ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後鳥羽天皇~仲恭天皇

壇ノ浦の戦いの同年の文治元(1185)年、源義経平宗盛・清宗・能宗を都に送還。3人は処刑された。捕虜となった平重衡は、焼き討ちされた東大寺の衆徒の強く要求して引き渡され、処刑された。

朝廷は高野山の高僧重源を大勧進に任じて、勧進上人たちによって東大寺再建のための費用が集められた。宋から工人の陳和卿を招くなどして技術者を集めた。

大仏殿の再建には「大仏様」という建築様式が用いられた。

  東大寺の再建には奈良仏師の一派である慶派が活躍した。東大寺南大門には運慶・快慶・定覚(運慶弟)・湛慶(運慶の長男)らによって金剛力士像が造立された。他にも運慶はインドの僧侶アサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)兄弟などの像を作成した。運慶の四男康勝は空也の像を作成している。

八咫鏡は入れ物とともに浮いてきたため回収されたが、草薙剣は海中を捜索しても見つからなかった。そのため、草薙剣の本体がある熱田神宮は新たに形代(分身)とされた剣を献上した。こうして再び三種の神器は朝廷の元に戻った。

壇ノ浦の戦いにおいて、義経は頼朝の望む安徳天皇三種の神器の奪還よりも、後白河院の望む速急の平家追討を優先したことは、義経に対する不信感を抱かせた。それだけでなく義経御家人の支持も失っていった。頼朝は自身の政権運営において後白河院義経を取り込むことを警戒。兄弟仲は険悪になった。また、鎌倉に赴くことを拒否していた行家の討伐を義経は頼朝より命じられたが、梶原景時の子景季は病気を理由に断ったとの由を伝えたことで、それを頼朝は仮病と判断し、行家とともに義経を討伐することを決定した。

頼朝は後にも、自身に無断で任官した御家人を激しく非難している。無断での任官を禁じることで、政権が外部の影響により瓦解することを防ごうとした。

義経と叔父の行家は、後白河院より四国の武士を統率する権限を与えられ、頼朝追討命令を下された。

しかし、多くの武士は頼朝に臣従して義経に従わなかったために孤立、奥州の藤原秀衡の元に逃れた。義経の愛人静御前が身篭っていた子どもは男児であったため、処刑された。

頼朝は、朝廷の権威を正当性の根拠としながらも、御家人は直接朝廷と結びつかない政権を作り上げていった。その統治機構には自身に近しい御家人や公家が任じられた。

公文書の管理などを行う「公文所」を設け、その別当(長官)には下級公家大江広元が、令(事実上の副官)には頼朝の母方の親族である南家貞嗣流二階堂主計允藤原行政が任じられた。他には広元の従兄弟で義兄(どちらも外祖父中原広季の養子)の藤原親能、藤原邦通、大中臣秋家などが公文所にいた。

同年に設置された、訴訟を取り扱う「問注所」の執事には三好康信が抜擢された。

以前に設置された、警察権と軍事を担当し、御家人を総括する侍所の別当には和田義盛が任じられていたが、不適格とされたのか後に解任され、梶原景時が新たな別当となる。

頼朝は、北条時政に軍勢を率いさせて、後白河院が追討命令を出したことに抗議、義経と行家を討つための権限を与えることを要求した。

後白河院はそれを承認。五畿内・山陰・山陽・南海・西海の諸国は頼朝の配下に与えられることが決定。追討命令の撤回は撤回され、荘園や公領から兵粮米を徴収し知行する権限を得て、在庁官人の人事権を掌握した。

これにより、後の守護・地頭制の基盤が成立した。

守護には東国の御家人が任命され、大番催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕という大犯三箇条の任務を受け持った。

北条時政は京都代官となって義経捜索を続けていたが、義経の勢力が弱まる中で兵糧米徴収の強引さなどに批判が集まり、地頭職を返還した。代わりに都には京都守護が置かれ、頼朝の同母妹坊門姫の夫、頼宗流一条藤原能保がそれに任じられて都の警備と御家人の統括を行った。

惟宗忠久は、薩摩国大隅国日向国の守護となって薩摩国の荘の名前から島津を苗字としたように、有力御家人には複数の国の守護になることもあった。

  藤原(中原)親能の養子の(藤原北家秀郷流近藤氏出身か)能直は豊前・豊後の守護となり、大友氏の祖となる。

忠久と能直は、後年どちらも頼朝の落胤説が唱えられた。

地頭にも御家人が任命され、年貢を徴収荘園領主国衙への納入すること・土地の管理・警察権を行使しての治安の維持の任務を受け持った。

  頼朝は朝廷政治を改革し、九条兼実を内覧に任じることを要請した。頼朝はかつて平家と親しかった近衛基通や義仲と結託したことがある松殿基房よりも、九条兼実を重用した。後白河院は摂政の基通と内覧の兼実が協調して政治を行うことを構想しており、頼朝と利害も一致していた。

一条能保と坊門姫の儲けた娘は九条兼実の子良経に嫁いだことで、頼朝と兼実はさらに強く結びついた。

能保と坊門姫の娘の1人が嫁いだ閑院流藤原公経は、北山に建立した寺院の名称から西園寺を家名とした。事実上の西園寺家の祖である(系譜上での初代は3代前の藤原通季である)。

文治2(1186)年、摂政ではなく内覧になったことに兼実は不満を覚え、また基通も兼実の権勢が強まることに反発して政務を放棄した。朝廷政治が滞ったところで、頼朝は兼実を摂政に任じることを要求。後白河院は基通を摂政から外し、新たに兼実を任じた。同時に藤氏長者の地位も兼実に渡った。

同年、源行家は頼朝の追討を受けて討死した、

文治3(1187)年、義経は奥州の藤原秀衡の元に匿われていることが判明した。頼朝は東大寺毘盧遮那仏像の塗金用の砂金を要求するなどして圧力を掛けたが、秀衡は断った。その後も緊張関係は続くが、秀衡の勢力を警戒した頼朝はすぐに奥州藤原氏を攻めることはしなかった。

同年秀衡が、義経を主君として頼朝からの攻撃に備えることを遺言して死去。正妻の藤原信頼の娘が産んだ次男泰衡が跡を継いだ。泰衡の異母兄国衡は、泰衡の母と再婚することで義理の親子となった。

文治4(1188)年、東海・東三道の国司や武士に対して、義経追討の宣旨が出された。泰衡は義経引き渡しを要求されたが、返答しなかった。

翌年、藤原泰衡義経を引き渡すことを朝廷に伝えたが、それまで義経を匿っていた泰衡を頼朝は信用しなかった。頼朝は泰衡討伐の許可を得ようとするなど圧力をかけると、泰衡は義経のいた衣川館を襲撃した。義経は妻子を殺した後に自害する。

それでも泰衡討伐の動きは止まることはなく、朝廷の許可を得ぬままに計画は進行した。奥州藤原氏河内源氏の家人であり、謀反を起こしたために討伐するとして正当化した。家人という扱いは、源義家にたいする藤原清衡の立場のことである。旗の寸法は前九年の役源頼義と同じくするなど、河内源氏に連なる先祖を意識したものになった。

逃亡した泰衡は家人の河田次郎によって殺害されて奥州合戦は集結した。泰衡の首は安倍貞任と同様に釘で打ち付けられた。

これにより奥州平泉で栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡した。

この合戦で功績のあった藤原朝宗は、陸奥国伊達郡を賜り、伊達を苗字とする。伊達氏の常陸入道念西(朝宗のことか)の娘大進局は頼朝の妾となって男児を産んだ。その子は北条氏の立場もあって出家、貞暁と名乗る。

文治5(1189)年、武田信義の三男板垣兼信が地頭職を解任されるなど、一条忠頼の謀殺に続いて甲斐源氏武田氏が大きな打撃を被った。以降板垣氏は武田氏の家臣として存続する。

後白河院と関係を修復した頼朝は、建久元(1190)年に右近衛大将になった。

後白河院崩御後の建久3(1192)年、頼朝は征夷大将軍に任じられる。同年に頼朝と政子との間に男児千幡が産まれた。後の実朝である。これもまた同年、北条義時は既に長男泰時が産まれていたが、比企尼の子朝宗の娘姫の前と結婚した。間には朝時・重時などが産まれる。

幼年の後鳥羽天皇を補佐するために九条兼実は摂政となった。

後の世に、「鎌倉殿」である頼朝の興した政権は、出征中の将軍の陣地や近衛大将唐名を意味する「幕府」から、鎌倉幕府と呼称されることになった。

頼朝を先例として、征夷大将軍になった者の政権は幕府と呼ばれるようになる(誕生時点で幕府を名乗った政権は1つもない)。

御家人は、鎌倉殿より「一所懸命」に守っている土地の所有を認められる「本領安堵」と功績を挙げた際に新たな土地を与えられる「新恩給与」といった2つの「御恩」を受けて、鎌倉殿のために命懸けで戦う「奉公」の義務を負った。鎌倉幕府はそのような幕府と御家人の「御恩と奉公」の関係によって成り立っていた。

御家人の平時の奉公には、都に滞在して朝廷を警備する「京都大番役」と、相模国鎌倉において幕府を警備する「鎌倉番役」があった。

戦時には家子・郎党を率いて「いざ鎌倉」と馳せ参じた。しかしその費用負担は御家人にとって苦しいものであった。

御家人などの武士は、寝殿造を簡素に改めた「武家造」と呼ばれる邸宅に住み、犬追物・流鏑馬・巻狩などを行って鍛錬に励んだ。

武士の普段着は、庶民の衣服であった直垂が用いられ、格式のある場では貴族の平服の水干が用いられた。男女ともに元は下着であった小袖も平服となった。

源通親後鳥羽天皇の乳母藤原南家貞嗣流範子と結婚し、範子と前夫能円の間に産まれた在子を養女とした。在子は後鳥羽天皇後宮に入内した。九条兼実も娘の任子を入内させて中宮とした。

範子の妹卿二位藤原兼子も後鳥羽天皇の乳母であって朝廷に重きを置いた。他にも兼実は鎌倉幕府に好意的であったが、通親は次第に幕府に対して批判的になっていくなどして、朝廷と幕府のあり方を巡って対立するようになる。

乳母が権力を持ったように、当時の女性の地位は比較的高く、武士が土地を分割して相続する際も亡くなった武士の妻が当主となることもあった。分割された土地も女子に与えられたが、他家に嫁ぐとその女性の所領が他家に渡ってしまうため、後の時代になると女性の土地相続は少なくなってゆく。

しかしその後頼朝は娘の大姫を入内させることを構想し、通親や、後白河院に寵愛を受けていた丹後局高階栄子に接近した。

建久4(1193)年、曾我祐成・時致兄弟が、かつて祖父伊東祐親・父祐泰と抗争していた工藤祐経を襲撃、殺害した。さらに頼朝も殺害しようと向かったが、祐成は殺害され時致は捕らえられて処刑された。この一件は曾我兄弟の「仇討ち」として、後に軍記物語「曾我物語」に記され人気を博した。

同年、源範頼が謀反の疑いを掛けられて伊豆国へと流罪となりその後の動向が分からなくなる。殺害されたとも考えられている。

また、安田義定の子義資は聴聞に来た女房に恋文を送ったことを理由に処刑された。これは一条忠頼の殺害と同様に、頼朝が甲斐源氏の増長を恐れたことが理由であると思われる。このころ、義定が治めていた遠江国の、相良荘にいた、工藤・伊東氏と同じく藤原南家為憲流とされる相良頼景が肥後国多良木村へと下降して土着した。その後義定も謀反が発覚したとして処刑された。

頼朝による粛清が加速する中、大庭景義のように出家して引退する御家人も多くいた。

兼実の同母弟で比叡山延暦寺天台座主となった慈円は、著書の「愚管抄」において、当時の世相を「武者の世」と呼んだ。愚管抄は、歴史の流れを道理を元に述べるという史論書であるが、武士が政治を主導するようになることもまた道理であると記す。

また、天皇(王)は百代で絶えるという「百王説」も垣間見ることができる。現代の数え方で後鳥羽天皇は82代、神功皇后も代数数えて淳仁天皇を除いても同じ数である。百代目の天皇は、当時の人にとってそう遠くない未来であり、末法の世の中の到来をも思わせた。仏教的無常観に裏打ちされた思想が愚管抄の論理を形成しているのである。

末法の世を感じた人々は来世に救いを求め、その願いに応えようと新たな仏教の宗派が勃興した。

元々比叡山で修行していた法然源空は、末法の世において、それまでの厳しい修行は意味を成さなくなるとして、1つの教えを選択し、専修(ひたすら、その教えのみにすがる)ことを説いた。様々な解釈のある「念仏」を「南無阿弥陀仏」と唱える口称念仏として簡略化し、念仏をひたすらに唱えれば(専修念仏)、誰であっても極楽浄土に往生できるという浄土宗を開いた。

建久6(1196)年、任子は昇子内親王を、在子は為仁親王を産んだ。源通親は皇子の外祖父となったことで兼実よりも優位に立ち、翌年には反兼実派と協力して関白を罷免させた。近衛基通が再び関白となり、任子は内裏を退去する。兼実と疎遠になった頼朝は兼実を助けることはなかった。さらに通親は兼実を流罪にしようもしたが、後鳥羽天皇がそれを止めた。さらに兼実の子良経も内大臣の職を失わなかった。

その後の兼実は浄土宗に帰依し、法然は兼実の願いにより「選択本願念仏集」を著した。

その後、既存の仏教勢力から念仏停止を求められて迫害され一時期弟子とともに流罪になるなどしたが後に帰京を果たした。法然が長きにわたり本拠地とした東山の住房が知恩院として総本山となる。

浄土宗は法然の弟子によって広められ、隆寛の長楽寺派・覚明の九品寺派・証空の西山派などに分派した。

法然の弟子の1人である親鸞は、元は藤原北家真夏流日野有範の子で、幼少から出家して比叡山で修行していた。

親鸞は僧侶に禁じられていながらも暗黙に肉食を行い妻帯する者が多くいる中で、肉食妻帯を公然と行った。

親鸞の著書「教行信証」などがあり、極楽浄土への往生するという本願の全てを阿弥陀如来に委ねるという「絶対他力」を説いている。

また、親鸞の教えとして特徴的なのが、弟子の唯円が記した言行録「歎異抄」にある「悪人正機説」である。自力で往生の出来ない悪人(煩悩に苦しむ凡人)こそが、阿弥陀如来が救済しようと思う人であると説いた。

親鸞の子善鸞は父より真の教えを伝授していると吹聴したために絶縁されている

親鸞は新たな浄土宗の分派の祖となるつもりはなかったが、死後には東国下野高田の専修寺派が立てられたほか、曾孫覚如(親鸞の娘覚信尼の孫)の本願寺派が成立するなど、後の世に「浄土真宗」と呼ばれる教団が成立してあった。

建久8(1197)年、大姫が死去したことで入内の計画は立ち消えとなる。同年に一条能保も死去したことで朝廷との繋がりが弱くなってしまった。

翌建久9(1198)年、源通親の強い意向で、為仁親王が即位し(土御門天皇)、後鳥羽院院政を開始した。

近衛基通は儀式を上手く進めることが出来なかったため、通親が松殿基房と協力して政務を行った。基房は基通と和解して、基通の子家実に儀礼作法を教授するなどして復権に成功した。

建久10(1199)年、源頼朝は死去。頼朝と政子の子頼家が新たな鎌倉殿、その後征夷大将軍となった。このころ幕府に好意的になっていた源通親のはからいで、頼家は摂関家の子弟のみに許されていた五位のまま中将となる待遇を受けた。

御家人からは北条時政北条義時大江広元・三好康信・藤原(中原)親能・三浦義澄・八田知家和田義盛比企能員安達盛長足立遠元梶原景時二階堂行政の13人が選出され、政治判断を評議して頼家の裁可を仰ぐ制度が確立した(十三人の合議制)。

北条氏から時政と義時の2人が選出されているのは、時致と牧の方の間に産まれた政範が新たな時政の後継者となり、義時が江間家をとして時政の跡継ぎから外れて独立していた可能性も考えられている。

北条義時比企尼の孫娘姫の前を妻として次男朝時を儲けていたが、比企能員の娘若狭局が頼家の妻妾となって長男一幡を産んでいたことで、北条氏と比企氏はどちらも将軍家の身内となったことで緊張状態が生まれた。

北条時政は娘の多くを御家人に嫁がせて関係を深めた。時政の娘の内、阿波局は頼朝の異母弟阿野全成に嫁いで四男時元を産み、時子は足利義兼に嫁いで三男義氏を産んだ。他には八田知家の兄朝綱の孫宇都宮頼綱に嫁いで泰綱を産んだ娘、畠山重忠に嫁いで重保を産んだ娘などがいる。

足利義氏の異母兄義純は、新田義兼の娘を妻としている。

阿波局は頼家同母弟千幡の乳母となっている。

対して比企能員信濃国の笠原親景・武蔵国の中山為重・上野国糟屋有季などに娘を嫁がせて東海道北陸道における影響力を強めていた。

若狭局所生の一幡は長男であったが、清和源氏満政流賀茂重長の娘辻殿の産んだ次男善哉が跡継ぎであった可能性もある。

頼家の乳母は比企尼の三女(平賀義信妻)であったため、比企氏の影響力は強まった。

  正治元(1199)年、結城朝光は「忠臣は二君に使えず」を引き合いに出して、頼朝が死去した際に出家しなかったことへの後悔を他の御家人に話していた。

その朝光の発言を聞いた阿波局は、「梶原景時が結城朝光の発言を意図的に曲解して、朝光が謀反を考えていると頼家に伝えたことで、朝光が殺害されることになった」という内容を朝光本人に伝えた。

危険を感じた朝光は三浦義村(義澄の子)に相談し、和田義盛安達景盛(盛長と比企尼孫娘丹後内侍の子)などの御家人を募って、梶原景時の弾劾状が作成された。

景時は頼家に対して申し開きをすることなく所領の相模国一ノ宮へと退いた。

正治2(1200)年、景時は都を目指して一族とともに相模国を発つが、駿河国において地元の武士勢力と衝突して子の景季・景高・景則らとともに討死した。

同年、九条良経の妻の、一条能保と坊門姫の娘が死去。新たな妻に松殿基房の娘寿子を迎えた。

良経は義父となった基房から作法を学ぶなど、近衛家・松殿家・九条家は協調するようになった。

土御門天皇の生母在子と、その養父源通親との密通を信じた後鳥羽院は、土御門天皇が自分の子であることを疑うようになり、南家の藤原範季の娘重子との間に儲けた守成親王を皇太子に立てた。

また同年、三浦義澄と安達盛長が死去。宿老がまた減り、力関係も崩れ、千幡の乳母阿波局の実家である北条氏と頼家の乳母比企尼三女の実家である比企氏の対立が激化した。

建仁2(1202)年、源通親が死去し、九条良経が内覧に任じられた。しかし、近衛基通はそれに反感を覚えて政務を放棄。朝廷政治が滞ったため、後鳥羽院は基通を解任して良経を摂政とした。

建仁3(1203)年、近衛家実九条良経より一上の職を譲られ、良経の下で政務を行うようになった。後鳥羽院近衛家九条家をともに摂関家として承認した。

同年、頼家は阿波局の夫で頼朝の異母弟の阿野全成を謀反を計画したとして武田信光に捕えさせ、八田知家に殺害させた。阿波局も拘束されそうになるが、政子が止めた。全成の子頼全(阿波局の所生ではない)も佐々木定綱に殺害されたが、阿波局が産んだ時元は助命された。

比企氏が北条氏より優位に立ったかと思われたが、頼家が重病を患い危篤となった。

関東28ヶ国の地頭職と総守護職はそれぞれ一幡と千幡に分割して相続されることが決定したと「吾妻鏡」にはあるが、実際はほとんどが一幡に譲られたと思われる。これにより比企氏は北条氏よりも優位に立った。死期を悟った頼家は出家している。

追い詰められた北条時政は、比企能員を自邸に招いて殺害し、政子の同意を得て一幡の住居小御所を攻め、一幡を捕らえて殺害した。比企一族の多くは屋敷に火を放って自害した。

その後、誰も予期しなかったことに、頼家は奇跡的に重病から回復。とはいえもはや取り返しの付くわけがなく、征夷大将軍を解任されて伊豆国修善寺に幽閉された。時政は頼家が死去したと朝廷に伝え、後鳥羽院によって千幡が源実朝として、従五位下征夷大将軍に任じられた。

義時は比企氏出身の姫の前と離婚。姫の前は村上源氏俊房流源具親と再婚した。

元久元(1204)年、時政の放った刺客によって頼家は殺害された。

善哉は祖母政子に保護され、鶴岡八幡宮で出家し法号公暁とし、叔父貞暁の弟子となった。

頼家の他の子も出家して栄実・禅暁と号した。

同年11月、実朝の妻には、後鳥羽院の母方の伯父藤原北家道隆流坊門信清の娘が都より迎えられた。

後鳥羽院の従兄妹を妻にしたことになる実朝は後鳥羽院と親しくなり、得意としていた和歌に関しても関係を深めた。

御子左流藤原定家は、「千載和歌集」を編んだ父俊成と同様に和歌の名手として名高く、後鳥羽院の命で「古今和歌集」を編纂した1人でもある。また、後鳥羽院と実朝が和歌に関して交流した人物であり、定家に触発された実朝は自ら「金槐和歌集」を編んでいる。

定家の異父兄で藤原国経子孫である藤原隆信およびその子信実は、「似絵」を発展させて写実的な人物画が広める先駆けとなった。また、禅僧の肖像画も写実的な「頂相」として発展した。

また、唐末期に興った禅宗の一派臨済宗が、延暦寺で学んだ経験もある、宋より帰国した明庵栄西によって伝えられた。臨済宗は禅の基本である座禅はもちろんのこと、「公案」という問答を師弟の間で行い、答えを考えることで悟りを目指すものである。栄西は禅の興隆が国家にとっても利益があると考え、「興禅護国論」を記した。

臨済宗は総本山を建仁寺とする。

栄西臨済宗とともに、途絶えていた喫茶文化を伝え、実朝に自署「喫茶養生記」を献じている。

北条時政と牧の方の娘が信清の次男忠清に嫁いでいたことも理由であると考えられる。

同月5日、平賀朝雅畠山重忠という時政の娘婿同士の間で口論があった。周囲の取り成しで収まったものの、朝雅は重忠を恨み続けた。

また、同月に政範は死去している。

元久2(1205)年、朝雅は時政に対して「重忠に謀反の意思がある」との内容を伝えた。

義時とその弟時房は、本当に謀反を起こしたかわからない重忠の討伐に消極的であって時政に対しても反対意見を伝えたが、牧の方の兄大岡時親に強く説得されて消極的に討伐に協力することにした。

対して、かつて重忠に祖父三浦義明を討たれた三浦義村和田義盛は積極的に時政に協力した。

重忠討伐には義時・時房・和田義盛が実行することになった。

畠山重保は父重忠の従兄弟稲毛重成に招かれて鎌倉に来たが、実は重成は妻の父時政の命令で重保をおびき出しており、由比ヶ浜において時政の命を受けた三浦義村によって討たれた。時政は頼家に続いて2人目の孫を殺害させたことになる。

重忠は郎党134騎を率いて交戦し討死した(二俣川合戦)。

重忠が率いていた軍勢があまりに少数だったことで、義時は重忠に謀反の意思がなかったことを知り、時政を批判した。

重忠を陥れた稲毛重成・重朝兄弟は子らとともに殺害された。

重忠の妻で重保の母である時政の娘の1人は足利義兼の庶出の長男義純と再婚して畠山氏の名跡を継承する。以前の妻である新田義兼の娘は離婚し、間に儲けた時兼・時朝はそれぞれ岩松氏・田中氏の祖となった。畠山の苗字は重忠元妻の産んだ泰国によって継承される。

時兼・時朝は祖父新田義兼に寵愛され、所領の多くを譲られたため、新田氏自体の所領は少なくなった。

同年、時政・牧の方夫妻は実朝を殺害して娘婿平賀朝雅を新たな将軍として擁立しようとするが、政子・義時に阻まれ、時政は故郷の伊豆国北条に出家のうえで牧の方とともに強制的に隠居させられた。朝雅は殺害された。

時政の引退によって、義時は北条氏の嫡流を継承した。

その後、義時の妹婿宇都宮頼綱に謀反の疑いがかかり、小山朝政に討伐の命令が下る。しかし、朝政は頼綱と親戚(頼綱の祖父朝綱の姉妹寒河尼の子)であることを理由に拒否した。

頼綱は謀反の意思がないことを書状にして提出し、約60人の郎党とともに出家した。

これは実朝への権力集中のために宇都宮氏の力を削ごうとしたためとも考えられている。

また同年、九条良経が38としで急死し、近衛家実が摂政に任じられた。当時14歳の、良経の子道家後鳥羽院によって左近衛大将に任じられ、祖父兼実や大叔父慈円によって補佐された。

承元3(1209)年、後鳥羽院は守成親王の皇太子妃として、九条良経の娘立子を迎えた。

翌年、後鳥羽院土御門天皇に譲位を促し、守成親王が即位し(順徳天皇)、立子が皇后となった。順徳天皇と立子との間には懐成親王が産まれる。

建保元(1213)年、千葉常胤の孫成胤が、自身を反乱計画に勧誘しようとした僧侶阿静房安念を捕らえて義時に差し出した。

取り調べの結果、安念は自白。信濃国の泉親平が中心となり、和田義盛の子義直・義重や甥の胤長も参加して、頼家の子栄実を擁立して義時の討伐を計画していることが発覚した。

それを知った義盛は、自身の功績を述べて実朝から子2人の赦免を得ることに成功した。そして甥胤長の赦免も取り付けようとしたが、そのことを実朝は許可しなかった。

義時は、幕府の決定を過去の功績を理由に覆す義盛を幕府を揺らがしかねないと考えたのか、義盛との合戦を覚悟し、胤長を和田一族の前で縛って連行するなどして挑発。胤長の所領だった荏柄郡は義盛に与えられるはずであったが、北条義時の手で金窪行親・安東忠家に恩賞として与えられた。義時はその後も、屋敷を警護していた義盛の代官を追い出すなど挑発行為を繰り返した。

義盛は従兄弟の三浦義村・胤義兄弟とともに挙兵することを決めたが、三浦兄弟は義盛を裏切り母方の従兄弟義時に密告した。

兵の集まらないまま義盛は挙兵。将軍御所を襲撃した。義時にとっては実朝のいる将軍御所を襲撃すらことは予想外であり対応が遅れた。さらに、義盛の妻の甥横山時兼が、娘婿の波多野盛通・甥の横山知宗を率いて義盛勢に合流するなどして軍勢を拡大した。しかし、実朝と義時は法華堂に逃れたため、義盛は実朝を確保することに失敗した。実朝自ら義盛らの討伐の命令書を発行するなどしたため、西相模の武士たちは実朝と北条氏に味方し、それ以上義盛の勢力は拡大しなかった。 千葉成胤の兵が和田勢を攻め、三浦義村の兵が退路を断ったことで、和田勢は敗北。義盛・義直・義重は討死、義盛の子常盛・孫朝盛・横山時兼らは自害した。胤長も殺害された。

以降義時は政所別当と侍所別当を兼ねるようになる。

その後、和田勢の残党が栄実を担いで謀反を計画していることが発覚。残党は襲撃されて栄実は自害した。

次々と御家人が死ぬ中、成長した実朝は新恩給与本領安堵による御家人への御恩を与えるなど積極的に政務を行うようになる。しかし実朝は子に恵まれず跡継ぎは未定であった。朝廷の卿二位兼子より、実朝にもしものことがあれば、後鳥羽院の皇子の1人を将軍として鎌倉に送るという提案があった。実朝の妻の姉妹が後鳥羽院との間に儲けていた頼仁親王がその候補であった。

建保5(1217)年、鶴岡八幡宮別当の定暁が死去すると、公暁が新たな別当となった。

建保6(1218)年、源実朝権大納言になった後に左近衛大将と左馬寮御監を兼任。さらに内大臣・右大臣と、その地位を上昇させた。

建保7(1219)年、実朝は右大臣任官を感謝する「拝賀」を、鶴岡八幡宮で行った。義時も同行する予定であったが、実朝の指示で中門に留まり、都から下降した実朝側近の源仲章が同行した。参拝を終えた帰りに、実朝は甥の公暁に殺害された。仲章も義時と間違えられて殺害された。

公暁は新たな征夷大将軍になる由を三浦義村に伝えた。義村はそれに同調するふりをして北条義時に密告し、家人に公暁を殺害させた。

将軍を失い、その時点で時期将軍が決定していなかった鎌倉幕府は大いに混乱した。そこで、以前に卿二位兼子が勧めたように、後鳥羽院の皇子を新たな将軍として下降してもらうことを朝廷に要請することにした。

鎌倉より、二階堂行光が、後鳥羽院の皇子の雅成親王か頼仁親王のどちらかを新たな将軍にすることを嘆願書を携えて上洛した。その嘆願書には、宿老の御家人たちによる署名がなされていた。

また、義時の後妻伊賀の方の兄で、源頼義の血を引く、二階堂行政の外孫伊賀光季が京都守護として上洛している。

同年、阿野全成と阿波局の子時元が挙兵した。義時は金窪行親を派遣して討った。しかしこの一件は、兵を差し向けられた時元が後から挙兵したとの説もある。

伊賀光季に続いて、大江広元の子源親広が京都守護に就任した。

後鳥羽院は、皇子を鎌倉に下降させることをすぐには出来ないとしながらも約束した。しかし、同時に北条義時の地頭職の解任を要求した。仮に幕府がそれを拒否すれば、後鳥羽院は皇子下降を拒否して義時を逆賊にすることが可能となる。

政子の使者として、弟の時房が1000騎を率いて上洛。義時の地頭職解任の拒否と皇子下降の願いを伝えた。

後鳥羽院は譲歩して、「日本国を2つに分けてしまう」として皇子下降は拒否しながらも、代わりに皇族以外であれば誰でも下降させることにした。

その結果、九条道家と、西園寺公経の娘掄子との間に産まれた三寅(後の頼経)が鎌倉に赴くことになった。道家も掄子も、どちらも祖母は頼朝の妹坊門姫である。公経は幕府と朝廷を取り持って権勢を振るった。

承久3(1121)年、順徳天皇は譲位。懐成親王が即位した(仲恭天皇)。仲恭天皇生母立子の弟である九条道家は摂政となった。これにより道家は朝廷と幕府を仲介する立場となった。

2歳の幼い頼経の代わりに義時とともに政務を行った政子は「尼将軍」と呼ばれた。

同年、後鳥羽院は城南寺の警護を名目として招集していた軍を中心として兵を集めた。

朝廷軍には河内源氏義光流大内惟信、佐々木秀義の次男経高・長男定綱の子広綱・三浦義村の弟胤義・秀郷流後藤基清・藤原秀康伊予国河野通信などがいた。

また、後鳥羽院により、源親広と伊賀光季も参加を命じられ、親広は従ったが光季は拒否した。

藤原頼経の外祖父西園寺公経・その子実氏は捕縛されて押し込められた。

光季は朝廷軍に攻められ、寡兵で奮戦して子の光綱とともに自害した。

その後、後鳥羽院仲恭天皇の名義で、北条義時追討の宣旨を発行。諸国の武士に義時の討伐を命じた。順徳院や、かつて鎌倉殿になる可能性のあった雅成親王・頼仁親王などは後鳥羽院に同調したが、土御門院は消極的であり、父に協力しなかった。

対する鎌倉幕府は、大江広元三善康信を中心として「後鳥羽院の奸臣を討伐する」として徹底抗戦の構えを見せた。

幕府軍は、頼朝の剣を携えた、義時の子泰時を総大将として、各地の後鳥羽院方の勢力を討伐しながら都に進軍した。

三浦義村は弟胤義と交戦、胤義は逃亡後に自害した。

その後後鳥羽院は、「今回の合戦は臣下が勝手に行ったことだ」として、義時追討の宣旨を撤回し、藤原秀康に対して追討令が出された。秀康は逃亡後、自害したとも処刑されたともいう。

このようにして「承久の乱」と呼ばれる戦は集結し、戦後処理が行われた。

後藤基清・佐々木広綱などの、後鳥羽院に味方した御家人は処刑された。佐々木氏は広綱の弟信綱が本拠地の近江国佐々木などを継承した。

また、当時の貴族の極刑は慣例上は流罪であったが、幕府の判断で参議一条信能(能保の子。母は遊女)などの後鳥羽院側近の公家も処刑されている。

後鳥羽院・順徳院は出御(上皇/天皇の外出)という名目で、それぞれ隠岐国佐渡国に流された。雅成親王・頼仁親王兄弟も、都から移るという名目でそれぞれ但馬国備前国に流された。

土御門院は義時追討に関与しなかったが、父が、流されていながら自身が都に留まるべきでないとして土佐国に自ら移り、幕府も仕方なく認めた。その後幕府は土御門院に、少し都に近い阿波国に移ってもらった。

仲恭天皇は退位させられて、外叔父九条道家の館に移った。道家は摂政を解任され、近衛家実が摂政となった。

幕府は倒幕計画に同調した公家などから所領を没収し、功績のあった御家人に与えられた。これにより幕府は西国まで強い影響を及ぼすようになった。このときに所領を得た御家人を「新補地頭」と呼ぶ。

同年、三善康信問注所執事の座を子の康俊に譲った後に死去した。

幕府は新たな治天の君として後鳥羽院の同母兄守貞親王を迎え、法皇となり(後高倉院)、院政を開始した。そして、後高倉院の子茂仁親王が即位した(後堀河天皇)。