ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

弥生時代(史書登場以前)

縄文時代弥生時代弥生時代古墳時代の区分は藤巻慎一郎説に依拠する。

・紀元前1046年? 後の「中国」と呼ばれる地域では、殷(後の時代の呼称)の王,受(帝辛/紂王)が周王を称する発に攻められ、自害した。(「利簋銘文」『史記』周本紀)

〔参考〕『国語』「周語篇」によると、殷が滅びたときに、木星は鶉火の方向にあったという。

※紀元前1046年という殷の滅亡の年代比定は、「周語篇」における木星の位置と、利簋の銘文にある「歳鼎」という文字からの交渉である。ただ、銘文には別の解釈ができることや、『国語』内の説話の信憑性などから、年代比定の妥当性には疑問が呈されている(佐藤信弥『周』)。

・紀元前11世紀 朝鮮半島水田稲作が発展すると、環濠集落が形成され、有力者を葬る墳丘も作られるようになる。つまりは身分の差があらわれたのである(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

・身分の差が形成された朝鮮半島では、迫害から逃れようとした人々が日本列島に渡ったとも考えられている(安在晧「松菊里文化成立期の嶺南社会と弥生文化」『弥生時代の考古学』所収)。

・古い支石墓の場所(玄界灘沿岸地域)からして、朝鮮半島から日本列島に渡った人々は、海流に乗って北九州北西部に渡ったようである(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

朝鮮半島から渡来した人々は、土地を切り拓いて水路を引くという水田を伝えたのだと考えられる(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

・数家族単位で渡来した朝鮮半島の人々は、稲作のほかに金属器を制作する技術も伝えたものと考えられる(寺沢薫『王権誕生』)。

・発見されている中で最も古い水田は、福岡県福岡市の板付遺跡や野多目遺跡である。板付遺跡には、幾度か洪水の被害により稲作が中止された形跡がある。また、野多目遺跡は地下水位が上昇したことで排水が困難となり、放棄されたようである(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

・種籾は浅鉢や深鉢の土器に貯蔵された(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

・紀元前9世紀後半 日本列島において、外敵に備えて壕や土塁、柵を巡らせた、最古の環濠集落があらわれた。那珂遺跡である。(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

※この集落は洪水の起きやすい那珂川付近にあり、水田の排水機能が不十分であったために150年ほど運用された後に放棄された(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

・紀元前9世紀 那珂遺跡より上流約1km上にも、内壕と外壕を持つ環濠集落が形成された。板付遺跡である(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

※内壕よりも内側では、10~15軒の竪穴住居があったと考えられる(田崎博之「福岡地方における弥生時代の土地環境の利用と開発」『福岡平野の古環境と遺跡立地』所収)。

・丘陵上の集落はV字形の空堀を、低地である場合は水濠を巡らせる傾向があった。

※内壕の内側の墓には副葬品があり、内壕と外壕の間の墓には副葬品がないことから、身分の差があったことが推測できる(藤巻慎一郎『弥生時代の歴史』)。

・集団での戦争のために、環濠集落には土塁や柵が設けてその出入口を鉤形にし、物見櫓を設けるなどした(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

・狩猟のために使われた石鏃は、戦争のために大形化し、重いものが作られてゆく。また、石剣や石槍、投弾も制作されるようになった(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

朝鮮半島から移入された、青銅製の剣、矛、丈も用いられるようになった(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

・武器が発達すると、甲冑のような防具や、木製の置盾も作られるようになる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

・戦争により、他の共同体を従属させた集落の首長は、その権力を維持し、強化するために内政の充実に注力することになる。こうして、階層関係が体系化され、慣習法・行政機関の整備が進んだ(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。