ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

垂仁天皇から応神天皇までの時代

・?年 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇88年7月10日条」によれば、垂仁天皇は、天日槍(日桙)の曾孫,但馬清彦に宝物を献上させたという。

※ 清彦は伊都国王と共通祖先を持つ、但馬国に移り住んだ一族とも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇11年3月11日条」によれば、垂仁天皇天照大御神を豊鍬入姫命から離して倭姫命に託したという。倭姫命天照大御神を鎮めるための場所を探し、最終的に伊勢国に至り、天照大御神の意志に従ってそこに祠と斎宮を興てたのだという。(『日本書紀』)

〔異伝〕『日本書紀』の引用する「一書」によれば、天照大御神大水口宿禰に憑依して、先代の崇神天皇天照大御神を祀ることに不備があったことを伝え、それを悔いて正しく祀れば、天皇の寿命は長く世の中も平和になると伝えたのだという。そこで長尾市宿禰天照大御神を祀らせたのが、伊勢神宮の創始であるのだという。

伊勢神宮創始の異伝は、崇神天皇垂仁天皇の物語が不可分で神話的であることを示す。また、斎宮に関する記録も長くないことから、垂仁天皇の時代に伊勢神宮が成立したという記述は事実ではないと考えられる(新谷尚紀『伊勢神宮出雲大社』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇33年7月己卯条」によれば、墳墓を造営する際、野見宿禰は生贄を埋める代わりに出雲国から土部100人を呼んで人や馬の形をした埴輪を埋めさせるようにしたという。

箸墓古墳のような、吉備から貢納させた製品を用いる方法から、出雲から呼んだ技術者に製品を制作させる方法に転換したとも考えられる。制服池から人的資源を収奪したことで、ヤマト王権は勢力を拡大したとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・289年 5.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅に侵攻するとの情報があったため、甲兵を配備したという。

・292年 6.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵は新羅の沙道城を陥落させたという。

・294年 夏〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵は新羅の長峯城を攻めたという。

・295年 春〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅王,昔儒礼は百済と結託して倭国を攻めようとしたが、臣下が反対したため中止したという。

・300年 1.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅倭国は友好関係を結んだという。

※『日本書紀』には該当記事がないことから、この「倭国」はヤマト王権ではなく九州の王権であるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・311年? 〔参考〕辛未の年、垂仁天皇崩御した。(『住吉大社神代記』)

※『住吉大社神代記』は、崇神天皇崩御年を「戌寅」、垂仁天皇崩御年を「辛未」と記す。「戌寅」が318年だとすると、垂仁天皇との崩御年が逆転してしまう。そのため、垂仁天皇崩御年は311年、崇神天皇崩御年はそれより前の258年だと推測される。『古事記』は垂仁天皇崩御年を153歳、『日本書紀』は140歳とする。これは古くから垂仁天皇が長寿であると伝承されてきたことを示しており、『住吉大社神代記』から考証される53年という在位もありうるという見解もある(田中卓「八代系譜の信憑性」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・311年?〔参考〕垂仁天皇崩御後、その子息が即位した(景行天皇)。(『古事記』『住吉大社神代記』)

景行天皇の和風諡号は「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という。「大足彦」は尊称「別」は追号であり、実名は「忍代」とも考えられる。「ワケ」という名号は後代にもあるため、信頼性が置けるという見解もある(小林敏男邪馬台国再考』)。

景行天皇の兄弟には「五十日足彦(イカタラシリコ)」や「胆香足姫(イカタラシヒメ)」がいることや、自身も「オオタラシヒコ」という尊称を持っていることなどから、当時は「タラシヒコ」という呼称が流行していたとも考えられる(田中卓「古代天皇の実在」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・312年 3.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、「倭国王」が使者を派遣し、自身の子息の婚姻を望んだという。そこで新羅から阿飡,急利の娘が倭国に送られたという。

※『日本書紀』には記述がないため、「倭国王」は九州の君主であったとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・317年 司馬睿は江南にて、晋の皇帝として即位した(元帝)。これを東晋という。

※非漢人の支配を嫌った華北漢人は江南に移動した。そのため、「中国」における人口分布が変化した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

東晋は伝統的な「中国」の中心地区を領していなかったが、胡族による北朝は「索虜(髪を縄で結んだ野蛮人)」であると位置づけ、東晋こそが晋の後継たる「中国」であると自称した。対する北朝は、自分たちは伝統的な「中国」の地域を支配しており、東晋はもはや、その地域を失った「島夷(海に浮かぶ島の野蛮人)」であり「中国」を自称する資格を失ったと考えていた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

東晋により、中原で奏でられていた宮廷音楽は南方によって保存されることになる。(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇12年9月5日条」によれば、景行天皇は周防に至り、九州に偵察を派遣したという。

・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、豊前国の神夏磯媛はヤマト王権に恭順し、敵対する鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折を討伐することを頼んだという。

ヤマト王権の協力によって、敵対勢力の討伐を願っていることから、九州の王権は分裂状態にあったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇18年4月3日」によれば、景行天皇は熊県に到着したという。兄熊はヤマト王権に恭順し、反抗する弟熊を滅ぼしたという。

※熊県は陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」の記す狗奴国のことだとも推測される。狗奴国はヤマト王権への恭順を望む派閥と抵抗を望む派閥がおり、『日本書紀』は兄弟の対立として描いているものと考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇19年9月20日条」によれば、景行天皇日向国から帰還したという。

〔参考〕『肥前国風土記』によれば、基肆郡の神の要求に応えて、景行天皇は自身の甲冑を長岡神社に奉納したという。

※地方の神が神宝を要求していることからして、天皇の屈服の暗示とも考えられる。平塚川添古墳と関係する勢力にヤマト王権軍は敗れて帰還したとも推測される。『三国史記』の記述からして、当時の九州の王権は新羅と友好関係にあり、そうした背景から勝利できたとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇40年条」によれば、景行天皇は自身の王子,大碓命美濃国に封じたという。

美濃国は、ヤマト王権支配下になったとも考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇紀51年8月4日条」には、景行天皇は、自身の王子である稚足彦尊・五百城入彦兄弟およびその異母兄,小碓命を「太子」にしたとある。

※皇太子は1人であるはずであり、そもそも当時の日本に皇太子制は成立していない。そのことから、河内を中心とした政権が成立するうえで複数の血縁集団が関わったことを、3人の太子として伝承したのだと考えられる(原田実『異説・逸話の天皇列伝』)。

・?年 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、景行天皇崩御後、その王子で、日本武尊の弟が即位したという(成務天皇)。

成務天皇の和風諡号は「稚足彦」である。これは追号であり、実名は伝わっていないと考えられる。これは実名で呼ぶことを忌避する風潮から実名が忘れられたのであり、実在性の有無とは無関係であるとも考えられる。あえて実名を創作しなかったことからも、実在する天皇として伝承されてきたことの証左とも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

?年 〔参考〕『日本書紀』「成務天皇4年2月1日条」によれば、地方に天皇の命令に従わない者がいるのは、国郡の長と県邑の首がいないからだとして、国の長を国郡の首長に取り立てるように定めようとしたという。

※当時の倭国に国郡制はなかったが、地方行政の整備を推進していったことを伺わせる記述である(米田雄介『歴代天皇皇位継承事情』)。

・341年西Gut人のWulfilaはEusebiosから司教に任じられた。

※German人はChrist教を通して「人間は人間として自由(der Mensch als Mensch frey)」であり、人間の本性を成すのは精神の自由であるという認識に達したとも分析される(Georg Hegel『世界史の哲学』1830~1831〔冬学期〕序論)。

・345年 2.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、「倭王」は新羅と断交したという。

・346年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅の風島に来襲して略奪をはたらき、金城を包囲して攻めたという。

陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には対馬国一支国は食糧に乏しく交易を行っていたとある。海商は海賊的行為を行うこともあるため、新羅に来襲したのは対馬国一支国の人々だったとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・355年? 3.15 〔参考〕乙卯の年、成務天皇崩御したという。(『古事記』)

※『古事記』の記す最後の干支「戊子」より遡り、最初の「乙卯」の年は355年となる(末松保和「古事記崩年干支考」)。

・355年? 〔参考〕成務天皇崩御後、甥である日本武尊の子息が即位したという(仲哀天皇)。(『古事記』)

仲哀天皇の和風諡号は「足仲彦」である。これは追号であって、実名は不明とも考えられる。実名を忌避する風習の結果忘れられたとも推測される。実名を後世に創作されなかったことから、実在する天皇として伝承されたとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

・364年 百済からの使者が卓淳国に至った。(『日本書紀』)

・365年 1.壬午 ヤマト王権軍は筑紫国に侵攻した。岡県主の祖,熊鰐はヤマト王権に恭順した。(『日本書紀』修正紀年)

※熊鰐の勢力は、不弥国の末裔であり、宗像三女神を信仰していたとも推測される。また、九州王権の統一が乱れていたことが窺える(若井敏明『謎の九州王権』)。

・365年 筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手はヤマト王権に恭順した。(『日本書紀』修正紀年)

※五十迹手は伊都国王の末裔とも考えられる。邪馬台国が九州にあると考える立場から、狗奴国は邪馬台国を滅ぼした後に伊都国を支配下に置いていたという見解もある(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・365年 1. 己亥 ヤマト王権軍は筑紫国の儺県に至った。(『日本書紀』修正紀年)

※ 伊覩県主の恭順によって、かつての奴国の地に入ることができたことになる。そのため、奴国の地は既に伊都国が支配していたとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

※『古事記』によれば、神功皇后の母方の祖先は天日槍(日桙)である。伊都国の首長の末裔であったことから、伊都国を中心とした北九州の勢力の協力を得ることができたとも推測される(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・365年 9.己卯 仲哀天皇は九州に出兵し、熊襲と交戦した。ヤマト王権軍は勝つことができず、撤退した。(『日本書紀』修正紀年)

・366年 3.乙亥 ヤマト王権は卓淳国に斯摩宿禰を派遣した。(『日本書紀』修正紀年)

神功皇后の称制46年は西暦246年だとしている。ただ実際は干支を2回繰り下げた120年後の366年とも考えられる(若井敏明『「神話」から読み解く古代天皇史』)。

・366年 2.丁未〔参考〕『日本書紀』「一云」によれば、仲哀天皇は敵軍の矢が命中して崩御したという。

仲哀天皇は、戦死したか戦争の直後に崩御したとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・366年 〔参考〕『日本書紀』によれば、仲哀天皇崩御後、キサキの気長足姫が政務を執り行ったという。

※気長足姫は開化天皇の玄孫であるのに対して、仲哀天皇のキサキの1人,大中姫は景行天皇の孫である。大中姫のほうが有力であり、彼女の産んだ香坂王・忍熊王仲哀天皇の後継者と考えられていたと推測される。気長足姫は仲哀天皇に同行した先の九州において、自身の産んだ誉田別王を擁立する形でヤマト王権の掌握を図ったとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・366年 百済王はヤマト王権に五色の絹、弓箭、鉄鋌を送った。(『日本書紀』修正紀年)

・367年 百済からの使者が倭国を訪れた。(『日本書紀』修正紀年)

百済からの使者は「先王の望し国の人」と表現されていることから、仲哀天皇の時代から百済との接触が行われていたと推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・367年 〔参考〕ヤマト王権軍は山門県に至り、田油津媛を滅ぼした。田油津媛の兄,夏羽は援軍を率いたが、妹が滅ぼされたと知ると逃げたという。(『日本書紀』修正紀年)

※卓淳国への使者の派遣を通して百済との外交関係を構築し、鉄資源や軍事物資の援助を得たことで勝利できたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

※田油津媛は卑弥呼の王権の後継であったとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

※夏羽は狗奴国に庇護を求めて逃亡したとも推測される(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。

邪馬台国の後継国家を滅ぼしたヤマト王権が、邪馬台国ら九州連合が名乗っていた「倭国」を用いるようになったことで、それが日本列島を指す名称になったとする見解もある(若井敏明『仁徳天皇』)。

・369年 〔参考〕ヤマト王権軍は朝鮮半島南部に出兵した。卓淳国に駐屯し、新羅を攻撃した。獲得した枕弥多礼の地は百済に与えたという。(『日本書紀』修正紀年)

神功皇后は祖先に天日槍がいたことで(『古事記』)、伊都国の勢力の協力を得ることができ、玄界灘朝鮮海峡を渡ることが可能であったとも推測される(田中卓「古代天皇の系譜と年代」『日本国家の成立と諸氏族』)。

※最初に卓淳国に集結していることや、百済に土地を与えていることから、卓淳国と百済の要請だったとも推測される(若井敏明『「神話」から読み解く古代天皇史』)。

ヤマト王権は新たな領土を獲得していないことから、朝鮮遠征の目的は領土ではなく援助した百済加羅、そして勝利した新羅から、恒常的に文物を供給してもらうことだったとも考えられる。そうした関係性が、百済倭国に「朝貢」を行うという表現で『日本書紀』に反映されたとも考えられる。その見返りとしね、倭国百済の安全保障を担ったとも推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

朝鮮半島との軍事的な関わりは、軍事指導者の地位を高めることになり、上流・中流階級は男性化が進んだと考えられる(清家章『卑弥呼と女性首長』)。

・372年 百済ヤマト王権に七支刀を贈った。(『日本書紀』修正紀年)

〔参考〕『日本書紀』には、百済朝貢して来たときに献上したものとある。

※七支刀に関する『日本書紀』の記述は、『百済記』に依拠すると考えられる。『日本書紀』の編纂過程で、日本に亡命した百済人が作製・提出したものと考えられ、内容は日本に迎合するものに改変されている可能性が指摘される(熊谷公男『大王から天皇へ』)。

石上神宮の七支刀には泰○4年5○(月)16日、丙午(太和4年(369)か)に倭王のために制作されたと記されている。

※七支刀の銘文の解釈としては、晋が百済を仲介として倭国に授けたという説(栗原朋信説)、百済倭国に献上した説(福山敏男、榧本杜人説)、百済倭国に下賜した説(金錫亨説)、対等な立場から百済から倭国に贈った説(吉田晶、鈴木靖民説)がある(河内春人『倭の五王』)。

※晋は倭国に七支刀を下賜する必要性はない。高句麗からの侵攻に対して百済倭国から援助を受けた形跡はないため、百済からの献上説には批判がある。また、倭国の鉄資源依存は加耶地域に対してであり、百済に臣従する必要はない(河内春人『倭の五王』)。

※七支刀は、百済から倭国に鉄資源を送るという約束を示すものであったとも考えられる。鉄資源の入手により、天皇権力の経済・軍事力は高まったとも推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

百済は、領土拡大のために南下する高句麗に対抗するために倭国と同盟することを求め、その証として七支刀を送ったと考えられる(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。

・382年 〔参考〕新羅倭国に「朝貢」を行わなかったという。(『日本書紀』修正紀年)

・385年 11.? 扶余暉が百済王に即位した(辰斯王)。(『三国史記百済本紀)

〔要参考〕『日本書紀』の引く『百済記』には、先王の枕流が崩御した際にその王子が幼かったため、枕流の弟が王位を簒奪したとある。

・389年? 気長足姫は薨去した。(『日本書紀』修正紀年)

※『日本書紀』は、辰斯王の即位を気長足姫の摂政在職65年、辰斯王の薨去を摂政在職69年とする。そのため、辰斯王の即位から4年後の389年に神功皇后薨去したとも推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

・390年? 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、気長足姫の崩御後、誉田別尊が即位したという。

応神天皇のキサキには、景行天皇の孫,品陀真若王の娘がいる。「ホムダ」という名前が応神天皇と共通していることから、父親のいなかった誉田別尊をホムダの地で養育していたとも推測される。応神天皇品陀真若王の娘たちとの間に儲けた大鷦鷯王らの王子は、生まれながらにして次期天皇に相応しい存在と見込まれていたと考えられる(若井敏明『仁徳天皇』)。

・391年〔参考〕『好太王碑文』によれば、倭は、高句麗の属国であった百済新羅を攻撃して、服属させて「臣民」にしたのだという。

・392年〔参考〕百済の辰斯王,(扶余暉?)は「天皇」に対して無礼をはたらいたため、倭国から百済に問責の使者が派遣されたという。(『日本書紀』修正紀年)

※無礼の内容は不明であるが、倭国に送る「調」の質や量に関する事案であったとも推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

・392年 11.? 百済の辰斯王,(扶余暉?)は崩御した。(『三国史記百済本紀)

〔参考〕『日本書紀』には、倭国の要請に屈した国臣によって殺害されたとある。

※『好太王碑文』の内容から、倭国は前年より百済に対して軍事行動を開始し、百済王をすげ替える政変を起こしたとも考えられる。応神天皇の即位に伴い、対外政策は軍事的要素が強まったとも推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

・392年 枕流王の王子が百済王に即位した(阿莘/阿花王)。(『三国史記百済本紀『日本書紀』)

※『日本書紀』は、阿花王の即位を応神天皇即位3年目の出来事とする。年代にも矛盾はないため、応神天皇の即位は390年と推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

・393年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、「倭兵」は新羅の金城を包囲したとある。新羅王は独山で「倭兵」を破ったという。

・396年 〔参考〕高句麗の永楽太王,高談徳(国罡上広開土境平安好太王)は、倭国の属国となっていた百済を攻めて、再び高句麗に服属させたのだという。(『好太王碑文』)

※『好太王碑文』は、談徳の子息である長寿王,高巨連が建てたものであり、父の功績を讃えるために百済高句麗の属民と書いて誇張していると見られるほか、倭国を実態よりも強大にしていると考えられるものの、倭が朝鮮半島に出兵したことは事実であると思われる(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。

※碑文の中の「百残(済)○○新羅」の文字を欠く場所が加耶であると考えれば、倭国はそれらを服属させたというのが事実でないとしても、軍事顧問的な立場として、時には指導者的立場として百済加耶と協力し、高句麗に対抗していたとも推測される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『好太王碑文』は、新羅百済を従属させることを正当化するために、2国は高句麗の属国であったという、実際とは違う歴史を述べる。倭国百済高句麗を服属させたということも、実際とは異なる(河内春人『倭の五王』)。

・397年 5.? 百済は阿莘王の太子,腆支を人質として倭に派遣した。(『三国史記』「百済本紀 阿莘王」)

〔参考〕『日本書紀』が引用する『百済記』には、百済の阿花王(阿莘王)は倭国に対して無礼であったため、倭国百済から領土を奪い、王子の直支(腆支)を人質にしたとある。

応神天皇8年は修正紀年において397年となり、『三国史記』と一致する(森公章倭の五王』)。

高句麗に服属させられて以降、百済は反倭国の立場にいたと考えられる。そうした態度に対して、倭国は領土と王子を奪うという手段を選んだとも考えられる。百済から領土を奪ったのは、かつて倭国の協力で得た土地は、倭国と敵対するなら倭国に差し出すべきだという価値観を持っていたからとも考えられる(若井敏明『仁徳天皇』)。

・399年 晋の僧侶,法顕は、Indoを目指して旅立った。

・399年 倭は百済と「和通」した。(『好太王碑文』)

・400年 永楽太王,高談徳は、歩兵と騎兵50000を派遣して新羅を救援し、「倭賊」を撃退した。(『好太王碑文』)

※支配体制も未確立なまま倭国が軍を派遣したのは、百済からの要請で無謀ながらも戦争を行ったとも推測される。倭国内の外交担当者に百済出身者がいたのかもしれない(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※安岳3号墳の壁画から、高句麗の歩兵は長距離の射程を持つ弓を装備していたことが推測される。対して倭国軍は短甲と大刀という重装備であり、接近戦を得意としていた。矛を装備した騎兵によって、高句麗軍は倭国軍を破ったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※馬を駆使する高句麗軍に敗れたことが、倭国が馬を導入する契機になったのだと考えられる(河内春人『倭の五王』)。

倭国の軍隊が撤退する際に朝鮮半島から倭国に渡る者もおり、漢字漢文を本格的に倭国に伝えたとも考えられる(沖森卓也『日本語全史』)。

・402年 弓月君という人物が倭国に渡来したという。弓月君は、自分の民と共に倭国への帰化を望んでいたが、それらの人々の渡来は新羅人に妨害されていると述べた。そこで倭国葛城襲津彦を派遣したという。(『日本書紀』修正紀年)

〔参考〕『新撰姓氏録』には、弓月君は秦の始皇帝,趙正の末裔とある。

※『晋書』「辰韓伝」には、秦の末裔を称する人々が辰韓に住んでいたとある。永楽太王,高談徳が新羅領に侵攻したことを受けて、倭国への亡命を望んだとも考えられる(若井敏明『仁徳天皇』)。

・402年 新羅は人質として倭国に未斯欣(美海)を派遣した。(『三国史記新羅本紀)

高句麗の協力で倭国からの侵攻は防いだものの、それ以上の侵攻を防ぐために倭国に人質を送ったとも考えられる(若井敏明『仁徳天皇』)。

・404年? 8. 丁卯 〔参考〕百済王は使者として阿直岐倭国に派遣し、良馬2頭を贈ったという。(『日本書紀』修正紀年)

※『古事記』にも百済王,主照古王が馬を贈ったとある。主照古王は『三国史記』における近肖古王のことであるが『三国史記』における在位年数(346~375)と『日本書紀』の修正紀年は一致しない。とはいえ、馬を使用していた高句麗との対立もあり、倭国が同時期に馬の導入を推進していたことは事実と思われる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・404年 倭人が帯方方面に侵入し、永楽太王,高談徳によって斬殺された。(『好太王碑文』)

倭国側は騎兵を恐れたために、船による戦闘を選んだのだと考えられる(河内春人『倭の五王』)。

・405年 法顕はGupta朝の支配領域に到着した。彼はPātaliputraにて仏典や戒律について学んだ。

※これはBengal湾を渡ることのできる季節風航海術が実現できたことを意味している(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・405年 9.? 百済の阿花王崩御した。(『三国史記百済本紀)

・405年 倭国百済王子,扶余腆支を帰還させた。腆支は百済王に即位した。(『日本書紀』『三国史記百済本紀)

・408年 〔参考〕阿知使主という人物が、倭国に渡来したという。(『日本書紀』修正紀年)

※407年の高句麗の軍事行動との関連性があるとも推測される(若井敏明『仁徳天皇』)。

・413年(晋暦義熙9) 高句麗倭国は晋に朝貢し、方物を献上した。 (『晋書』安帝紀)

〔参考〕『日本書紀』「応神天皇37年2月30日条」には、倭国は縫工を求めて、阿知使主と都加使主を呉に派遣したとある。

※『日本書紀』の記述は説話的なものであるが、晋への使者派遣を意味しているとも考えられる。倭国は404年に高句麗と交戦しているが、戦争状態が継続しているかは不明である。広開土王,高談徳の崩御に伴って両国は和解し、実際に使者を派遣したとも考えられている(若井敏明『仁徳天皇』)。

・414~415年頃? 阿知使主らが倭国に帰還して武庫に至ったとき、応神天皇崩御した。(『日本書紀』)

※『古事記』は応神天皇崩御した年の干支を甲午とする。『古事記』が記す最後の干支「戊子」から遡った最初の甲午の年は394年である(末松保和「古事記崩年干支考」『日本上代管見』)。

※『日本書紀』は、阿知使主の派遣を応神天皇即位37年、応神天皇崩御を41年とする。派遣は最晩年に行われたと思われる。『晋書』にあるように使者の派遣が413年であるなら、それから遠くない時期に崩御したとも考えられる(若井敏明『仁徳天皇』)。

※誉田御廟山古墳は、応神天皇が葬られた陵墓であるとされている。同じ古市古墳群の中でも他の古墳よりも大きく、他の豪族とは隔絶した権威を主張する意図が見て取れる(佐藤信 編『古代史講義』)。

応神天皇の時代の記述は、神功皇后の物語の神話的要素を引き継ぐものであり、応神天皇神功皇后の分身的な存在として叙述されており、実在性が薄いとも考えられる(新谷尚樹『伊勢神宮出雲大社』)。