貞永3(1232)年、後堀河天皇は譲位。第一皇子の秀仁親王が12歳で即位した(四条天皇)。
天福元(1233)年5月、佐原盛連が泰時により殺害された。酒乱で素行不良であったことが『明月記』に記されるが、殺害理由は不明である。
文暦元(1234)年、竹御所は頼経の子を死産のうえで自らもこの世を去る。これにより頼朝・政子夫妻の血統は絶えた。六波羅北方探題の北条重時がすぐに鎌倉に帰ったことからも、その衝撃が理解できる(細川重男『宝治合戦』)。同年8月6日、後堀河院が崩御した。
嘉禎元(1235)年、鎌倉殿頼経の父でもある九条道家は、後鳥羽院・順徳院父子の帰京を鎌倉幕府に打診したが、幕府はそれを認めなかった。これにより幕府と九条家の不和が起こったとされる(細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』)。
延応元(1239)年2月22日、後鳥羽院は配流先の隠岐で崩御した。同年、藤原頼経は藤原親能の娘大宮局(二棟御方)との間に子息頼嗣を儲ける。また、12月31日には三浦義村も世を去った。
延応2(1240)年、北條時房は死去した。
仁治2(1241)年、九条道家は、子息教実の娘彦子を四条天皇の女御として入内させた。
仁治3(1242)年正月、北条時盛は出家。同時期にその長男時景は流罪となった。これは、大仏北条朝直との間の、時房流嫡流の争いが関係していると考えられている(野口実 編著『図説 鎌倉北条氏』)。時盛の子孫の系統は、佐介流と呼ばれるようになる。
同年同月、四条天皇は近習や女官を滑らせて脅かそうと滑石を撒くが、自身が滑ってしまい、それが原因で崩御した。
九条道家は、姉東一条院の夫である順徳院の皇子忠成王を即位を望んだ。朝廷もその方針で進めようとしたが、北条泰時は、かつて承久の乱で義時追討に積極的だった順徳院の系統が皇位に就くことを拒絶した。朝廷内で泰時に賛同したのは、泰時の妹婿であり、邦仁王の養育者である土御門定通(源通親子息)であった。邦仁王の母は定通の兄通宗の孫娘である。
結果として、土御門天皇の皇子邦仁王が即位した(後嵯峨天皇)。皇后には西園寺実氏(公経子息)の娘姞子が立った(大宮院)。そのようなことで、土御門家の復権とともに、九条道家は幕府との関係が悪化した(樋口健太郎『摂関家の中世』)。
同年3月、近衛兼経が関白を辞任し、九条道家の子息良実が関白となった。こうして道家は再び朝廷を手動することとなる(樋口健太郎『摂関家の中世』)。
同年6月15日、北条泰時は死去。孫の弥四郎経時が執権となった。「 四郎」を含む経時の仮名も嫡流としての期待を伺わせる。「経」の字は鎌倉殿である藤原頼"経"からの偏諱である。同母弟五郎も頼経の「頼」の偏諱を受けてか諱を「時頼」としている。経時の時代には連署が置かれなかった。
西園寺実氏は、後嵯峨天皇の関白として、九条道家の子息二条良実を推薦した。この良実は、外祖父西園寺公経には愛されたが、父道家とは不仲であった。大宮院は久仁親王・恒仁親王を産み、実氏は次期天皇の外祖父になりえる立場となった。
頼経は、北条朝時の子息光時・時幸ら名越流の兄弟、三浦義村の子息泰村などを側近としていた。
経時の時代には、裁判の書状の不備がなければ口頭弁論を省略可能になったほか、判決の書かれている関東下知状を将軍が閲覧するというプロセスを取り止めにした。これは、執権経時に対抗する姿勢を見せていた頼経への牽制と考えられる(野口実 編著『図説 鎌倉北条氏』)。
寛元2(1244)年、藤原頼経は経時の圧力で将軍職を退いて、子息頼嗣が新たな将軍/鎌倉殿なったが、自身は「大殿」として後見し、権力は握り続けた。
この時点での評定衆は、北条氏からは政村のほかに、時房の子息大仏流北条朝直・資時兄弟、ほかに藤原親能の従兄弟の子息中原師員・毛利季光(大江広元子息)・その甥長井泰秀・三浦泰村・三善康信の子息太田康連・その甥倫重・町野康持・倫重の子息倫長・伊賀光宗・後藤基綱・二階堂行義(行政子息)・経時の舅宇都宮泰綱(頼綱子息)・安達義景(景盛子息)・狩野為佐・清原満定・千葉秀胤であった。
その中で頼経に近しかったのは、三浦泰村・後藤基綱・狩野為佐・町野康持であった。千葉秀胤は胤正の孫であり、父常秀は分家して上総介となっており、その地位を継承して自らも上総介となった。秀胤は三浦泰村の妹婿という立場から頼経に近づいていた。
寛元5(1245)年7月26日、藤原頼嗣は北条経時の妹檜皮姫を妻に迎える。これにより将軍家と執権北条氏の関係修復を図ったものと思われる(細川重男 編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』)。
頼嗣は金沢北条実時に侍読の教えを授けた。政村からも和歌を教わり文化人となった実時は、後に典籍を収集し、金沢文庫に収蔵する。
寛元6(1246)年閏4月1日北条経時は同母弟時頼に執権職を譲って死去した。肝臓病を患っていたと思われる。
足利泰氏は名越流北条朝時の娘を妻として間に家氏・義顕を儲け、その後時頼の妹との間に頼氏を儲ける。他の腹違いの子息として、石燈氏の祖頼茂・加古氏の祖基氏・上野氏の祖義弁などがいる。
また、寛元4(1246)年には後嵯峨天皇が譲位して、久仁親王が即位した(後深草天皇)。皇后には実氏の娘つまりは叔母の公子が立った(東二条院)。これにより実氏は天皇の外祖父、後に太政大臣となった。対して九条道家は不仲な子息良実を摂政から解任させ、寵愛する子息実経を摂政にした。そして自身は朝廷と鎌倉幕府の間を取り持つ「関東申次」となった。
幕府は後嵯峨院が院政を敷く朝廷に対して、徳政を重んじた改革を行うよう要請した。それに応えて、公家から選ばれた評定衆の合議により重要な案件は決定されることになった(院評定)。院評定では、評伝の結論は治天の君の意向に沿ったものになることがほとんどであった(呉座勇一 編『南朝研究の最前線』)。
同年5月、頼経の側近たちによる時頼排除計画が発覚した(宮騒動)。頼経に謀叛を勧めたとされる北條光時は出家させられた。『吾妻鏡』には、時幸は病死のように記述されるが、公卿葉室定嗣の日記『葉黄記』にあるように、都には自害したと伝えられた。
頼経に近しかった千葉秀胤(常胤曾孫)・三善康持(康俊子息)・後藤基綱・狩野為佐が評定衆を解任された。康持は問注所執事も罷免されている。また、秀胤は本拠地の上総国に追放、光時は伊豆国に流罪となった。頼経は鎌倉を離れ、都の六波羅探題北条重時の邸宅に預けられた。
父道家より関白を解任された良実は、道家が頼経の謀議に関与していると幕府に訴えた。こうして関与を疑われた九条道家は関東申次を罷免され、代わりに西園寺実氏が就任する。幕府の要請により、実経も摂政を解任される。そして新たに近衛兼経が摂政に任じられて復権した。良実は道家より親子の縁を切られた。
宝治元(1147)年5月13日、檜皮姫が死去。将軍家と執権北条氏の婚姻関係が無くなった。
御家人間の抗争も再び起こるようになり、時頼の祖母(矢部禅尼)の弟三浦泰村・光村・家村兄弟と、時頼の生母(松下禅尼)の父安達景盛が対立を強めた。時頼と泰村は合戦になることを防ごうとしたが叶わなかった。毛利季光は妻の兄である三浦泰村・光村方についた。時頼は安達側に加勢し、矢部禅尼の産んだ光盛・盛時・時連らも安達側で参戦した。追い詰められた三浦一族や毛利一族の多くは自害した(宝治合戦)。
千葉秀胤も鎌倉幕府からの討伐軍に攻められて子息らとともに自害した。戦後、三浦泰村・光村・家村の残る妻子は出家させられ、秀胤の幼子は召し預けとなった。
こうして三浦氏は滅んだが、佐原盛時は苗字を三浦に変えて三浦氏を再興し三浦義村の血筋を伝えた。光盛は蘆名氏の祖となる。蘆名氏は安達氏の被官となった。
毛利季光の四男経光は生き残り、大江姓毛利氏を存続させた。
合戦の戦勝祈願を行ったことで、元は園城寺の僧であった法験は鶴岡八幡宮の別当となった。
宝治合戦により、得宗家に対抗できる御家人はいなくなり、安達氏は唯一の外戚となった。
北条重時は六波羅探題を辞して鎌倉に帰還。時房以来不在であった連署に就任した。評定衆には新たに名越流北条光時の弟時章が加えられた。
宝治2(1248)年、結城朝光は自身が足利氏と対等であると主張し、足利義氏との間で諍いが起こった。このことは、御家人は源氏御門葉を頂点とするという秩序が形骸化していたことを物語っている(細川重男『宝治合戦』)。
建長元(1149)年6月、相模守政村が陸奥守となり、代わって時頼が相模守となった。時頼は政村の娘葛西殿と結婚している。
同年12月、裁判を迅速に進めるために、3つの引付方が設置された。引付方のトップ引付頭人は評定衆内の上位者が兼任した。最初の頭人はそれぞれ政村・朝直・資時が務めた。引付方は評定衆・引付衆・奉行人により運営され、評定で決定される前の訴訟の予備審査を行った。引付頭人は5段階の階級があり、一番頭人から四番頭人までは北条氏の者から選出された。後に引付方は増設・廃止などの時期があり、基本的に5つとなった(細川重男『宝治合戦』)。
時頼の時代には、得宗への権力集中が進み、得宗の私的な会議である「寄合」では政権運営に関する話題が話し合われている。
また、時頼は京都大番役の負担を減らしている。これは、地頭代に対して「撫民(民をいたわること)」を命じ、鎌倉の市政の整備を行った(川添昭二『北条時宗』)。他に、商業地区の規定や物価統制など行い、立場の弱かった西国御家人の保護のための立法もされた。この政策は、浄土教の信者であった重時の発案という説もある(細川重男 編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』)。
建長3(1251)年、謀叛を企てたとして、僧の了行が拘束された。了行は九条道家の邸宅の仏堂の住僧であり、鎌倉幕府は道家の加担を疑って朝廷にその処罰を願い出た。それにより道家の権勢は衰えてゆく。
その直前、足利泰氏は出家している。これは了行の謀叛計画に関わっており、罪過が足利氏まで及ぶのを防ぐためという説もある(細川重男『宝治合戦』)。得宗家と対立した名越流北条氏の母を持つ家氏は廃嫡され、代わりに時頼の妹を母に持つ頼氏が足利氏の家督を継いだ。
泰氏の出家は幕府に無断で行われたため、埴生荘を没収されたが、その後も足利氏は北条氏と婚姻関係を何代にも渡って結び続け、形式上清和源氏の「嫡流」として見られるようになった。
頼氏は上杉重房の娘を妻として、間に家時を儲ける。
建長4(1252)年、了行事件に九条道家が関与したと考えた幕府は、その孫頼嗣を鎌倉殿の地位から排除することを決定、後嵯峨院の皇子を新たな鎌倉殿として下向させることを要請した。九条流は後嵯峨院より勅勘を蒙り、九条教実の子息忠家は右大臣を解任され、後に所領や知行国も失うことになる。
その同年に九条道家は死去した。
忠家は九条流の本邸九条殿を引き継いだ。良基は二条京極殿を継承して二条家の祖となり、実経はかつての一条能保の邸宅一条室町殿を継承して一条家の祖となった。
また同年、近衛兼経は幕府と相談したうえで兼平に摂政を譲った。兼経が道家の娘仁子との間に儲けた子息基平が成長するまでの中継ぎである。とはいえ兼平の子孫は家嫡として扱われ、本邸の鷹司室町殿から鷹司家と名乗るようになった(樋口健太郎『摂関家の中世』)。
こうして摂関家は近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家へと分派した。
後嵯峨院の第一皇子宗尊親王は、鎌倉に入って征夷大将軍に任じられた。代わって頼嗣は母と弟乙若とともに上洛した。これにより天皇の異母兄が鎌倉殿となった。
宗尊親王と共に、公卿・殿上人・女房なども鎌倉に下った。宗尊親王の側近に仕えることは、後嵯峨院の御所での従事と同じ待遇として扱われ、鎌倉の将軍御所は朝廷に準じるものとなった。これは幕府としても名誉を感じるところであった。ちなみに宗尊親王は歌人としての才能もあった(川添昭二『北条時宗』)。
『上杉系図』によれば、宗尊親王に伴い下向した勧修寺流藤原重房は、丹波国何鹿郡上杉荘を拠点として、苗字を上杉と名乗ったという。
北条時頼は、近衛兼経の娘宰子を猶子として、宗尊親王の妻として、縁戚関係を結んだ。
建長5(1253)年、安達義景は死去。子息の泰盛が一番引付に加えられた。
康元元(1256)年、重時は出家した。彼が余生を過ごした極楽寺から、その家系は極楽寺流と呼ばれるようになる。同年、重時の子息長時は六波羅北方探題として在京していたが帰還、また、政村が連署に就任した。長時の弟時茂は兄の後任として六波羅北方探題に就任する。
時頼の長男時輔は生母の身分が低く、葛西殿の産んだ次男時宗を後継者とした。しかし、時宗が未だ幼年であったため、長時に家督を譲った。時頼は、正妻の産んだ時宗・宗政を1位2位とし、庶子の時輔・宗頼をそれに継ぐ3位4位という序列を定めて扱いに差を付けた。また、時頼が長時の家督を代理とすることで、得宗家を明確な嫡流と定められた。
時頼は、南宋出身の禅僧蘭渓道隆を戒師として出家、法号を道崇とし、これにより禅宗に帰依した。時頼は蘭渓道隆を開山として、地蔵菩薩を本尊とする建長寺を建立している。時頼が南宋の禅を需要したのは、南宋文化の移入の拡大という目的の他に、「世俗の儒教的政治思想と非世俗的仏教は一体のものであり、国家を安定させて争いを収めるのが仏の教えに適う」という考えが、彼の「撫民」政策を思想的に後押しするものだったからである(川添昭二『北条時宗』)。時頼は蘭渓道隆以外にも、兀庵普寧などの渡来禅僧を招いた。
また、時頼の他に政村や長時ら北条一門以外にも、宗尊親王の側近や他宗派の僧より尊敬を集めた人物に律宗僧叡尊がいる。彼は幕府の庇護を受け、極楽寺や三村寺を中心に律宗を広めた。その弟子忍性(良観)は、聖徳太子の活動に倣い、各地に治療所を設けた。
とはいえ、時頼は法然の孫弟子信瑞の導きで念仏往生を願うなど浄土宗との関わりもあったことを、『法然上人絵伝』は伝えている(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)など、浄土宗の影響も強くあった。同じく法然の孫弟子の良忠は、大仏流北条氏より帰依を受けた。良忠が鎌倉に入るのを支援していた勧進聖浄光は、幕府の後押しで鎌倉大仏の造立に尽力する。
そして、時頼に代わって重時の子息長時が執権となった。長時の邸宅から、その家系は赤橋流北条氏と呼ばれる。
正嘉元(1258)年8月、後嵯峨院は、寵愛する皇子世仁親王を、その同母兄後深草天皇の皇太子に立てた。関白は鷹司兼平が続けた。
正元元(1259)年、後嵯峨院・大宮院夫妻の意向により後深草天皇は譲位し、世仁親王が即位した(亀山天皇)。
弘長(1261)年、二条良実が関白に再任された。関白の交代に関して、亀山天皇は「嘆息」であったという(『民経記』)。また同年、極楽寺流北條重時は死去した。
文応元(1263)年、僧日蓮が『立正安国論』を時頼に献呈、浄土宗や禅宗などの「邪法」が流行しているために天災が起きていると主張した。日蓮はかつて比叡山延暦寺で学んだこともある人物で、『妙法蓮華経(法華経)』こそがブッダの唯一の正しい教えであると説き、「南無妙法蓮華経(妙法蓮華経に帰依するの意)」という「題目」を唱えることで成仏できるという教えを広めた。日蓮は「真言亡国 禅天魔念仏無間 律国賊」という言葉(四箇格言)で他宗派を激しく攻撃したため、禅宗徒である時頼からも危険視され、流罪となった。「律国賊」というのは、律宗西大寺流の活動が慈善事業・土木工事から関所管理・海外貿易にまで拡大し、利益を上げたことによる(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。日蓮は北條重時が念仏者(浄土教徒)に騙されたためであると述べている。
文永元(1264)年、執権赤橋北条長時は病を患って出家。北条政村が執権に、北条時宗は連署となった。また、大仏北条朝直の死去したため、名越北条時章が一番引付頭人となった。このころ、時宗異母兄時輔は六波羅探題南方となった。北方は長時同母弟にて政村娘婿北條時茂であった。
文永2(1265)年、北条時宗は但馬権守になり、次いで相模守を兼任、それまで相模守だった北条政村は左京権大夫となった。相模守は執権と連署の地位を示すものとなっていた(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。
同年、評定衆は3名増員され、北条時広(時房孫)・名越北条教時(朝時子息・時房外孫)・大江時秀が引付衆から評定衆となった。また、引付衆も4名増員され、塩田北条義政(重時子息)・業時兄弟・大仏北条宣時(時房孫)・佐々木氏信・二階堂行有・二階堂行実が任じられた。これにより評定衆・引付衆を構成する北条一門の数が4人から8人に増えた。
名越流が再び勢力を盛り返す形となったが、得宗家側は義政・業時・宣時を評定衆に加えることで押さえ込もうとした(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。
文永3(1266)年、得宗家と名越流の北条氏内での対立は裁判の停滞を招きかねず、一旦引付は廃止され、重大事項は執権と連署が、細事は問注所が受け付けることとなった。また、評定衆の権力は低下して執権・連署の補佐役的存在となり、対して政所と問注所の重要性が高まった。また、初の「徳政令」が出され、御家人は売却または質入れした土地を利息無しで買い戻すことが出来るとした。これは、御家人の土地の流出を防いで幕府の権力基盤を維持するためである(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。徳政令は翌年には廃止された。
同年、宗尊親王の正妻宰子が僧良基と密通したことで、時宗・政村・実時らの合議の末に、宗尊親王は鎌倉を追放され、都に送還された。傀儡としての地位に満足しなくなった宗尊親王を御しきれなくなったためである。
代わりに宗尊親王の子息惟康王が新たな征夷大将軍/鎌倉殿となった。
このころ、モンゴル(大蒙古国)のカアン(皇帝)クビライは、南宋の攻略に乗り出していたが、その際南宋と交流のあった日本を自らの味方にしたいと考えていた(川添昭二『北条時宗』)。
そのような背景があって、クビライは高麗に命じて使者を日本に案内させた。国書にはモンゴルと日本の通好を求めるものであるが、もし叶わないとなれば武力を用いるかもしれないと、暗に脅しの文言を含んでいた。しかし、高麗の宰相李蔵用は、日本と事を荒立てたくはなく、仮に日本に遠征するとなれば高麗の負担も莫大なものになると考えて、悪天候を理由に引き返した。それに対してクビライは激怒し、高麗が責任を持って元と日本との仲介を行うよう命じた。
文永4(1287)年、一条実経は関白を辞任。近衛基平が22歳で関白となった。
文永5(1268)年正月、高麗使潘阜がモンゴルの国書(大蒙古国国書)を持って来日、大宰府に到着した。その国書には、通好のための使者を求めるものであった。しかし、「兵を用うるに至りてはそれ誰か好む所ならん(軍隊を使うことなど誰が好むだろうか)」という文言は幕府を警戒させたと考えられる(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。
幕府から西園寺実氏がモンゴルからの国書を受け取り、朝廷でもモンゴルへの対応が議論されたが、返事を出さないことに決定した。
同年、北条時宗は執権に就任した。執権だった政村は連署となって時宗の補佐にあたった。
また、国書の存在を知った日蓮は、かつて自身が記した『立正安国論』の「為政者が法華経に帰依しなければ、日本は他国に攻められて破れる」という予想が的中したと考えた。そして得宗家の被官宿屋最信に、自分1人がモンゴルを調伏できるとの内容の手紙を送った。
禅僧の東巌慧安もモンゴルの降伏を祈願するなど、一部の僧は積極的に活動を行った。
同年11月、近衛基平が赤痢に罹って23歳で死去した。基平の子息家基は8歳であり、鷹司兼平によって後見されることになった。基平の後は、中継ぎとして兼平の子息基忠が関白となった。
文永6(1269)年2月、モンゴル使と高麗使が対馬に到着。一悶着あって、塔二郎・弥二郎という名の島民が拉致された。そのことが報告されてまもなく、引付衆は復活、名越北条時章・金沢北条実時(政村同母弟実泰子息)・塩田北条義政・北条時広・安達泰盛が頭人に任じられ、得宗への権力集中は一時的に取りやめとなった。
同年9月、モンゴルの命で、塔二郎と弥二郎が送還されるとともに、モンゴルの牒書がもたらされた。その牒書には、来年春までに日本が使者を送り臣従すれば高麗と等しい立場を保証するが、断れば軍艦を持って首都を制圧するとの内容が記されていた。
同年10月、朝廷はモンゴルとの通交は拒否することを決定、幕府も国書への返牒を送ることはしないと評定が決めた。
文永7(1270)年、惟康王は元服とともに臣籍降下し、源惟康となる。これにより鎌倉幕府に実朝以来の源氏将軍が誕生した。
文永8(1271)年10月、対馬の少弐氏を通して幕府にモンゴルより書状が届く。その書状はまたも使者の派遣を要請し通交を求めるものであり、兵を好んで動かしたくはないとの内容であった。朝廷は評定の結果、無視を続ければ戦争になりかねず、返事を送ると決まった。しかしモンゴルに返事は送られなかった。これは幕府が反対したことで中止になったからだと思われる(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。
同年、クビライは国号を中国風に「大元」と定めた(以下、クビライの王朝を「元」と表記する)
年号至元を用いて、首都を燕京に移して「大都」と名付けたことを含めて、これは中国=南宋の土地を支配するという意図を込めたものである(旗田巍『元寇』)。
また、日蓮は自身の『立正安国論』を鎌倉幕府に受容してもらうことを諦めておらず、得宗被官の平頼綱(系統不明)に宛てて手紙を書いている。このことからも、御家人より下の身分のはずであった得宗被官の台頭が見てとれる(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。後に日蓮は罪を赦されて佐渡から鎌倉に戻るが、結局幕府に自らの信仰を受容させることは叶わず、甲斐国身延山に隠棲した。身延山に建てられた久遠寺を総本山とする日蓮宗として、彼の教えは広まってゆくこととなる。
高麗では元の干渉が強まっており、高麗遷都の強制に反対して、三別抄と呼ばれる者たちが反乱を起こした。それは元の支配に拍車をかけた。三別抄たちは日本と連携して元に対抗することを考え、日本に元に関する情報を与えていた。文永9(1272)年正月、三別抄の情報を参考にして、鎌倉幕府は筑前国・肥前国の警護を強化することを決定し、豊後国風土記守護大友頼泰などに御教書が発された。東国御家人が到着するまでの2ヶ月間、九州の御家人による警護が命じられており、これが「異国警固番役」の始まりとなる。同年2月、名越流北条時章・教時兄弟と、時宗の異母兄時輔が滅ぼされた(二月騒動)。名越流の兄弟や時輔は特に謀叛の形跡はなく、権力集中を狙ったものと思われる。他にも、時章が守護職を勤めていた、モンゴルに対する防備を固めるための重要地でもある、九州の筑後国・肥後国・大隅国を管轄下に置いた(野口実 編著『図説 鎌倉北条氏』)。こうして執権の時宗と連署の政村による体制が確立した。しかし、そのような殺戮や、討手を死なせてしまったことなどで、得宗の被官や一門・御家人の信頼を失わせた(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。
同年同月、後嵯峨院は崩御。朝廷は後深草院と亀山天皇のどちらを治天の君とするかを幕府に委ねた。幕府は後深草院・亀山天皇兄弟の母大宮院に故後嵯峨天皇の意志を訪ね、大宮院の返答の通りに亀山天皇を治天の君にすることとなった。
鎌倉幕府は対元戦を想定した体勢の構築に乗り出した。土地の所有状況の確認のために土地台帳の大田文を作成・提出させることを守護に命じた。また、御家人のものではなく荘園領主の土地である「本所一円地」の人も軍役の対象となった。
文永10(1273)年、御家人の大田文提出が進まないと見た幕府は、所領状況把握のために新たな法令を打ち出す。
御家人の本領・地頭職を得た土地・下知状を貰って治めている土地・売買により獲得し安堵された土地をそれぞれ下文や下知状とともに申告させることにした。また、「御家人は、下文により確認されていない質流れした所領を、元本を返せずとも取り戻せる」との徳政令を発したほか、近親以外への所領の贈与を禁じるなどして、御家人の所領の浮動を防ごうとしている。
同年のとくせいれいは、御家人が所領を取り戻すことを承認し、軍役を負担できるようにする狙いがあった(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。
同年、北条政村は死去した。また、源惟康は親王宣下を受けて皇族に戻り、親王宣下を受けて惟康親王となった。
また同年、鷹司基忠に代わって九條忠家が関白となり、九条流の復権を果たした。五摂家の地位の確立はこうしてなった。
文永11(1274)年正月、亀山天皇は譲位。世仁親王が即位した(後宇多天皇)。九条忠家がそれを受けて摂政となった。
同年10月5日、元と高麗の軍合計約3万数千人が、対馬に侵攻する(文永の役)。20日、元・高麗連合軍は守護兵を破って博多湾岸に上陸した。日蓮の書状によれば、対馬の地頭代である宗助国は逃亡(後に討死)し、松浦党は討たれ、対馬の男性は殺害され、女性は手に紐を通して生け捕りにされたという。陶器の破片を火薬で爆発四散させ、爆音を轟かせることを目的とした、てつはう(鉄砲)や、毒矢、集団での連携攻撃などに苦戦させられた。日本の武士は、一騎打ちを主体とすることも、集団戦術に撹乱された理由とされるが、根拠となる『八幡愚童訓』が八幡神の霊験を主張するものであり、八幡神の軍勢が敵軍を撃退したという非現実的な描写から用いることには批判がある(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。日本軍は応戦し、元の左副元帥劉復享を負傷させるなどした。赤坂の陣では菊池武房が敵を破っている。幕府の動員した兵には、一族との裁判に敗れて所領を失った、肥後国御家人竹崎季長などもおり、先駆けの功を求めて敵に小数で突撃するなど指揮を乱すことにもなった(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。
その後日本の兵は大宰府に退却した。高麗の金方慶は追撃を主張したが、元の司令官ヒンドゥは夜襲を警戒して船に戻ることにした。他にも、金方慶と洪茶丘が不仲になるなどして、連合軍は統率のとれない状況であった。結果として軍議の末に連合軍は撤退する。
しかし、翌日には連合軍の姿はなかった(『八幡愚童訓』)とされる。これは台風であるとされていたが、時期的に台風は来ないため、軍議の末に自発的に撤収したとの説がある(荒川秀俊説)。ただ、約13500以上の兵を失ったという記録はある。そこから、帰国途中に外海で嵐に見舞われたという説が生じた。「翌日には元・高麗連合軍の姿はなかった」との説も、根拠が『八幡愚童訓』であることから、しばらく戦闘が続いていたのではないかとの推測もある(服部英雄説)。
同年11月1日、幕府は、非御家人である本所一円地住人を守護の指揮下として動員させる法令を発する。これは、本来鎌倉殿/将軍と主従関係を持つ御家人のためにある組織である鎌倉幕府が、異国の侵攻という事態の前にその前提を崩すものとなった。鎌倉殿/将軍と主従関係を持持たない本所一円地住人にまで幕府の権限は拡大したが、それらの人々への恩賞や本領安堵の義務も幕府は負うこととなった。
幕府は元・高麗連合軍の侵攻以降、寺社に対する祈祷を命じることとなったが、それに対する恩賞の負担も、幕府が背負った。
兵や物資の輸送の観点から、文永12(1275)年より、幕府は西国に新たな関所を設けることや、河川の関所での通行税の徴収(河手)を停止することを命じた。これにより管轄外の西国交通までも幕府の統制が及んだ(川添昭二『北条時宗』)。
建治元(1275)年、対元・高麗戦の論功行賞が行われた。その際御恩奉行として調査・報告を行ったのは安達泰盛である。竹崎季長は自らの軍功を認めてもらうために奔走し、恩賞をもらうことに成功した。
同年、時宗は亀山院に皇統を譲らされた形になった後深草院に同情し、朝廷に働きかけた。その結果、後宇多天皇の皇太子に、後深草院の皇子熙仁親王が立った。
このようにして、後深草院の系統である持明院統と、亀山院の系統である大覚寺統に皇統が分裂することとなった。
同年8月、元より使者が来日するが、幕府はそれを処刑した。そのことにより元では再び日本侵攻の計画が立てられることとなった。高麗では、洪茶丘が忠誠の証として、高麗を完全な元の指揮下に置くことを画策していた。高麗王にてクビライの娘婿王昛(忠烈王)も日本遠征には協力を申し出ていた。
幕府もまた有力な守護人を海辺に派遣、公事を減らして倹約に努め、国力増強を狙い、異国の侵攻への対象を始めた。また、安芸国1国だけでも100以上の船が徴用された。海岸からの侵攻に備えて、石築地も制作した。
元は再び日本に侵攻するための軍を整えた。その際南宋の降伏した者を兵として編入し、前回と同じく高麗の軍との連合のため、規模の大きなものとなった。高麗を基地とする東路軍約4万と、慶元を拠点とする江南軍約10万である。
文永12(1275)年、九条忠家は摂政を解任される。『勘仲記』によれば、忠家は大嘗祭の故実を知らず、亀山院と幕府の相談によって解任が決定下とされる。、大嘗祭の作法を記した『玉林抄』を九条家が所有していなかったために、忠家は作法を知らず、一時の没落の過程で、口頭での教示も受けることができなかったと思われる(樋口健太郎『摂関家の中世』)。忠家の解任後は、一条実経の子息家経が摂政となった。
建治元(1275)年、幕府の要請により鷹司兼平が摂政に就任した。後嵯峨院派と亀山院派の両方からの信頼がある兼平が、両派の調整を求められたものだと思われる(樋口健太郎『摂関家の中世』)。
建治3(1277)年、佐介流北条時国(時盛子息)は六波羅探題南方に就任する。これにより佐介流が復権する。
弘安元(1278)年、蘭渓道隆は死去した。
弘安2(1279)年、南宋が元によって完全に滅ぼされた時期、時宗の招きにより、元から禅僧無学祖元が来日し、建長寺に住まう。後に祖元は円覚寺の開山となった。祖元は時宗に対して、悟りのきっかけである公安(禅問答)に囚われていては、悟りに近づけないため、そのようなこだわりを捨てて自由な世界に至ることを説いた(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。
弘安4(1281)年4月、鎌倉幕府は異国降伏祈祷を大々的に行わせる。その際の大阿闍梨には、北条経時の子息頼助が任じられた。これは、寺社社会の頂点に北条氏出身の者が立つことを意味した(野口実 編著『図説 鎌倉北条氏』)。
同年5月21日、東路軍は対馬に侵攻した(弘安の役)。6月6日には博多湾岸で日本の兵と元・東路軍が交戦した。互いに多くの死者を出す中、東路軍で疫病が発生、約3000人が病死することとなる。東路軍は日本軍の抵抗により、一旦退き、壱岐に江南軍が到着するまで待機した。農具も携えており、植民も考えてていたと思われる。
しかし、江南軍は平戸に滞在場所を変更しているなど、連携がとれていなかった。出発前には総司令官アラカンが病となっている。また、東路軍ではヒンドゥと洪茶丘は撤退を提案、金方慶と不仲となる。結局、休養であるかは分からないが、元・高麗連合軍は平戸に滞在することとなる。
閏7月1日、元・高麗連合軍は暴風雨(台風か)に襲われ、船は崩壊し多くの兵が溺死した。
同月5日、日本軍は生き残った連合軍の兵を捕らえるなり殺害するなりした。犠牲者は東路軍よりも江南軍が多く、高麗兵は生還したものもそれなりにいた。
これ以降も元では日本侵攻が計画されたが、実現されることはなく、クビライの死後元もまた衰退していくことになる。
元・高麗連合軍来襲後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置し、異国からの防備の強化を図った。また、九州の御家人を統括し、幕府中央や六波羅探題への訴えを禁じて、訴訟を九州内で裁くことを定めた。鎮西探題もまた、六波羅探題同様に北条一門が赴いている。
弘安6(1283)年、大仏北条宣時は一番引付頭人となり、大仏流の地位を固めた。その地位は子息宗宣らに引き継がれてゆく。
弘安7(1284)年、北条時宗は病気となり、4月4日、出家した直後に死去した。
時宗の跡を継いで執権となったのは、その子息、13歳の貞時である。
同年、佐介流北条時国は詳細は不明であるが「悪行」を理由に探題を罷免、常陸国に流罪となった後に殺害される。また、その伯父時光も佐渡国に流罪となるなど、佐介流は没落した(野口実 編著『図説 鎌倉北条氏』)。
また同年、足利家時は何らかの理由で自害した。これは、佐介流失脚に関係するものとの説と(本郷和人説)、時宗に殉死したとの説がある。家時が極楽寺流北條時茂の娘との間に儲けた男児は、貞時の偏諱を受けて諱を貞氏とする。
同年5月20日、御成敗式目の追加法「新式目」38ヶ条が発布され、大幅な政治改革が計られた。これらは「弘安徳政」と呼ばれ、時宗生前よりの計画であり、安達泰盛を中心として進められたものと考えられる。
弘安徳政では、将軍直轄領の経済基盤を確立するために、年貢の納入期限を徹底し、それを過ぎれば所領を没収することにした。
訴訟に関しては、引付が判決原案を一元化して提示すると定めた。これは、御家人制を立て直すことで将軍権力を支えるためであると考えられている(村井章介『北条時宗と安達泰盛』)。
また、元との合戦で功績のあった武士や祈祷を行った寺社の、あるはずの権利が及んでいない所領を回復させることにした。これにより、それらの者たちを幕府の統制下に置くことができると考えたためである。
幕府が「徳政」を目指すに当たり、影響を受けたように、朝廷でも同様の動きが亀山院政下であった。そこでは、寺社領保護と返還・治天の君の命令の絶対化・相続の法や訴訟の手続きの整理・官吏の収賄への戒めなどが定められた。
安達泰盛が進めた徳政は、御家人に本所一円地住人などの非御家人武士層までも取り込もうとするものであった。
弘安8(1285)年11月17日、安達泰盛の兄景盛を除き、泰盛ら安達一族の大半が得宗被官平頼綱により滅ぼされる。その余波から九州では泰盛の子息の1人肥後国守護代盛宗が殺害されたほか、少弐景資が兄経資に討たれるなどした。この一件により、安達泰盛が進めた弘安徳政は立ち消えとなった。
弘安9(1286)年、亀山院は朝廷政治の改革を進めて、院評定を2つの種類に分けた。国家に関することを評議する「徳政沙汰」と土地訴訟について評議する「雑訴沙汰」である。