ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後三条天皇~堀河天皇

治暦4(1068) 年に後冷泉天皇崩御すると、異母弟で皇太子の尊仁親王が即位した(後三条天皇)。

後三条天皇藤原道長の曾孫であったが、天皇と頼通との繋がりは薄くなった。

後三条天皇中宮には、後一条天皇皇女の馨子内親王が立ったが、間に産まれた皇子と皇女は早くに薨去してしまった。他には源基平(小一条院の子)の娘基子が入内している。

延久元(1069)年、後三条天皇は荘園整理令を出し、記録荘園券契所を設置して、国司荘園領主に書類を提出させて荘園を審査した。藤原能信の養女茂子は入内、能信の養子能長の娘道子は貞仁親王の妃となった。そのことから茂子の実家である閑院流は権勢をふるうこととなった。延久3(1071)年、源基子が実仁親王を産んだことで、後三条天皇は、実仁親王を将来皇位につけることを構想したと考えられる。同年、藤原師実の養女賢子が貞仁親王の妃となり、将来外戚となる可能性が表出した。

御堂流の主流は明子所生の系統に移るかと思われた。しかしその後、後三条天皇は頼通の系統に接近、師実の協力を得て、貞仁親王から実仁親王への皇位継承を実現させようとしたことが、頼通流への接近の理由と考えられる。延久4(1072)年、後三条天皇は譲位、貞仁親王が即位した(白河天皇)。中宮には賢子が、皇太子には実仁親王が立った。延久5(1073)年、後三条院と基子との間に輔仁親王が産まれたが、同年に後三条院は崩御した。

延久6(1074)藤原頼通は83歳で死去。同年、2人の子後一条・後朱雀天皇、2人の孫後冷泉・後三条天皇を見送った上東門院彰子が、曾孫白河天皇の治世下において87歳で死去、翌年には教通が80歳死去した。藤氏長者の位は、教通から師実へと継承、以降教通の系統に渡ることはなかった。賢子は敦文親王を産んだのは翌年のことであった。

承保4(1077)年、幼くして敦文親王薨去するが、承暦3(1079)年、賢子は再び皇子善仁親王を産んだ。その後、師実は自身の別荘洛東白河を白河天皇に献上し、そこで法勝寺の建立が始まるなど、白河天皇藤原師実は関係を深めた。

善仁親王の異母兄は仁和寺において出家、覚行を名乗った。覚行は親王に列せられて「法親王」となった。親王になった後で出家した者は「入道親王」と呼ばれる。これを先例として、後継者ではない皇子の多くが出家するということは広く行われることとなる。

永保3(1083)年、清原真衡と、清衡・家衡の間に争いが起こったため、清原氏の領有する陸奥・出羽両国の馬・鉄・アザラシの皮などの富に目をつけた八幡太郎源義家は積極的に清原氏の内紛に介入した。義家は真衡に味方して清衡・家衡を降伏させた。その後、真衡は急死したため、真衡の遺領を含めた清原氏の領地陸奥国6郡は、清衡と家衡が南北に分割して相続した。

応徳2(1085)年、皇太子実仁親王薨去輔仁親王を推す意見を退け、善仁親王を皇太子として、早くも翌日に譲位、善仁親王は即位し(堀河天皇)、天皇の外祖父師実は摂政となった。

家衡は、清衡が地理的に利点の大きい南3郡を相続することに不満を持ち、応徳3(1086)年に家衡は清衡の妻子を殺害するなどして、今度は清衡と家衡が対立するようになった。清衡の要請を受けて義家は再び出兵、忠通流桓武平氏鎌倉権五郎平景正やその従兄弟三浦平為次(為継)が従軍したほか、義家同母弟の新羅三郎源義光も義家からの報酬を求めて協力した。

翌年、義家は家衡が立て篭もる金沢柵を包囲し食糧が尽きるのを待つ兵糧攻めを行った。冬になり凍死する兵もいた苦しい戦であり、食糧が尽きるのが遅くなることを理由に家衡軍からの非戦闘員の投降者など多くの者が殺戮されることになった。

逃亡した家衡は捕らえられ処刑された。

安倍氏清原氏の領地である陸奥国6郡・出羽国3郡を継承した清衡は、実父藤原経清と同じ藤原姓に戻り、奥州藤原氏の祖となり、奥州の富を活用し一大勢力を築いた。

藤原清衡は、浄土教に基づいた寺院である中尊寺金色堂を建立した。名前の通り、奥州で多く産出した金を用いた仕様となっている。

清衡の死後、子の基衡は異母兄惟常を滅ぼして奥州藤原氏を継承、無位無官であったものの、遠く離れた朝廷からは注視されていた。

源頼義安倍氏の争いは「前九年の役」、源義家清原家衡の争いは「後三年の役」と呼ばれ、後に軍記物語「陸奥話記」として記された。

義家は後三年の役において武威を示したが、この合戦は完全な私闘でありどこからも恩賞を貰うことが出来ず、朝廷からも多くの投稿者を殺害したことと、陸奥守として納めるべき砂金の貢納を怠ったことを批判され、陸奥守を解任されるなど、結果として損失が大きかった。

義光は一度都に帰還したが、その後常陸国に土着した。義家の四男義国は、下野国足利荘に拠点を構えた。義光は桓武常陸平氏の豪族平重幹(貞盛の弟繁盛の曾孫)と組んで義国と対立した。

兄義家が陸奥にいる間に、賀茂次郎義綱は摂関家に接近して勢力を強め、盗賊の捕縛などの功績を都の人々から讃えられたが、義家と対立し、合戦にまで発展しかけることがあった。

寛治5(1091)年、藤原師実は、後三条天皇皇女の篤子内親王を養女として堀河天皇後宮に入内させ、同年に中宮とした。

寛治8(1094)年、師実は関白の地位を子の師通にゆずった。師通は漢籍に精通し、大江匡房などを登用して政務を行った。師通の異母弟家忠は花山院家の、経実は大炊御門家の祖となる。同年、源顕房が死去、その後を子の雅実が後を継いだ。雅実は、輔仁親王を後見する伯父俊房と対立した。

師通は最初、藤原頼宗の孫娘全子を妻として間に忠実を儲けたがその後離婚、新しい妻に藤原教通の子信長の娘信子を迎え、教通の邸宅二条殿に住んだ。師通と全子の離婚後、忠実は祖父師実の養子となって養育された。

承徳2(1098)年、閑院流藤原実季の娘苡子(茂子の姪)が入内した。

藤原師通主導で独自の政治が進められている最中、承徳3(1099)年、師通は父に先立って38歳の若さで死去。忠実は、まだ22歳の権大納言であり摂関就任の資格を得る大臣にもなっていなかったため、内覧となった。そのため、道長以来の摂関の地位が空位となった。

その後師実も康和3(1101)年に死去した。

権勢を振るった白河院ですらもどうにも出来なかったものとして、「サイコロの目」「賀茂川の氾濫」とともに「延暦寺の僧兵」が挙げられている。当時、延暦寺興福寺・円城寺といった寺院は多くの荘園を領有し、地方の寺院を支配し、僧兵と呼ばれる武装した僧侶が所属していたほか、神社は神人という者たちを抱えていた。僧兵や神人は神木や神輿を持ち出して朝廷などに押しかけて強訴を行い、神仏の権威を元に寺社の要求を通すことが多くあった。

院政期には、式家の学者藤原明衡が、様々な階級の人々の有様を描く「新猿楽記」を記したほか、大江匡房は、「傀儡子記」「永長田楽記」、他に年中行事や公事について記した「江家次第」や説話を記した「江談抄」を遺している。

天竺・日本・震旦(支那/中国)についての説話を集めた今昔物語集、軍記物語「将門記」「陸奥話記」が著されたほか、異常に長寿な老人が過去の朝廷のありようを語り合う歴史物語「大鏡」がかつての貴族の隆盛をなつかしむ心情から製作された。

都と地方の文化の接点となったのが、寺院に所属せずに民間に布教を行う僧侶「聖」であり、その姿は「信貴山縁起絵巻」に描かれている。「源氏物語絵巻」など、既存の作品も絵巻に描かれることとなった。

四天王寺の「扇面古写経」の下地には庶民の生活が描かれている。

このころ、白河院は自身の乳母の子である魚名流藤原顕季、勧修寺流藤原為房・為隆父子、大江匡衡の曾孫大江匡房や、荘園を寄進してきた者などを院近臣として取り立てたほか、輔仁親王を担ぐ勢力を警戒し、源義家・義綱兄弟や、伊勢平氏平正盛(惟衡の曾孫)などの武士を「北面の武士」として登用した。そのような武士たちは、寺社勢力の強訴への対処に活躍した。

当時は乳母の身内は、頼りにされる存在であり、為隆はその権力から「夜の関白」とまで称された。

白河院は頻繁に熊野三山に詣でたが、それがその後の院にも受け継がれてゆくことになる。

義家は院の昇殿が許可されるなどしたが、後三年の役での出費や、次男対馬守義親が九州で乱暴狼藉を殺害して隠岐国流罪となったそと、義家の四男義国と、弟義光の争いなどにより、河内源氏義家流の勢力に陰りが見えはじめていた。

義家の後継者となった三男源義忠は、新たに都で台頭した平正盛と関係を深め、正盛の娘を妻とした。正盛の子は、義忠より「忠」の字を与えられ(偏諱)、忠盛と名乗った。義忠と伊勢平氏との接近は一部の河内源氏の反感を買った。

次代の河内源氏棟梁は、義忠の弟為義と決定した。

義光の子源義業は、平重幹の子共幹の娘や、藤原清衡未亡人(惟常の母)を妻として、惟常の持っていた勢力を継承できる立場となった。清幹の娘との間に儲けた昌義は常陸国久慈郡佐竹郷を拠点として佐竹氏の祖となる。義光自身も別の清幹の娘を妻として、間に義清を儲けた。義清は常陸国吉田郡武田郷を苗字の地として武田氏の祖となり、常陸国の豪族と衝突して甲斐国に流され、甲斐源氏と呼ばれるようになり甲斐国に勢力を築いた。御旗・楯無は武田氏の継承物となり、甲斐武田氏の惣領の象徴となった。

義国の次男義康は足利氏の祖として下野国足利に地盤を持ち、義康の異母兄義重は上野国八幡荘を地盤を持った。新田氏は足利一門と位置づけられるが、当初からそうだったのかは見解が別れる。

相次ぐ摂関家の有力者の死後、堀河天皇白河院の御所鳥羽殿への行幸を月1回ごとに行うなど、実父を頼りにするようになる。

堀河天皇と篤子内親王との間には皇子女が産まれることはなく、堀河天皇と苡子との間に産まれた宗仁親王が皇太子となる。

白河院藤原忠実儀礼作法を教えるなどして、将来の摂政・関白としての必要な知識をさずけた。忠実が関白となるのは長治2(1105)年のことである。

この時点で、摂関家(藤原北家御堂流)は天皇外戚としてではなく、儀礼作法の知識を持って天皇を支える家系へと変化していった。

白河院を先例として、その後の天皇は早くに次期天皇を定めて譲位することで、自身の子孫へと確実に皇位を伝えようとするようになった。そして院は世を治める「治天の君」として、その命令(院宣)は天皇のものより優先された。

天皇の代わりに政務を行うのが母方の身内(藤原摂関家)から父方の身内(院)へと変化したのである。

忠実は源顕房の娘師子との間に勲子(後の泰子)・忠通などを儲けている。

嘉祥元(1106)年源義家は死去した。

嘉祥2(1107)年、堀河天皇が父白河院に先立って崩御し、宗仁親王が即位した(鳥羽天皇)。白河院はその後も政務を続けた。

参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508