ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

元正天皇の時代(和銅、霊亀、養老)

和銅8年(715) 9.2 元明天皇の譲位により、娘で文武天皇の姉にあたる氷高内親王が即位した(元正天皇)。(『続日本紀』)

元明太上天皇は譲位において、気力が衰えたことを理由に述べているが、本来の目的は太上天皇として娘の元正天皇と孫の首親王を支えるためとも考えられる(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

 ※元正天皇は生涯を独身で過ごした。

元正天皇は、即位以前から婚姻した形跡もない。在位中の天皇の皇子は有力な皇位継承候補者、更には皇太子になりえる。すると、将来的な首親王皇位を継承させるという予定が崩れる可能性が生じるため、独身でいることを即位前から強いられていたとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

元正天皇は父が皇族、母が天皇であり、藤原氏を母に持つ首親王よりも尊貴な血統であった。文武天皇嫡系皇親の地位を維持するためにも、独身であったとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

※首親王の妻に、藤原不比等の娘,安宿媛を迎えることの合意を形成する必要があったため、妻候補になりえる元正天皇を即位させて、独身のままでいさせたという説もある(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※「草壁皇子嫡系という概念は、当時確立していなかった」という観点からは、宮廷に使える女性が生涯独身であることも多く、そのような生き方を元正天皇が受容できない環境ではなかったという説が出されている。(渡辺育子元明天皇元正天皇』)

元正天皇文武天皇の「皇后格」であったがために、配偶者を持つことをはばかったとの見解もある(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

霊亀1年(715) 2.? 吉備内親王長屋王夫妻の子女の全ては、「皇孫」にするとの勅が出された。(『続日本紀』)

※父系を建前とする律令制下においては、母方の血統(元明天皇の孫)から二世王として扱うのは、異例の措置とも捉えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

※本来の律令制の父系帰属からして、長屋王と吉備内親王の子息らは天武天皇の曾孫として三世王となる。しかし、彼らは母方の血統から、元明天皇の孫として二世王になったと考えられる。吉備内親王天皇ではないものの、『養老令』「継嗣令」における「女帝子亦同」という注を準用したのであり、吉備内親王の即位も想定されていたとも推測されている(成清弘和『女帝の古代史』)。

霊亀2年(716) ?.? 藤原馬養の子息として宿奈麻呂が産まれた。(『続日本紀』) 

〔参考〕九条公爵家所蔵本『公卿補任神護景雲4年の尻付には、宿奈麻呂およびその兄,広嗣の母を「左大臣石上朝臣麿女」とある。

物部氏を継ぐ石上氏との婚姻により、ヤマト王権の名族の権威の接収を狙ったとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

・716年 東突厥にて、兄弟間で跡継ぎ争いが起こった。兄のBilgäが立つと、弟のKül täginは反対派を粛清した。

※これまで突厥に属していたKhitan人は、唐に服属した。このころ、Sogd人の唐に使える将軍,安延偃らは唐で活動していた一族を頼って、唐領内に移った。それは東突厥の内紛が理由と考えられる。安一族は両属であり、どちらかが危うくなれば、片方を頼ったのである(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

 ・養老元年(717)より、不比等を中心として養老律令の編纂が始まった。

養老元年(717) 首親王は側室の県犬養広刀自との間に、井上内親王を儲けた。県犬養広刀自は県犬養橘三千代の同族である。

養老元年(717)遣唐使(第8回)が派遣された。そのときの押使は多治比県守・大使は阿部安麻呂(後に大伴山守に変更)・副使は藤原不比等の三男馬養(後に漢字を宇合)であった。 この遣唐使に同行して、吉備真備阿倍仲麻呂・僧の玄昉が入唐した。(『続日本紀』)

使者は儒者から経書を学ぶことを求めて、儒者の趙玄黙に広幅の布を納めて経書を学んだ。使者たちは唐皇帝からの贈り物全てを売り払って書籍を購入し、その後に帰国した。(『旧唐書』東夷 日本)

・養老1年(717) 元正天皇は詔して、僧尼令違反を放置している勘司を譴責し、村里に禁令を発布させた。(『続日本紀』)

※俗人が僧尼になりすますことや、僧尼が許可なく呪術を用いた治療を行うことが盛んであり、そのことへの対処である。呪術による治療を行っていた行基は、活動を指弾された。ただ、弾圧にまで至ったという見解には疑問も呈される(鈴木景二「国家仏教と行基」『論点・日本史学』)。

・養老2年(718) 式部卿,長屋王は大納言に任じられた。(『続日本紀』)

※この出世は、藤原不比等の次女長俄子を妻の1人に迎え、間に黄文王安宿王・山背王などを儲けたことが理由であると考えられる(倉本一宏『藤原氏』)。

・養老2年(718) ?.? 首親王安宿媛の間に娘の阿倍女王が産まれた。

 同年、遣唐使が帰国。吉備真備は礼典「唐歴」・暦法「太衍暦経」「太衍暦立成」・奏楽の書物、測量器具、楽器、音楽理論書「楽書要録」、「銅律管(音響調律用の管)」、武器、玄昉は経巻50巻などをもたらした。「唐歴」は皇帝の命令により編纂された儀礼書、「太衍暦経」は当時最新の暦であり、立成とはその解説書である。それとともに、入唐していた僧侶の道慈が、当時の日本において僧に戒を授ける戒師がいないことを問題視したことで、後に戒師として鑑真を招こうという方針が決まることになった。

養老4年(720) 3.4 大伴旅人は征隼人持節大将軍に任じられた。(『続日本紀』)

※古代の戦争は、最初に言向けを行い、そのうえで従おうとしない者を討伐していた。旅人が派遣されたのは九州に言葉の通じる者がいたことを示すと考えられる。そのため、大伴氏は九州を出自とするか、縁があるとも推測される(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。

養老4年(720) 5.21 舎人親王らによって編纂された、勅撰の歴史書日本紀(日本書紀)』が成立した。(『続日本紀』) 日本初の正史である。巻1と2は天地開闢からの神々の歴史を記し、原則として天皇1代に1巻を割き、持統天皇までの時代までを全30巻で叙述している。系図1巻もあったが、後に失われた。

※古文献において、『日本書紀』は『日本紀』とも『日本書』とも表記される。「中国」では、本紀・志・列伝が揃った正史を「(王朝名)書」、編年体史書は「(王朝名)紀」と呼ぶが、「書紀」という史書はない。当初の朝廷は、紀・志・伝の揃った『日本書』の編纂を計画していたが、成立したのが紀と系図のみであり、『日本書(の)紀』と題名が記されていたものが、転写されるうちに『日本書紀』という書名に変化したとも考えられる(三浦佑之『神話と歴史叙述』)。

※正史の体裁は、紀伝体の『(王朝名)書』が理想的である。しかし列伝などを欠く実態は『日本紀』に近い。理想と現実の折り合いを付ける形で『日本書紀』という書名になったとも推測される(森博達『日本書紀の謎を解く』)。

※738年頃に成立した『古記』には、書名は『日本書紀』とある。また、平安期の写本にも『日本書紀』とあることから、『日本紀』と『日本書紀』という書名は併存していたとも考えられる(遠藤慶太『六国史』)。

※各氏族の祖先に位置づけられる人物や神の活躍を、物語の内容に組み込む思案が困難であったため、  国史の完成に40年の時間を要したとも推測される。舎人親王による撰修だとされるのは、完成時点での責任者が彼であったからだと考えられる(吉田一彦『『日本書紀』の呪縛』)。

※天地の始まりには、「物」があったと語られる。そうした言明には、物や者、物事の道理といった「モノ」が、「コト(事柄・言葉・行為)」を支え、根底で統一しているという思想があるとも考えられる。また、「モノ」を「ナ」で呼ぶことで「コト」が成立するという考えを、大己貴(オホ"ナ"ムチ)と大物主(オホ"モノ"ヌシ)が同一人物であり、その子息が事代主("コト"シロヌシ)であるという系譜関係で示しているとも考えられる(田中卓「私の古代史像」)。

※『日本書紀』の語る歴史は、天照大御神の子孫である神武天皇から持統天皇に至るまで、皇位が1つの血統で受け継がれてきたというものである(吉田一彦『『日本書紀』の呪縛』)。

※『古事記』は天照大御神素戔嗚尊の盟約について、素戔嗚尊の心が清いから女神が生まれたとある。しかし『日本書紀』は、男神が生まれたため素戔嗚尊は心が清いと語る。儒教的な男尊女卑の要素が指摘されるほか、盟約で生まれた男神には、天皇の祖先である天忍穂耳尊がいることが意識されたとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史』)。

※『日本書紀』において、実在が疑わしい欠史八代嫡系男子による父子継承として叙述されていることや、神功皇后天皇でなく「皇后」と記されていることなどから、嫡系男子による継承を正当化しようとしていたとの見解もある(桜田真理絵「未婚の女帝と皇位継承」)。

※巻4以降は、天皇の父母、天皇の資質、閲歴などのほか、『漢書』『後漢書』の本紀と同様に、立太子の年次、先帝を埋葬したこと、母皇后を皇太后にしたことが記事の最初に述べられている。ただ、本紀とは異なり、起居注や実録のように朔の干支を記すという特徴がある。形式としては本紀と実録の両方を参考にしたと推測される。ただ「中国」の歴史書とは異なり事績を評価する論賛を有していない。言挙げを好まず、重要な点以外は読者に評価を委ねるという日本人の心性を示しているとも考えられる(坂本太郎六国史』)。

※当時は皇太子制が成立して間もない時期であったため、首親王に対してあるべき皇太子像を示すために、厩戸王、および即位前の天智天皇は理想化されて叙述されたとも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。

※かつての男性天皇の配偶者に関しては、「皇后」「妃」といった区別をしている。「娶生御子(みあいして産む)」といった『古事記』のような双系的系譜の表記様式から、「皇后/妃を立てる」といった父系的な表現にしていることが窺える。また、以前は、王族(皇族)の称号は男女問わず「王」であったと考えられるが、『日本書紀』は「皇子」「皇女」「王」「女王」と書き分けており、称号確立以前の王族にも適用している(義江明子推古天皇』)。

※『日本書紀』は神功皇后の記録に陳寿の『魏書』を引用していることから、編纂者には、神功皇后卑弥呼擬制する意図があったと考えられる。このことは、編纂当時、天皇家の祖先に関する情報がなかったことを示しているとも推測される(新谷尚紀『伊勢神宮出雲大社』)。

神功皇后卑弥呼に、応神天皇は「男弟」に想定したとも考えられる(石野博信「古代に見え隠れする邪馬台国」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

神功皇后卑弥呼に想定していながら「卑」といった文字を使用していないことや、「下賜」「生口」といった日本を下位とする部分を引用していないことは、国家意識が理由と考えられる(石野博信「古代に見え隠れする邪馬台国」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

※『日本書紀』は『魏志』を引用するが、晋に朝貢したのは「倭女王」としており卑弥呼や台与の名を記していない。『日本書紀』の編纂者は卑弥呼や台与は倭国の君主を僭称したのであり、実際の「倭女王」は神功皇后であったと考えていたという説もある(小林敏男邪馬台国再考』)。

神功皇后の名前は「息長足姫尊」とされるが、それには息長氏との関係が指摘される。息長氏と深い関係を持つ和邇氏の拠点であった和邇神社には東大寺山古墳があり、そこは「中平」の元号を刻んだ鉄刀が収められていた場所である。一方、筑紫で応神天皇を産み、忍熊王に勝利して大和に至るのは、九州から大和に邪馬台国が東遷したという説を思わせる。既に邪馬台国の所在には複数の説があったため、併記する形になったとも考えられる(石野博信「古代に見え隠れする邪馬台国」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

※押坂彦人王の記事が物部守屋追討の後に見られなくなることについて、押坂彦人王の子孫が皇統を担っている時代に、中臣勝海の手で暗殺されたことを記すのは、中臣氏の同族である藤原氏にとって不都合であったからとも推測される(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※『日本書紀』には、『古事記』にはあった大国主命誉津別命を祟るという説話が記されていない。天智天皇の王子,建王が言葉を話せず8歳で夭折したことを連想させてしまうことや、出雲の神が祟り神として位置づけられ続けることは脅威となりえると考えたからだと思われる。また、成長して国土を統一するという物語は、実力よりも血統を重視する当時の皇位継承の指向性からして好ましいものではなかったため、『日本書紀』には記されなかったとも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

※『日本書紀』は大国主の逸話をほとんど記載しないが、『古事記』と同様に大国主の「国作り」については言及している。それは朝廷が国を譲られたということを説明するうえで、欠かせない神話だったからだと考えられる(村井康彦『出雲と大和』)。

※『日本書紀』神代上の「蹴散」という言葉の訓中には、「俱穢簸邏邏箇須(くゑはららかす)」とある。この「蹴(くゑ)」という動詞は、「くゑ・くう・くうる」と、ワ行下二段に活用したようである(倉橋節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

養老4年(720) 8.3 藤原不比等は死去した。(『続日本紀』)

養老4年(720) 10.? 藤原不比等太政大臣正一位、文忠公(後に淡海公)の諡を追贈された。(『尊卑分脈』)

養老4年(720) 長屋王は右大臣となった。(『続日本紀』)

養老5年(721) 1.27 元正天皇は、「文人」と「武士」は国家が重視するものだとして、明経博士、律令に詳しい者(明法)、文章(漢詩・漢文の作成に優れた者)のほか、算術、陰陽、医術、土木・工作に優れた者に賞品を与えた。(『続日本紀』)

※『続日本紀』のこの日の記述が、「武士」の最古の用例である。「士」は日本において、大体の場合六位以下の位階を持って天皇に奉仕する廷臣のことである。解釈を拡大すれば、その地位にあるか、今後その位置に昇ると予想される者、その家系に属する者のこととなる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

養老5年(721) 10.? 元明太上天皇は右大臣長屋王と参議藤原房前を呼び、自身の葬儀に関する遺言を伝えた。(『続日本紀』)

※房前が参議なのに対して、その同母兄,武智麻呂は中納言であり官職は兄が上である。それでも房前が呼ばれたのは、県犬養橘三千代の娘牟漏女王を妻としており、元明太上天皇と三千代から信頼が厚かったのが理由とも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

養老5年(721) 12.7 元明太上天皇崩御した。それに際して東海道鈴鹿関、東山道不破関北陸道の愛発関が一時的に封鎖された。(『続日本紀』)

※かつての壬申の乱の例のように、機内の者が外に出て、政変を画策することがないようにするための措置である(森公章『奈良貴族の時代史』)。

養老5年(721) ?.? 『日本書紀』の講読「日本紀講書」が行われた。(『釈日本紀』所引「日本紀講例」)

・養老6年(722) 閏4.25 陸奥国の税負担は軽減され、農業と養蚕の推奨と、民に弓馬術を習得させることが決定した。(『続日本紀』)

※当時、陸奥国周辺に入植した民は、蝦夷から攻撃されることがあった。弓馬術に優れた蝦夷に対抗するために、弓馬術を習わせたのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・養老6年(722) 閏4.17 朝廷に貢上する蘇は、櫃に入れることはやめて、籠に入れるよう命令が下された。(『政事要略』)

※蘇を入れた壺を納めるための容器についての法令である。櫃を作る負担を軽減するためのものであったと考えられる(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

・養老6年(722) 閏4.25 長屋王の主導により、農民に食料と農具を与えて10日間開墾作業を行わせ、3000石以上の収穫をあげた者に勲六等を与えるという百万町歩開墾計画が出された。(『続日本紀』)

・養老6年(723) 〔参考〕行基は寺史乙丸から寄進された邸宅に、寺院を建立したという。喜光寺である。(『行基年譜』)

養老7(723)年 4.17 三世一身法が出され、開墾した田畑がその後3代まで私有することが認められた。(『続日本紀』)

元明天皇の治世下では、和同開珎銅銭が法定価値以下で流通していることを追認、朝廷が銀地金と和同開珎銀銭の使用を解禁し、和同開珎銅銭の価値を低下させた(高木久史『通貨の日本史』)。