ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

南北朝時代1

鎌倉幕府の滅亡後、武家の中では特に足利高氏・直義兄弟が大きな恩賞を貰った。高氏は後醍醐天皇の諱尊治の”尊”の偏諱を受け、尊氏と改名している。このような優遇に対して、後醍醐天皇の近臣である村上源氏北畠親房は強い非難を加えた(『神皇正統記』)。また、武士層は優遇され、恩賞には、元々は皇族や公家のものであった所領が与えられることがあった。

  他にも、後醍醐天皇は、大納言以上に任じられることのない「名家」の出身である吉田定房を准大臣に任じたが、このことに関しても北畠親房は「無念」と述べている(『職原抄』)。

  元弘3(1333)年9月、後醍醐天皇雑訴決断所と呼ばれる機関を設置し、土地に関する訴訟を処理したほか、武士の本領安堵、綸旨の施行などの職務が行われた。雑訴決断所には武士が多く登用された。佐々木京極高氏(導誉)・その一族如覚・足利尊氏の執事高階師直・尊氏の母方の親族上杉道勲などである。ほかに、宇都宮氏・二階堂氏・小田氏・長井氏(大江姓)・大田氏(三善姓)・伊賀氏・町野氏などの鎌倉幕府六波羅探題のかつての官僚も登用されている。

後醍醐天皇は関白を置くことなく、元号建武とし、「建武の新政 」と呼ばれる政治を行った。

後醍醐天皇が設置した記録所では、一番から五番までの5つの部門に別れて職員が置かれた。その職員には、吉田定房の甥である勧修寺流甘露寺藤長のほか、小田時知・伊賀兼光といった、かつて鎌倉幕府評定衆引付頭人を務めた官僚や、名和長年楠木正成などの倒幕運動に活躍した者たちが登用された(呉座勇一 編『南朝研究の最前線』)。

また、論功行賞についての処理を行う恩賞方が設置され、その頂点に位置する一番には吉田定房が任じられた。

関東には統治のために鎌倉将軍府が設置され、後醍醐天皇の皇子成良親王足利直義を中心とした体制が敷かれた。

建武2(1335)年6月、かつての関東申次西園寺公宗が、「太上天皇(光厳院か)」を奉じて謀反を企てたが、捕らえられた。

同年、北条高時の子息時行は信濃国において、同国の諏訪神社の神官にて御内人諏訪頼重に擁立されて挙兵。鎌倉へ侵攻した(中先代の乱)。この反乱には三浦時明や天野貞村、千葉氏などの東国の旧御家人たちも参加した。

7月23日、直義はそれを迎え撃つも敗れて成良親王と共に鎌倉から西に逃れた。鎌倉を占領した時行は、持明院統光厳院の在位中の元号正慶を使用しており、持明院統を奉戴するという意思表示とも捉えられている(呉座勇一 編『南朝研究の最前線』)。

その知らせを聞いた尊氏は、弟を助けて東に向かい、征夷大将軍・総追捕使として時行を討伐することを望んだが、後醍醐天皇征夷大将軍の代わりに尊氏を征東将軍に任じ、東征の許可は与えなかった。征夷大将軍に任じられたのは後醍醐天皇皇子の成良親王であった。尊氏が征夷大将軍任官を望んだのは、反乱の中心である北条氏の権威に対抗できるのは、征夷大将軍であると尊氏が考えたからであると思われる(呉座勇一 編『南朝研究の最前線』)。時行の反乱に伴い、西園寺公宗は処刑された。

結局尊氏は後醍醐天皇の許可を得ぬままに8月に関東に赴いた。尊氏方では足利一門の今川頼国らが討死したが、尊氏により反乱を鎮圧。諏訪頼重らは自害し、関東は平定された。時行本人は逃れている。

尊氏はその後後醍醐天皇より帰京命令が出された。それに対して尊氏はすぐに帰京する旨を伝えるが、直義は帰京した尊氏が殺害されることを恐れ、帰京に反対した。結果として尊氏は直義の案を受け入れ、帰京命令に従わず関東に留まった。しかし尊氏は、幕府を開くことを後醍醐天皇の反逆とは考えていなかったと思われる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

同年11月、帰京命令に従わない尊氏に対して、後醍醐天皇は討伐を決定した。討伐軍は尊良親王を上将軍、新田義貞を大将軍となった。

それに対して尊氏は戦意を持たず、出家のうえで謝罪することを考えた。そのようなわけで、尊氏の代わりに直義が総大将として出陣するも、新田義貞に何度も敗れた。

そこで、「直義が死んで自分が生きていても意味が無い」と考えた尊氏は、あくまで後醍醐天皇に対して反逆の意思はないとしたまま自ら出陣することになった(『梅松論』)。

同年12月、足利尊氏の軍は箱根・竹下にて新田義貞を敗り、そのまま都に向かった。

このころより、まだ征夷大将軍でなかった尊氏を「将軍家」と呼ぶ史料が表れるようになった。つまり「将軍家」とは、かつての源頼朝のような、武家の棟梁を意味する言葉であったと考えられる(呉座勇一 編『南朝研究の最前線』)。

建武3(1336)年正月、都の戦いにおいて尊氏は勝利。後醍醐天皇新田義貞は近江に逃れた。

しかし、陸奥国から北畠親房の子息顕家が襲来したことで尊氏は敗北。足利氏の荘園のある丹波国篠村に逃れた。

同年2月、尊氏は再び都を奪還しようとするが、摂津国豊島河原にて新田義貞北畠顕家の軍に敗れて播磨国兵庫に逃れる。

  兵庫から室津に渡った尊氏軍は、軍議の結果九州に逃れて勢力を盛り返す機会を伺うことにした。

後醍醐天皇の命を受けた軍勢から逃れる際に、尊氏は光厳院より院宣を貰うことに成功。これにより朝敵としてのレッテルから自由になった。

尊氏は九州にて少弐頼尚らに迎えられ、筑前国多々良浜にて後醍醐天皇方の菊池武敏の軍勢に勝利して九州を平定した。尊氏はその勝利を奇跡と感じ、夢の中で救われた地蔵菩薩に対する侵攻を深めるようになる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

体勢を立て直した尊氏は都に進軍を開始。同年5月には摂津国湊川にて新田義貞楠木正成の軍に勝利。楠木正成は自害した。後醍醐天皇比叡山に逃れている。

同年6月、足利尊氏光厳院を奉戴して都に入った。8月には光厳院の弟豊仁親王践祚した(光明天皇)。

同年10月、足利尊氏比叡山包囲に音を上げた後醍醐天皇は、尊氏との講和を考えるようになった。しかし、後醍醐天皇から見捨てられることを恐れた新田義貞がそれに抗議。それを受けた後醍醐天皇は、自らの皇子恒良親王皇位を譲り、新田義貞には恒良親王尊良親王とともに北陸へ逃れさせようとした。

11月、光明天皇に対して後醍醐天皇三種の神器を渡した。後醍醐天皇に対しては太上天皇の尊号が贈られ、後醍醐院の皇子成良親王が皇太子となった。

同月、尊氏は「建武式目」を制定した。この宣言をもって「室町幕府」の成立だとされている。

しかし12月、後醍醐院は都を脱出して大和国吉野に逃れ、光明天皇に渡した三種の神器は偽物だと主張。本物の三種の神器を持つ自らが正式な天皇であると宣言した。

このようにして、「北朝」の光明天皇、「南朝」の後醍醐天皇という2人の天皇が並び立つ、南北朝時代が到来した。