ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

文武天皇の時代(大宝、慶雲)

・697年 8.1 持統天皇は即位宣命により、譲位し、孫の珂瑠皇子が即位した(文武天皇)。(『続日本紀』)

文武天皇は、皇太子になってから即位するまでの期間が短い。そのため、天皇を補佐する役割としての「皇太子」ではなく、天皇の後継者としての意味合いが強い「皇太子」であったとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

文武天皇の即位宣命は、「現御神と大八嶋知らしめす倭根子天皇詔(持統天皇)」とあり、持統天皇からの「授け」によって、その即位は正当化されている。神話的な権威を根拠にすることで、父母両系の血統の良さと、年長者を優先する継承原理を転換させたのである(義江明子『日本古代女帝論』)。

文武天皇即位宣命は、高天原の神から天皇まで連続していることを説明し、それを正統性の拠り所にしている(末木文美士『日本思想史』)。

持統天皇に統治を委任したとするのは、「天に坐す神」である。『古事記』に語られる「高天原」という観念の芽生えを見る見解もある(神野志隆光古事記の世界観』)。

太上天皇天皇と同格として大権を行使した。ただ、太上天皇天皇直系尊属であれば、太上天皇天皇よりも強い発言権を持ち、天皇を直接的に指導したと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※当時53歳(『本朝皇胤紹運録』)の持統太上天皇としては、文武天皇が30歳になるまで待つ余裕はなかった。存命中に天皇位を譲り、年少の新天皇を即位させるという、原則破りを実現させたのは、前天皇が新天皇共に政務を行うとすることで、群臣層を納得させたからとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・697年 8.1 持統前天皇は、「太上天皇」を称した。(『続日本紀』)

〔参考〕本居宣長は『歴朝詔詞解』において、太上天皇は「おほきすめらみこと」と読むべきだと主張している。

※古くから「だいじやうてんわう」や「だじやうてんわう」の読まれてきた。中世には「おりゐのみかど」と読まれることがあったが、日本風の読み方は不明である(美川圭『院政 増補版』)。

〔参考〕『史記』には、秦の始皇帝,趙正が父,子楚(荘襄王)に「太上皇」と追号したとある。

〔参考〕『漢書』には、漢の高皇帝,劉邦が父に「太上皇」の称号を贈ったとある。

〔参考〕『魏書』には、北魏の献文帝,拓跋弘が皇太子,宏に帝位を譲った際、群臣から「太上皇帝」の尊号を贈られたとある。

※子楚は死後の追号であり、邦の父は皇帝になった経験はない。譲位して太上皇帝と呼ばれた最初は弘であり、太上天皇という尊号も太上皇帝に由来すると考えられる(美川圭『院政 増補版』)。

・697年 8.1  文武天皇の夫人には不比等の娘,宮子が立てられた。(『続日本紀』)

※『続日本紀』には宮子を「夫人」紀氏と石川氏の娘を「嬪」と記しているが、実際にはまだ妃・夫人・嬪という序列はなく、同等の地位であったと思われる(義江明子『女帝の古代王権史』)。

・698年 4.壬辰 備前国の国人,秦大兄は香登臣の姓を賜った。(『続日本紀』)

※長子を意味する「大兄」が、長子の人名として用いられていたものと考えられる(荒木敏夫『日本古代の皇太子』)。

・698年 8.? 藤原不比等とその子孫以外の、意美麻呂ら中臣氏出身の人物が藤原姓を名乗ることが禁じられ、藤原氏が政治、中臣氏が以前と同様に神事を司ることとなった。(『続日本紀』)

※大宝令官制において、藤原氏太政官、中臣氏が神祇官の官として並び立つことを定めたものであり、不比等とその子孫のみが王権を補佐して政務にあたることを宣言したとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※これは意美麻呂のような同族を退けて、不比等の子孫だけが、その父鎌足の功績を継承することを定めたものだもと考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

・698年 藤原京にて、文武天皇は外国使節の拝賀を受けた。(『続日本紀』)

・698年 3.21 賀茂祭の際には、人々が「騎射」することが禁じられた。(『続日本紀』)

※当時の祭礼は、人々が興奮状態に陥りやすく、弓騎に優れた者たちによる乱闘で死者が出ることを防ぐために禁じられたものと思われる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・698年 トゥングース系靺鞨人、大祚栄は、高句麗遺民とともに渤海を建国した。

 ・大宝1年(701) 持統上皇・刑部皇子・不比等の下で、大宝律令が完成した。(『続日本紀』)

大宝律令は、日本において律と令の揃った最初の法典である。「大いなる、素晴らしい宝」を冠したことから、唐のような法典を持ったことに対する、貴族の感動や誇りが窺える(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

〔要参考〕『令集解』「公式令 詔書式条」所引の『古記』には、『大宝令』の1節として「御宇日本天皇詔旨」が引用されている。

※このことから、この時点で「日本」という国号が成立していたことが理解できる。太陽の恵みを最も享受可能な、その直下に位置する「日のもと」の国であることを意味すると考えられる。また、そこから世界の中心としても意味も含むようになったかもしれない(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・「儀制令」においては、日本の君主の称号を、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷秩序の文脈では「皇帝」、上表文においては「陛下」と定められている。

※「陛下」の「陛」とは君主のいる宮殿の階段(きざはし)のことである。そこから転じて、君主への取り次ぎを行う臣下を意味する言葉となった。君主に直接言上することや、文書などを渡すことは非礼となる。そのため、側近に対して渡すという謙遜した態度を示すことや、自身が階段のしたにいる臣下であるという表明を意味する言葉として、君主を示す「陛下」という用語が用いられたのである(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

〔要参考〕『古記』「喪葬・服記」には「天皇」の読みを「須売良美己止(すめらみこと)」とする。

〔要参考〕『令集解』巻6「儀制・天子」は「天皇」の読みを「須明楽美御徳(すめらみこと)」「須売弥麻乃美己等(すめみまのみこと)」とする。

※『古記』『令集解からして、大宝令の時点で「スメラミコト」「スメミマノミコト」という呼称が存在していたことがわかる。「スメ」は「スブ(治,統)」の連用形「スべ」に由来し、接尾語の「ラ」が付いたとも考えられる。『風土記』における「スメミマ」は天孫のことであり、「スメミマノミコト」は、スメと「御孫(ミマゴ,ミマ)」に由来すると思われる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「スメラミコト」とは、「澄める尊者(みこと)」であり、神々を祭ることで人々の心を清める者とも解釈される。また別称の「スベロキ」は多くの人々を「統べ治める」君主のことであり、天皇が神々を祭り人々を治める、格別、神聖な統治者であることを示したとも考えられる(所功天皇の歴史と法制を見直す』)。

天皇の別称として、「一人」は『礼記』と『白虎通』に、「乗輿」は蔡邕の『独断』に、「上」は『漢書』「宣帝紀」における師古の注釈に見られる皇帝を示す表現である。「上」や「主上」と呼ばれたことから「ウへ」「ウヘ様」とも呼ばれた。『源氏物語』には「オホヤケ」「ウチノミカド」、『紫式部日記』には「内ノウヘ」『栄花物語長門本平家物語』には「公家」とある。ほかに『孟子』「梁恵王篇」に由来する「万乗の君」、『三論玄義』に由来する「金輪聖帝」という表現もある。天皇の位は「アマツヒツギ(=天つ日嗣)」と言われた(和田英松『官職要解』)。

太上天皇という制度は、持統太上天皇文武天皇の権力関係を反映して法制化されたと考えられ、そうしめ「中国」の太上皇太上皇帝とは異なる独自の制度が成立した(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

天皇の姉妹と皇女に対する、「内親王」という日本独自の称号は、『日本書紀』に見えるのは、691年が初である。そのため、親王号より遅れて成立したとも考えられる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

律令儒教的男性優位の思想があり、財産相続に関しては父系継承を規定した。ただ、律令導入以前の父系・母系同格の名残りがあり、大宝律令の注釈「古記」には、女性天皇の子や兄弟姉妹も男性天皇と同様に親王/内親王として扱うことが規定された(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

太上天皇の立場を天皇と同等とすることや、皇太妃を皇太后と同等に扱うといった規定もまた、女帝の子が男帝の子と同じという規定とともに、唐の令には見られない特徴である。唐の制度を取り入れながらも、女性の天皇や統治者の権限を、法的に保証する必要があったのだと考えられる(義江明子「持統王権の歴史的意義」『日本古代女帝論』所収)。

※大宝令の注釈書である『古記』は、諸王は内親王以下の身分、五世王は諸女王以下の身分、諸臣は五世女王以下の身分の皇親を娶ることができると記している。皇親の婚姻は、天皇との血縁の近さによって制限されている。四世以上の女性皇親は非皇親との婚姻が禁じられており、皇親同士の婚姻をするほかなかったと思われる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

※阿閇内親王は「大宝令」によって「皇太妃」となっている。皇太妃とは先帝のキサキかつ今上天皇の生母に対する尊号である。つまり、生前天皇でなかった草壁皇子を準天皇と見なすという政権の意向の表明である(義江明子「持統王権の歴史的意義」『日本古代女帝論』)。

※毛人(蝦夷)、肥人、阿麻弥人は異人雑類とされた(賦役令 辺遠国条)のに対して、隼人には隼人司という中央官司が設置されるなど、扱いが特別であった。また、『古事記』や『日本書紀』では隼人出身の女性が天皇のキサキになる伝承が多く語られることから、畿内の隼人は強制的に移住させられたという説には疑問が呈される(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

※僧尼令は唐の道僧格を参考にして規定された。寺外での呪術の使用、および反体制運動の抑止を目的としているが、それは唐令に由来する部分もある(鈴木景二「国家仏教と行基」『論点・日本史学』)。

※僧尼の特権を得るために出家する者(私度僧)が増えて、国家の負担となったため、出家には官の認可(官度)を受けることを義務づけた。また、僧尼令により活動は統制され、民間布教は取り締まられた(末木文美士『日本仏教史』)。

※僧侶が寺院以外に道場を開設し、民衆を教化することや、みだりに罪福を説くことは禁じられ、罰則として還俗が求められた。それより軽い罪には、「苦使」が刑罰となった。苦使は役使の1つであり、経典書写、仏具製造、堂舎の塗装や清掃が課せられた。苦使10日は、俗人の受ける杖刑に相当した(鈴木景二「国家仏教と行基」『論点・日本史学』)。

※僧尼令違反の処罰例は、ほとんど伝わっていない。また、官寺に所属する僧尼と、私度僧が共同活動を行うこともあった(吉田一彦『日本古代社会と仏教』)。

※「中国」においては、長期の歴史を持つ倫理規範「礼」を基盤として律令が制定された。日本においては、支配体制に利用できると思えた部分を表面的に模倣する形となった。また、日本という律令国家は、ヤマト王権の時代依頼の氏族制の影響が郡司などに残るという、律令制と氏族制の重層的な構造が形成されることになった。とはいえ文明国としての体裁を整えることには成功した(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※「戸婚律」には、3歳以下で異なる姓を持つ人の養子になった者は、養父の姓に改めることが認められていた。例外的とはいえ、日本では早いうちから改姓が認められていたようである(岡野友彦『源氏長者』)。

・699年 10. 天智天皇陵と天武天皇陵の営造および修造が行われた。(『続日本紀』)

※この2つの陵墓の営造は、天皇の正当性と律令国家の新秩序の形成に関わる事案であった(藤堂かほる「天智陵の営造と律令国家の先帝意識」『日本歴史』602)。

文武天皇は、斉明天皇-天智天皇および天武天皇持統天皇-元明天皇という血統に、自身と国家の権威を求めようとしたのだと思われる。この時点での血統的継承は、双系的だったと考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。

・700年 10.? 〔参考〕『政事要略』によれば、使者が派遣されて乳製品の「蘇」を製造させたという。

〔参考〕蘇の作り方は、牛乳を量が10分の1になるまで煮詰めるのだという。(『延喜式』)

※蘇の製造の始まりとして、信用が置けるとも考えられる(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

・大宝1年(701) 3. 第8回遣唐使が任命された。(『続日本紀』)

・大宝1年(701) 7.? 大宝律令の規定に従い、諸親王・諸臣への食封賜与が命じられた。(『続日本紀』)

・大宝2年(702) 4.3 朝廷は賀茂祭における「騎射」を、地元山城国の住人に限って許可した。(『続日本紀』)

※高度な武芸を披露することは、人間の行える範囲で最大限の娯楽の提供であり、それは神を接待する行為としても良いものであった。そのため、朝廷はそれが重要行為であると認識し、地元民に限って「騎射」を許可したのだと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・大宝2年(702) 6.? 第8回遣唐使は渡海した。(『続日本紀』)

・702年10.? 第8回遣唐使は周(旧唐)の楚州に到着した。

・702年 粟田真人らは、楚州に到着した。地元民からは、どこの国からの使者かと尋ねられたので、日本国からの使者だと答えた。真人が地元民に、ここはどこの州界かと尋ねると、大周の楚州だと答えた。地元民は、武曌(神聖皇帝/武則天)が即位した後に、唐の国号が周に変わったことを述べた。(『続日本紀』)

〔要参考〕『釈日本紀』が引用する『唐暦』逸文は、日本とは倭国の別名であると説明する。

〔要参考〕張守節『史記正義』には、神聖皇帝,武曌が倭国を改めて日本にしたとある。

※『唐暦』と『史記正義』は唐代に成立している。そのため、唐(周)側が主体的に改めたという説明の真偽は別として、曌が皇帝の時代に倭国が「日本」に国号を変更したことは確実と考えられる(神野志隆光『「日本」とは何か』)。

〔要参考〕『唐会要』によれば、聖神皇帝,武の時代、日が昇る場所に近いことから、「日本国」を自称したのだと、(遣唐使が)語ったのだという。 

※則天文字の創出や、洛陽を「神都」と命名し国号まで変更した曌としては、倭の表記が変更されることも容易に受け入れたのではないかとも推測される(王勇『日本にとって中国とは何か』)。

〔要参考〕『善隣国宝記』は『唐録』を典拠として、日が昇る所に近いことから国号を「日本」にしたのだと説明している。

〔参考〕『旧唐書』「東夷 日本」は、「倭」が「日本」になったことについて、

①太陽の昇る方向にあることから

②「倭」という名称が良い意味でないから

③小国だった「日本」が拡大して「倭」の土地を併合したから

という3つの説を記載している。

※『旧唐書』は倭と日本を別の列伝に記載している。国号の変更理由を併記しているのは、国号の変更に関して唐側の混乱を示しているとも考えられる。『新唐書』においてはこの誤りが正され、列伝は「日本」に統一された(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

※「中国」においては、国名の変更は王朝交替を意味した。そのため、壬申の乱において大友王の政権が滅ぼされたことを、王朝交替だと周(唐)が誤認した可能性が指摘される。また、「中国」としては朝貢国が無断で国名を変更することは考えられないため、倭国と日本は別であるという先入観があったとも推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

〔参考〕『新唐書』によれば、倭という文字を嫌い、夏の音を参考にして国号を「日本」にしたという。また日本からの使者は、太陽が登る場所に近いことから日本に変えたと語ったという。また、倭が「日本」という国を併合して、その名を名乗ったとい説も記載がある。

※『旧唐書』と『新唐書』が説明する倭国から日本への改称の一説は、どちらかがどちらかを併合したと説明する。元々「日本」という国があったとする点で共通しており、国号変更の理由として無理のある説明を行ったとも推測される(神野志隆光『「日本」とは何か』)。

〔要参考〕『日本書紀』巻一の割注には、日本の読みを「耶麻騰(やまと)」とあり、「倭」の同音の言葉だったと理解できる。

※このことから、日本は、好字(意味合いの良い字)を用いる感覚で倭の代わりに日本を用いはじめ、対外的にも使用するようになったのだと考えられる(王勇ほか『日本にとっては中国とは何か』)。

※「日本」という名称は、周(旧唐)に報告する以前から用いられはじめ、『大宝律令』によって正式に確立し、その後に外交上の正式国号として認められたと考えられる(冨谷至「中華と日本」『中華世界の再編とユーラシア東部』)。

※真人は、唐から周への国号の変更を知らなかったとも考えられる(渡邊晃宏『平城京と木簡の世紀』)。

※地元民は、倭国が国号を日本に変更したことを知らなかった、もしくは理解していなかったようである。真人はそちらも国号を変えたではないか」と切り返して、新たな国号「日本」を誇示したと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

遣唐使の随員であった山上憶良は、日本を思って歌を詠んだ。

いざ子ども はやく日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ぬらむ (『万葉集』)

・702年(和暦大宝2年) 10.3 このときまでに、日向国から薩摩国が分立した。(『続日本紀』)

薩摩国の一部である「阿多郡」の「阿多」は、古くは薩摩半島地域の代表的な地名であったと考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・702(和暦大宝2) 美濃国の、加毛郡半布里の戸籍が作成された。(「御野国加毛郡半布里戸籍」)

※記載されている夫婦は121組であり、20代男性は妻との年齢差が2.87高く、40代で4.96、50代で7.18、70代で12.29の差があった。これは配偶者との死別が頻繁にあったため、男性は高齢になっても、生殖能力のある若い女性と結婚を繰り返したのだと推測される(今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』)。

※当時、適齢期の女性には、生殖能力がある限りは結婚、配偶者と死別後は再婚を勧める社会通念があった。飢饉や疫病が頻発し、男女の平均寿命は30歳前後と短かかったため、村の人口を維持し、共同体の崩壊を防ぐためである。村の祭りの際には「歌垣」が開かれ、「求婚を拒む女性は不幸になる」など、性や婚姻に関する歌を冗談めかして詠みあった。それもまた、共同体を維持するために、村の構成員が婚姻と出産を総出で促すことを目的としていた(坂江渉「古代家族論『論点・日本史学』」)。

・703年 粟田真人ら第8回遣唐使は周に貢ぎ物を献上した。粟田真人の冠は、頂点が花形で四方に花弁が垂れる形状の「進徳冠」であった。また、紫色の上衣と白絹の帯を身につけていた。経書史書を読むことを好み、文字を書け、穏やかな人柄だったという。(『旧唐書』東夷 日本)

〔要参考〕『新唐書』「車服志」からは、唐において進徳冠は貴臣に与えられるものであることが読み取れる。しかし後に『通典』『唐新語』にあるように、皇太子専用の冠となった。

※唐では特別な地位にしか許されない進徳冠を被っていたことから、唐側からは奇妙に思われて、姿格好について詳細な記述がなされたものと考えられる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・唐に来た日本人は、日本は国土が大きいと誇るが、信頼できる情報を言わないために信用できないと記録されている。(『旧唐書』東夷 日本)

※『旧唐書』による、日本に対するこのような批判的な記述は、それまでの倭からの使節とあまりに変化した、唐朝初期を模倣した姿に困惑したからだと考えられる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

 ・大宝2年(703) 1.13 持統太上天皇崩御した。(『続日本紀』)

・大宝3年(703) 故持統天皇に「大倭根子天之広野日女尊」という諡号が贈られた。(『続日本紀』)

持統天皇への和風諡号は、早い時期に「高天原広野姫天皇」に変更された。高天原神話が成立していたとすれば、持統天皇天照大御神擬制しようとしたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・大宝3年(703) 10.9 蘇我連子の子息,宮麻呂は御装束司に任じられた。(『続日本紀』)

※宮麻呂は生涯に渡って議政官には任じられなかった。非皇親は女性皇親との婚姻が認められていなかったため、蘇我氏の血を引く天皇がいても、それが女性でれば一族から配偶者を排出することが出来なかった。また、彼の父,連子は、日向と同一人物という見解がある。その推測が正しければ、日向は故持統天皇にとって、祖父,倉山田石川麻呂を陥れた人物である。外戚関係を維持出来なかったこともあって、出世は困難であったとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

大宝4年(704) 遣唐使の帰国に際して、山上憶良は歌を詠んだ。

いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ(『万葉集』)

大宝4年(704) 粟田真人らは帰国した。また、藤原京の造営は途中で打ち切られる。

※これは、真人が藤原京では「中華」の都として藤原京では不十分であることを報告したからであると推測される(佐藤信『古代史講義』【宮都篇】)。

大宝4年(704) ?.? 藤原武智麻呂は、右大臣,阿部御主人の孫との間に豊成を儲けた。(『藤氏家伝』)

太政官の筆頭である右大臣、かつヤマト王権の名族の孫を娶ったことは、藤原氏にとって有利に働いたと考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

慶雲2年 9. 丙戌 大和国宇陀郡に八咫烏社が置かれた。(『続日本紀』)

史書の編纂過程で神武天皇を導いた八咫烏の伝承が広く認知されるようになり、八咫烏の子孫とされる山背国の賀茂氏からの要請によって創建されたとも考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

慶雲3年(706) 3.? 法起寺の塔の露盤が制作された。(「法起寺塔露盤銘」)

法起寺厩戸王が居住したことがある。銘文は厩戸王のことを「上宮太子聖徳皇」と呼んでいる。厩戸王のことを「非常にずれた知恵」(『岩波国語辞典』)を意味する「聖徳」と呼んだ最古の史料である。ただ、それは諡と考えられ、彼の生前からの呼称とは思われない(吉村武彦『聖徳太子』)。

慶雲4(707)年 6.15 文武天皇は、自身の母阿閉皇女を次期天皇とする遺詔を発した後に崩御した。(『続日本紀』)