斉明天皇の崩御後、長らく実質的な大王の立場にあった葛城皇子が、668年2月20日、正式に即位した(天智天皇)。皇后には倭姫王を立てた。しかし、間に子はいない。そのため、石川麻呂の娘の、遠智娘との間に産まれた大田皇女・鸕野讚良皇女姉妹、姪娘との間に産まれた御名部皇女・阿閉皇女姉妹が最も身分が高い子となる。蘇我赤兄は自身の娘のうち、常陸娘を天智天皇に、大蕤娘は大海人皇子に嫁がせている。常陸娘は山辺皇女を、大蕤娘は穂積王・紀女王・田形女王を産んだ。
地方豪族は、大王に対して特産物の貢納や軍役・労役への協力の他に、子息・兄弟を「舎人」娘・姉妹を「采女」として奉公させており、伊賀国出身の地方豪族の娘(伊賀采女)は、天智天皇の第一王子である大友王子を産んでいる。大海人王子の長男高市王も、母親は筑紫の豪族宗像君の娘(宗像采女)である。大友王子は大海人王子の娘十市女王を妻として、間に葛野王を儲けた。
天智天皇は、大海人王子に、大田皇女・鸕野讚良皇女や、大江皇女・新田部皇女という自身の皇女4人を嫁がせている。また、中臣鎌足の2人の娘、氷上娘と五百重娘を嫁がせている。天智天皇と大海人皇子皇子の子女同士の婚姻も何度も行われている。大田皇女と大海人皇子の間に産まれた大津王を天智天皇は寵愛した。
天智天皇即位の同年の9月、唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼした。唐は高句麗のあった土地には安東郡護府を設置した。
669年、中臣鎌足は危篤となった。そのため、鎌足の妻鏡王女は夫の病気の回復を願って山階寺を建立した。同年、天智天皇は鎌足に藤原姓と大織冠を授けた。このことで、鎌足は藤原氏の祖となった。しかし病が回復することはなく、姓と冠の授与の翌日に鎌足は死去し、正一位・太政大臣を追尊された。中臣氏の氏上(当主の意味、後の氏長者)は鎌足の従兄弟の中臣金が継承した。
同年、河内鯨を遣唐使として派遣した。
天智天皇は近江令と総称されることになる法令を出し、670年には初の全国的戸籍の庚午年籍を作成し、徴税と徴兵を行いやすくした。この戸籍は50戸(後に里)を単位として、戸主・戸口の名前と良民と賤民かが記載されたと考えられる。庚午年籍は後に氏姓の記録として永久保存を定められる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。
「律」と「令」の内、近江令は「令」に当たり、独自に編纂されたが、「律」は唐のものをそのまま使用したと思われる(西山良平・勝山清次 編著『日本の歴史 古代・中世編』)。
同年、新羅は高句麗王族の安勝を唐の許可を得ることなく高句麗王とし、高句麗遺民の反乱を支援して唐の朝鮮半島支配を弱めようとするなど、唐と新羅と対立が見られるようになる。新羅は倭国に対して頻繁に使者を送るようになり、
庚午年籍の作成の同年の3月より、唐は朝鮮半島に都督府と都護府を設置することを考えたが、唐の軍を排斥し、また、旧百済・旧高句麗の遺民の助力を得て朝鮮半島内における統一国家の建設を試みるようになった。こうして、唐と新羅は対立するようになった。新羅と連携されることを防ぎたい唐も、関係悪化を避けたい新羅も、どちらも倭国と接近しようとした。
671年、天智天皇は大友王子を太政大臣に任じ、蘇我赤兄を左大臣に、中臣金を右大臣に任じた(『日本書紀』)。ただ、当時は太政大臣という職官は存在していなかったとの説もある(倉本一宏『蘇我氏』)。また、扶余自信などの旧百済王族や官人に冠位を与えて倭国の政治体制に組み込んだ。このようにして大王を百済王族の上位に位置する存在に仕立て上げた(佐藤信 編『古代史講義』)。
天智天皇の大王位継承構想、および大海人王子との関係については、いくつかの見解が存在する。
①天智天皇は律令制的な父系継承を望んで大友王子の男系子孫に継承させようとしており、大海人王子との齟齬が生じたという説(森公章『天智天皇』)
②大友王子は母の身分が低かったが、当時はさほど大王になる資格としては考慮されていなかったという見解。大海人王子とは緊張関係であり、大友王子を中継ぎとして、大津王や草壁王のような、王族の近親婚により産まれた特殊な血統を持つ孫に将来的に継承させようとした説(遠山美都男『古代の皇位継承』)
③大友王子は母の身分が低いために大王とはなりえなかったという見解。大海人王子を中継ぎとして即位させ、その後に成長した葛野王を即位させて、その父大友王子に後見人になってもらうことを構想したという説。仮に大海人王子が即位しても、自身の孫である大津王が即位すると見込んでいたとされる(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)。
『日本書紀』には、天智天皇が危篤となった際、大海人王子は大友王子の補佐を頼まれるが、大海人王子は野心を疑われていると思って警戒し、倭姫王の即位と大友王子の立太子を提案したうえで天智天皇の回復を祈るため出家し、吉野に隠遁したとある。
これは大海人王子が蘇我安麻呂の助言によって決断したこととされるが、安麻呂の功績を強調する話を『日本書紀』編纂の際に挿入したからだという見解もある(倉本一宏『蘇我氏』)。
672年、天智天皇が崩御した。唐よりの使者である郭務悰に対して武器と多くの布地が贈られているのは、身罷る直前の天智天皇による、唐使への対応の決定の結果と考えられる(河上麻由子『古代日中関係史』)。
蘇我倉家のうち、蘇我赤兄・果安兄弟は大友皇子に接近したが、赤兄・果安兄弟の甥(蘇我連子の子)の安麻呂は大海人王子に接近した。
大友王子は、左大臣に赤兄、右大臣に中臣金を任じ、果安・巨勢人・紀大人を重用した。
672年5月、大友王子は山稜造営のために人夫を摘発していたが、人夫には武器を持たせていたという。それに身の危険を感じた大海人王子は6月に挙兵し、近江朝廷へ向けて進軍したと、『日本書紀』壬申紀には記されている。これには鸕野讚良王女・草壁王母子や忍壁王も同行している。こうして「壬申の乱」が起こった。大友王子が本当に大海人王子を滅ぼそうとしていたのかは、見解が分かれる。鸕野讚良王女が、大海人王子を中継ぎのして即位させ、自身の子息草壁王に大王位を継承させるために大友王子を排除しようとしたとの説もある(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)。
大海人王子には拠点付近の国宰や豪族などが味方に付いた。
この戦は大海人王子が勝利し、大友王子・果安は自害、中臣金は処刑、赤兄と人は子とともに流罪となった。
大海人王子は即位し(天武天皇)、確実に天皇号を使用した。天武天皇が天皇号の初の使用例だという説には、唐の高宗李治の尊号を模倣したものであり、北極星を差す道教の神に由来するとしている。しかし初期の道教では「天皇」は最高神でないことなどの反論がある(下出積與説)。
また、大友王子の正当性を否定する根拠とするためか、皇族が非皇族の母を拝むこと、諸臣も自身の出身氏族よりも身分の低い母を拝むことが禁じられた。正月の拝礼対象も、兄姉以上の親族と出身氏族の氏上とさだめられた(義江明子『女帝の古代王権史』)。この時点で、大友王子と同様に采女を母とする武市皇子や、天智天皇皇子の中では川島皇子・志貴皇子などは皇位継承候補からは外れていたと考えられる(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)。
天武天皇は飛鳥浄御原宮に遷都し、皇后に鸕野讃良皇女を立てた(既に異母姉大田皇女は薨去)。
大田皇女
母:蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘
鸕野讃良皇女
母:蘇我倉山田石川麻呂の娘の、遠智娘
子:草壁皇子
大江皇女
母:忍海色夫古娘
子:長皇子、弓削皇子
新田部皇女
母:阿倍内麻呂娘の娘、橘娘
子:舎人親王
:間に葛野王
川嶋皇子と泊瀬部皇女
志貴皇子と託基皇女
:間に春日王
阿倍皇女と草壁皇子
:叔母と甥、従叔母と従姪の関係でもある。間に
珂瑠王と吉備女王
:再従叔母と再従甥の関係でもある。間に粟津王
御名部皇女(阿倍皇女の同母姉)と武市皇子
天武天皇は、藤原鎌足の2人の娘、氷上娘と五百重娘も妻に迎え、氷上娘との間には但馬皇女、五百重娘との間には新田部皇子が産まれている。
天武天皇は、草壁皇子・大津皇子・刑部皇子・川嶋皇子・志貴皇子らに、吉野で盟約を結ばせた。草壁皇子を筆頭として、異腹の兄弟や従兄弟が鸕野讚良皇女を母とすることで、皇位継承の争いが起こることを防ごうとした。
671年には、律令の制定を始めた。その2年後、大来皇女は伊勢国へと出発、伊勢神宮において天皇の祖先に位置づけられる太陽の女神アマテラス(天照大御神)に仕える「斎王」となった。それが斎王の確実な記録の初めである(新谷尚紀『神社とは何か』)。
斎王は皇女の中から独身の者が選ばれ、斎王である期間は男性と通じることを禁じられた。
伊勢神宮は天皇の祖先神を祀っているため、最も重要な神社となった。伊勢神宮と同じく重要視される神社として出雲国の出雲大社があり、こちらはアマテラスに国を譲った神であるオオクニヌシ(大国主神)が祀られている。
天皇の証として「三種の神器」と呼ばれる草薙剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉があり、即位の際に受け継がれてきた。八尺瓊勾玉のみが本体を朝廷が所有しており、草薙剣と八咫鏡はそれぞれ本体が熱田神宮と伊勢神宮にあり、天皇が所持するのはその分身である。熱田神宮は尾張氏が大宮司を務めた。
官人の出身とする氏組織を把握するために、氏は父系を基本として継承することが定められた。また、氏の族長である氏上を公的にさだめるように決めた。
674年2月、新羅は高句麗の反乱衆を支援し、百済の土地を奪った。このことに唐の高宗李治は憤慨し、新羅の文武王金法敏の官爵を剥奪した。李治は法敏の弟仁問を新たな新羅王と定め、翌年に新羅を攻めた。これに対して法敏は謝罪し、官爵は元の通りとなった。
新羅への対応に追われる間、今度はモンゴルにいた東突厥が唐を圧迫し始めたため、その後、唐は東方への軍事行動を控えるようになる。
681年に草壁皇子は「皇太子」になったとされる。しかし、18歳という若年で政治経験も不十分な草壁皇子が世継ぎと定められるかは疑問であることや(成清弘和『女帝の古代史』)、律令制下において皇太子という、冠位を超越する立場にあるはずの草壁皇子が、浄広壱という官位を与えられている不自然さからも、当時皇太子制は未成立であったと考えられている(義江明子『女帝の古代王権史』)。
唐・新羅間の緊張が薄れたのを見て、天武天皇は政治改革を行った。
天武天皇は諸氏族の部曲を廃止することで豪族の「官僚化」を推進した(佐藤信 編『古代史講義』)。中小豪族に対しては、連を授けるなどして、豪族としてではなく、個人としての「官僚」候補者の数を広げようとした。そして、684年には真人(皇族出身氏族限定)・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置という八色の姓を定め、真人から忌寸までは五位を授かることができるとされた。上級官人となることのできる系統には宿禰姓が与えられ、同族でもそれ以外は連に留められるなど、家柄が分化した(佐藤信 編『古代史講義』)。
伊勢神宮を中心とした神祇制度も整えられ、大嘗会の制を確立するほかに、仏教を保護した。鸕野讃良皇女が病になったとき回復を願って建てられた薬師寺や大宮大寺の建立や、金光明経のなどを説く法会も行われた。
天武天皇は他にも陰陽寮を設置し、中国の陰陽五行説を発展させた陰陽道が教えられた。陰陽道に携わる者は陰陽師と呼ばれ、天文や方角を占い、暦を制作するなどした。
大忌祭・風神祭の創始や、新嘗祭を大嘗祭と称するようになるのも天武天皇の時代である。
新たな都「藤原京」の建設も計画され、元々あった難波宮を西国支配の要に、信濃国を東国支配の要にするという「副都制」の路線が決定した(佐藤信 編『古代史講義』宮都篇)。
この時代の建造物には、再建された法隆寺金堂および五重塔、中門・歩廊のほかに、後にアーネスト・フェロノサが「凍れる音楽」と称した薬師寺東塔がある。
薬師寺(手前が東塔)
仏像では、柔らかさを持った南陵様式の薬師寺金堂薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩像)・同寺東院堂聖観音像、興福寺仏頭がある。
白鳳期以降の仏像について、和辻哲郎は、「健やかに太れる嬰児の肉体においてのみ見られるあの清浄な豊満さを認め」ている(和辻哲郎『日本精神史研究』)。
絵画では、アジェンダー壁画の影響を受けた法隆寺金堂壁画、高塚古墳壁画がある。
法隆寺金堂壁画
高松塚古墳壁画
また、日本最古の貨幣である富本銭も鋳造されたが、あまり流通しなかった。
天武天皇は、藤原京の造営や国史編纂にも着手していたが、完成を見ないまま、朱鳥元(686年)年に崩御した。
同年には、蘇我安麻呂の子、蘇我石足が石川姓を与えられ、石川石足と改名した。
その後、大津皇子が、川嶋皇子の密告によって謀反の疑いがかかり、処刑された。
辞世歌
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(万葉集)
大津皇子の処刑は、鸕野讃良皇女が亡き同母姉の子という草壁皇子の継承に関する不安材料を取り除き、一人息子である草壁皇子の子孫に皇位を伝えるための足固めを行ったという説も根強い。しかし、草壁皇子は早世することになる。
689年、新羅より天武天皇の弔問使が派遣されたが、、鸕野讃良皇女は弔問使の位が低いことに対して不満を抱き、弔問品としてもたらされた仏像3体を返却した。この行為は、百済を併合した新羅に対する譴責であったと考えられる。ただ、新羅使とともに帰国した留学僧明聡・観智に、恩を受けた師に贈るよう大量の真綿を下賜するなど、新羅との関係が緊張しすぎないような配慮が見られる(河上麻由子『古代日中関係史』)。
690年、鸕野讃良皇女が即位した(持統天皇)。このこともまた推古天皇や皇極・斉明天皇と同様に先代の配偶者としての実績が評価されたからだと考えられる。また、高市皇子が太政大臣となっている。
同年、天武天皇の代より進められた律令制定の「律」と「令」の内「令」に当たる「飛鳥浄御原令」が頒布された。近江令に大幅な改訂を加えたものである。この令の編纂は、唐より帰国した留学生の協力があったものと考えられている(大津透『律令国家と隋唐文明』)。この時点においても、律は唐と同じものを使ったと考えられている。この令では冠位は諸王が十二階、諸臣が四十八階にまで拡大させた。
持統天皇の即位式は、浄御原令の規定に従い、中臣氏によって「天神寿詞(天皇の祖先神の言挙げ)」がなされ、忌部氏によって八咫鏡と草薙剣が奏上される形で行われている
また、班田収授のために、浄御原令の戸令に基づき、新たな戸籍『庚寅年籍』も作成され、6年ごとに戸籍を作成することになった。この戸籍には「良民」と「賤民」という身分の明確化の意味合いがあった(大津透『律令国家と隋唐文明』)。また国・評(郡)・里・戸の制が成立し、土地の単位が確定した。
飛鳥浄御原における「律」は体系化されていなかったため、唐の律を準用していたと考えられる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。また、「五罪」「八虐」「六議」といった律の根本規定は浄御原律に制定されたと考えられる(吉田孝説)。
律が規定する刑罰は、軽いものから順に
笞(鞭で打つ)
杖(杖で打つ)
徒(強制的な労働)
流(島流し)
死(死刑)
の「五罪」であった。また、重大な犯罪として、
謀反(皇帝/天皇殺害および未遂・予備)・謀大逆(皇居・陵墓の破壊)
謀叛(国家への反乱・外敵を引き入れる・外国への亡命)
悪逆(尊属殺人・祖父母・父母・夫・夫の父母の殺害およびその計画・暴行)
不道(大量殺人・呪詛)
大不敬(皇帝/天皇・神社への不敬)
不孝(殺人を除く尊属への犯罪、祖父母・父母の告訴、父母の喪に服さない)
不義(主君の殺害、無礼)
の「八虐」が定められた。罪を減じられる資格としては、
議親(天皇・皇后の親族)
議故(天皇より特別の待遇で扱われている者)
議賢(賢く、徳のある行いをした者)
議能(優れた才能がある者)
議功(大きな功績を持つ者)
議貴(官位が三位以上の者)
の「六議」があった。
律令制においては公地公民制が基本とされ、班田は開墾者の死により戸籍の調査の際に国に返還されることとなった。
694年には飛鳥の藤原京に遷都している。碁盤の目状に区切られた初の本格的な都城である。ただ、宮は中心にあり北側にも都市が広がっているために、「天子は北方に座して南方に面する」という「天子南面」を反映していなかった。
藤原京復元模型
同年、山階寺は都に移され厩坂寺と改名した。そして、696年、高市皇子の薨去後、群臣によって、持統天皇の後継者を誰にするかが議論された。天智・天武両天皇の孫にあたる葛野王は、皇位を兄弟で継ぐならば戦乱が起こると主張した。そして彼の「皇位は直系で継承されるべき」との意見が採用された(『懐風藻』)。時に14歳の珂瑠皇子が皇位継承者となった。
697年、持統天皇は即位宣命により孫の珂瑠皇子に譲位(文武天皇)し、歴代天皇で始めて「太上天皇(略して上皇)」を名乗った。持統上皇は孫文武天皇と並び坐す同等の立場として「共治」をおこなった。宣命により即位が正当なものであることを天皇の言葉伝えることで、政務経験の浅い若い皇子の即位を群臣を納得させた(義江明子『女帝の古代王権史』)。群臣に奉戴された実力者が即位するという方式から、先帝の意向により次代の天皇が選ばれるという方式に、着実に変容していった。
文武天皇の妻には、不比等の娘宮子が立てられた。皇后が立ったとの記録はない。『続日本紀』には宮子を「夫人」紀氏と石川氏の娘を「嬪」と記しているが、実際にはまだ妃・夫人・嬪という序列はなく、同等の地位であったと思われる(義江明子『女帝の古代王権史』)。
698年、藤原京にて、文武天皇は外国使節の拝賀を受ける。ここにおいて君主が使節の前に姿を見せる形での、中国式の儀礼が日本において成立する。
同年、藤原不比等とその子孫以外の、中臣氏出身の人物が藤原姓を名乗ることが禁じられ、藤原氏が政治、中臣氏が以前と同様に神事を司ることとなった。
不比等は蘇我安麻呂の娘、娼子(媼子)と婚姻、間には武智麻呂・房前・馬養(後に宇合)が産まれている。かつての大臣家である蘇我氏の女性との婚姻により、新興氏族ながらも、藤原氏がその尊貴性と地位を継承していることを示した(倉本一宏『蘇我氏』)。他にも、未亡人となった異母妹五百重娘との間に四男の麻呂、賀茂比売との間に宮子を儲けた。
ほかに、美努王の元妻県養三千代を妻に迎え、間に安宿媛・多比能を儲けた。
持統上皇・刑部皇子・不比等の下で、大宝元(701)年に大宝律令が完成した。これによって倭国で「律」と「令」が揃った。このときに日本という国号、天皇という君主号、天皇の後継者の皇太子号、皇子女の親王・内親王号、天皇の祖母の大皇太后号、天皇の母の皇太后号、が明文化された(親王・内親王ではない皇族は王と女王である)。
律令は儒教的男性優位の思想があり、財産相続に関しては父系継承を規定した。親王は皇族・臣下のどちらも娶ることができたが、内親王は配偶者を皇族に限定された。ただ、律令導入以前の父系・母系同格の名残りがあり、大宝律令の注釈「古記」には、女性天皇の子や兄弟姉妹も男性天皇と同様に親王/内親王として扱うことが規定された(仁藤敦史『女帝の世紀』)(渡辺育子『元明天皇・元正天皇』)(佐伯智広『皇位継承の中世史』)。
律(刑罰)には、苔(鞭で打つ)・杖(杖で打つ)・徒(懲役)・流(島流し)・死(死罪)の五刑が定められた。
律令の政治機関は、中央に神祇祭祀を束ねる神祇官と、行政を束ねる太政官が設置された。 太政大臣(常設ではない太政官の最高首脳)を中心に、左大臣・右大臣・大納言らの公卿(後にそれに加え中納言・参議)の合議の結果を天皇が裁可することで国政が運営された。
公卿の下位には中務省・式部省・治部省・民部省を総括する右弁官、宮中の事務を行う少納言が置かれた。
また、官吏を監察する弾正台、軍事組織の衛門府が置かれた。
地方は大和・山背・河内・摂津を畿内、東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道・西海道を七道と定めた。 都には左京・右京職を置き、摂津には摂津職、西海道には外交と国防の要地として大宰府が置かれた。
太政官の命令を地方に伝達し、地方から中央に税が届けることのできるよう、地方統制のための国府や郡家を整えた。
郡家には祓のための祭司施設や氏寺のほかに、駅家が付随することがあった。郡家の伝馬を通して地方を結ぶ官道「伝路」の交通を担っていた。
中央からは国司が国ごとに派遣され、地方豪族などが任じられる郡司を介して地方を統治した。郡司は10年ほどで交代していた。
諸官庁には長官(かみ/伯/卿/大夫/督/守)、次官(すけ/副/輔/助/亮/佐/介)、判官(じょう/祐/丞/允/進/尉/掾)、主典(さかん/史/寮/属/志/目)の四等官が定められた。ただ、親王任国と呼ばれた常陸・上総・上野の三国は、「守」を名乗ることが出来るのは親王のみであり、次官に用いられる「介」が他国の「守」と同格とされた。合わせて「三介」と呼ばれる。「すけ」や「じょう」などは、後の時代には、人々が任じられなくとも名乗るようになった。また、通称として用いるようにもなり、庶民の本名にもなった。
部と屯倉は廃止され、豪族によって世襲の仕事がなされることもなくなった。
官人は出自によって位階を授けられ、それに応じた官職が与えられた(官位相当の制)。
位階は親王・内親王が一品(正一位・従一位)から四品(正四位上・正四位下)、王・女王は正一位から従五位下まで、臣下は正一位から少初位までと定められていた。 三位以上(貴)の者の子と孫、五位以上(貴族/通貴)の者の子には一定の位階が将来授与されることが確定していた(蔭位の制)。これらの官位は毎年の「勤務評定(考)」の評価次第で上昇した。
また、人民の戸籍への登録と、公地・公民制も明文化されることとなった。戸籍は6年ごとに更新され、課役や身元を把握し、計帳によって人数の推移を把握した。
人々は良民と賤民(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)に分けられた。
良民は男女ともに、6歳になると男子が2反、女子はその3分の2、奴婢は良民の3分の1を与えられた。そして、次の班田の年に死者の田を国に返還するという班田収授法が定められた。
また、租・庸・調・雑徭・兵士役の義務があり、公出挙といって、春に租稲の一部を貸付け、5割の利息をつけて返させたこともあった。
僧尼はそれらの税を免除された。しかし、その特権を得るために出家する者(私度僧)が増えて国家の負担となったため、出家には官の認可(官度)を受けることを義務づけた。また、僧尼令により活動は統制され、民間布教は取り締まられた(末木文美士『日本仏教史』)。
租を収める義務のある輸租田には位田・功田・賜田、義務のない不輸租田には寺田・神田・職田があった。
備荒貯蓄として義倉が収められたほかに、調や庸は納税者の中から運客が選ばれ、都まで運ぶ義務を負った。
雑徭の中には仕丁と雇役、兵役には衛士として宮城や京内の警備を行うものや、大宰府を防人として警護するのいうものがあった。
701年正月、大宝律令の完成・発布を終えた区切りで、第7回遣唐使が派遣された。この年の3月、大宝律令選定の功績により正三位大納言となった。
「遣"唐"使」とはいえ、このときの皇帝は、中国王朝唯一の女帝、武曌(則天武后/武則天)であり、国号を「周」と改めていた。
第7回遣唐使は、武曌に対して倭国の国号を「日本」に変更することを求め、許可されている。ただ、周側は倭国の国号変更明確に理解をしておらず、『旧唐書』には「倭国伝」と「日本伝」の2つがあり、別の国家だと思われていたようである(『新唐書』では「日本伝」1つとなり誤りが訂正された)。『旧唐書』は「倭」と「日本」の関係について、3つの説を挙げている。1つは倭国が国号が「雅ならざるを悪み」「日本」と変えたというものである。2つ目は、日本とは倭国の別名であり、日辺(日の登る所=極東)を意味するというものである。百済祢軍(百済滅亡の際唐側についた百済人の軍)の墓誌には百済のことを「日本」と表記しており、それは極東を意味する言葉である。つまり、倭国は「日本」という国号にすることで、周/唐を中心とする世界観において、極東からその秩序に参加することを示すものである、との説もある(河上麻由子『古代日中関係史』)。3つ目に『旧唐書』が挙げるのは、元々小国の日本という国が倭国の土地を併合したというものである。
遣唐使は武曌より歓待を受け、武曌の即位を正当化する経典『宝雨経』や、「四騎獅子狩文錦」が贈られた。「四騎獅子狩文錦」は法隆寺に伝来した。
後に武曌は退位させられ、かつて廃位された子の李顕が再び皇帝となり(中宗)、国号も唐に戻る。
大宝2(702)年、持統上皇は崩御し、天皇としては初めて火葬された。このことは、仏教や薄葬令が影響していると思われる。遺骨は天武天皇と同じ陵墓(野口王古墳)に葬られた。
大宝4(704)年 、粟田真人の帰国後、藤原京の造営は途中で打ち切られる。これは真人が藤原京では「中華」の都として藤原京では不十分であることを報告したからであると推測される(佐藤信 編『古代史講義』宮都篇)。
慶雲4(707)年には文武天皇は、自身の母阿閉皇女を次期天皇とする遺詔を発した後に崩御した。
その遺詔の通りに阿閉皇女は即位した(元明天皇)。このこともまた、先帝の遺詔が即位の正当性の根拠となった例である(渡辺育子『元明天皇・元正天皇』)。元明天皇の大嘗祭の後、県犬養三千代は、忠誠の証としての橘を浮かべた杯と共に、橘宿禰の姓を与えられた。
元明天皇即位宣命は、「文武天皇が草壁『皇太子』の嫡子であること」と「天智天皇が定めた『不改常典』に従い即位した」正統な継承者である文武天皇が、元明天皇に譲ったとすることで、 元明天皇の即位が正当であると説明した。若年で崩御した文武天皇による継承者の指名を群臣に承服させるために、天智天皇を権威付けとして持ち出し、草壁皇子が皇太子だったことにして、以前から草壁皇子から文武天皇という継承が規定路線であったように装わせ、直系の血統による継承への転換が試みられたものと考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。
日本の律令は継嗣令に女帝の子も男帝の子と同様に親王(内親王)として扱うことが定められていた。そのため、故人の文武天皇を除く2人の娘氷高・吉備は、父草壁皇子は天皇にならなかったものの、母が天皇になったことで内親王身分となった。
皇太子には文武天皇と宮子の皇子、首親王が立てられた。首親王の妻には不比等の娘安宿媛が迎えられた。両者は甥と叔母の関係ではあったが、同年の産まれである。
慶雲5(708)年には武蔵の秩父より、還元の必要のない銅(和銅)が献上されたことで、和銅に改元され、和同開珎が発行された。しかし、富本銭と同様に流通は滞った。同年、藤原不比等は右大臣に進み、後に左大臣に昇る。
和同開珎
和銅4(711)年、一定数の銭を蓄えた者に位階を授けるという蓄銭叙位令が出されたが、人々は銭を貯めるだけ貯めこんで、更に流通は滞った。
また、出羽には秋田城、日向には多賀城を築いて防衛力を高め、朝廷に反抗していた東北の蝦夷や九州の隼人に帰属を求めた。
和銅3(710)年には藤原京から平城京へと遷都している。この際、藤原不比等は厩坂寺を平城京の左京に移し、名称を興福寺とした。興福寺は藤原氏の氏寺として、藤原氏に強い影響を持つことになる。平城京造営の際には秋篠川の流路を物流のために付け替えるなどされた。
平城京復元模型
大極殿復元
朱雀門復元
平城京の北端には平城宮が位置し、天皇の住居である「内裏」儀式のための施設である「朝堂院」、役人の仕事場「外朝」などにより構成されていた。東院(東宮)には皇太子である首親王の住まいとなった。
住まいの名称が住む者自身を指す風習から、「内裏」と「東宮」は、それぞれ天皇と皇太子の別称としても用いられるようになる。
和銅6(713)年には太安万侶と稗田阿礼による現存最古の歴史書、古事記が完成した。古事記には、天皇の祖先イザナキ・イザナミ夫妻による国づくりなどの神話から、推古天皇に至るまでを記している。だが、朝廷側に屈服した出雲などの記述の多さから、太安万侶が書いたと伝える序文を偽書とする説もある(三浦祐之説)。同年、地方の風土や歴史を記した『風土記』も編纂が命じられた(現存する完本は出雲国風土記のみである)。現存する『風土記』の断片の一部には、各地で朝廷に対して反抗し、後に屈服するか滅ばされた首長を「土蜘蛛」という名で記している。
和銅8(715)年、元明天皇は自身の娘で文武天皇の姉にあたる氷高内親王に譲位した(元正天皇)。
元正天皇は生涯を独身で過ごした。その理由について、仮に元正天皇が皇子女を儲ければ、その子女たちにも皇位継承権が生じるため、草壁皇子の子孫による嫡系継承の障害とならないよう不婚を貫く必要があったという説がある(成清弘和『女帝の古代史』)。ただ、「草壁皇子嫡系という概念が確立していなかった」という観点からは、宮廷に使える女性が生涯独身であることも多く、そのような生き方を元正天皇が受容できない環境ではなかったという説が出されている(渡辺育子『元明天皇・元正天皇』)。また、元正天皇が文武天皇の「皇后格」であったがために、配偶者を持つことをはばかったとの見解もある(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
養老元(717)年からは不比等を中心として養老律令の編纂が始まった。同年、首親王は側室の県犬養広刀自との間に、井上内親王を儲けた。県犬養広刀自は県犬養橘三千代の同族である。
またこの年にも遣唐使(第8回)が派遣された。そのときの押使は多治比県守・大使は阿部安麻呂(後に大伴山守に変更)・副使は藤原不比等の三男馬養(後に漢字を宇合)であった。
この遣唐使に同行して、吉備真備・阿倍仲麻呂・僧の玄昉が入唐した。第8回遣唐使は、皇帝より賜った品を売って書籍を購入したと『旧唐書』にはある。
養老2(718)年、式部卿であった長屋王は大納言へと出世した。この出世は、藤原不比等の次女長俄子を妻の1人に迎え、間に黄文王・安宿王・山背王などを儲けたことが理由であると考えられる(倉本一宏『藤原氏』)。同年、首親王と安宿媛の間に娘の阿倍女王が産まれた。
同年、遣唐使が帰国。吉備真備は礼典「唐歴」・暦法「太衍暦経」「太衍暦立成」・奏楽の書物、測量器具、楽器、音楽理論書「楽書要録」、「銅律管(音響調律用の管)」、武器、玄昉は経巻50巻などをもたらした。「唐歴」は皇帝の命令により編纂された儀礼書、「太衍暦経」は当時最新の暦であり、立成とはその解説書である。それとともに入唐していた僧道慈が当時の日本において僧に戒を授ける戒師がいないことを問題視したことで、後に戒師として鑑真を招こうという方針が決まることになった。
長屋王は元明天皇の姉御名部皇女を母としていたことで、父武市皇子と違い生母の身分が高かったのみならず、元明天皇の皇女吉備内親王も妻としていた。間に生まれた膳夫王・葛木王・鉤取王は、父方から数えて三世王(天武天皇の曾孫)であったが、母方の系統から二世王(元明天皇の孫)として扱われた。吉備内親王は即位したわけではなかったが、その子息の待遇は元明上皇の娘と同様に継嗣令の女帝の子の身分の規定に寄るものだと考えられる(成清弘和『女帝の古代史』)。
長屋王が大納言となる同年、首親王と安宿媛は阿部内親王を儲けた。
養老4(720)年には舎人親王らによる正史、『日本書紀』が完成した。神代から持統天皇までが記録されたが、大国主などの出雲神話が語られないなど、細部の内容が『古事記』と異なる。『古事記』と『日本書紀』はともに、編年体であり、中国王朝の正史が紀伝体であることと趣を異にする。
また、長屋王の主導により、農民に食料と農具を与えて10日間開墾作業を行わせ、3000石以上の収穫をあげた者に勲六等を与えるという百万町歩開墾計画が出されたが、当時の日本の耕地面積よりも開墾しなければならない非現実的な計画であり、頓挫した。翌養老7(723)年、三世一身法が出され、開墾した田畑がその後3代まで私有することが認められた。また、元明天皇の治世下では、和同開珎銅銭が法定価値以下で流通していることを追認、朝廷が銀地金と和同開珎銀銭の使用を解禁し、和同開珎銅銭の価値を低下させた。
神亀元(724)年、元正天皇は、皇太子で甥(文武天皇と宮子の皇子)の首親王に譲位した(聖武天皇)。
聖武天皇即位宣命は、文武天皇は聖武天皇に皇位を伝えることを構想していたが、若年だったために元明天皇・元正天皇が、聖武天皇が成長するまで代わりに即位していたと述べている。これもまた、元正天皇即位の際と同様に「草壁皇子-文武天皇-聖武天皇 」という父系嫡子継承の規定路線があり、女性天皇は中継ぎであったことにして、即位の正当性を訴えたものであると考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。
また、宣命では元正上皇が聖武天皇を「ワガコ(=吾が児/朕が子 など)」と呼んでおり、故文武天皇の皇后格として、擬制的な息子として首親王にいずれ皇位を継承させることを宣言した。(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
聖武天皇は、母宮子の称号を「大夫人」とする勅を出したが、長屋王はそれに反対する奏上を行った。これは、令には皇太夫人という称号はあっても大夫人という称号はなく、令と勅が矛盾するからである。結果として聖武天皇は勅を撤回、文章では皇太夫人、口頭では「大御祖」と呼ぶとの詔を出したことで決着した。この件は、「皇祖母(スメミオヤ)」である元正上皇に遠慮し、生母宮子に「皇」を用いた称号を贈ることを憚かったことも理由の一つとされる(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
天皇が律令に従い勅を撤回したという点で、律令を超越する存在であった中国の皇帝とは性格が異なる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。
神亀4(727)年、靺鞨と高句麗の移民が建国した渤海が、日本に使者を派遣した。その後、日本と渤海は互いに使者を派遣するようになる。
同年、聖武天皇と安宿媛との間に基親王(基は某の誤記か)が産まれ、生後32日で皇太子となった。
翌神亀5(728)年県犬養広刀自が安積親王を産んだ。また、基親王が同年に薨去した。
神亀6(729)年、基親王の夭折は長屋王による呪詛が原因であるとの噂が立ち、藤原麻呂に長屋王謀反の密告があったとされ、藤原宇合が邸宅を包囲、武智麻呂が糾問に赴いた。長屋王は妻の吉備内親王と、その間に産まれていた膳夫王・鉤取王・葛木王・桑田王とともに自害し(桑田王は石川夫人との間の子であるとも)、その後安宿媛は皇后となった(光明皇后)。
内親王がなる皇后の地位に、臣下の藤原氏出身の安宿媛がなることは、かつて仁徳天皇の「皇后」に葛城氏の磐之媛が立ったこと(『日本書紀』の記述による)を先例として持ち出すなどした。ただ、この際の最も立后において重要視されたのは、皇太子の生母であり、最有力のキサキだったということである(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
その後、長屋王と長俄子の間の子(安宿王・黄文王・山背王)をはじめとした長屋王の子孫や弟の鈴鹿王などのほとんどの子孫は赦免された。この一件は、吉備内親王を妻として、皇統に近しい脅威的存在となった長屋王の排除のための策謀であり、聖武天皇と藤原四兄弟の利害が一致していたための行動であるとも考えられている。
その後、長屋王の家系は皇位継承からは遠のいてゆく。後に長屋王・鈴鹿王の子孫の多くは高階姓を与えられ、臣籍降下する。
藤原四兄弟の子孫はそれぞれ南家・北家・式家・京家と呼ばれることとなる。武智麻呂は変後すぐに大納言となった。天平2(730)年に武智麻呂と並んで大納言であった多治比池守が、翌年に後任の大伴旅人が死去、議政官が不足したため、藤原宇合・麻呂兄弟・鈴鹿王・多治比県守・葛城王・大伴道足という6人が参議となり、四兄弟による新政権が完成した。
藤原四兄弟が政権を担っている期間には、郡稲などの雑稲が正税に編入され、国衙財政が確立。律令国家が完成に向かった(佐藤信 編『古代史講義』宮都篇)。
しかし天平4(732)年には旱魃、天然痘が流行するなど、天運に恵まれなかった。
同年の記録には、聖武天皇が、中国の皇帝が着る冕服を着用したとある(『続日本紀』)。形状などは不明であるが、儒教的な権威も用いて新たな天皇像の創出を意図したと考えられる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。
冕服と冕冠(孝明天皇のもの)
天平5(733)年1月11日、県犬養橘三千代が死去し、追善のために、翌年光明皇后によって興福寺に西金堂が建立された。興福寺の阿修羅像(乾湿像)をはじめとする八部衆像は西金堂に安置されていた。
興福寺阿修羅像
三千代が前夫美努王(敏達天皇後裔)との間に儲けていた葛城王・佐為王兄弟は、母の姓を継ぐことを願い出て認められ、橘諸兄・橘佐為として臣籍降下する。諸兄は、不比等と三千代の儲けた娘多比能、つまりは異父妹を妻として間に子息奈良麻呂を儲けた。諸兄の同母妹牟漏女王は藤原房前の妻となり永手・八束(後に真楯)・御楯などを儲けた。
同年4月、第9回遣唐使が出航した。第9回は優れた技能を持つ外国人を日本に招くという任務を帯びており、唐人袁晋卿・皇甫東朝・道璿・インド出身のブラーフマナ(婆羅門)僧ボーディセーナ(菩提遷那)・ベトナム僧仏徹・ペルシャ人李密翳が、遣唐使に招かれて来日した。ただ、道士を呼ぶことはしなかったように、道教を持ち込むことには消極的であった。老子李耳を祖先に位置づける唐帝室の祖先崇拝を日本に持ち込まないようにしたのだと考えられる(河上麻由子『 古代日中関係史』)。
天平7(735)年、新羅が日本に無断で国名を「王城国」に変更したこと反発して、日本は新羅使を追い返した。すると新羅も報復として日本からの使節の入国を拒むといった事態が発生、両国の緊張関係が高まったが、そのような中で兵士制の解体が進んでいた。藤原四兄弟の政権下では、新羅に対して「糾問使を派遣する」「征討軍を派遣する」といった強硬意見を唱える諸司が多数となった。(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
天平8(736)年に玄宗李隆基が聖武天皇に送った国書からは、日本は天皇を表す言葉として「主明楽美御徳(スメラミコト)」を用いており、「皇」を対外的に使用していなかったことが理解できる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。
天平9(737)年、四兄弟は相次いで天然痘で死去、その後も天然痘が猛威をふるった。四位以上の高官33人のうち3分の1が亡くなり、民衆も多く亡くなったと思われる。
天平10(738)年、阿倍内親王が女性皇族として初の皇太子となる(律令制下では2人目の皇太子である)。聖武天皇の皇女の中で、井上内親王は志貴皇子の子息白壁王と結婚し、間に酒人女王・他戸王を儲ける。井上内親王の同母妹不破内親王は、新田部親王の子息塩焼王と結婚した。
その後、鈴鹿王を知太政官事、光明皇后の異父兄で不比等の娘婿の橘諸兄を大納言、多治比広成を中納言、藤原武智麻呂の長男豊成を参議とした政権が発足した。藤原房前の長男鳥養は早世したと思われる。房前が牟漏女王との間に儲けた次男永手が北家の長になるが、伯父である諸兄から疎まれたのか、しばらくは従五位下に留まった。豊成の弟乙麻呂も従五位下になった(倉本一宏『藤原氏』)。
諸兄政権下では、それまでと変わって、新羅へ強硬路線が反主流派となった。藤原豊成も同様に反新羅政策には与しなかった。
天然痘の流行により官人が減り、官人の質を担保する必要に迫られたため、五位以上の貴族の子孫と六位から八位までの官人の子息に大学寮での修学が義務づけられた。これにより算術が重視されるようになったと考えられる。算術を得意とした、豊成の同母弟仲麻呂が評価されやすい環境が形成された(仁藤敦史『藤原仲麻呂』)。
人口の減少を受けて、郡司の定員を減らして郷里制・房戸制を廃止して、地方行政を簡素なものにしたほか、防人・健児などの兵役を停止、私出挙稲を禁じるなどして民の負担を減らして復興を図った(西山良平・勝山清次 編著『日本の歴史 古代・中世編』)。
諸兄は唐より帰還した玄昉や吉備真備を登用したが、宇合の長男藤原広嗣は反発した。広嗣は、災害は悪政が原因であるとして、天平12(740)年9月、玄昉と真備の解任を求めて反乱を起こした。対新羅強硬派で従兄弟の豊成と対立していたことも理由と考えられる(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
朝廷は、蝦夷との戦いで功績のあった大野東人を大将軍として追討した。追討軍が広嗣を誅殺すれば報酬があるとの勅符を配布、広嗣との言葉の応酬の末に退かせるなどすると、広嗣の味方が次々と離反し、鎮圧された。広嗣は弟の綱手・清成・菅成らとともに処刑された。広嗣のすぐ下の弟、宿奈麻呂は乱に関与しておらず、連座して伊豆に流されたものの、2年後に赦免された。
天平12(740)年10月、聖武天皇は東国へ行幸、その後、かつて天武天皇が壬申の乱の際に通ったルートをなぞりながら恭仁京に赴き、遷都した。
天平14(742)年、聖武天皇は紫香楽宮に赴くことが増える。同年、塩焼王は流罪となる。とれに伴い妻の不破内親王は父聖武天皇から内親王号を剥奪された。これは不破内親王が異母姉阿倍内親王を呪詛したことが理由だと考える説もある(勝浦令子『孝謙・称徳天皇』)。後に塩焼王・不破夫妻は赦され皇籍に戻っている。
そのころ、聖武天皇は紫香楽宮で大仏を造立することを願っていたが、それに同意していた藤原仲麻呂と、造立に消極的な橘諸兄との間には溝ができはじめていた。
天平15(743)年、口分田の不足と人口の減少による荒廃した土地の再開発の必要性、および輸租田の増加による増収を狙って、墾田永年私財法が発布され、墾田は開墾者の子孫による永久的な所有が認められた。しかし、墾田の私有には太政官と民部省の許可が必要であった。墾田永年私財法の発布を契機として作られた荘園を初期荘園と呼び、多くの荘園が設けられた。国司に命じて開発、皇室に献上された荘園を勅旨田、臣下に与えられた勅旨田を賜田と呼ぶ。
天平15(743)年10月15日、紫香楽宮において、聖武天皇は大仏建立の詔を発した。聖武天皇が平城京を離れて以降、藤原豊成は平城京に留守として留められたが、豊成の同母弟仲麻呂は聖武天皇・光明皇后夫妻に同行したことで地位を高めることとなった(倉本一宏『藤原氏』)。大仏建立の位置もまた、平城京に変更された。
天平16(744)年正月、聖武天皇は百官と市人に恭仁と難波のどちらを都とすべきかを問い、恭仁にすべきという意見が多数となったが、聖武天皇は難波宮への遷都を断行。天皇の命令発行に必要な駅鈴などを取り寄せ、元正上皇と橘諸兄によって難波宮を「皇都」とすることが宣言された(佐藤信 篇『古代史講義』宮都篇)。
唐が国際都市となったことで、唐はインド・ペルシア・アラブ・東南アジアとの交易が活発になり、日本にも平螺鈿背鏡・白瑠璃碗・紺瑠璃杯・銀薫炉・緑地狩猟文錦・漆胡瓶・螺鈿紫檀五弦琵琶などがシルクロードよりもたらされた。平螺鈿背鏡は、様々な地域からもたらされた琥珀(唐産)・夜光貝(南海産)・ラピスラズリ(アフガニスタン産)・トルコ石(ペルシャ産)などで装飾されており、それらの素材が唐に集まっていたことを象徴するものである(佐藤信 編『古代史講義』)。
平螺鈿背鏡
銀薫炉
正倉院には、鳥毛立女屏風第や羊木臈纈屏風などの、舶来品を模倣した作品も収められている。遣唐使に加わってガラス細工や木工を学んだ人々も、唐製品の模倣物を作ることに貢献したと推測されている(佐藤信 編『古代史講義』)。
鳥毛立女屏風第
羊木臈纈屏風
唐をはじめとした外国との交流は、天然痘流行の1つの要因と考えられる(酒井シズ『病が語る日本史』)。このような疫病の流行は、長屋王などの政争に敗れた者の祟りとされ、仏教によって国を治める鎮護国家思想が生まれた。
天平13(741)年の国分寺・国分尼寺建立の勅や、天平15(743)年の毘盧遮那仏建立の勅の発布にも鎮護国家思想を見ることができる。
律令で定められたように、僧尼は国家の安寧を祈るための存在であり、私度僧は取り締まられたが、山岳修行を行い修験道の祖とされた役行者、異形の体と智力に富んだ女性猴聖などの、民間の仏教者が活躍していた(末木文美士『日本仏教史』)。
道昭の弟子で、民間に布教をしたほか、支持者を動員した道路の整備や狭山池の改修を行っていた行基は、その行動を咎められたが、後に朝廷は行基に接近。毘盧遮那仏は、民衆の支持を集めていた行基を責任者として、民衆の労働により建立が進められた。
東大寺を中心に国分寺・国分尼寺が配されたほか、光明皇后によって施薬院が興福寺に設けられ、病人を療養させた。
天平17(745)年4月、紫香楽宮近くで不審火(放火か)が発生するなど、聖武天皇の政治に対する不満の噴出とも想われる事態が発生。美濃国を震源とする地震もあって四大寺の僧全員が平城京への遷都すべきと主張した。同年5月には、天子の不徳と考えられていた地震が12回もあり、批判を避けられず、聖武天皇は都を平城京に戻した(佐藤信 編『古代史講義』宮都篇)。
同年9月4日、鈴鹿王が薨去。これにより藤原氏派と反藤原氏派の対立が顕在化した。後に仲麻呂は、生前鈴鹿王が担当していた式部省長官長官の地位を継承し、文官の人事を掌握した(仁藤敦史『藤原仲麻呂』)。
天平20(748)年、元正上皇が崩御した。元正上皇を後ろ盾としていた橘諸兄は発言力を後退させた(佐藤信 編『古代史講義 氏族篇』)。玄昉が失脚しほどなくして死去したことや、吉備真備も春宮大夫を解任、代わりに石川年足が春宮員外亮(春宮を補佐する定員外の次官)に任じられ、仲麻呂派の勢力が拡大していった(仁藤敦史『藤原仲麻呂』)。
749年に金が出現したことを、君主の政が正しい証でありめでたいことであるとして、天平感宝に改元された。日本初の4文字の元号である。その喜びを分かち合うとして官人に叙位が行われた。
その際、女官も男性官僚と同じように仕えることが道理であるとして、女官にも大いに叙位がなされた。女性皇太子である阿倍内親王の即位に寄せての叙位だと考えられる(仁藤敦史『藤原仲麻呂』)。
天平勝宝元(749)年、聖武天皇は阿倍内親王に譲位した(孝謙天皇)。聖武天皇自身は史上2人目(男性として初)の太上天皇となり、出家後には沙弥勝満と号した。同年に東大寺において毘盧遮那仏の鋳造が完了した。また、寺院墾田許可令が出され、寺院による墾田の私有が赦された。
天平勝宝3(751)年には、現存する最古の漢詩集である『懐風藻』が編まれた。葛野王の孫、淡海三船の編と考えられる。三船は初代天皇とされる神武天皇から元正天皇までの歴代天皇に漢風諡号を贈っている。
『懐風藻』について、三島由紀夫は「或る外来の観念を借りなければどうしても表現できなくなったもろもろのものの堆積を、日本文化自体が自覚しはじめたということにおいて重要で」あり、「一種のダンディズム」と評している(三島由紀夫『日本文学小史』)。
天平勝宝4(752)年4月9日、毘盧遮那仏の鍍金が終わらない内に、インドの僧侶ボーディセーナ(菩提遷那)を開眼導師として開眼供養が行われた。ボーディセーナの持つ筆には糸が繋がれ、その糸は聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめとした多くの人々に握られた。そして、既に故人となっていた行基には大僧正の位が贈られた。
東大寺盧舎那仏像(現存部分は一部)
同年、長親王の2人の皇子が臣籍降下、文室浄三と文室大市となった。このことは、流血さえ起こる皇位継承争いから先に身を引くためと考えられる。
これまた同年、藤原房前の子清河を大使、吉備真備と大伴古麻呂を副使として、第10回遣唐使が派遣された。朝貢の座において、古麻呂は東の朝貢国の最上位の位置に日本の使節が座るべきと主張し、新羅の使節と席順を争った。結果的には古麻呂の主張が認められた。
藤原清河が、皇帝玄宗李隆基に唐僧鑑真を日本に招く許可を求めると、李隆基は鑑真の許可に加え道士の派遣を提案した。しかし日本が道教の受け入れに消極的なことが露呈してしまうことは外交上大いに問題となるため、どちらの来日許可申請も取り下げた(河上麻由子『古代日中関係史』)。
清河は鑑真を密航させようとするが、事前に唐に察知されたため、下船させた。
天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に 出でし月かも
玄宗李隆基からの許可も降り、この歌を詠んで帰国の船を待った阿倍仲麻呂であったが、船が遭難したことにより叶わなかった。彼は藤原清河とともに唐に仕えて生涯を終えた。
5度の失敗を経て、視力を失いながらも、鑑真は伝戒師(仏教の戒律を授ける者)として来日、大方広仏華厳経・大品般若経・大集経・涅槃経などをもたらした。
鑑真は、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇に菩薩戒を授けている。
この際用いられた経典は、儒教的な「孝」を説くがために、儀経(パーリ語・サンスクリットから訳したものでなく、漢語がオリジナルの仏典)と考えられる『梵網経』である。『梵網経』によれば、王が菩薩戒を受けることで、仏教の加護を受けられるとある(河上麻由子『古代日中関係史』)。
鑑真が伝えた律宗のほかには、「空」の思想を説く三論(中論・十二論・百論)を研究する三論宗、その付宗として「成実論」を学ぶ成実宗、「成唯識論」を学ぶ法相宗、その付宗としてヴァスバンドゥ(世親)の「俱舍論」によりアビダルマ(ブッダの教えの真理の研究)を行う俱舍宗、大方広仏華厳経(華厳経)を経典とし、毘盧遮那仏を教主とする華厳宗の6つが、奈良仏教として主流となったほか、護国のために法華経・最勝王経・仁王経が重要視された。日本の神と仏は同一であるとする神仏習合の芽生えもこのころである。
仏像としては金銅像・塑像・乾漆像が発達し、東大寺日光・月光菩薩像、東大寺戒壇院四天王像・興福寺八部衆像といった乾漆像が伝わっている。鑑真渡来の際に工人も来日した可能性もある。
天平勝宝8(756)年、橘諸兄は老齢を理由に官を辞した。同年、聖武上皇は道祖王(天武天皇の孫、母は藤原鎌足の娘)を皇太子とすることと、「王を奴と成すとも、奴を王といふとも、汝の為むまにまに("王"を"奴"にすることも、"奴"を"王"にすることも孝謙天皇の意のままにしてよい)」「(聖武上皇が立てた皇太子を別の者に変えるのも自由にしてよい」と遺言として崩御した。これは、皇族に限って皇太子位の廃立の自由を委ねたと解釈されている(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
道祖王は藤原鎌足の娘五百重娘を祖母に持つ皇族であり、先帝と同様に藤原氏との血縁があることを理由に選ばれたと考えられる。また、孝謙天皇が皇后格となり、道祖王を配偶者として皇位を伝えることを構想していたとも推測される。しかし、道祖王の立太子は仲麻呂からも橘奈良麻呂からも望まれていなかった(仁藤敦史『女帝の世紀』『藤原仲麻呂』)。
諸兄の引退後は、仲麻呂が更に勢力を拡大する。仲麻呂の長男真従は早世したが、その妻粟田諸姉は舎人親王の子息大炊王に嫁がせた。大炊王は仲麻呂の邸宅に住み、親しくなっていた。
仲麻呂が娶った、叔父房前の娘袁比良は、機密文書を扱う内侍司になった可能性が指摘されている(仁藤敦史『藤原仲麻呂』)。有力貴族の妻は、そのような職につく例が多かった。
天平勝宝9(757)年、道祖王は喪中の行動を問題視されて、「聖武上皇が立てた皇太子を別の者に変えるのも自由にしてよい」という聖武天皇の遺詔を根拠として孝謙天皇により皇太子位を廃された。遺詔によって皇太子指名の権限が孝謙天皇に委ねられていたことで、廃太子の決定は群臣に受け入れられた。
そして代わりの皇太子選出が議論された。藤原豊成と藤原永手は道祖王の兄塩焼王を、文屋珍努(後に浄三)と大伴古麻呂は舎人親王の子息池田王を推薦した。仲麻呂は孝謙天皇の意向に従うことを表明した。孝謙天皇は、今回不適格として廃太子した道祖王の系統である舎人親王の子息を忌避、塩焼王は除外され、舎人親王の子息から選ぶことになった。その内、池田王は素行を問題視され、船王は男女関係の乱れを理由に除外。大炊王が皇太子となる。道祖王の廃太子と大炊王の立太子という一連の流れは、光明皇太后と仲麻呂の意向を含んだものであったと考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。同年には養老律令も発布されている。
この年には橘諸兄が死去したほか、貴人の諱(本名)を庶民が勝手に用いることを禁じる勅が出された。仲麻呂が中国の風習を導入したものである。
仲麻呂は大臣に準じる紫微内相に任じられ、石川石足の子、年足を重用した。年足の死後はその子息石川名足や弟石川豊成を取り立てている。しかし、橘諸兄の子、奈良麻呂は仲麻呂の台頭と藤原氏系の天皇の立て続けの即位に橘氏の危機を感じて、道祖王・安宿王・黄文王とともに謀議して仲麻呂の殺害と黄文王を新帝として擁立することを画策した。このことは、「草壁皇子嫡系」という後付けの権威による皇位の継承に対して、疑義のある臣下が未だ多くいたことを物語る(義江明子『女帝の古代王権史』)。
この計画は藤原豊成の耳にも入ったが、「仲麻呂を殺すことはやめるように言って聞かせる」と言うのみで、計画を阻止には消極的であった(倉本一宏『藤原氏』)。
ところが、安宿王・黄文王兄弟の弟山背王と、巨勢堺麻呂の密告などにより事前に発覚、道祖王・黄文王は杖刑により拷問死、奈良麻呂も同様にして獄門死したものと思われる。安宿王は流罪となったほか、多治比氏・大伴氏・佐伯氏出身の関与者も処罰された。
大伴氏の中では古麻呂が杖刑により死亡、古慈斐が流刑になるなどして高官を失い打撃を被った。議政官に任命された人物は見られなくなるが、弁官(太政官で事務を担当する職)に任じられている者はその後もいた(佐藤信 編『古代史講義』)。
道祖王の兄、塩焼王は関与の証拠がなかったことで不問とされ、臣籍降下して氷上塩焼となった。 山背王は昇進し、臣籍降下後は藤原弟貞を名乗った。 藤原豊成の三男、乙縄は以前奈良麻呂と親しかったことや、藤原豊成が仲麻呂暗殺計画の阻止に消極的であったことでどちらも左遷された。直接関与した証拠がなかったことで、仲麻呂は兄と甥を重罪に処すことはできなかったが、排除には成功した。
この一件で、仲麻呂の対立者の勢力は大いに減退した。
天平宝字2(758)年、孝謙天皇が譲位して、大炊王が即位(淳仁天皇)した。この際の宣命は、元正天皇-聖武天皇間でなされたのと同様に、淳仁天皇は聖武天皇と光明皇太后の皇子に擬制された。
仲麻呂は淳仁天皇より藤原性に恵美の2文字を加えられ、押勝の名前を与えられ、藤原恵美押勝を名乗った。
淳仁天皇の即位に際して、押勝・袁比良夫妻の子息弓取・浄弁はそれぞれ真先と訓儒麻呂に、その従兄弟である北家の八束・千尋兄弟は真楯と御楯に改名した。御楯は仲麻呂の娘児従と結婚し、孝謙上皇の親衛隊授刀衛の授刀督(長官)を勤めた。
また、聖武天皇に諡号が贈られるとともに、草壁皇子には岡宮御宇天皇 の諡号が与えられた。生前に即位しなかった草壁皇子が、後付けの「草壁皇子嫡系」の権威を高め続けた結果、草壁皇子は天皇号を得ることになった。
押勝が行った政策の1つは、官職名を唐風に改めたことで、自身の任じられた太政大臣の職名も太師となっている。また、東国からの防人の派遣停止、雑徭の負担軽減、民衆の訴えを取り上げるための問民苦使を設置するなどの改革を行った。押勝の政策には儒教的な影響が見られる。
また、押勝の三男訓儒麻呂の妻には淳仁天皇の姪山縵女王を迎えた。
唐では、玄宗李隆基の寵臣であった、突厥人とソグド人をルーツに持つ安禄山が挙兵し、大燕皇帝を名乗った。李隆基は長安から四川に逃れ、皇太子の李亨がクーデター的に粛宗として即位。李隆基は事後承認した。反乱は鎮圧されたが、唐の衰退と混乱は明白であった。このことが遣渤海使により日本に伝えられると、藤原恵美押勝は混乱を利用して新羅に出兵することを計画した。
日本は、唐に滞在していた藤原清河を帰国させることを要請(実際な内情を探ろうとしたと思われる)したが、唐は国家再建を急ぐため帰国を許さなかった。藤原清河と阿倍仲麻呂は、帰国を果たせず唐に使えて生涯を終えた。
天平宝字3(760)年、朝廷は万年通宝(銅銭)・開基勝宝(金銭)・太平元宝(銀銭)を、流通させるためというよりは、押勝の権勢を記念するものとして発行された。他にも、私鋳銭の増加によって銭の供給が過剰になり、和同開珎の価値がさらに下がってしまったことも理由にある。万年通宝には和同開珎の10倍の価値が与えられ、平城京の工事費用の支払いや、新羅出兵の軍事費の調達のためという目的があった。しかし、結果として出兵の計画は立ち消えとなる。
万年通宝自体も、それまで持っていた和同開珎の価値が下がってしまうため、敬遠され、市場価値はさがってしまった(高木久史『貨幣の日本史』)。
天平宝字3(760)年までの和歌を集めた万葉集は、現存する最古の和歌集であり、天皇・貴族から庶民まで約4500首を収録している。防人歌・東歌、山上憶良が貧民に同情して詠んだとされる貧窮問答歌が有名である。大伴家持の編とされる。
押勝は祖先の顕彰に努め、藤原鎌足・真人(定恵)・不比等・武智麻呂の生涯を記した『藤氏家伝』鎌足から不比等までは押勝の編、武智麻呂伝は僧侶延慶の編である。しかし、不比等伝は散逸した。
ほかにも、自身の曽祖父鎌足が活躍した「大化の改新」や、祖父不比等が関わった大宝・養老律令編纂の功績を強調している(仁藤敦史『藤原仲麻呂』)。
天平宝字4(761)年、 光明皇太后が崩御したことにより、孝謙上皇と、淳仁天皇・藤原恵美押勝の関係が悪化した。同年に押勝の弟乙麻呂も死去した。
さらに、天平宝字6(763)年には押勝の妻の1人袁比良と石川年足が死去、光明皇太后に続いて押勝と孝謙上皇の仲を取り持っていた者や補佐していた者たちがこの世を去った。氷上塩焼・白壁王(志貴親王と紀橡姫の子)を中納言に、参議には藤原弟貞の他に、自身の子真先・訓儒麻呂・朝獦兄弟・腹心の中臣清麻呂・石川豊成を任じたが、自身の身内や腹心に偏った人事が批判を集め、儒教的政策に対する僧侶からの反発もあり、押勝は孤立した。
同年、孝謙上皇は自らの病を治癒した、弓削氏出身の僧侶、道鏡を重用するようになった。このことを淳仁天皇が批判すると、孝謙上皇は反発、国家運営と裁判を自らの権限で行い、淳仁天皇は祭祀のみを行うという勅を出したことで、上皇と天皇は完全に決別した。
天平宝字8(764)年7月12日押勝の娘婿であった藤原御楯までもが死去。孝謙上皇と押勝の仲は更に悪化した。そして同年、押勝は巨勢麻呂とともに挙兵、淳仁天皇を連れ出すことは叶わず、塩焼を「今帝」として新天皇に擁立し、真先と朝獦を親王のみに許されている三品に叙した。
押勝は勅の発布に必要な御璽と馬鈴を手に入れようとしたが、孝謙上皇側が先に回収、藤原恵美訓儒麻呂が奪うものの、坂上苅田麻呂(東漢氏分流)に殺害され、奪い返された。また、押勝一家は藤原姓を剥奪された。
朝廷側の吉備真備の作戦により追い詰められた。押勝は息子が国司である越前国に逃れようとするが、関所を閉ざされて叶わなかった。
押勝の八男辛加知も殺害され、式家の藤原宿奈麻呂(後の良継)・蔵下麻呂の兵にも攻められ、最終的に押勝は琵琶湖北西岸で妻子や巨勢麻呂、塩焼らとともに殺害された。不破内親王と塩焼の子息氷上志計志麻呂は、母の身分ゆえに連座を免れた。
760年代には飢饉があり、押勝の反乱もあって、商品の供給が不足、物価の上昇を招いた。 幼年であった押勝の遺児、刷雄は助命されたが、以降藤原恵美氏を名乗ることはなく、その後名乗る藤原氏の一族もいなかった。
巨勢麻呂の子孫は中流・下級貴族として続き、後に多くの学者や武官を排出する。乙麻呂の家系も同じく中流・下級貴族として続き、中には地方に土着して武家の祖になるものもいた。
反乱に際して藤原豊成・乙縄父子は復権、豊成は右大臣となる。しかし、藤原南家そのものの権勢は衰えてしまった。また、藤原永手は大納言に任じられ、永手の甥(藤原鳥養の子)の小黒麻呂が従五位下・伊勢守、後に大納言となった。式家も押勝の乱の際の活躍により復権する。
官職名こそ和風に戻ったものの、押勝の進めた革新的政策はその後も引き継がれることとなった。
淳仁天皇は廃位、淡路公大炊親王として淡路に流された。兄弟の子孫の多くは臣籍降下、兄の1人三原王の子孫は清原氏となる。 乱の同年、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、鎮護国家の理念と乱の死者の弔いのために百万塔陀羅尼を10万基ずつ、法隆寺・東大寺・西大寺・興福寺・薬師寺などに奉納した。
天平神護元(765)年、淳仁廃帝は淡路からの逃亡を図ったが、捕縛され翌日に崩御した。殺害されたと思われる。道鏡は、菩薩戒を授けた仏弟子である称徳天皇より太政大臣禅師の位を賜った。同年、道鏡・称徳天皇の師弟関係の2人を中心とした新政権発足を示すことと、西大寺建設費用を得ることを目的として、神功開宝が発行された。
称徳天皇は、檜前部老刀自などの多くの采女を貴族として取り立て、国造にもしている(佐藤信 編『古代史講義』)。
翌天平神護2(766)年に道鏡は法王となり、仏教政治の下で権力を増大させた。
神護景雲3(769)年3月、称徳天皇を呪詛し自身の子氷上志計志麻呂を皇位に就けようとしたとして、不破内親王は姓名を「厨真人厨女」として強制的に臣籍降下のうえで平城京を追放された。後に赦されている。
同年7月頃、「道鏡を天皇とすれば天下が安定する」との宇佐八幡宮の神託があった、との奏上があった。
後年の『日本霊異記』からは、道鏡は称徳天皇の配偶者に擬制されることで皇位継承者として浮上したものと推測される(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
称徳天皇は真偽を確かめるために和気広虫(法均尼)を遣わそうとしたが、虚弱を理由に、弟の和気清麻呂が代理として派遣された。
清麻呂は以前の神託は虚偽の報告であり、皇位は世襲であるべきとの神託があったと奏上したことで天皇の怒りを買い、別部穢麻呂と改名のうえで、狭虫と改名させられた姉とともに流罪となった。しかし、称徳天皇は道鏡を皇位に就かせることはないと明言することとなった。
「臣下」である非皇族が皇位に就くことは、この一件により強くタブー視されるようになり、「君臣の別」の意識が形成されたと考えられる(仁藤敦史『女帝の世紀』)。
称徳天皇の意図としては将来的に異母姉井上内親王の子である他戸王に継がせようと考えており、道鏡には中継ぎとして天皇になってもらうことを望んだという説もある(河上麻由子『古代日中関係史』)。
称徳天皇の崩御後、吉備真備の、文室浄三・大市兄弟のどちらかを次期天皇にするという意見を退け、藤原北家の永手と藤原式家の宿奈麻呂・雄田麻呂兄弟(広嗣の弟)が推した、称徳天皇の異母姉井上内親王の夫で、天智天皇の孫の白壁王が即位した(光仁天皇)。称徳天皇の遺言により光仁天皇が即位したとされるが、偽作であるともされる。光仁天皇は父の志貴皇子に春日宮御宇天皇 の諡号を贈った。
宿奈麻呂・雄田麻呂兄弟は出世に伴いそれぞれ良継・百川と改名している。また、式家と親しかった広虫・清麻呂姉弟も元の名前に戻って京への帰還を許される。また、道鏡は造下野国薬師寺別当として都から追放された。藤原永手の死去により、中臣清麻呂が右大臣、良継が内臣、文室大市・藤原魚名(藤原永手の異母弟)が参議、石川豊成・藤原縄麻呂(藤原豊成と藤原房前娘の子)が中納言となった。式家はさらに発展することとなる。 井上内親王は皇后、間に産まれていた他戸親王が皇太子であった。ところが宝亀3(772)年、井上内親王が光仁天皇同母姉の難波内親王を呪詛して殺害したとして、母子は廃位され幽閉された。同年、藤原京家の藤原浜成(麻呂の子)が公卿となり、光仁天皇に歌学書の歌経標式を撰上した。
その後、他戸親王の異母兄で、百済系帰化氏族の高野新笠を母とする山部親王が皇太子となった。 山部親王は、良継の娘の乙牟漏と、百川の娘の旅子、他戸親王の同母姉(つまりは異母妹)の酒人内親王などを妻とした。
乙牟漏との間には小殿(後に安殿)王・神野王・高志女王、旅子との間には大伴王、酒人内親王との間には朝原女王が産まれた。
宝亀5(774)年、藤原蔵下麻呂(良継・百川の弟)・藤原是公(乙麻呂の子)が参議となったことで、藤原氏の議政官は14人中11人、その中でも藤原式家出身の者は4人となった。宝亀6(775)年、井上内親王と他戸親王はどちらも薨去した。暗殺を疑われている。
政争の中で藤原式家の権力は増大したかに見えたが、同年8月5日、蔵下麻呂は死去した。
宝亀8(777)年には内大臣になったばかりの良継が死去、百川は参議に留まり、藤原式家は明白に衰退しはじめた。式家の衰退後には、北家の藤原魚名(房前の子)が内臣となり太政官を主導し、忠臣という前例のない地位に就いた(倉本一宏『藤原氏』)。
宝亀10(779)年、藤原百川が死去し、式家の権勢は以前にも増して衰退、百川の後任として、南家の藤原乙縄・北家の藤原小黒麻呂が参議となった。翌年には南家の藤原継縄(乙縄の兄)・式家の田麻呂(百川の兄)が任じられるなど、人事は藤原四家のバランスが考慮された(倉本一宏『藤原氏』)。
参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508