ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

桓武天皇~仁明天皇

天応元(781)年、即位時より62歳と高齢であった光仁天皇は73歳で山部親王に譲位し(桓武天皇)、同年に崩御した。皇太子には桓武天皇同母弟の早良親王が立てられた。

 早良親王の春宮となった大伴家持は、歌集『万葉集』の編者の1人とされている。国学者賀茂真淵は、収録されている歌の特徴をおおらかで男性的な「ますらをぶり(益荒男ぶり)」と評している。和辻哲郎は、「常に直観的な自然の姿を詠嘆」していると評した(和辻哲郎『日本精神史研究』)。三島由紀夫は、「歌が集団と個の融一から、個の自覚へと細まってゆく過程が歴然と見られ」「忠と恋の二種の誠実の筋道を通して、いわばローマへ通ずる無数の道のように、中心へ収斂している」と述べた(三島由紀夫『日本文学小史』)。

 同年、参議藤原乙縄が死去、右大臣大中臣清麻呂が引退、大納言石上宅嗣が死去したことにより、抜けた穴を埋めるため、藤原魚名左大臣、藤原田麻呂を大納言、藤原是公中納言、大中臣子老・紀船守を参議を参議に任じた。

また、桓武天皇の母方の祖母真妹は土師氏の出身であったために土師氏は台頭、天皇に願い出て、菅原氏への改姓が認められた(坂本太郎菅原道真』)。これ以降、菅原氏は学者を排出する家系となる。翌年、氷上塩焼と不破内親王の子である氷上川継が朝廷転覆を計画するが失敗、母親とともに淡路に流罪となり、川継の妻、法壱の父であった藤原浜成連座して参議を解任された。藤原京家は権力の座から遠ざかり、歌人や学者を排出するようになる。

 桓武天皇は、王朝の始祖を祀る中国皇帝が行う祭祀である郊祀祭天を挙行し、新たに刷新された皇統であることを強調するなどして、光仁天皇を王朝の始祖に位置づけ「天智天皇の子孫」であることを強調した(遠山美都男ほか『人事の日本史』)。また、母高野新笠を皇太夫人にして嫡妻と位置づけることで正統性を強調した(佐藤信 編『古代史講義』)。ただ、安殿親王の妻には草壁皇子聖武天皇の血を引く朝原内親王を嫁がせている。これは双系継承の名残りではあったが、酒人内親王と朝原内親王は配偶者とは別の権力基盤を持たないために天皇になり得なかった(義江明子『女帝の古代王権史』)。以降、皇統は父系継承を基本とする方針が強化される。

 また、藤原真楯の子、藤原内麻呂に嫁いで真夏・冬嗣兄弟を産んだ百済永継は、内麻呂との婚姻関係を終了させたあとに桓武天皇女孺(雑事を行う女官)となって、皇子を儲けた。姓の通り、永継は百済帰化氏族である。永継の産んだ皇子は後に臣籍降下し、良岑安世を名乗る。そして、安世の子の1人宗貞は出家後遍照を名乗り、僧正として、また歌人として名をあげる。また、藤原魚名左大臣を罷免され、遠地に赴かされそうになりそうになったため、病と称して摂津に留まったが、復権は叶わなかった。

 延暦2(783)年、大伴弟麻呂(古慈斐と不比等娘の子息)は記録上初の「征夷大将軍」に任じられ、蝦夷を朝廷に服属させるための戦闘を行った。

 同年、藤原乙牟漏が皇后に立てられた。このころからは律令に定められた妃・夫人・嬪といった称号は消えていき、代わりに女御・更衣が使用されるようになる。

 藤原氏には、5世以下の女性皇族との婚姻を許された他の臣下氏族と異なり、二世以下の女性皇族との婚姻が可能という特権がもたらされた。 

 桓武天皇は、自身の母方のルーツである百済帰化氏族出身の菅野真道・百済王氏の人物などのほかに、藤原百川の子の緒嗣、百川の甥(藤原清成の子)の種継といった藤原式家の人物を重用した。再び藤原式家は勢力を伸ばすこととなる。同年、藤原是公の娘吉子と桓武天皇との間に伊予親王が産まれた。

 造都、造寺による森林伐採や瓦用粘土の採掘の影響で土砂が大阪湾に流れ込んだことで、難波宮の維持が困難になり、複都制が廃止された(松本一夫『史料で解き明かす日本史』)。他にも、奈良仏教勢力による政治介入が強くなっているという問題を抱えていた。そこで、木津川・宇治川桂川が合流する淀川が近くにある長岡への遷都を計画、奈良の寺院が新たな都の近くに移築することも禁じた。

 難波宮の資材も再利用して進められていた長岡京の造営だが、延暦4(785)年、責任者の種継が何者かに暗殺された。実行犯の大伴継人は、大伴家持早良親王の同意のもとで行ったと供述したことで、早良親王は皇太子を廃され、淡路へと流罪となった。しかし、淡路に赴く途中で無実を主張して絶食、そのまま餓死した。元々僧籍であった早良親王は、平城京との繋がりが深く遷都に否定的であったために謀反を起こしたとも考えられている(佐藤信 編『古代史講義』)。

 新たな皇太子には安殿親王が立てられが、安殿親王の発病、夫人旅子・皇后乙牟漏・宮人坂上又子(坂上苅田麻呂の娘)、皇太夫高野新笠の相次ぐ病死、疫病の流行や洪水の多発により、早良親王の祟りと恐れられた。

そこで、崇道天皇の尊号が贈られ、鎮魂が行われた。 しかし、怨霊の仕業と噂される事象が続いたほか、長岡京は起伏が多く川の合流地のために洪水の危険性もあったため、延暦14(794)年に平安京に遷都した。平安京の外観は唐の長安平城京を模して碁盤の目状に造られ、市街の中心には朱雀大路が設けられ、その北に大内裏を置くといったものだった。

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平安京復元模型

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また、桓武天皇は皇太子安殿親王との関係に悩まされた。安殿親王の宮女には藤原縄主(蔵下麻呂の子)と藤原薬子(藤原種継の娘)の娘がいたが、薬子は自身の娘を差し置いて安殿親王と愛人関係になったことで、桓武天皇が怒り薬子を追放した。

延暦16(796)年、桓武天皇は隆平通宝を発行した。

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 隆平通宝1文で和同開珎・万年通宝・神功通宝10文の価値とし、その後和同開珎などの旧銭の使用を停止して銭の供給量が過剰になったことに対する対策を行った。米と交換するという形で旧銭の回収を図ったが、それでも旧銭は使用され続け、後に旧銭使用禁止を撤回した。

桓武天皇は長く左大臣を置かず、自身の弱い政治基盤の強化に努めたほか、定員外の国司や郡司を廃止して、国司交代の事務手続きを監視し、徴税や官有物管理に問題がない場合に与えられる、解由状の授与を審査する勘解由使を設置するなど、地方政治に力を入れた。また、外国の驚異の弱まりや徴兵された兵士の質の低下により、健児の制を設け、郡司の子弟や有力農民から志願で健児を募り、20〜200人までの人数を定めて国府の警備や国内の治安の維持を60日交代で行わせた。

また、伊治呰麻呂の乱後に活発化した蝦夷の反乱を平定するために、坂上苅田麻呂の子、田村麻呂を征夷大将軍に任じ、大墓公阿弖流為盤具公母礼を降伏させた。田村麻呂は助命を求めたが、公卿の反対にあって2人は処刑された。

延暦16(796)年には、菅野真道らにより、日本書紀に続く国史、『続日本紀』が完成した。

藤原緒嗣と菅野真道に桓武天皇は天下の徳政について議論させ、平安京増築と蝦夷平定という政権の2大事業について、緒嗣は継続に反対、真道は賛成した。結果として、民衆の負担が大きいことから緒嗣の意見が採用された。

また、桓武天皇は奈良仏教とは別の仏教を保護し、唐より帰国した、最澄天台宗空海真言宗が隆盛、そのような仏教界の変化の中で、『日本霊異記』が記された。

真言宗は、ブッダが明らかに説いた教えとされる顕教よりも、宇宙の中心の仏、大日如来が説いた秘密にされて容易に理解出来ない教えとされる密教を重視した。空海は秘密曼荼羅十住心論を記し、人の心の実相が下層の異生羝羊住心から、密教の悟りの心の秘密曼荼羅荘厳住心に至るまでの10段階を説いた。密教の仏教世界は、大日如来の知恵の世界である金剛界と、大日如来の慈悲の世界である胎蔵界を合わせた両界曼荼羅として視覚情報として表される。空海の他の著書には、自身の修行時代を振り返り、仏教・儒教道教の中で仏教の優越性を説いた三教指帰や、漢詩集の遍照発揮性霊集がある。また、満濃池を開削、初の庶民の教育機関である綜芸種智院を開設した。真言宗は、高野山金剛峯寺に加えて教王護国寺(東寺)を根本道場とした。

最澄は、大乗・小乗の戒律とともに、僧になるための二百五十戒を受ける必要があるとした奈良仏教を批判し、大乗戒の受戒のみで十分であるとした。また、一乗思想を基盤として、万物が成仏できる可能性があると説いて、先天的に成仏の可能性には差別があるという五性各別性を説いた法相宗の徳一と論争を行った。

天台宗法華経ブッダの真実の教えと考え、本来衆生は仏であるという思想を発展させて、凡夫の心の一瞬一瞬(一念)が全宇宙(三千世界)と繋がっているという一念三千、現象(事)と本体(理)の関係の議論である事理論へと昇華させた。最澄は弟子を派遣して空海から密教を学んで教えに取り入れ、大乗戒・密教・禅を包摂したものとなった。根本道場は比叡山延暦寺である。

真言宗天台宗も山岳を修行の場としており、元々存在していた山岳信仰と結びつくことで、山伏に代表される、山岳で修行して呪力を得るという後の修験道の礎となった。修験道は、山岳信仰の対象であった大和国吉野の大峯山や北陸の白山などで行われ、特に熊野三山(熊野の本宮・新宮・那智)は多くの信仰を集めた。

最澄空海は元々は親しく、後に風信帖と呼ばれるようになる手紙も残っているが、空海から求められた理趣釈経を貸さなかったことや、最澄の弟子の泰範が空海の元から帰って来なかったことで、両者は不仲となり絶縁した。

 f:id:Usokusai:20220304110154j:image風信帖

真言宗天台宗の隆盛に伴い、新たな仏教芸術である密教芸術が発展、伽藍配置の密教寺院や檜皮葺の屋根が用いられることになり、室生寺の金堂や五重塔などが建てられた。彫刻としては、1つの木から彫像を掘り出す一木造の仏像が多く、如意輪観音像や不動明王像などが制作された。絵画も、円城寺の不動明王像(黄不動)などの密教に由来する仏画が描かれた。

延暦25(806)年、桓武天皇崩御すると安殿親王が即位し(平城天皇)、皇太弟には同母弟の神野親王が立てられた。平城天皇はかつての愛人薬子と、その兄藤原仲成といった、藤原種継の遺児を重用した。薬子は天皇の命令を太政官に伝え(伝宣)、天皇に情報を伝える(奏請)内侍尚侍となった。また、北家の藤原内麻呂(真楯の子)を大納言次いで右大臣、南家の藤原雄友(是公の子)を大納言、藤原葛野麻呂藤原園人(藤原楓麻呂藤原良継の娘の子)を権参議次いで参議に任じた。

平城天皇は皇后を立てることなく、異母妹の朝原内親王(母は坂人内親王)・大宅内親王(母は橘奈良麻呂の孫、常子)などを妃として妻に迎えたが、間に皇子女が産まれることはなかった。そのため、持統天皇聖武天皇の血を引く人物を将来の天皇とするという構想は潰えた。阿保親王高岳親王などの平城天皇の皇子女の母のほとんどは宮人である。また、平城天皇の同母妹は平城天皇異母弟で従兄弟の大伴親王に嫁ぎ、間には恒世王が産まれた。

平城天皇は六道観察使を設置し、参議に1つずつ六道を担当させ、地方の実情の把握を行わせた。また、大同元(806)年には参議を廃止して観察使のみとした。宮司・官人を整理統合し、給与体制の見直しや待遇改善などが行われ、官僚組織の無駄を省き、効率化した。

大同2(807)年、伊予親王が謀反を企てているとして、母吉子とともに幽閉され、食を絶たれて2人は自害した。それに連座して吉子の兄の大納言藤原雄友は伊予に流罪中納言藤原乙叡も解任された。これにより藤原南家は再び衰退し、議政官は北家と式家によって構成されることとなる。同じく南家の藤原巨勢麻呂の子黒麻呂は上総国茂原牧を私領とし、その子春継は在地豪族常陸大目坂上氏の娘を妻とした。さらにその子良尚は武官として右兵衛督となった。

大同4(809)年、平城天皇は病を患い平城京に移って譲位、皇太弟神野親王が即位した(嵯峨天皇)。皇太子には平城上皇の皇子高岳親王が立った。同年、嵯峨天皇も体調を悪くし、早良親王・藤原乙牟漏・伊予親王の鎮魂が行われた。

大同5(810)年、嵯峨天皇は病から回復、内侍尚侍の薬子の介入を受けずに政務を行うため、直接天皇の命令を太政官に伝える蔵人所を設置、長官の蔵人頭には巨勢野足と、藤原内麻呂の次男冬嗣を任じた。内麻呂の長男藤原真夏平城上皇の側近となっている。同年病が回復した平城上皇嵯峨天皇から再び皇位に就くことを勧められる。しかし平城上皇は自身が住む平城京への遷都を宣言したことで平城上皇嵯峨天皇の対立は深まり、二所朝廷と呼ばれる異様な事態となった。

嵯峨天皇は、逢坂関・不破関鈴鹿関の3つの関所を閉ざす固関を行い、藤原黒麻呂の弟貞嗣が主導で平城上皇方が東国に逃れて勢力を拡大する可能性を断ち、藤原仲成を逮捕・拘束。後に坂上田村麻呂に射殺させた。薬子は服毒自殺し、平城上皇嵯峨天皇に申し開きをして平城京で出家・隠遁したことで事態は収束した。そして、平安京は朝廷の中心として、遷都することのない「万代宮」となった。

その後、高岳親王は皇太子を廃され、嵯峨天皇異母弟で従兄弟の大伴親王が皇太弟となった。高岳親王とその異母兄阿保親王は左遷されるが後に復権、兄弟の子孫の多くは在原氏を名乗った。高岳親王は出家して真如という法号を名乗り、天竺を目指して航海に出で消息を絶った。阿保親王の子では、皇子・元皇子のための大学別曹、奨学院を創設した在原行平と、伊勢物語の主人公として知られる在原業平が有名である。行平・業平兄弟は歌の名手でもある。

また、藤原真夏は備中権守に左遷された。復権後は朝廷と平城上皇の仲を取り持った。子孫からは日野家・柳原家・烏丸家などが成立し、一定の家格を保った。これ以降、藤原氏では、藤原冬嗣の子孫が発展することとなる。

弘仁6(815)年、嵯峨天皇の皇后には橘奈良麻呂の孫、嘉智子が立った(檀林皇后)。間には正良親王・正子内親王などが産まれた。檀林皇后の立后により橘氏復権した。檀林皇后の従姉弟橘逸勢は琴と唐風の書の名人であり、嵯峨天皇空海と並んで天下の三筆と讃えられた。冬嗣の妹である緒夏も嵯峨天皇の妻であったが、皇子女を儲けることはなかった。また、嵯峨天皇には多くの皇子女が産まれて朝廷の財政を圧迫したことを理由に、皇子17人・皇女15人が臣籍降下して源姓を与えられた。(嵯峨源氏)。源信・弘・常・明などがいる。皇女の1人は臣籍降下して源潔姫となり、藤原冬嗣の次男良房に嫁いだ。多くの皇子女を源氏として臣籍降下させたことは、皇位継承候補者を削減する目的があったからとも考えられている。

嵯峨天皇は朝廷の唐風化を進め、編纂した弘仁格式において儀礼も唐を模範にした。また、大学別曹においても儒教を学ぶ明経道や、中国の歴史と文学を学ぶ紀伝道が重視された。勅撰儀礼書の内裏式によって、儀礼平安京の建物の名称も唐風に定められた。この政策を推進させたのは菅原清公である。また、嵯峨天皇の命により凌雲集文華秀麗集といった漢詩集が編まれた。それらの公的編纂物にもまた、菅原清公が携わった。が貴族・官人も漢文学儒教の教養が求められ、このような情勢が唐風文化の隆盛を産んだ。

弘仁9(818)年、新たな通貨富寿神宝が発行された。

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弘仁14(823)年、嵯峨天皇は譲位し、大伴親王が即位した(淳和天皇)。嵯峨前天皇淳和天皇の宣下を受けて太上天皇となり、平安宮から後院に移り住む。二所朝廷の前例を繰り返さないために、君主権は在位中の天皇に一極化され、太上上皇は政治に関わらないことが決定した。天皇の本名と同じになることを防ぐため、大伴氏は伴氏に氏を改めた。また、妃であった高志内親王は既に薨去していたため、嵯峨上皇の皇女正子内親王が皇后として立ち、間には恒貞親王が産まれた。恒世親王は皇太子になることを辞退したことで、嵯峨上皇皇子正良親王が皇太子となった。

天長2(825)年、藤原冬嗣左大臣藤原緒嗣が右大臣となった。冬嗣は娘の順子を正良親王に嫁がせ、冬嗣の異母弟愛発は娘を恒貞親王に嫁がせている。天長3(826)年、恒世親王薨去した。

淳和天皇の治世は比較的安定し、検非違使庁が設置され、天長4(827)には、勅撰の漢詩文集の経国集が編集された。経国集という名の文集が存在したように、文章によって国を治めるという文章経国思想が強まった。天長8(831)年、源信は参議となり、翌天長9(832)年には藤原緒嗣左大臣清原夏野(舎人親王の子孫)が右大臣となった。天長10(833)年、清原夏野文章博士菅原清公らによって、養老律令の注釈書の令義解が編纂された。序文は小野篁が記した。同年、桓武天皇の皇子葛原親王の子高棟王臣籍降下平高棟を名乗った。桓武平氏の一流となる。同年、檀林皇太后の弟橘氏公は参議となった。

 また同年、淳和天皇は譲位、正良親王が即位した(仁明天皇)。皇太子には恒貞親王が立った。また、藤原良房は左近権少将に任じられ、承和元(834)年に参議、その翌年に権中納言に昇進した。兄の長良を越えて昇進を続け、嵯峨天皇元皇女の源潔姫を妻にしていることも、その権勢を物語っている。檀林皇太后と氏公は、橘氏のための修学旅施設である「学館院」を設立した。

 承和3(836)年、藤原常嗣(葛野麻呂の子)を大使、小野篁(小野妹子の子孫とされる)を副使として遣唐使を派遣しようとしたが4隻の内第3船が大破し約1000人が溺死するなどして失敗した。翌年7月、再び遣唐使を派遣しようとしたが、大破した第2船を除く3つの船は吹き戻された。藤原常嗣は他の船よりも状態の良い第2船を小野篁より取り上げた。そのことに立腹した篁は病と称して唐に出発することを拒んで嵯峨上皇から怒りを買い隠岐島に流される。こうした行動から、篁は気骨の人として知られる。許された後には都に戻り活躍、弓馬・学問・和歌・書の道の達人として名を残した。

 承和5(838)年の遣唐使に伴い、天台宗の僧円仁が、比叡山延暦寺の代表として入唐した。滞在を許可された円仁は学業を修めたが、滞在中に時の皇帝武宗李瀍(後に炎)が儒教以外の宗教の弾圧を始め、還俗を余儀なくされた。李炎の崩御後に円仁は再び髪を剃り、収集した経典を携えて帰国、3代目の天台座主となる。

 承和7(840)年には、『続日本紀』に続く国史である『日本後紀』が完成した。同年淳和上皇が、承和9(842)年に嵯峨上皇崩御すると、嵯峨天皇系・淳和天皇系それぞれの皇族を支持する者同士の対立が激化、橘逸勢伴健岑恒貞親王を担いで謀反を企てたとして、その関係者として、大納言藤原愛発・中納言藤原吉野(蔵下麻呂の孫)・参議文室秋津(文室浄三の孫)が左遷され、恒貞親王も皇太子を解任され、新たに藤原順子を母とする仁明天皇皇子道康親王が皇太子となった。競争者を排斥して大納言となった良房の権勢はさらに増大した。橘逸勢は後に怨霊になったと噂されることになる。恒貞親王はその後出家、法号を恒寂として大覚寺の開山となった。

承和10(843)年、藤原緒嗣が死去した。承和11(844)年には源常が左大臣となった。

 また、良房の兄長良、承和14(847)年に弟の良相が参議に任じられたことで、藤原氏議政官は北家が独占することとなった。

良房は甥の道康親王に自身の娘明子を嫁がせた。

参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508