ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

仁孝天皇の時代

・1819年 アルトゥール ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』を刊行した。

※生物学に関する例証も述べられており、ベルリン大学における、生物に関する講義の影響が見て取れる(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・文政2年(1819) 平田篤胤は『神字日文伝』を著した。

卜部兼方の『釈日本紀』において「於和字者、其起可在神代歟(日本の文字の起こりは神代にあるべきか)」という主張の通りに、漢字渡来以前より、日本固有の文字があると説いたものである。篤胤が提示する文字は、Han-geulに似た形状をしている。そもそも固有の文字があれば漢字を借用する必要性はなく、江戸時代以前の文献には見られない。Han-geulを参考にして作成された、後世の文字であり、篤胤の主張は、国粋主義的な願望に由来すると考えられる(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1819年 アルトゥール ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』を刊行した。

※生物学に関する例証も述べられており、ベルリン大学における、生物に関する講義の影響が見て取れる(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

1820年 アルトゥール ショーペンハウアーベルリン大学の教授資格を得た。

※アルトゥールは講義の時間を、ゲオルク ヘーゲルの「論理学と形而上学」と同じ時間に設定した。アルトゥールの一方的な対抗意識からのものであったが、当時のアルトゥールはほぼ無名であり、ゲオルクの講義が満員だったのに対し、アルトゥールの講義にいたのは8人であった(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1821年 ゲオルク ヘーゲルは『法の哲学』を刊行した。

※人間は国家の一員となって、はじめて、責任ある主体として完成すると説かれている。国家に所属しない人間は、責任がないため契約が出来ない。そのため社会契約論は認められないことになる。彼は国家が個人より前に存在すると考えていたのである(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※カール ポパーは『開かれた社会とその敵』第2部において、ゲオルクの国家観は、部族主義的な「閉ざされた社会」であり、全体主義を準備したと批判する(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※カールが言う「開かれた社会」である家族と、「閉ざされた社会」である市民社会止揚した結果、「国家」が生まれると、ゲオルクは主張したのであり、「閉ざされた社会」の外に出ようとしたという見解もある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1823年 5. アルトゥール ショーペンハウアーはイタリア旅行からドイチュに戻ったが、鬱病となった。

※このころから、非社交的になり、孤独を見据えるようになったと彼は述懐している(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

1831年 PreußenのBerlinにコレラが流行した。Arthur SchopenhauerはBerlinを離れてFrankfurtに移住した。

・1836年 Arthur Schopenhauerは『Arthur Schopenhauer』を刊行した。

※「中国学」の章では、道教儒教、仏教についても言及されており、それらが一神教でも多神教でもないことを指摘している。また、「中国」においては仏教の影響で、世界は苦悩に満ちているとの考えがあることも述べている。また、朱熹の「天の精神は人類の意志であるところのものから導きださらる」という学説を引用して、意志が全自然のなかに出現するという自身の学説が証明されたとする。また、自身の倫理学がupaniṣad思想や仏教に通じ、真正なChrist教とも矛盾しないと述べている(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1837年 OstpreußenのKönigsberg大学は、Immanuel Kantの新しい全集の編集を開始した。Arthur Schopenhauerは、編集者のJohann  Rosencrantz宛に手紙を送り、『純粋理性批判』は第二版ではなく第一版を収録することを提案した。その意見は受け入れられることになる。

※Arthurとしては、外界の対象は表象に過ぎないという立場が、第二版で不明瞭にされたと考えていたのである(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

天保13年(1842) 『永代大雑書万暦大成』が刊行された。

※暦、年月日、方位の吉凶や年表、衛生救急法などの知識を収録したものである。「本朝年代紀」の部には神武天皇をはじめとした歴代天皇の年齢や在位年が記されており、そうした知識が一般に広まっていたことを窺わせる(高森明勅『歴史から見た日本文明』)。

・1844年 Arthur Schopenhauerは『Die Welt als Wille und Vorstellung』第2巻(続編)を刊行した。

・1844年 Moses Hessは「貨幣体論」を発表した。

※商品取引という形態は、暴力による生産物の奪取や奴隷制が生れるとする。そうした掠奪と奴隷制という形態は、貨幣によって人に強制されるという形に変化すると説かれる(柄谷行人『世界史の構造』)。