. 〔参考〕『日本書紀』によれば、筑紫、豊国、火国に、8ヶ所の屯倉が置かれたという。

※葛子から献上されたものと思われる。それだけの数がその月に置かれたとは思えないことから、その年の前後にかけて北部九州に屯倉が置かれたことを、一括して記事にしたものと考えられる(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

・535年 12.17 安閑天皇は勾金橋宮にて崩御した。享年70。(『日本書紀』)

・536年 安閑天皇の同母弟が即位し、(宣化天皇)父と兄同様に仁賢天皇の王女春日山田王をキサキにしたとされる。(『日本書紀』)

宣化天皇に関しても、安閑天皇と同様に大王になったという記述に疑問が呈されている(倉本一宏『蘇我氏』)

536年 1.? 宣化天皇は檜隈廬入野宮に遷都した。(『日本書紀』)

・536年 2.1 蘇我稲目は大臣に任じられた。(『日本書紀』)

※かつて「大臣」は「オホオミ」と呼ばれ、「臣」を姓とする氏族を束ねる者と解釈され、「連」を姓とする氏族を束ねる「大連」と並び立つ存在だと考えられた。しかし、『古事記』『日本書紀』以外に、「大連」の存在を示す史料は無い。そのため後の時代に、「連」を姓とする氏族が台頭したことに起因する作為であるとも考えられる。そのため、「大臣」は「臣」を姓とする氏族の代表者であるという解釈も否定的な見方をされるようになった。(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※「大連」もまた執政者であり、「大臣」と同じように「オホマエツキミ」と呼ばれ、並び立つ存在であったとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※マエツキミ(大夫・群卿)とは、大王の前に侍る貴人を意味する。それを束ねるのがオホマエツキミである。血統的世襲による王権を支えるために、大王を豪族が支える機構を整えたのだと考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※実際に「大臣」という職に最初就いたのは、稲目であり、それまでヤマト王権に従属していなかった一族が、高待遇によって大王の臣下になったとも推測される(篠川賢『飛鳥と古代国家』)

※『日本書紀』には、蘇我氏武内宿禰の子息蘇我石川宿禰から始まるとするが、実際は稲目が大王から賜った氏名(ウジナ)と考えられる。「蘇我」とは大和国高市郡にあった地名である。その地名は、物を浄化する神聖な植物とされたスゲ・スガ(菅)に由来するとされる。植物由来は珍しい例である(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※後に稲目の子息,馬子は、葛城県を「本居(生まれ故郷)」だと語っている(『日本書紀推古天皇32年10月癸卯朔条)。このことから、馬子の母、つまりは稲目の妻は葛城に勢力圏を持っていた豪族だと考えられる。それが葛城氏だとすれば、その地盤と血統を取り込んだことで、新興豪族ながら宣化天皇に抜擢されたのだと考えられる(遠山美都男『新大化改新』)。

※血脈を受け継いだならまだしも、葛城氏との婚姻した段階ではその地盤は受け継げないという見解もある。蘇我氏の台頭は東漢氏、船史、白猪史、津史といった渡来系氏族を統轄し、その知識を運用できたことが理由であり、そうして地位を高めたことで、葛城氏の女性との婚姻が可能になったとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※渡来系氏族を束ねて、政権の財政を担当したことが台頭の理由と見られる。また、葛城氏の地盤を継承したことで、尾張氏葛城山田氏などを傘下に加えている(佐藤信 編『古代史講義』)

蘇我氏は、文字の読み書きの能力や、鉄の生産・灌漑水路工事・乾田・須恵器の制作・錦を織る・馬の飼育などの技術を持つ渡来人を束ねたこともその権力隆盛の要となった(倉本一宏『蘇我氏』)。

536年 宣化天皇は、仁賢天皇の王女、橘仲王をキサキに立てたという。(『日本書紀』)

536年 2.? 〔参考〕『日本書紀』によれば、宣化天皇大伴金村物部麁鹿火は元の通り大連とし、蘇我稲目を大臣、阿倍大麻呂を大夫としたという。(『日本書紀』)

〔参考〕『古語拾遺』によれば、雄略天皇の時代、蘇我氏は斎蔵・内蔵・大蔵の3つの蔵を管理していたという。

※『古語拾遺』の伝えは実際のものとは考えられないが、蘇我氏は朝廷の財務管理を行っており、その実務を担っていた渡来人を従えていたことは事実と推測される(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・536年 5. 那津官家が設置され、尾張国、新家(伊勢国壱志郡新家か)、伊賀国屯倉に保管されていた穀米がそこに移送された。その際に蘇我稲目物部麁鹿火、阿部臣(大麻呂か)が貢献した。(『日本書紀』)

※那津官家はヤマト王権の九州統治と対外交渉、そして軍事の出先機関となることを目的に設置された。磐井の討伐と那津官家の設置により、九州地方の支配を強化することが可能となった。また、『日本書紀』はその設置に有力豪族である蘇我氏物部氏、阿部氏が携わったことを語っている(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)。

538年?.? 宣化天皇が橘仲王との間に儲けた王女、石姫王は、天国排開広庭との間に訳田渟中倉太珠敷王を儲けた。(『日本書紀』)

539年 宣化天皇は、檜隈廬入野宮にて崩御した。(『日本書紀』)

宣化天皇も同母兄,安閑天皇と同じく在位期間が短い。継体天皇が手白香王との間に儲けた天国押開広庭王が即位するまでの期間に、あえて高齢で在位も短いだろうと予想される彼ら兄弟が即位していたという見解もある(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』)。