ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後桜町天皇の時代

・宝暦3年(1763) 6.7 本居宣長は『紫文要領』を脱稿した。(『紫文要領』奥書)

宣長は、人間は男性らしく賢く振舞おうとも、その本性は女性や子供のように未練がましく愚かであると述べている。彼は、人間の愚かな本性を隠そうとするのが「からごころ」であり、本来の姿を肯定するものが「やまとごころ」であると位置づけ、弱さをさらけ出す部分に日本の文学の優れていることを説いた。

・1770年 イマヌエル カントはケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の教授となった。また、正教授就任論文として『可感界と可能界の形式と原理』(ラテン語)を出版した。

・明和7年(1770) このころ、田舎老人多田爺による『遊子方言』が刊行された。

※作中において、茶屋の女房は客人に「あなた」と呼びかける。商売上、客人には最高の敬意表現を用いることから、「あなた」という言葉が高い敬意を込めたものであったことが理解できる(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1777年 イマヌエル カントは手紙にて、「純粋理性の批判」の構想が同年冬には完成すると記した。