ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

元明天皇の時代(慶雲、和銅)

慶雲4年(708) 6.24 皇太妃,阿閇内親王は「詔」を発し、廷臣たちに、自身が国政を行うことを宣言した。(『続日本紀』)

※まだ阿閇内親王は正式に即位していなかったため、これは「称制」だったとも考えられる(米田雄介「践祚と称制-元明天皇の場合を中心に」『続日本紀研究』200号所収)。

※令の規定においては、天皇太上天皇の命令は「詔」「勅」、皇太子と皇后の命令は「令旨」である。つまり、阿閇内親王太上天皇と同等の権限を行使したことになる。生前の文武天皇を、準太上天皇として補佐していたため、称制が可能であったと考えられる(義江明子元明天皇と奈良初期の皇位継承」『日本古代女帝論』所収)。

慶雲4年(707) 7月17日 子息文武天皇の遺詔の通りに阿閉皇女は即位した(元明天皇)。

※このこともまた、先帝の遺詔が即位の正当性の根拠となった例である(渡辺育子元明天皇元正天皇』)。

元明天皇の即位宣命は、持統天皇が「皇太子で嫡子の」文武天皇に、「天智天皇が定めた不改常典」に基づいて譲位し、その文武天皇元明天皇に譲位したと語っている。そして、「不改常典」を破ることなく、文武天皇の王子,首親王に渡すために元明天皇が即位したと説明する。持統天皇から文武天皇へ、将来的に首親王に継承されるという継承の「法」を守るための即位であり、自ら「中継ぎ」であることを表明したとも考えられる。各々の氏族が、自らの利益のために天皇候補を擁立すれば、継承争いに伴う戦争が勃発する可能性があった。そこで、王権と貴族層は律令国家の完成を志向し、草壁皇子-文武天皇-首親王という血統重視の直系継承を実現させるために、草壁皇子の妻であった元明天皇を即位させたとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

※先帝の意志による継承は、その先帝が権威を持っていることが前提となる。しかし25歳で崩御した文武天皇は、群臣を承服させる権威に欠けていた。そのため、文武天皇の父草壁皇子を皇太子だったことにして、さらに皇位継承の原則を、律令国家の起点と認識されていた天智天皇に仮託して、その権威を補強したのである(義江明子「王権史の中の古代女帝」『日本古代女帝論』所収)。

※「不改常典」は、先帝の意志による皇位継承を定めたものとも考えられる(佐藤宗諄「元明天皇論-その即位をめぐって」『古代文化』30号所収)。

※「不改常典」は、次期天皇を定めるにあたって、群臣会議に代わる権威として作られたという説がある(寺西貞弘「古代皇位継承論再説」『古代天皇制史論』所収)。

元明天皇の即位宣命では、文武天皇草壁皇子の「嫡子」と扱うなど、持統天皇から文武天皇への譲位が血統的論理によって行われたものだと述べられている(義江明子「持統王権の歴史的意義」『日本古代女帝論』所収)。

※唐(周)においては、聖神皇帝,武曌の在位中、女性君主の統治に関して批判できる状況ではなかったと考えられる。705年、曌は既に退位させられていたものの、唐の情報を最後に伝えた粟田真人は704年に帰国しており、そのことを知らなかった可能性が高い。女性君主が国を統治することに対する批判が鎮静していた国際情勢下の情報が伝わったことで、女性天皇の即位への抵抗は薄かったとも推測される(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

 日本の律令は継嗣令に女帝の子も男帝の子と同様に親王(内親王)として扱うことが定められていた。そのため、故人の文武天皇を除く2人の娘氷高・吉備は、父草壁皇子天皇にならなかったものの、母が天皇になったことで内親王身分となった。

・即位した元明天皇に対して、同母姉の御名部内親王は激励する歌を詠んだ。

わご大君 物な思ほし 皇祖神の つぎて賜へる われ無けなくに(『万葉集』巻1 77番歌)

元明天皇の同母姉、かつ故高市皇子の妻で長屋王の母という、皇位継承に近い立場としての自負が現れた歌とも捉えられる(義江明子「持統王権の歴史的意義」『日本古代女帝論』所収)。

※この歌は、自分が同母妹の立場にいつでも代わってもいいという意思表示であり、「後皇子尊」高市皇子の妃としての自負だという解釈もある(野村忠夫「元明天皇元正天皇武光誠 編『古代女帝のすべて』所収)。

慶雲4年(708) 11.12 故文武天皇に「倭根子豊祖父天皇」の諡が贈られた。(『続日本紀』)

孝霊天皇孝元天皇開化天皇の和風諡号に見える「日本根子(ヤマトネコ)」は、文武天皇の和風諡号「倭根子豊祖父天皇(ヤマトネコオヨホヂノスメラミコト)」に由来するとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

和銅1年(708) 3.13 藤原不比等は右大臣に昇進した。(『続日本紀』)

和銅1年(708) 3.13 蘇我連子の子息,宮麻呂は右大弁に任じられた。(『続日本紀』)

和銅1年(708) 11.25 元明天皇大嘗祭が行われた。その御宴において、県犬養三千代は杯に浮かべた橘を賜り、橘宿禰の姓を与えられた。(『続日本紀』)

和銅1年(708) 9.? 頃? 元明天皇は平城の地を視察して歌を詠んだ。

ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣 楯立つらしも(『万葉集』巻1 77番歌)

※「もののふの大臣」とは軍を統率する将軍であり、巨勢麻呂と佐伯石湯を差すとの説がある。元明天皇は軍が訓練を行う音を聞いて、不安になったのだという解釈である(斎藤茂吉『万葉秀歌』上)。

※「もののふの大臣」とは時の右大臣,石上(物部)麻呂であるとの説もある。遷都への反対勢力に備えて、麻呂が門を厳重に警護したので、安心はしたものの、民衆に無理を強いていることに心が痛むと歌ったという解釈である(吉永登「「楯たつらしも」の背後にあるもの」『国文学』30号所収)。

石上麻呂平城京への遷都に積極的ではなく、兵士を率いて示威行動を行ったとも推測される(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

石上麻呂が楯を立てたのは大嘗祭の際であり、天皇としての重荷を歌ったとの説もある(上山春平「元明女帝の歌二首」『古代の日本』9 月報)

皇位継承の緊張の高まりから、親衛隊である授刀舎人寮の舎人たちが、自身の近辺で訓練を行っていることに対する漠然とした不安を読む見解もある(野村忠夫「元明天皇元正天皇武光誠 編『古代女帝のすべて』所収)。

和銅1年(708) 元明天皇は遷都の詔を発した。(『続日本紀』)

律令体制の完成に伴い、中央集権政治に相応の都が求められていた(田中卓『教養 日本史』)。

和銅3年(710) 藤原京から平城京に遷都した。(『続日本紀』)

 住まいの名称が住む者自身を指す風習から、「内裏」と「東宮」は、それぞれ天皇と皇太子の別称としても用いられるようになる。

和銅4(711)年 一定数の銭を蓄えた者に位階を授けるという蓄銭叙位令が出された。(『続日本紀』)

和銅5年(712) 9.? 太安万侶稗田阿礼による現存最古の歴史書古事記』が完成した。元明天皇は、天武天皇以降の史書編纂が滞っており、それまでの歴史書に誤りが多いことから、安万侶に編纂を詔したのだという。(『古事記』序) 

※血縁による皇位継承を正当化するために、それまで群臣が選定していた継体天皇以前の天皇を、1つの系譜として繋いで王統を創作したとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

天皇の偉大さを表現する意図や、伝承の過程で神仙思想の影響を受けたことで、過去の天皇は長寿として伝承され、『古事記』に採用されたとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

※諸豪族の祖先についての話も記されており、諸豪族の祖先を天皇が従えたという話にすることで、君臣の別を強調する意図があったとも考えられる。(末木文美士『日本思想史』)。

※諸豪族たちが公共の場において述べていた、自分の祖先が天皇に貢献したという伝承などから、『古事記』の氏族伝承の基礎が成立したと考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

瓊瓊杵尊が降臨したという日向国は、「朝日の直刺す国、夕日の日照国」とあることや、稲作ではなく海幸と山幸の物語の舞台であること、また熊襲や隼人のいる土地として語られる。水田耕作に不向きで自然災害が多いことを反映しているとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。

天皇の祖先よりも先に畿内に進出した、出雲氏物部氏尾張氏といった日神を奉斎する氏族(ヒ神系氏族)は、天皇を本流とする系譜に組み込まれたとも考えられる(田中卓「私の古代史像」「神統譜」『日本建国史邪馬台国』)。

※『古事記』は欽明天皇と彼の配偶者との間に産まれた王子女について、「娶生御子(みあいて生む御子)」と表現しており、双系的な系譜の表記様式を受け継いでいることが窺える(義江明子推古天皇』)。

※狭穂姫命が、兄,狭穂彦王から夫,垂仁天皇の暗殺を持ちかけるが失敗するという記事がある。これは、同母兄妹によるヒメ・ヒコ制の統治形態が衰退したことを示す説話が伝えられていたことを示すとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

※小唯命(後の日本武尊)が、叔母,倭姫命から服を借りて女装し、油断した熊襲の兄建と弟建を殺害するという記事がある。これは血縁関係のある女性の霊力が付与されるという点において、ヲナリ神信仰との共通性が指摘される(小林敏男邪馬台国再考』)。

※『古事記』に「日本」という言葉が登場しないのは、その言葉が「中国」から見て東という意味であり、神代は「中国」を知らないころの世界を描いており、「日本」を定義する必要がなかったからとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

仲哀天皇記には「上通下通(おやこたわけ)、馬婚(うまたわけ)、牛婚(うしたわけ)、鶏婚(とりたわけ)、犬婚(いぬたわけ)」とあり、「たわけ」という罵倒語は、元は淫らな性行為を意味する言葉であったことが理解できる(清水克行『室町は今日もハードボイルド』)。

※序文において、日本の言葉を漢字で書けば、心に思っていることが十分に表現できないと述べられている。そのため、『古事記』は表意文字として漢字を用いながら、音だけ借りた漢字を交えて記される。漢字の持つ中国音と、漢字の持つ意味をどちらも受け入れたのである。こうして日本語においては、漢字1字に対して複数の読みが与えられることとなった。こうして日本語は、漢字の意味はわかるものの、読むことが出来ないという現象を生むこととなった(今野真二『日本語の歴史』)。

※「蚊」に「加安(カア)」と注があることや、「紀伊(キイ)」「宝飫(ホオ)」といった地名の記述から、近畿方言に見られるように、当時は単音節語に母音をそえて、長めに発音していたと考えられる(土井忠生・森田武『新訂 国語史要説』)。

国史の編纂によって、壬申の乱によって生じた国民間の対立は解消し、唐からの圧迫に対する国民的自覚が形成されたとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

和銅6年(713) 5.2 元明天皇は、地方の風土や歴史に関する、古老による旧聞や異事を史籍にまとめることを命じた。(『続日本紀』)

※国土という意識を明確化し、各地の資源を開発して律令国家の基盤を強める意図があっての編纂とも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

※後に『風土記』と呼ばれる史籍の編纂は、「中国」の正史のうちの「志」、つまりは『日本書』の地理志の構想の実現のために行われたのだと考えられる(三浦佑之『神話と歴史叙述』)。

※『風土記』における天皇は、伝えられる出来事がいつ起きたかを説明するために語られる。それは、時代の変化を天皇の代替わりによって認識されていたことを示している(関根淳『六国史以前』)を

和銅6年(713) 7.6 大倭国宇太郡から5尺5寸の銅鐸が出土したため、朝廷に献上された。(『続日本紀』)

※当時、銅鐸は地中から出土する珍しいものであり、宝物として献上されていたことが理解できる(小林敏男邪馬台国再考』)。

和銅6年(713) 11. 石川氏と紀氏出身の、文武天皇の2人のキサキは、嬪の地位を剥奪された。(『続日本紀』)

藤原不比等県犬養橘三千代が黒幕であり、蘇我氏の血を引く石川刀子娘を嬪から外して彼女の産んだ広成から皇籍を剥奪し、首皇子を皇太子にしようとしたという説もある(角田文衞「首皇子立太子」)。

和銅6年(713) 日向国から大隅国が分立した。(『続日本紀』)

日向国からの分立が薩摩国よりも遅かったのは、大隅日向国と密接であったことが理由と考えられる(平林章仁「神武天皇伝承東遷形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

和銅7年(714) 2.10 元明天皇は、紀清人と三宅藤麻呂に国史の編纂を命じた。(『続日本紀』)

※後に『日本書紀』と呼ばれる国史の編纂に、2人が加わったことが理解できる(吉田一彦『『日本書紀』の呪縛』)。

和銅7年(714) 6.25 首親王は皇太子となった。(『続日本紀』)

和銅7年(714) ?.? 藤原房前は、美努王の娘である牟漏女王との間に子息永手を儲けた。(『続日本紀』)

※牟漏女王は敏達天皇の曾孫、つまりは四世王である。房前との婚姻は、五世王以上の女性皇親の、臣下との婚姻を禁じる『養老令』「継嗣令」第4条に反するものである。ただ、このような事例は少なく、空文化しているわけではないようである(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。