ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

文徳天皇~後冷泉天皇

嘉祥3(850)年、仁明天皇崩御。道康親王が即位した(文徳天皇)。そしてその同年、明子は惟仁親王を産んだ。

文徳天皇は、紀名虎の娘静子との間に惟喬親王・惟条親王、滋野奧子との間に惟彦親王を儲けており、惟仁親王が最も皇子の中で身分が高く天皇に近しいとはいえ良房は油断出来なかった。ただ、惟喬親王の外祖父名虎は既に死去しており、文徳天皇の寵愛以外に後ろ盾はなかった。

最終的には良房の意向の通りに惟仁親王が皇太子となった。斉衡3(856)年には、桓武天皇以来の郊祀祭天を行っている。これは、惟仁親王の正当性を示すために良房が強く推したとの意見もある。

天安元(857)年、藤原良房太政大臣に任じられた。大宝律令成立以来、「太政大臣」という官職名で任じられた皇族以外の人物は良房が初である(藤原恵美押勝 は太師として任じられた)。それに伴い嵯峨天皇元皇子の源信左大臣となった。右大臣は良房の弟良相となった。

翌天安2(858)年、文徳天皇崩御し、惟仁親王が9歳で即位した(清和天皇)。異例の若さである。この幼い天皇を外祖父として補佐した良房は絶大な権力を握ることになった。 良房の子は娘の明子のみであり、兄長良の三男である藤原基経を養子にした。

貞観4(863)年、瀬戸内海における海賊による船舶物資の略奪対策のため、山陽道南海道の諸国に、海賊の取り締まりが命じられた。その後も幾度か追捕の命が出されるようになった。

貞観5(864)年、大納言源定・大原皇女(平城天皇皇女)・統忠子(淳和天皇皇女)・棟氏王(桓武天皇皇子)・藤原興邦(葛野麻呂の孫)・清原瀧雄(舎人親王曾孫)・滋善宗人が死去した。インフルエンザの流行が原因であると考えられる。さらに良岑清風(桓武天皇孫・遍照の兄)・参議正躬王(桓武天皇孫)・菅野人数、さらには源定・源弘兄弟も死去した。そのため、霊の祟りを鎮めるために御霊会が行われた。その際に祀られた霊は、崇道天皇(早良)・藤原吉子伊予親王藤原仲成橘逸勢・文屋宮田麻呂といった、政争に敗れた者たちであった。非業の死を遂げた人々が祟りを成して疫病を流行らせるといった思想は強く存在していた。しかし、同年越中や越後などで地震が起き、多数の死者が出るなど、民政は安定しなかった。

貞観6(864)年、清和天皇元服、藤原順子が太皇太后、藤原明子が皇太后となった。また、中納言平高棟伴善男が大納言、藤原氏宗(興邦の叔父)を権大納言、参議の源融中納言、源生・南淵年名・大江音人・藤原常行(良相の子)・藤原基経が参議となった。藤原基経は7人を超越して参議に任じられたことで、異母兄国経・遠経よりも大幅に出世したことになる。 貞観8(866)年、応天門が出火、大納言伴善男は、犯人は源信であると右大臣藤原良相に告発したことで、源信の邸宅が近衛兵に包囲された。しかし、藤原良房の奏上により嫌疑が晴れ、逆に大宅鷹取という者からの密告があり、父伴善男・中庸父子が放火の犯人であるとの疑いがかけられ、父子は流罪となり、伴氏・紀氏などの多くの者が処罰された。「日本三代実録」には源信に掛けられた嫌疑の詳細は述べられていないが、「大鏡」「伴大納言絵巻」などに記されている、伴善男源信との間に対立があり、火災を利用して失脚させようとしたということは、事実に即したものであると考えられている。応天門炎上の事件の中、藤原良房は「摂政」に任じられており、幼少の天皇の政務代行者となった。ただし、この時点で摂政は一時的な職であると考えられている。

同年、基経は中納言に任じられたほか、基経の妹高子が清和天皇後宮に入内した。翌貞観9(867)年、藤原良相は死去した。また、藤原氏宗が大納言となり、空いた伴善男の地位を埋めた。

貞観10(868)年、高子は清和天皇の皇子貞明親王を産んだ。対して、同じく入内していた、良相の娘多美子は皇子を産むことはなかった。同年に源信は死去、翌年には貞明親王は皇太子となった。異例の早さである。また、元号の名を冠した日本初の通貨である承和昌宝も発行された。貞観11(869)年には貞観格と、仁明天皇一代の国史の「続日本後紀」も完成している。良房とともに続日本後紀を編纂した春澄善縄は陰陽道に強い影響を受けており、貴族間に陰陽道を広めた。

貞観14(872)年、源融左大臣藤原基経が右大臣、源多(仁明天皇皇子)と藤原常行が中納言菅原是善(清公の子)が大納言となった。同年、藤原良房は死去した。

貞観16年、藤原基経の娘佳珠子は清和天皇の皇子貞辰親王を産んだ。

貞観18(876)年、大極殿が焼失、同年に清和天皇は譲位、貞明親王が即位した(陽成天皇)。2代続けての幼帝の即位となった。清和上皇は出家、仏教に傾倒し、修行を行うようになる。そして、基経は幼い天皇を補佐する摂政となった。

元慶3(879)年、藤原基経菅原是善らにより、「続日本後紀」に次ぐ国史である「日本文徳天皇実録」が完成した。名前の通り文徳天皇一代の間の歴史を記している。

清和上皇は基経に対して何度も太政大臣になることを求めたが、基経は辞退を続け、任官したのは清和上皇崩御した元慶4(880)年のことであった。 しかし、このころから基経は何度も辞表を提出するなどした。陽成天皇への不満の表明と見られている。元慶6(882)年に陽成天皇元服すると、基経は摂政の辞表を提出した。

元慶8(884)年、陽成天皇は退位することとなる。退位の理由は、陽成天皇の奇行や犯人不明の源益殺人事件(または過失致死)への関与の疑いとされているが、陽成天皇自身による政治の断行を恐れた基経による廃位とも考えられている。陽成上皇の皇子女は退位後に産まれており、子孫は源氏として臣籍降下する。

陽成天皇の退位後、基経は恒貞親王に即位を要請したが恒貞親王は辞退したため、文徳天皇異母弟の時康親王が即位した(光孝天皇)。55歳という当時としては高齢の即位である。

光孝天皇は自身で政務を行うことはなく、基経が政務を主導した。

光孝天皇の母の藤原沢子(魚名の曾孫)は、藤原基経の母乙春の姉妹であるため、基経と光孝天皇は母方の従兄弟同士であった。

基経は、光孝天皇同母弟の人康親王の娘や、嵯峨天皇の孫の操子女王を妻としたことからも、その権勢が伺える。人康親王の娘との間には時平・仲平・忠平・穏子などが、操子女王との間には温子などが産まれた。

基経は、自身の孫であり、陽成上皇異母弟の貞辰親王光孝天皇の後継者に考えていた。そのため、光孝天皇も自身の系統を一代限りと考えており、全ての皇子女に源姓を与えて臣籍降下させていた。

しかし、仁和3(887)年、光孝天皇が危篤となった際に、基経は、貞辰親王が即位した場合に高子・陽成上皇母子が復権することを防ぐため、光孝天皇元第七皇子の源定省を定省親王として皇族に復帰させた。そのため、基経は「天皇の外祖父」となることは出来なかった。

同年、光孝天皇崩御し定省親王が即位した(宇多天皇)。ちなみに宇多天皇の母班子女王の父仲野親王桓武天皇と藤原河子(浜成の孫)である。しかし、藤原京家が隆盛することはなかった。

宇多天皇後宮には、学者の橘広相(奈良麻呂の玄孫)の娘、義子などがいた。 藤原基経を「阿衡」に任じ、政務を「関(あづか)り白(もう)す」という文書が橘広相によって作成されたが、「阿衡」というのは実体を伴わない名誉職に過ぎないとして、基経は職務を一時的に放棄して、宇多天皇を牽制した。橘広相に不満を持つ者も基経に同調したことで政務が滞った。このことを阿衡の紛議と呼ぶ。 翌仁和4(888)年、基経は正式に、天皇の政務を「関(あづか)り白(もう)す」関白となった。また、橘広相を断罪した。しかし、菅原是善の子、道真が基経を説得したことで、広相が処罰を受けることはなかった。結果として、基経が自身の娘藤原温子を後宮に入内させることで紛議が終息した。しかし、温子は皇子女を産むことはなかった。そのため、宇多天皇の後継者は、藤原胤子(基経の従兄弟高藤の娘)の産んだ敦仁親王となった。寛平3(891)年、基経は死去した。

このころ、唐は安史の乱などの戦乱で衰退していた。そして、それまで国内の商人が国外に出ることを禁止していたものの、国外に出る海賊や商人を制御出来なった。海賊の増加により遣唐使の旅路が以前より危険なものになり、商人の来日で国を介さずとも唐物を手に入れることが出来るようになった。危険を冒す割には得るものがもはや少ないことを理由に、寛平6(894)年、菅原道真の進言によって遣唐使の派遣が中止された。このことは、国際交流の中心が国家から民間へと転換したことを物語っている。

そのような外国との関わりの変化の中で、貴族は檜皮葺の寝殿造と呼ばれる様式の住宅に住むようになった。また、唐風の装束が独自に変化して、男性天皇・貴族の正装の束帯、貴族女性の正装の女房装束(十二単)、男性天皇・皇族の平服の直衣、男性貴族の平服狩衣、女性貴族の平服袿などが生まれた。庶民男性は直垂、庶民女性は小袖などを着用した。当時の出家していない男性にとって、頭頂部を公の場で晒されることは恥ずべきことであった。また、漢字を簡略化させた表音文字が生まれ、漢字を男手と呼んだのに対し女手と呼ばれた。後の平仮名である。日常的な生活に関する知恵を大和魂として、漢学の才能を才(漢心)とする対比も芽生えた。

宇多天皇は道真を重用し、道真は蔵人頭、参議を歴任した。道真は自身の娘寧子を宇多天皇皇子の斉世親王に嫁がせている。斉世親王の母は橘義子である。

寛平9(897)年、宇多天皇は譲位して敦仁親王が即位した(醍醐天皇)。譲位に際して宇多上皇は公事儀式・任官叙位に関する心構えや人物表を記した「寛平御遺誠」を授けている。その2年後の昌泰2(899)年に宇多上皇は出家、初の太上法皇(略して法皇)となる。なお、上皇法皇の御所は院と呼ばれるため、上皇法皇自身も院と呼ばれるようになった。以降、便宜上、上皇法皇は院と表記する。

昌泰2(899)年、醍醐天皇は、左大臣藤原時平と右大臣菅原道真に政治を行わせることにした。また、仁明天皇元皇子の源光が大納言となった。醍醐天皇外戚藤原高藤の子定国は中納言となった。後に定国は大納言まで出世する。

律令制下では、庸・調・雑徭といった成人男性に課せられた税金によって朝廷の財政が賄われていたが、このころ、男性であっても戸籍に女性として登録されることで課税を免れることが横行し、人頭税が減少して財政危機に陥った。そこで道真は課税対象を人から土地へと転換するなどの改革を行った。同年、南家出身で、藤原良尚の子菅根が文章博士となっている。

醍醐天皇の思惑とは別に、宇多院と班子女王は、腹心の菅原道真を通して政治に関与しており、班子女王は時平の同母妹穏子が醍醐天皇後宮に入ることを拒否していた。そのため、時平は醍醐天皇と近しい身内となることができなかった。また、時平の同母弟忠平も宇多院や道真と親しかった。

昌泰3(900)年には醍醐天皇の外祖父藤原高藤内大臣となったが、同年に死去した。高藤の子孫は勧修寺流と呼ばれるようになる。また、班子女王も薨去したことで穏子の入内が叶った。同年、学者で政治家の三善清行は、道真が学者でありながら大臣にまで昇ったことが分不相応だとして辞職を求めるなど、他の学閥からの攻撃を受けることがあった。

昌泰4(901)年、「醍醐天皇を廃位し、斉世親王皇位に就けることを計画し、天皇親王の兄弟の仲を引き裂こうとした。」という理由により、菅原道真大宰権帥として大宰府に左遷された。道真の子たちも同様に左遷されている。時平と光によって貶められたとも考えられるほか、他の学閥による嫉妬が原因とも考えられている。宇多院は道真を弁護しようとしたが、藤原菅根によって内裏に行くことを阻まれ、醍醐天皇も父院に会おうとしなかった。父の影響を削ごうとした意図もあったと思われる。同年、清和・陽成・光孝の3天皇の時代の歴史を記す「日本三代実録」が完成した。これが朝廷が編纂した最後の国史となる。道真の追放によって空いた右大臣のポストには源光が就いた。

藤原時平律令国家の立て直しに尽力した。延喜2(902)年には荘園整理令が出され、強制的な農民の動員による荘園開発や、有力農民が田地を貴族の荘園として寄進することを禁じた。強制動員によって開発された田地を農民に分配することと、借金のかたに没収した田地も返却することを命じた。醍醐天皇の治世は後に「延喜の治」として天皇親政の例として理想化されることになるが、実際は時平の協力があって政権が運営されていた。翌年菅原道真大宰府において死去する。後に道真の子たちは帰京を許された。

律令制の変遷の中で、藤原氏の数が多くなり、出自の判別が困難となった。しかし姓を変えることは出来ないため、新たに「苗字」を名乗りに加える者が現れた。自身が建立した寺の名称から名乗る者や、所領をそのまま名乗る者がいた。また、藤原姓の「藤」と所領の1字を組み合わせた苗字も誕生した。例を挙げるならば、伊勢国に所領を持つ藤原氏の者は「伊藤」を名乗り、佐渡国に所領を持つ藤原氏の者は「佐藤」を名乗るというものである。

醍醐天皇は初の勅撰和歌集である古今和歌集の編纂を命じた。編者の1人である紀貫之は、土佐守の任期を終えて都に帰るまでの出来事を、女手を用いて「土佐日記」として記した。漢文では表すことの出来ない細やかな心のありようを表現することを狙ったものである。和歌にも平仮名が用いられるようになった。

9世紀の末には、税の未進(未納)の責任は全て守が負い、介・掾・目の処遇に関する権限を得て受領と呼びれるようになる。受領は、受領以外の国司(任用国司)を伴って任国に赴いて経営を行った。受領国司は税の納入を怠らないならば任国経営や徴税方法に中央政府からの干渉を受けないようになるなど、徴税請負人化して権限が強化された。そのため、受領は大きな収入を得ることのできる官職となった。国司は荘園を認可することが可能であり、そのようにして認可された荘園を国免荘と呼ぶ。太政官民部省から所有権と減免が決定された荘園は官省符荘といって、国免荘よりも権利が大きかった。官省符荘の減免は指定の免田に限定されており、検田の際に免田は把握されていたが、特別な理由で検田が免除される「不入の権」が発生することもあった。国司は減免を行うことで私領の開発を促進させた。

前に述べたように、課税対象は人から土地に変化したため、受領国司は耕地を「名」という単位に分割して、名を耕作し税を納めることを農民に課した。名を耕作し納税する農民を負名と呼び、この仕組みを負名制という。負名の中での有力者は、経営者としては「田堵」と呼ばれ、大きな土地の耕作を行う田堵は大名田堵と称された。後の大きな領地を納める有力者を表す大名の由来となる名称である。

班田として与えられた口分田は名に吸収されるなどして、律令制の形骸化は進んでいった。

免田型荘園は、税の減免を認められた私領(免田)が集まったものであり、荘園領主に招かれた田堵は領主と国司のどちらにも納税した。

貴族の家・大寺院・大神社などの権門勢家と呼ばれた組織が強い力を持ち、普段は農村を耕作し権門勢家に物品を納める奇人と呼ばれる人々が仕えていた。奇人は税の免減を要求する権利を持っていた。

権門は奇人を呼び込むために国司に圧力をかけて減免を強いることもあったほか、権門に忖度した国司が奇人の要求を承認することもあった。

延喜6(906)年には藤原定国は死去、高藤の系統の中心は弟の定方に移り、最終的に右大臣に昇る。定方は山科に勧修寺を建立して氏寺としたため、勧修寺流の祖となる。子孫の嫡流は勧修寺家を称し、吉田家・甘露寺家・坊城家・万里小路家などの分流が生じた。

延喜7(907)年には延喜通宝が発行された。

時平の同母妹穏子と醍醐天皇の間には保明親王・康子内親王・寛明親王・成明親王が産まれた。保明親王は皇太子となり、妻に時平の娘仁善子を迎えた。間には慶頼王が産まれた。また、娘の1人は醍醐天皇同母弟敦実親王に嫁ぎ、源雅信・重信などが産まれている。

しかし、延喜9(909)年に藤原時平が39歳で死去。延喜13(913)年に源光が溺死。延長元(923)年には保明親王薨去、変わって皇太子となった慶頼王も延長3(925)年に薨去する事態となり、保明親王同母弟寛明親王が皇太子となった。 時平の死後は同母弟忠平が藤氏長者(藤原氏の当主)となった。時平の男子は短命なものが多く、高い位に昇る者はいなかった。宇多院は親しい忠平を通して朝廷の政務に介入することになる。

延長5(927)年、延喜格式が完成した。それまでの弘仁格式貞観格式と合わせて、三代格式と称されるものである。

延長8(930)年には天皇の御殿の清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫(藤原継縄子孫・在原業平孫)などが死亡した。そして同年に醍醐天皇は体調を崩して譲位。寛明親王が即位した(朱雀天皇)後にほどなくして崩御した。相次ぐ朝廷の人々の死去は、菅原道真の祟りであると噂された。後に道真は北野天満宮を中心として祀られ、学問の神天神として信仰された。また、宇多院も翌承平元(931)年に崩御し、天皇家内で最年長となった穏子の発言権が強まった。

朱雀天皇慶頼王の同母妹煕子を後宮に迎え、藤原忠平は関白となった。承平6(936)年には太政大臣に任じられた。 忠平が建立した法性寺では、天皇・后妃の仏事が行われた。

このころ、後に武士と呼ばれる者たちが台頭しはじめていた。

兵役を停止したことで治安維持に影響が現れ、坂東(東国)の国々では「僦馬の党」と呼ばれる盗賊団が調・庸を運んでいるところを襲うなどして暴れるようになり、その有様は群盗蜂起と呼ばれた。

盗賊団の鎮圧に向けて、坂東の国司たちは蝦夷から乗馬の技術を学んで武装を強化、群盗の一部を説得して軍団に組み込むこともあった。それらの国司の一部は任期が終えても都に帰還することなく、坂東の田畑を開発して土着した。 桓武天皇の曾孫(または孫)で平高棟の甥にあたる高望王は伯父と同様に臣籍降下して平高望となり、上総介に任じられて国司として関東に赴いた。高望もまた、国司の任期が過ぎても都にもどることなくそのまま土着した貴族の代表的な存在である。

高望の子には国香・良兼・良将・良文などがおり、それぞれが所領を持った。平国香は源護の娘を妻として、護の領地を受け継いで勢力を拡大した。また、国香は藤原村雄(魚名の子孫)の娘も妻にしており間には貞盛が産まれた。良将は下総国に拠点を築き、子の将門は藤原忠平に仕えた。良文は武蔵国常陸国に拠点を持った。国香の次男繁盛は、良文の子忠頼・忠光兄弟と対立するようになった。また、良文の子平忠道は源頼光に仕えていたと「今昔物語集」にはあり、子孫は相模三浦氏となる。

承平5(935)年、自身の領地に帰った将門は、源護の子源扶・隆・繁の3兄弟と争ってこれを討ち取り、伯父の国香・良兼兄弟とも対立、国香と源護を攻撃し、国香は戦死した。これにより将門は一族の多くと対立することになる。将門は尋問を受けたが、朱雀天皇元服(成人の儀式)に伴い赦された。

天慶2(939)年、清和天皇の孫(または陽成天皇の孫)の武蔵介源経基興世王の部下として武蔵にいた。しかし、興世王・将門・武芝の3人が結託して自身を殺害しようとしていると疑い、都に戻って太政官に将門らが謀反を企んでいると密告した。これに対し将門が忠平に事実無根と釈明したことで、経基の密告は虚偽であると朝廷は判断し、経基は左衛門府に拘束された。 同年、将門は常陸国府軍と交戦し降伏させ、続いて下野・上野を手中に収め、関東一帯を支配、新皇を名乗った。

このことは、朝廷から反逆行為とみなされ、源経基の密告も事実であったとして解放された。上総国に基盤を持っていた藤原菅根の子藤原元方を大将軍として、平国香の長男貞盛、藤原村雄の子秀郷、平高望の娘婿木工助藤原為憲(乙麻呂の子孫)、源経基が将門を追討。矢が命中して将門は死亡した。平貞盛の子の中で、平惟将は相模介となり、相模国鎌倉に勢力圏を築いた。貞盛自身は活動拠点を都に移し、軍事貴族として鎮守府将軍などを歴任した。平将門の娘春姫は従姉弟忠頼に嫁ぎ、忠常や将恒などを産んでいる。

平将門の乱の顛末は後に「将門記」に記され、合戦を中心として、時に創作を織り交ぜた歴史叙述である「軍記物語」のさきがけとなった。

藤原基経の異母兄遠経の孫にあたる純友は、伊予掾として伊予国に赴き海賊を平定したが、その後も都に戻ることなく土着、従わせた海賊を率いて瀬戸内海で反乱を起こした。

朝廷は小野好古(篁の孫)、源経基などを派遣して純友を追討した。鎮圧されたのは2年後の の天慶4(941)年であった。純友は捕らえられて殺害されたとも、獄中で没したとも、行方不明になったともいわれる。将門と純友の反乱を合わせて承平・天慶の乱という。

源経基の子満仲と、藤原秀郷の子千晴は、武蔵において勢力争いを行うなど、対立するようになった。

藤原為憲は官職木工助の「工」と姓の藤原の「藤」を組み合わせえ「工藤大夫」を称しており、子孫が苗字とした。孫の惟景は伊豆国に移り、本流は伊東荘に住んで伊東を苗字とする。

また、地震や洪水も頻繁に発生、菅原道真の祟りと恐れられた。そのため、道真の怨霊を学問の神として北野天満宮に祀ることで怒りを沈めることを試みた。これにより、道真の名誉が完全に回復された。

朱雀天皇は煕子女王との間に昌子内親王を儲けたが、跡継ぎとなりうる皇子が産まれることはなく、実母穏子の意向で24歳にして譲位、同母弟成明親王が即位した(村上天皇)。

藤原忠平が天暦3(949)年に死去すると、村上天皇は関白を置くことはなかった。国司や官人の勤務を厳正に評価、財政の安定のために倹約に努めたことで、村上天皇の治世も「天暦の治」と呼ばれ、父帝の治世とともに後世に理想化された。

以降、摂政・関白の地位は忠平の子孫によって継承され、藤原摂関家と呼ばれるようになる。 忠平の死後は長男の実頼が左大臣に、次男の師輔が右大臣として政務を行った。実頼の家系は小野宮流、師輔の家系は九条流と呼ばれるようになる。

実頼は藤原時平の娘を妻として、間に敦敏・頼忠・斉敏・述子が産まれた。頼忠は母方の伯父保忠(時平の子)の養子となっていたが、兄敦忠・養父保忠の早世により、小野宮流の嫡流を継承することになる。藤原敦敏の子佐理は父の早世により出世が遅れたが、能書家として草書体の書画を讃えられた。斉敏の子実資は、忠平・実頼と伝えられた口伝を継承、清慎公記を記して小野宮流故実を創始した。また、日記として「小右記」を遺している。

師輔は藤原盛子(巨勢麻呂子孫)や、醍醐天皇皇女の勤子内親王・雅子内親王・康子内親王姉妹を妻とした。盛子の間には伊尹・兼通・兼家・安子などを、雅子内親王との間には高光・為光などを、康子内親王との間には公季などを儲けた。

藤原元方は娘の祐姫を、実頼は娘の述子を、師輔は娘の安子を後宮に入内させた。祐子は第一皇子広平親王を、安子は憲平親王為平親王・守平親王などを儲けた。しかし、述子は皇子を儲けることはなかったため、実頼は天皇外戚となることは出来なかった。村上天皇は他にも、異母弟代明親王の娘荘子女王との間に具平親王などを儲けている。具平親王は伯父為平親王の娘を妻としている。

師輔の地位の高さから憲平親王が皇太子となり、外戚となる望みを絶たれた元方は、天暦7(953)年、怒りの中で死去した。

天徳2(958)年に発行された乾元大宝を最後に、朝廷は銭貨の発行を停止する。和同開珎から乾元大宝までの12の銭を皇朝十二銭と呼ぶ。その後、既存の銭貨の材料の金属の価値が下落したことで銭貨が使用されなくなり、米や布などが通貨として使用されるようになった。

天徳4(960)年、師輔は兄実頼に先立って死去した。

康保6(967)年に村上天皇崩御、憲平親王が即位し(冷泉天皇)、従姉弟昌子内親王が皇后となった。実頼が関白となり、醍醐天皇元皇子で師輔の娘婿の源高明左大臣に、師輔の同母弟藤原師尹が右大臣となった。実頼は外戚でないため、揚名関白(名ばかりの関白)と称された。高明は自身の娘を冷泉天皇の同母弟為平親王に嫁がせた。

冷泉天皇の皇太子には為平親王がなると思われたが、高明が外戚となって権力を握ることを警戒され、同じく同母弟の守平親王が皇太子となった。師輔が既に世を去っていたため、高明は後ろ盾がなく孤立した。

安和2(969)年、源満仲が、「源高明が謀反を企てている」という内容を密告したことで、高明は大宰府に左遷された。高明に仕えていた藤原千晴もまた失脚し、満仲は競争相手を減らすことに成功した。

秀郷の子孫は都を離れ、武士として地方に土着するようになる。秀郷の武名から、多くの家系が子孫を自称した。

為平親王具平親王の子孫の多くは臣籍降下して、村上源氏として栄えた。

満仲は摂関家に仕えてその地位を安定させた。また、嵯峨源氏源俊の娘との間に長男頼光を、藤原元方の子致忠の娘との間に次男頼親・三男頼信などを儲けた。その任地から、頼光の家系は摂津源氏多田源氏、頼親の家系は大和源氏、頼信の子孫は河内源氏と呼ばれるようになる。

師輔の長男伊尹は娘の懐子を、兼家は娘の超子を冷泉天皇後宮に入内させた。懐子は師貞親王などを、超子は居貞親王・為尊親王敦道親王などを産んだ。兼家は孫の居貞親王を寵愛したという。

安和2(969)年、冷泉天皇は20歳で譲位、守平親王が即位した(円融天皇)。皇太子には師貞親王が立った。

実頼は摂政となったが翌天禄元(970)年に死去、伊尹が摂政となった。容貌優れ学才豊かで将来を期待されていたが、同年、伊尹は孫の師貞親王の即位を見ることなく死去した。贅沢が糖尿病を誘発したことが原因と考えられている。

その後は伊尹の同母弟兼通と兼家が関白の座を争ったが、兼通は、亡き姉安子の遺した「関白は次第のままに(関白は兄弟の順序で就任すること)」という文書を持ち出して、内覧(奏上と宣下の文書の確認を行う、関白に准じ、政務代行を行う)に任じられ、内大臣も兼任、天延2(974)年には太政大臣・関白となり、兼家を出し抜いた。兼通は娘の媓子 を円融天皇後宮に入れ皇后に立てるが間に子を儲けることはなかった。 翌年、兼通は最期を悟り、兼家を治部卿に左遷したうえで実頼の子頼忠に関白の座を譲った後に死去した。

兼通の死後、天元元(978)年に兼家は

娘の詮子を入内させ、右大臣に任じられるなど、かつての権力を取り戻した。同年、関白頼忠も娘の遵子を入内させている。円融天皇は遵子を皇后にするなど、兼家とは不仲であった。しかし、詮子は懐仁親王を産んだが、遵子は皇子を産むことがなかった。最終的に兼家の圧力に屈して円融天皇は譲位、師貞親王が即位し(花山天皇)、懐仁親王が皇太子になった。花山天皇の皇后には兼家の異母弟為光の娘忯子が立った。

円融院は引き続き頼忠が関白であり続けることを望んだが、頼忠は影響力が低下、伊尹の子藤原義懐が政治を主導した。しかし、義懐はすでに父伊尹、兄拳賢・義孝を亡くしており、近しい身内のいない不安定な地盤であった。

花山天皇は忯子を寵愛したが、花山天皇の即位の翌年に薨去花山天皇は出家して譲位、懐仁親王が即位した(一条天皇)。「大鏡」によれば、兼家は自身の三男道兼を花山天皇の元に遣わして出家をそそのかしたという。皇太子には従兄居貞親王が立った。そのため、皇太子が天皇よりも年長という事態となった。

花山院が出家後に儲けた2人の皇子昭登親王・清仁親王は、祖父冷泉院の子として扱われた。清仁親王と、源頼親の娘を妻として産まれた延信は源氏となった。源延信の曾孫の顕仁は神祇伯となり、白川伯王家の祖となる。白川伯王家は、神祇伯に任じられた当主だけが源氏でなくなり、王を名乗るという他の源氏とは一線を画した家系である。

花山天皇の退位により義懐は外戚の地位を失い、兼家は孫の一条天皇の即位によって外戚としての地位を確立し摂政となった。即位に際して高階成忠従三位となり、高階氏で始めて公卿に列した。

兼家の子には、時姫(魚名子孫)との間に道隆(長男)・道兼(三男)・超子・詮子・道長(五男)、藤原倫寧の娘(基経同母弟高経曾孫)の間に道綱(次男)などがいる。時姫は葛野王の血を引いており、称徳天皇以来268年ぶりに天武天皇の子孫が天皇になったことになる。

兼家は後に藤原倫寧の娘(藤原道綱母)と不仲になって合わなくなり、道綱は母の元で養育された。道綱母は「蜻蛉日記」を記した。兼家の自身への態度に対する怒りや、兼家の他の妻への対抗心、道綱への愛情が感じられるものになっている。子の道綱は他の兄弟よりも出世は遅れた。また、道綱は源頼光の娘や、源重信の娘を妻としている。後に道綱母の妹は、菅原道真の子孫である菅原孝標と結婚、間に産まれた娘は「更級日記」を記す。無常観を感じられる日記文学となっている。

道隆は高階成忠の娘貴子を妻として、間には伊周・定子・隆家などが産まれた。道隆の家系は中関白家と呼ばれることになる。

正暦元(990)年、道隆は娘の定子を入内させ、一条天皇の皇后にした。同年兼家は死去し、道隆は内大臣から関白となる。清原元輔の娘清少納言は定子に仕え、随筆「枕草子」を記した。清少納言の兄清原致信は大和源氏源頼親の従者当麻為頼を殺害したために頼親の従者秦氏元に殺害されている。道長は、頼親が対立者を度々殺害していたことを日記に記している。定子は一条天皇との間に敦康親王を儲けた。

円融院が翌年に崩御すると、道隆は妹の詮子を上皇に准じる女院とした(東三条院)。 以降、故人となった太皇太后・皇太后・皇后、及びそれに準じる女性に院号が贈られることとなった。

正暦5(994)年、道隆は伊周を21歳の若さで内大臣に任じた。これは道隆の弟権大納言道長らを超えての昇進であり、反感を集めた。

長徳元(995)年は疫病が流行したほか、道隆も持病の糖尿病が悪化、伊周は道隆が病の間という期限付きで内覧となった。道隆は娘の原子を皇太子居貞親王に嫁がせたものの、伊周が関白になることを望んだが認められぬまま死去、伊周は内覧ではなくなり、同母弟道兼が関白となる。

しかし、道兼は関白となって11日で死去し、七日関白と称された。道兼に仕えていた源満仲の三男頼信は、兄頼光・頼親とともに道長に仕えるようになる。頼光は酒呑童子退治などの伝説が有名な軍事貴族であるが、武官としてよりも文官としての活動が多い。 一条天皇は、母東三条院の推薦で道長を内覧に任じ、翌年には左大臣を兼任、太政官の一上(首班)となり、公卿を決定する陣定を指揮下に置いて人事権を掌握した。 伊周・隆家兄弟は道長と強く対立することとなり、道長と伊周が激しい口論に及んだほか、道長と隆家の従者が乱闘になって死者が出るなどがあった。

長徳2(996)年、藤原伊周・隆家兄弟の従者は、花山院の従者と藤原為光(既に故人)の屋敷で乱闘し、花山院の従者の童子2人が殺害された。隆家の従者が射た矢は花山院の袖を貫通したという。また、伊周の祖父高階成忠道長を呪詛したことが発覚、伊周・隆家兄弟はそれぞれ大宰権帥・出雲権帥に左遷された。

長徳5(999)年、東三条院が病となり、道長の勧めで病気回復のための大赦が行われ、伊周・隆家兄弟は罪を赦された。同年、藤原元方の子致忠は前相模守橘輔政の子と家臣2人を殺害し、佐渡流罪となった。

致忠の子には、文章博士であった大江匡衡を襲撃して検非違使に捕縛され、後に海賊となった斉明や、武勇に名を馳せた保昌、他にも強盗障害事件を起こし捕縛され、裁きが下る前に腹を切って死亡した保輔などがいる。保輔は日本の記録上始めて切腹によって死んだ人物である。このように、藤原菅根の子孫は学者としてよりも武士として独自の基盤を築いた者が多い。致忠の娘を母とする源頼信は、その地盤を受け継ぎ関東に勢力圏を築くことになる。

その後長らく左大臣道長、右大臣藤原顕光(兼通の子)、内大臣藤原公季という序列は動かなかった。また、藤原頼忠の子公任や、藤原伊尹の孫で義孝の子である行成などの、藤原北家本流から外れた者たちも道長の政務を支えた。行成は書道の一流派世尊寺流を興し、藤原佐理小野好古の弟道風とともに三跡と称された。また、行成は日記として「権記」を遺している。

外出などの際に悪い方角であれば一旦別の方角に向かう方違えといった風習が存在するなど、このころの貴族間で陰陽道は重宝され、安倍晴明などの陰陽師が活躍した。出産の際の母子の健康のために、また、病を治すために、医者が呼ばれるより前に密教僧や陰陽師による加持祈祷が行なわれた。

また、阿弥陀如来に導かれて来世に極楽浄土に生まれ変わること(往生極楽)を勧める浄土教が、「往生要集」を著した恵心僧都源信などにより広まった。このことは、もうじきブッダの教えが失われ仏道修行が意味をなさなくなる、末法の世が到来するという末法思想の浸透が理由に挙げられる。源信は、阿弥陀如来の世界を観想する「念仏」を帰依すべき教えとした。源信道長などの宮廷貴族の帰依を受け、浄土教はさらに広まっていった。

道長源雅信(宇多天皇の孫・藤原時平孫)の娘倫子や安和の変で失脚した源高明の娘明子などを妻として、倫子との間には彰子・頼通・姸子・教通・威子を明子との間に頼宗・顕信・寛子・尊子・長家が産まれた。源雅信源公忠(光孝天皇孫)の娘との間に儲けた時中は大納言となり、蹴鞠の名手であったため、後に子孫の家業となる。

長保2(999)道長は彰子を後宮入内させた。そして、彰子の称号を皇后の別称である中宮として(上東門院)、事実上2人の皇后が存在するという一帝二后という特異な状況となった。

ほどなくして定子は薨去、遺児敦康親王は上東門院が引き取って養育した。清少納言は宮中を退去している。 寛弘5(1008)年、一条天皇は上東門院との間に敦成親王を儲け、翌年には敦良親王が産まれた。

寛弘7(1010)年には道長は娘の姸子を皇太子居貞親王の妃とした。同年、藤原伊周は死去した。 藤原為時(高藤の兄利基の曾孫)の娘紫式部は女房として彰子に仕え、恋多き貴公子光源氏を主人公とした「源氏物語」を書いたほか、「紫式部日記」は「蜻蛉日記」や「更級日記」と並ぶ平安期の女流日記文学である。また、為尊親王敦道親王兄弟との熱愛で知られる和泉式部も彰子に仕える女房であった。和泉式部橘道貞と結婚して間に小式部内侍を儲けたが、後に離別し、そのころ道長に仕えていた藤原保昌と再婚した。「和泉式部日記」も今日に伝わっている。大江匡衡の妻赤染衛門も彰子に仕え、道長を肯定的に評価する歴史物語である「栄花物語」を著したとされる。

寛弘8(1011)年、一条天皇は譲位して崩御。居貞親王が即位し(三条天皇)、道長の孫敦成親王が皇太子となった。道長は、娘姸子を中宮に、姸子より先に嫁いでおり敦明親王などを産んでいた娍子(師尹の孫娘)を皇后とした。姸子は禎子内親王を産んだ。

三条天皇は兼家からは寵愛されていたが、道長との関係は微妙になっており人事を巡って度々対立した。長和3(1014)年に三条天皇が眼病を患い政務に支障が出ると、それを理由に敦成親王に譲位するよう圧力をかけた。同年、隆家は大宰権帥として任地に赴いた。

長和5(1016)年に三条天皇は譲位、道長の孫敦成親王が即位した(後一条天皇)。それに伴い道長は摂政となった。翌年には摂政を辞して長男頼通に譲り、摂政・関白を引退した者の称号である「太閤」や「大殿」という呼び名で呼ばれた。

後一条天皇中宮には道長の娘威子が立った。道長は3代の天皇に、続けて娘を中宮として嫁がせたことになる。

道長が法成寺を建立して以降、天皇・后妃に関する仏事は法成寺で行われることとなった。道長は関白になることはなかったが、その権勢と、道長が建立した法成寺の通称である「御堂」から御堂関白と呼ばれ、日記も「御堂関白記」と称される。子孫の家系は御堂流と呼ばれた。

三条院の意向により、後一条天皇の皇太子には三条天皇皇子敦明親王が立った。しかし、頼通の関白就任の同年に三条院は崩御敦明親王は皇太子位を降りた。そのため道長後一条天皇同母弟敦良親王を皇太子にした。敦良親王の妃として、また娘の嬉子を嫁がせた。間には親仁王が産まれた。敦成親王東宮学士となった、藤原真夏の子孫資業は、建立した法界寺の別名日野薬師から家名を日野家とする。以降も日野家は一定の家格を保ち続けた。

敦明親王は皇太子位を辞することと引き換えに上皇に准ずる地位を得て(小一条院)、道長の娘寬子を妻とした。他にも道長の子頼宗の娘を妻として、間に生まれた子は源基平として臣籍降下した。

寛仁2(1018)年、道長は望月の歌と呼ばれる和歌を読んだと実資の「小右記」にある。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたる事も なしと思へば」 というものであり、自身の思い通りにならないものは何もなく、今宵の満月のように欠けたところがないという意味である。しかし、そのころの道長はかつての兄道隆と同様に糖尿病が進行し白内障となって、近くのものしか判別出来なくなっており、満月の姿もはっきりと見ることは出来なかったと思われる。道長は栄華を極めたが、その職務は激務であった。

寛仁3(1019)年、刀伊とよばれる大陸の女真族の海賊が壱岐対馬を襲撃し、筑前にまで進行したが、大宰権帥藤原隆家の指揮により撃退に成功、捕虜を奪還した。兄伊周の子藤原道雅は和歌に優れていたものの乱闘事件を頻繁に起こした後に失脚、伊周の子孫の多くは出家してしまう。そのため隆家の家系が中関白家の本流となり、水無瀬家などの祖先となった。

寛仁5(1021)年、左大臣藤原顕光が引退したことで政権に変化が生じたことに伴い、人事異動が行なわれ、道長の叔父藤原公季太政大臣となった。公季の子孫は閑院流と呼ばれるようになる。公季は孫の公成を養子とした。

藤原能信は伊周の娘を妻としたが子女に恵まれず、公成の娘茂子を養女としたほか、同母兄頼宗の子能長を養子とした。

藤原頼通は、具平親王の娘である隆姫女王(母は為平親王娘)のみを妻としており、間に子が産まれなかった。その状況を父道長は憂慮し、既に父具平親王と祖父為平親王を失っていた資定王を猶子(相続関係のない養子)として頼通と隆姫女王に養育させた。

仮に頼通に子が産まれなければ資定王が頼通の後継者となったとも考えられている。結局は、頼通が同母弟教通の子信家を猶子にしたことや、頼通が隆姫女王の従姉妹と通じて間に通房を儲けたことで、資定王が摂関家を継ぐことはなかった。

その後、資定王は臣籍降下して源師房となり、頼通の異母妹尊子を妻に迎えて摂関家の一門となった。源師房などの村上源氏は以降も有力貴族であり続けた。頼通は師房の姪祇子との間に定綱・忠綱・俊綱・寬子などを儲けたが、摂関家を信家、後に通房という流れで継承させるために、定綱は藤原経家(公任の孫)、忠綱は信家、俊綱は橘俊遠の養子とし、三男は出家し覚円と名乗った。頼通は道房を異例の早さで出世させたため、道房と教通の嫡子信長の位階には大きな差が生まれた。

道長は出家した後も政治を主導したが、糖尿病に悩まされ続けた。その後、道長は寛子・嬉子・顕信・姸子といった子たちに相次いで先立たれた。姸子の死後、その子禎子内親王は彰子に後見された。

万寿4(1027)年、法成寺阿弥陀堂の9体の阿弥陀像から伸ばされた糸を手に握りながら道長は死去した。

同年、平忠常上総国国衙(国司の役所)と敵対、翌年に安房守平惟忠を殺害した。朝廷は平惟時の子直方と中原成道を追討使に任じた。しかし中々追討は進まず、忠常の上司であった源頼信が追討を命じられて赴くと、忠常は戦うことなく降伏した。

頼信は忠常を連行して都に向かったが、途中で忠常は病死した。忠常の子常昌と常親は処罰されることはなかった。忠常の子孫は千葉氏や上総氏などとなり、忠常の弟将恒の子孫は秩父氏・江戸氏を称し、関東に勢力圏を持った。以降、千葉氏は河内源氏と主従関係を結ぶようになる。頼信の長男頼義は平直方の娘を妻として直方の根拠地である相模国の鎌倉を継承した。それに対し、平貞盛の子で平惟将の弟の惟衡は関東を離れて伊勢国に勢力圏を築いた。

頼義と直方の娘との間には義家・義綱・義光の3人の男児が産まれた。石清水八幡宮元服した義家は八幡太郎、加茂神社で元服した義綱は賀茂二郎、新羅明神元服した義光は新羅三郎と呼ばれた。

このころ、軍事貴族国司を棟梁とした「武士」の台頭が顕著となり、家子と呼ばれる一門や郎党と呼ばれる従者を率いた。武士には、源満仲の子孫のように貴族に仕える者たちや、平高望の子孫のように都に帰ることなく土着した者たちがいた。また、「滝口の武士」として宮中の警備や貴族の身辺・市中の警護を行う者たちもいた。

後一条天皇は威子との間に章子内親王と馨子内親王を儲けたが、皇子が産まれることはなく、長元9(1036)年に崩御し、敦良親王が即位した(後朱雀天皇)。皇太子には、親仁親王が立った。皇后は三条天皇皇女禎子内親王が(陽明門院)、中宮には敦康親王娘の嫄子が立った。寛子は入内出来る年齢に達していなかったため、頼通は嫄子を養女として入内させている。実の娘ではなくとも嫄子が皇子を産めば頼通は外戚となりえた。しかし長暦10(1037)年、頼通養女嫄子は2人の皇女祐子内親王・禖子内親王を遺して24歳で死去した。そのため頼通は外戚となることが出来なかった。頼通同母弟教通の娘生子や異母弟頼宗の娘延子が後宮に迎えられた。このことで頼通と教通の関係は悪化した。

長久3(1042)年、51歳の頼通は祗子との間に藤原師実を儲けた。師実長男通房は寛徳元(1044)年に20歳で死去した際に、他の男兄弟は他家に養子に行っているか出家していたために、頼通の後継者は幼年の師実となった。その後も頼通は寬子以外の娘を儲けることはなかった。幼年の師実が跡継ぎという事態に頼通は危機感を覚え、師実を道房以上の早さで出世させた。師実は源師房の娘麗子を妻とすることになる。師房の子俊房・顕房もまた昇進は早かった。

禎子内親王尊仁親王を産んだが、嫄子と同様に生子・延子が将来天皇となり得る皇子を儲けることはなかった。

後朱雀天皇の時代には京で放火が頻発したほか、天然痘も流行するなどした。

寛徳2(1045)年、後朱雀天皇は譲位、親仁親王が即位した(後冷泉天皇)。皇太子には異母弟尊仁親王が立ち、中宮には後一条天皇皇女章子が(二条院)、皇后には頼通の娘寬子が立った。史上始めて3人の后が並び立った。しかし、後冷泉天皇は病弱なうえに、全ての后が皇子女を産むことはなく、またも頼通は外戚になることが叶わなかった。藤原北家御堂流は、倫子所生の頼通・教通の系統と、明子所生の頼宗・能信の系統に大まかに分かれた(頼宗の同母弟顕信は若くして出家した)。

道長の五男長家は、明子を母としていたが倫子の養子になった。しかし、頼通や教通のように大いに出世することはなかった。長家は歌人として活動、子孫の家系は御子左流となる。

永承16(1051)年、衣川の関所を南下して所領の外に侵攻して勢力を広げようとしたことや、税を納めようとしなかったことを理由に、陸奥国に勢力圏を持っていた安倍頼良に対して追討が命じられ、源頼義鎮守府将軍としてその任を負った。この一件は、藤原彰子の病気の回復を願って大赦が出されたことで、頼良は赦され、頼良は源頼義と名が同じであることに遠慮して、安倍頼時に改名した。しかし天喜4(1056)年、頼義の部下を襲撃した嫌疑が頼時の子貞任に掛かる。頼義は貞任の身柄の引き渡しを要求するが頼時は拒否、再び追討令が出されたことで、頼時・貞任父子や、頼時の娘婿藤原経清(秀郷の子孫)は再び源頼義と交戦した。

翌年に頼時は、頼義に寝返った安倍富忠を説得しようとするも富忠に襲撃され、そのときの傷が原因で死去、貞任が後を継いで抵抗を続けた。頼義は苦戦するものの、出羽国の豪族清原武貞の協力を得て勝利、貞任は戦死し、その首は丸太に釘で打ち付けられて朝廷に送られた。藤原経清は処刑されたが、その妻有加一乃末陪は清原武貞の妻となり、経清の遺児清衡は武貞の養子となった。武貞と有加一乃末陪の間には家衡が産まれた。

頼義による安倍氏討伐の際に、祈祷を行ったことを認められたことで、藤原道兼の子孫を称する僧侶宗円は下野国を賜り宇都宮座主となった。その後、在地豪族と婚姻関係を結ぶなどして勢力下に組み込んだ。宗円の子八田権守藤原宗綱の娘は下野国の有力者小山政光(秀郷子孫)の妻となった、

有加一乃末陪を娶る前に産まれていた清原真衡が武貞の跡継ぎとなった。

頼義と安倍氏の抗争は、欧州の富に目を付けた頼義が、安倍氏を叛逆者に仕立て上げて討伐したものであると考えられている。

頼義は後冷泉天皇より頼時・貞任父子の追討を讃えられて御旗(日の丸の描かれた旗)と楯無(盾もいらないの意を持つ鎧)を与えられたという。御旗・楯無はともに三男義光に継承された。

永承7(1052)年、藤原頼通は父道長から譲られた別荘の宇治殿を改装し寺院に改めて平等院鳳凰堂を建立した。本尊の阿弥陀如来坐像は仏師定朝の作であり、複数の部品を合わせて制作する「寄木作り」で作られている。

治暦3(1067)年、頼通の関白辞任後、教通は関白になると娘の歓子を中宮に立てた。

一方師実は娘は1人も授からなかったため、源師房の子源顕房の娘賢子を養女としている。 参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508