ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

三条天皇の時代(寛弘)

・寛弘8年(1011) 6.13 一条天皇の譲位により、居貞親王践祚した。(『御堂関白記』)

・長和1年(1012) 7.16以前 大江匡衡は晩年、半生を述懐する詩「述懐古調詩一百韻」を作った。

※詩において、匡衡は自身が7歳で読書を始めたと歌っている。当時、7歳は学習をはじめる基準であったとも考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・長和1年(1012) 7.16 大江匡衡は死去した。(『小右記』)

・長和2年(1013) 4.? 春宮権亮,藤原道雅は、皇太子,敦平親王の従者に命じて、敦明親王の従者,小野為明を拉致した。為明は道雅の自宅に連行され、道雅の従者に瀕死の重症を負わされた。(『小右記』)

・長和2年(1013) 4.10 敦明親王の訴えにより、小野為明が暴行を受けた件に関して、春宮権亮,藤原道雅は糾問された。(『小右記』)

※下された処分は謹慎である。道雅のような殿上人は、下級貴族を半殺しにしたとしても受ける処罰は謹慎程度であった。また、殿上人が起こした暴力事件があっても、処分が行われないことは稀でなかった。道雅が処罰を受けたのは、被害者の主が、有力者である敦明親王の従者だったからである。当時の殿上人が、気ままに暴力を行使していたことを窺わせる(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・長和2年(1013) 7.6 三条天皇中宮,妍子との間に皇女,禎子内親王が産まれた。妍子の父,藤原道長は誕生したのが女子だったことで不機嫌であったと、藤原実資は日記に記した。(『小右記』)

道長は娘と三条天皇との間に孫皇子の誕生を期待していたが、それは叶わず不本意な結果となった(美川圭『院政 増補版』)。

・長和2年(1013) 8.15 左大臣,藤原道長は、前摂津守,藤原方正の前出雲守,紀忠道を自邸の小屋に監禁した。(『小右記』)

道長の妻の外出の手配に、不備があったことが理由だという。貴族社会の人間を監禁するのとは珍しいことではなかった(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・1013年 デンマークとブークモール(ノルウェー)のレックスであるスヴェンⅠは、イングランドのレックスを兼ねた。デーン人による王朝である。