ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

弥生時代以前

・東北地方は針葉樹林のタイガに覆われていた(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・本州西部は針葉樹林と広葉樹林が混在していた(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・本州島南岸は温暖であり、落葉広葉樹と常緑広葉樹があった(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・かつて、北海道はサハリンと陸続きであった。そこからはマンモスが渡って来た(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

津軽海峡は冬季に凍りつくため、ヒトや小動物などは日本列島本州に渡って来た(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・日本最古の化石人骨は約37000年前のものである(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

旧石器時代は前期・中期・後期に分けられる。日本列島においては、後期からはじまる(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

石器時代後期の人々はテント的な施設に住んでおり、ナウマンゾウやオオツノジカなどの動物を追って移動しながら暮らしていた。そのため、移動に不便な重い石器は用いず、石槍などを活用して狩猟していた(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・石器としては、石から剥片を剥ぎ取って作った斜軸尖頭器や、スクレイパーなども用いられた(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・北海道から南九州にかけては、大型動物を解体・加工するために、刃部分を磨いた石斧(局部磨製石器)も制作された(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・当時の人々が狩りなどを目的として集まった跡は、石斧を磨くための砥石などが環状ブロックとして残っている(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

野尻湖から見つかった石斧には、新潟県富山県の境の蛇紋岩が用いられており、当時の人々が長い距離を移動しながら生活していたことが理解できる(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

 ・東北地方はタイガに覆われている影響で、食料として利用可能な植物は少なかった(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約30000年前 現在の鹿児島県種子島あたりでは、石皿や局部磨製石斧などが用いられていた。暮らしの痕跡が、立切遺跡から発見されている(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※石皿はドングリなどの堅果類をすり潰すためのものであり、局部磨製石斧は常緑広葉樹の伐採に用いられた(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※立切遺跡からは加熱されて変色した礫群が発見されているため、熱した石に食物を置いて蒸し焼きにしていたものと思われる(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※食物の加熱に用いられていた石が割れて礫になったのは、何度も加熱したからである。そのため、一定期間定住していたのだと考えられる(堂込秀人「琉球列島の旧石器時代遺跡」)。

・21世紀より約24000年前 鹿児島湾の噴火口から火砕流や火山灰が噴出し、日本列島の多くの部分を多い、ユーラシア大陸の一部にまで及んだ(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・21世紀より約20000年前 大型動物の多くは絶滅していったが、日本列島に住む人々は依然として大型動物を主な食糧としていた。こうした動物を捕らえるために、落とし穴なども利用された(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・寒冷化の進んだ後期旧石器時代後半、日本列島の人々は移動生活を更に活発にした。そうした生活に合わせて、道具は軽量化した(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・東日本や九州地方では、黒曜石や硬質頁岩などを、中国地方・四国地方近畿地方ではサヌカイトを用いて剥片を剥ぎ取る技法か発達し、剥片を連ねた石刃石器の使用が盛んになった(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・21世紀から約16000年前 少なくともこの時代には無文土器が用いられていた 。大平山元Ⅰ遺跡から出土している(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※この年代は、土器に付着していた炭化物を、AMSによって測定した結果である(山田康弘「縄文時代」『論点・日本史学』)。

※草創期の土器は、1つの遺跡から出土する数が少ない(谷口康浩『縄文時代の考古学1』)

※そのため、日常的に使用されていたわけではないようである(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※大平山元Ⅰ遺跡では定住のための建物の痕跡がないことから、サケの遡上する季節にだけ留まっていた人々の暮らした跡のようである(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀から約15300年前 ヤンガー・ドリアス期という寒冷期が始まった(藤尾慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀から約15000年前 ベーリング・アレレード期という温暖期が始まった (藤尾慎一郎『日本の先史時代』)。

・大型動物は数を減らし、オオツノジカは中部高地の高原地帯、北海道の草原などの、以前の環境を保っていた場所でのみ暮らすようになった(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・動物を追っていた人々は、更に石器を軽量化させ、細石刃を用いるようになった(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

※細石刃は、壊れてもその部分だけを取り替えればよく、石核さえ持ち歩けば石を打ち欠いていつでも作ることができた(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・21世紀から15000年前 中部地方・関東地方から東北地方にかけての日本海側の一部で、黒曜石などを材料にした石槍が用いらていた。遡上するサケを捕らえるためにも石槍は使われた(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

群馬県富士見村では、石槍を主とする石器文化の興隆の同時期に建造物が建てられた。小暮東新山遺跡である(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

※狩猟や漁労のための建物であったらしく、定住生活の先駆けとも考えられる(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・富沢遺跡からは破損したハンマーや石器制作の際の際の石の破片、焚き火の跡などが発見されている(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

※移住生活をおくる人々が、短期的に住んだ場所だと考えられる(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・21世紀より約15000年前 九州南部では隆文土器が出現した(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・隆文土器の登場の同時期、石を加工した矢尻が作られるようになる(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※弓矢で仕留めることが可能な、中型・小型の生物が主な狩猟の対象になっていたと考えられる(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※温暖化により、日本列島の動物相が変化したこともうかがえる

・隆文土器の登場の同時期、石を加工した矢尻が作られるようになる(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※弓矢で仕留めることが可能な、中型・小型の生物が主な狩猟の対象となっていたことが伺える(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約14500年前 日本列島の気候は温暖化し、森林からの食料供給は安定し、土器の使用が広がった。泉福寺洞窟や福井洞窟では、動物性油脂の採取のための土器が発見されている(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・日本列島には南部から次第にクヌギ、コナラ、ミズナラなどによって構成される広葉樹林が広がった。これらのコナラ科の木は木の実を実らせ、シカやイノシシが生息した(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・海水面が上昇し、内陸から入り込んだ水や土砂の栄養により、魚介類が繁栄した(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

※山と海の生物群は、季節ごとに異なった食物となり、収穫の減る冬や真夏を見越して貯蔵することも可能であった。こうした環境が定住生活を可能とする地盤となった(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・21世紀より約13700~13200年前 クリの木を柱とした竪穴住居が作られた。栃木県の野沢遺跡である。耐久性に優れるクリの木を選んだのである(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※実を食料にすることもできるクリを木材として用いたことから、木材には実が生らないか少ないクリの木を選んでいたようである(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・竪穴住居で定住生活がはじまったのは、森の近くに住むことで、クマやイノシシなどよりも先に、堅果類を効率的に確保することが狙いだと考えられる(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※定住生活は血縁集団が離散しないため、家族形態が生成されていったとの説もある(小林謙一説)。

・木の実の加工のために石皿・敲石・スリ石、および煮炊きのための土器が発展した。定住により重い道具の使用も自由となった(岡村道雄『縄文の生活誌』)。

・21世紀より約13000年前 北海道において土器の使用がはじまった。大正3遺跡より、彫器と抉入加工のある土器が出土している(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※これらの土器を用いていたのは、ヤンガー・ドリアス期直前に本州から移住した人々だと考えられる(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※大正3遺跡の土器の炭化物同位体の分析から、水産資源の利用や動物性油脂の抽出が行われていたとも推測されている(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

※当時の北海道には旧石器時代以来の生活を続けている人々がおり、土器を用いる人々と共存していたと考えられる(夏木大吾「北海道 大正3遺跡とタチカルシュナイ遺跡」『季刊考古学 別冊32』所収)。

・九州南部では、コナラ亜属を主とする落葉広葉樹林が形成されており、そこの植物から食物を享受していた(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約13000年前 宮崎県では石皿や磨石を用いて植物をすり潰して、蒸し焼きにして食べていたと考えられる。王子山遺跡がその痕跡である(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約13000~12000年前 日本列島には土偶が出現した。粥見井尻遺跡から見つかっている(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約21000~10000年前 北海道において竪穴住居が立てられるようになり、土器の本格的な使用や石皿や磨石の使用が始まった(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約7000年前 朝鮮半島沿岸から九州西岸にかけて、回遊魚を捕らえるために移動生活を送っている人々がいた。それらの人々は大陸製の耳飾りや釣針などを広めた(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

朝鮮半島の南海岸・島嶼群から縄文土器が出土していることや、対馬壱岐および九州北部沿岸から朝鮮半島製の櫛目文土器が出土していることから、立ち寄る程度ではあったものの交流があったことが伺える(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

・21世紀より約6000年前 沖縄において堅果類の加工のための石器が使用されるようになった(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約6000年前 沖縄においてはイノシシ、魚類、貝類(主にマガキガイ)、ジュゴン、ウミガメなどが食されていたようである。嘉手納野国貝塚群B地点より、骨などが出土している(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約5000年前 沖縄において黒曜石を材料とした石鏃が使用されるようになった(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約5000年前 沖縄の海ではサンゴ礁が堤防の役割を果たし、潮だまりにおいて魚の捕獲が容易になった(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約5000年前 沖縄において魚の利用は増えたが、依然として植物も主な食物として利用されていた。伊礼原遺跡からはシイ類などの堅果類やオキナワウラジロガシが見つかっている(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。

・21世紀より約4000年前 沖縄では海産物を加工した装飾品を用いる文化が形成された。サメの歯を加工した垂飾や、ジュゴンの骨を加工した蝶形骨器などである(藤巻慎一郎『日本の先史時代』)。