後桜町天皇の時代
・宝暦3年(1763) 6.7 本居宣長は『紫文要領』を脱稿した。(『紫文要領』奥書)
※宣長は、人間は男性らしく賢く振舞おうとも、その本性は女性や子供のように未練がましく愚かであると述べている。彼は、人間の愚かな本性を隠そうとするのが「からごころ」であり、本来の姿を肯定するものが「やまとごころ」であると位置づけ、弱さをさらけ出す部分に日本の文学の優れていることを説いた。
・1770年 イマヌエル カントはケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の教授となった。また、正教授就任論文として『可感界と可能界の形式と原理』(ラテン語)を出版した。
・明和7年(1770) このころ、田舎老人多田爺による『遊子方言』が刊行された。
※作中において、茶屋の女房は客人に「あなた」と呼びかける。商売上、客人には最高の敬意表現を用いることから、「あなた」という言葉が高い敬意を込めたものであったことが理解できる(山口仲美『日本語の歴史』)。
・1777年 イマヌエル カントは手紙にて、「純粋理性の批判」の構想が同年冬には完成すると記した。
桃園天皇の時代
※尾張国の方言書である。各地の方言意識が強くなり、関心が高まったことを示している(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。
・1755年 3. イマヌエル カントは『天界の一般自然史と理論』を刊行した。また、ケーニヒスベルク大学の私講師として授業を担当するようになった。
※イマヌエルの説は、「カント・ラプラス星雲説」として知られるようになる(御子柴義之『自分で考える勇気』)。
※私講師は大学から給料が払われず、生徒の受講料に頼る貧しい生活であった。イマヌエルは生活の足しとしてケーニヒスベルク大学王立図書館の副司書官として数年間働いた(御子柴義之『自分で考える勇気』)。
・1755年 11.1 ポルトゥガルのリスボンにて、大地震が発生、津波も起こり数万人が犠牲となった。
・1755年 ジャン ジャック=ルソーは『人間不平等起源論』を発表した。
※自然状態において、人間は固定された配偶者や家族はいなかったはずだと述べられ、人間を不幸にする否定すべき社会には、家族も含まれていた。キリスト教の圧力が弱まったことで、家族が明確に否定される思想が現れたのである(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。
・1756年 イマヌエル カントは論文「地震の歴史と博物誌」を著した。
・1757年 1. ラスィーヤが東プロイセンのケーニヒスベルクを占領した。
※この占領は、市民の日常生活に影響はなく、権利は保障された。また、イマヌエル カントの講義にはラスィーヤの士官が出席するようになる。治める国が変わっても人の権利が保障されたこの出来事は、イマヌエルの「世界市民」思想に影響を与えたかもしれない(御子柴義之『自分で考える勇気』)
・1762年 5. ジャン ジャック=ルソーは『エミール』を刊行した。
・1762年 夏の終わり イマヌエル カントは『エミール』を入手し、それを読みふけり、日課になっていた散歩は数日取りやめた。
※イマヌエルは『エミール』を読み、人間を尊敬することを学んだと書き残している。学問的能力を確信していたイマヌエルが、人は人であるだけで尊いことを学んだのである(御子柴義之『自分で考える勇気』)。
中御門天皇の時代
・1719年(和暦享保4) 朝鮮通信使の申維翰が来日した。(『海游録』)
※来日中、維翰は接待役の雨森誠清(芳洲)に対し、男色が盛んなことを非難したが、誠清は、維翰は男色の素晴らしさを知らないのだと返答している。儒教的な性道徳が強い朝鮮に対し、日本はおおらかであった(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1721年 Charles de Montesquieuは『Lettres persanes(Percia人の手紙)』を著した。
※Franceを旅するPercia人が、友人に送った手紙という形式で発表された著作である。Charlesは基本法に束縛されない人間が恣意的な統治を行う政体を批判し、「oriental despotism(東洋的専制)」と名付けた。東洋的専制は、本来はʿOs̠mān、Mughal、中華帝国に見られる恐怖政治であるものの、Franceも同等の政治形態に堕落したとといてある(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。
・1721年(和暦享保7) 浄瑠璃『心中宵庚申』が初演となった。
※主人公の半兵衛の台詞として、養母に向かって「お前」というものがある。敬意を示す人称代名詞として、まだ「あなた」が無かったころ、「お前」は最も敬意を込めた人称代名詞だったのである(山口仲美『日本語の歴史』)。
・1722年 Denis Diderot、Jean d'Alembertらによる『Encyclopédie(百科全書)』が完成した。
※序文においては、Galileo Galileiは宗教によって科学が弾圧された時代の犠牲者と位置づけられ、そうした「暗黒の中世」の末期において、世界を啓蒙する先駆者としてFrancis Baconの名が挙げられる。啓蒙主義においては、その2人が英雄視された。啓蒙主義者は、迷信や因習が排除されたならば、人間が先天的に持っている理性によって人類は進歩し賢くなると考えていた。その点におて、理性を人工物(Organon)によって補強することを説いたFrancisとは異なる(戸田山和久『教養の書』)。