ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

天智天皇~光仁天皇

661年に斉明天皇崩御し、間人皇女による政務代行を挟んで、葛城皇子が即位した(天智天皇)。皇后には倭姫王を立てた。しかし、間に子はいない。そのため、石川麻呂の娘の、遠智娘との間に産まれた大田皇女・鸕野讚良皇女姉妹、姪娘との間に産まれた御名部皇女・阿閉皇女姉妹が最も身分が高い子となる。蘇我赤兄は自身の娘のうち、常陸娘を天智天皇に、大蕤娘は大海人皇子に嫁がせている。常陸娘は山辺皇女を、大蕤娘は穂積王・紀女王・田形女王を産んだ。

天智天皇は、大田皇女・鸕野讚良皇女や、大江皇女・新田部皇女という自身の皇女4人を嫁がせている。また、中臣鎌足の2人の娘、氷上娘と五百重娘を嫁がせている。天智天皇大海人皇子皇子の子女同士の婚姻も何度も行われている。大田皇女と大海人皇子の間に産まれた大津王を天智天皇は寵愛したという所伝があり、大王家の血の濃い王族への優先的継承を構想していたと考えられる。しかし、大海人皇子はある酒宴で突如、槍を床に突き立てて天智天皇に反抗心を示したことが「藤氏家伝」に記されているように、一定の緊張感が存在していた。

669年、中臣鎌足は危篤となった。そのため、鎌足の妻鏡王女は夫の病気の回復を願って山階寺を建立した。同年、天智天皇鎌足に藤原姓と大織冠を授けた。このことで、鎌足藤原氏の祖となった。しかし病が回復することはなく、姓と冠の授与の翌日に鎌足は死去し、中臣氏の氏上(当主の意味、後の氏長者)は鎌足の従兄弟の中臣金が継承した。

天智天皇近江令と総称されることになる法令を出し、670年には初の全国的戸籍の庚午年籍を作成し、徴税と徴兵を行いやすくした。翌年には百済からの亡命貴族の多くを登用した。

672年、天智天皇崩御すると、天智天皇と伊賀宅子娘の間の子である大友皇子が即位したとされる(弘文天皇)が、即位したとの確証はなく論争が続いている。大海人皇子の娘の十市皇女を妻に迎え、間には葛野王が産まれている。大海人皇子大友皇子の補佐役を期待されたが、出家、吉野に隠遁した。しかしそのことは「(大友皇子が)虎に翼を付けて野に放ったようなものだ」と言われた。

蘇我倉家のうち、蘇我赤兄・果安兄弟は大友皇子に接近したが、赤兄・果安兄弟の甥(蘇我連子の子)の安麻呂は大海人皇子に接近した。

大友皇子は、左大臣に赤兄、右大臣に中臣金を任じ、果安・巨勢人・紀大人を重用した。

672年、吉野に出家して隠遁していた大海人皇子と、大友皇子との間の皇位継承戦争(壬申の乱)が起こり、大友皇子・果安は自害、中臣金は処刑、赤兄と人は子とともに流罪となった。

大海人皇子は即位し(天武天皇)、唐の高宗李治と同じように「天皇」を名乗った。これは、道教の影響であったと思われる。他に、推古天皇を初の天皇号の使用例とする説もある。

また、大友皇子の正当性を否定する根拠とするためか、「卑母」を敬うことを禁じ、異母兄弟姉妹間の身分の差を明確にさせた。

天武天皇飛鳥浄御原宮に遷都し、皇后に鸕野讃良皇女を立てた(既に異母姉大田皇女は薨去)。

天智天皇の皇女で天武天皇に嫁した人物

大田皇女

母:蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘

子:大来皇女大津皇子

鸕野讃良皇女

母:蘇我倉山田石川麻呂の娘の、遠智娘

子:草壁皇子

大江皇女

母:忍海色夫古娘

子:長皇子、弓削皇子

新田部皇女

母:阿倍内麻呂娘の娘、橘娘

子:舎人親王

天智天皇天武天皇の皇子女同士のいとこ婚

大友皇子十市皇女

:間に葛野王

川嶋皇子と泊瀬部皇女

志貴皇子と託基皇女

:間に春日王

阿倍皇女と草壁皇子

:叔母と甥、従叔母と従姪の関係でもある。間に

珂瑠王と吉備女王

山辺皇女と大津皇子

:再従叔母と再従甥の関係でもある。間に粟津王

御名部皇女(阿倍皇女の同母姉)と武市皇子

:間に長屋王鈴鹿王など

天武天皇は、藤原鎌足の2人の娘、氷上娘と五百重娘も妻に迎え、氷上娘との間には但馬皇女五百重娘との間には新田部皇子が産まれている。

草壁皇子大津皇子・刑部皇子・川嶋皇子・志貴皇子らに、皇位を争わないよう吉野で盟約を結ばせた。

671年には、律令の制定を始めた。その2年後、大来皇女伊勢国へと出発、伊勢神宮において天皇の祖先に位置づけられる太陽の女神アマテラス(天照大御神)に仕える「斎王」となった。それが斎王の確実な記録の初めである。

斎王は皇女の中から独身の者が選ばれ、斎王である期間は男性と通じることを禁じられた。

伊勢神宮天皇の祖先神を祀っているため、最も重要な神社となった。伊勢神宮と同じく重要視される神社として出雲国出雲大社があり、こちらはアマテラスに国を譲った神であるオオクニヌシ(大国主神)が祀られている。

天皇の証として「三種の神器」と呼ばれる草薙剣八咫鏡八尺瓊勾玉があり、即位の際に受け継がれてきた。八尺瓊勾玉のみが本体を朝廷が所有しており、草薙剣八咫鏡はそれぞれ本体が熱田神宮伊勢神宮にあり、天皇が所持するのはその分身である。熱田神宮尾張氏が大宮司を務めた。

f:id:Usokusai:20220304103520j:image伊勢神宮

f:id:Usokusai:20220304103628j:image熱田神宮

中小豪族に対しては、連を授けるなどして、豪族としてではなく、個人としての「官僚」候補者の数を広げるためである。そして、684年には真人・朝臣宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置という八色の姓を定め、真人から忌寸までは五位を授かることができるとされた。

伊勢神宮を中心とした神祇制度も整えられ、大嘗会の制を確立するほかに、仏教を保護した。鸕野讃良皇女が病になったとき回復を願って建てられた薬師寺や大宮大寺の建立や、金光明経のなどを説く法会も行われた。天武天皇は他にも陰陽寮を設置し、中国の陰陽五行説を発展させた陰陽道が教えられた。陰陽道に携わる者は陰陽師と呼ばれ、天文や方角を占い、暦を制作するなどした。

この時代の建造物には、再建された、法隆寺金堂および五重塔、中門・歩廊のほかに、後にアーネスト・フェロノサが「凍れる音楽」と称した薬師寺東塔がある。

f:id:Usokusai:20220304103801j:image薬師寺(手前が東塔)

仏像では、柔らかさを持った南陵様式の薬師寺金堂薬師三尊像(薬師如来日光菩薩月光菩薩像)・同寺東院堂聖観音像、興福寺仏頭がある。

f:id:Usokusai:20220304103856j:image

絵画では、アジェンダー壁画の影響を受けた法隆寺金堂壁画、高塚古墳壁画がある。

f:id:Usokusai:20220304104121j:image法隆寺金堂壁画

f:id:Usokusai:20220304104139j:image高松塚古墳壁画

また、日本最古の貨幣である富本銭も鋳造されたが、あまり流通しなかった。

f:id:Usokusai:20220304104212j:image富本銭

天武天皇は、藤原京の造営や国史編纂にも着手していたが、完成を見ないまま、朱鳥元(686年)年に崩御した。

同年には、蘇我安麻呂の子、蘇我石足が石川姓を与えられ、石川石足と改名した。

 その後、大津皇子が、川嶋皇子の密告によって謀反の疑いがかかり、処刑された。このことは、鸕野讃良皇女が亡き同母姉の子という草壁皇子の継承に関する不安材料を取り除いたという説も根強い。しかし、草壁皇子は早世し、鸕野讃良皇女が690年に即位した(持統天皇)。また、高市皇子太政大臣となっている。

 

この時代には、唐へ遣唐使を派遣し、新羅には朝貢を行わせた。

 

持統天皇飛鳥浄御原令の戸令に基づき、庚午年籍を作成した。このときに、国・評(郡)・里・戸の制が確立された。

 

律令制においては公地公民制が基本とされ、班田は開墾者の死により戸籍の調査の際に国に返還されることとなった。

 

694年には飛鳥の藤原京に遷都している。

f:id:Usokusai:20220304104820j:image

藤原京復元模型

同年、山階寺は都に移され厩坂寺と改名した。そして、696年、高市皇子薨去後、群臣によって、持統天皇の後継者を誰にするかが議論された。結果として、天智・天武両天皇の孫にあたる葛野王の「皇位は直系で継承されるべき」との意見が採用された。その後長い間、皇位継承の有力候補は持統天皇の直系子孫かその配偶者が多くなる。

697年、持統天皇は孫の珂瑠皇子に譲位し、歴代天皇で始めて「太上天皇(略して上皇)」を名乗った。文武天皇の夫人には、不比等の娘宮子が立てられた。皇后が立ったとの記録はない。

この時代には藤原鎌足の次男、不比等が重用された。

698年、藤原不比等とその子孫以外の、中臣氏出身の人物が藤原姓を名乗ることが禁じられ、藤原氏が政治、中臣氏が以前と同様に神事を司ることとなった。

不比等蘇我安麻呂の娘、娼子(媼子)と婚姻、間には武智麻呂・房前・馬養(後に宇合)が産まれている。他にも、未亡人となった異母妹五百重娘との間に四男の麻呂、賀茂比売との間に宮子、美努王の元妻橘養三千代との間に安宿媛が産まれている。後に、美努王と美千代の2人の男児臣籍降下、母の橘姓を名乗り、橘諸兄橘佐為となる。諸兄は不比等の娘多比能(母は三千代)を妻として、間に橘奈良麻呂が産まれる。不比等の次男房前は諸兄の同父母妹、牟漏女王を妻に迎えることとなる。

持統上皇・刑部皇子・不比等の下で、大宝元(701)年に大宝律令が完成した。このときに日本という国号、天皇という君主号、天皇の後継者の皇太子号、皇子女の親王内親王号、天皇の祖母の大皇太后号、天皇の母の皇太后号、が明文化された(親王内親王ではない皇族は王と女王である)。旧唐書には倭という国号が「雅ならざるを悪み」日本に変え、唐にも承認されたとある。

律(刑罰)には、苔(鞭で打つ)・杖(杖で打つ)・徒(懲役)・流(島流し)・死(死罪)の五刑が定められた。

 

人々は良民と賤民(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)に分けられた。

 

良民は男女ともに、6歳になると男子が2反、女子はその3分の2、奴婢は良民の3分の1を与えられた。そして、次の班田の年に死者の田を国に返還するという班田収授法が定められた。

 

また、租・庸・調・雑徭・兵士役の義務があり、公出挙といって、春に租稲の一部を貸付け、5割の利息をつけて返させたこともあった。

 

律令の政治機関は、中央に神祇祭祀を束ねる神祇官と、行政を束ねる太政官が設置された。 太政大臣(常設ではない太政官の最高首脳)を中心に、左大臣・右大臣・大納言らの公卿(後にそれに加え中納言・参議)の合議の結果を天皇が裁可することで国政が運営された。

公卿の下位には中務省式部省治部省民部省を総括する右弁官、宮中の事務を行う少納言が置かれた。

また、官吏を監察する弾正台、軍事組織の衛門府が置かれた。

地方は大和・山背・河内・摂津を畿内東海道東山道山陰道山陽道南海道西海道を七道と定めた。 都には左京・右京職を置き、摂津には摂津職、西海道には外交と国防の要地として大宰府が置かれた。

諸官庁には長官(かみ/伯/卿/大夫/督/守)、次官(すけ/副/輔/助/亮/佐/介)、判官(じょう/祐/丞/允/進/尉/掾)、主典(さかん/史/寮/属/志/目)の四等官が定められた。ただ、親王任国と呼ばれた常陸・上総・上野の三国は、「守」を名乗ることが出来るのは親王のみであり、次官に用いられる「介」が他国の「守」と同格とされた。「すけ」や「じょう」などは、後の時代には、人々が任じられなくとも名乗るようになった。また、通称として用いるようにもなり、庶民の本名にもなった。

部と屯倉は廃止され、豪族によって世襲の仕事がなされることもなくなった。

官人は出自によって位階を授けられた(官位相当の制)。

位階は親王内親王が一品(正一位従一位)から四品(正四位上正四位下)、王・女王は正一位から従五位下まで、臣下は正一位から少初位までと定められていた。 三位以上(貴)の者の子と孫、五位以上(通貴)の者の子には一定の位階が将来授与されることが確定していた(蔭位の制)。

また、人民の戸籍への登録と、公地・公民制も明文化されることとなった。戸籍は6年ごとに更新され、課役や身元を把握し、計帳によって人数の推移を把握した。

租を収める義務のある輸租田には位田・功田・賜田、義務のない不輸租田には寺田・神田・職田があった。

備荒貯蓄として義倉が収められたほかに、調や庸は納税者の中から運客が選ばれ、都まで運ぶ義務を負った。

備荒貯蓄として義倉が収められたほかに、調や庸は納税者の中から運客が選ばれ、都まで運ぶ義務を負った。

雑徭の中には仕丁と雇役、兵役には衛士として宮城や京内の警備を行うものや、大宰府を防人として警護するのいうものがあった。

大宝2(701)年、持統上皇崩御し、天皇としては始めて火葬された。このことは、仏教や薄葬令が影響していると思われる。遺骨は天武天皇と同じ陵墓(野口王古墳)に葬られた。

慶雲4(707)年には文武天皇崩御し、文武天皇の母で、持統上皇の異母妹で従姉妹にあたる阿閉皇女が即位した(元明天皇)。皇太子には文武天皇と宮子の皇子、首親王が立てられた。首親王の妻には不比等の娘安宿媛が迎えられた。両者は甥と叔母の関係ではあったが、同年の産まれである。

慶雲5(708)年には武蔵の秩父より、還元の必要のない銅(和銅)が献上されたことで、和銅改元され、和同開珎が発行された。しかし、富本銭と同様に流通は滞った。

f:id:Usokusai:20220304104419j:image和同開珎

 そこで和銅4(711)年、一定数の銭を蓄えた者に位階を授けるという蓄銭叙位令が出されたが、人々は銭を貯めるだけ貯めこんで、更に流通は滞った。

また、出羽には秋田城、日向には多賀城を築いて防衛力を高め、朝廷に反抗していた東北の蝦夷や九州の隼人に帰属を求めた。

和銅3(710)年には藤原京から平城京へと遷都している。この際、藤原不比等厩坂寺平城京の左京に移し、名称を興福寺とした。興福寺藤原氏の氏寺として、藤原氏に強い影響を持つことになる。

f:id:Usokusai:20220304104556j:image

平城京復元模型

f:id:Usokusai:20220304104620j:image

平城京大極殿復元   

 

f:id:Usokusai:20220304104648j:image

朱雀門復元

和銅6(713)年には太安万侶稗田阿礼による現存最古の歴史書古事記が完成した。古事記には、天皇の祖先イザナキ・イザナミ夫妻による国づくりなどの神話から、推古天皇に至るまでを記している。同年、地方の風土や歴史を記した風土記も編纂が命じられた(現存する完本は出雲国風土記のみである)。

和銅8(715)年、元明天皇は自身の娘で文武天皇の姉にあたる氷高内親王に譲位した(元正天皇)。

養老元(717)年からは不比等を中心として養老律令の編纂が始まった。同年、首親王は側室の県犬養広刀自との間に、井上内親王を儲けた。県犬養広刀自は橘三千代(元の姓は県犬養)の同族である。

養老2(718)年、式部卿であった長屋王は大納言へと出世した。この出世は、藤原不比等の次女長俄子を妻の1人に迎え、間に黄文王安宿王・山背王などを儲けたことが理由であると考えられる。同年、首親王安宿媛は阿部内親王を儲けた。

養老4(720)年には舎人親王らによる正史、日本書紀が完成した。神代から持統天皇までが記録されたが、内容は古事記と細部が異なる。古事記日本書紀はともに、編年体であり、中国王朝の正史が紀伝体であることと趣を異にする。

同年には藤原不比等が死去し、長屋王が右大臣となった。長屋王高市皇子御名部皇女(元明天皇同母姉)を両親に持ち、草壁皇子の娘吉備内親王を妻としており、高市皇子と違い身分は高かった。

また、長屋王の主導により、農民に食料と農具を与えて10日間開墾作業を行わせ、3000石以上の収穫をあげた者に勲六等を与えるという百万町歩開墾計画が出されたが、当時の日本の耕地面積よりも開墾しなければならない非現実的な計画であり、頓挫した。翌養老7(723)年、三世一身法が出され、開墾した田畑がその後3代まで私有することが認められた。また、元明天皇の治世下では、和同開珎銅銭が法定価値以下で流通していることを追認、朝廷が銀地金と和同開珎銀銭の使用を解禁し、和同開珎銅銭の価値を低下させた。、

神亀元(724)年、元正天皇は、皇太子で甥(文武天皇と宮子の皇子)の首親王に譲位した(聖武天皇)。聖武天皇の妻安宿媛(不比等の娘)は夫人となった。

長屋王の妻の一人は、不比等の娘の長俄子であったが、宮子の尊号を大夫人であったところを皇太夫人にすべきと長屋王が主張したことをきっかけに、不比等の子の藤原四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂)や、蘇我連子の孫、石川石足らとの対立が激化した。

神亀4(727)年、聖武天皇安宿媛との間に基親王が産まれ、生後32日で皇太子となった。そしておそらく同年、県犬養広刀自が安積親王を産んだ。このことは、藤原四兄弟に危機感を抱かせたと思われる。さらに翌神亀5(728)年、基親王薨去したことも藤原氏に追い討ちをかけた。

藤原四兄弟は異母妹の安宿媛立后を願ったが、皇族ではない者の立后長屋王は反対した。しかし基親王が夭折は長屋王による呪詛であるとの噂が立ち、藤原宇合によって攻められ、妻の吉備内親王と、その間に産まれていた膳夫王鉤取王・葛木王・桑田王とともに自害し(桑田王は石川夫人との間の子であるとも)、立后そのものが目的ではなかったが、安宿媛は皇后となった(光明皇后)。

その後、長屋王と長俄子の間の子(安宿王黄文王・山背王)をはじめとした長屋王の子孫や弟の鈴鹿王などのほとんどの子孫は赦免された。この一件は、吉備内親王を妻として、皇統に近しい脅威的存在となった長屋王の排除のための策謀であり、聖武天皇藤原四兄弟の利害が一致していたための行動であるとも考えられている。

持統天皇の直系との血縁を失ったためか、長屋王の家系は皇位継承からは遠のいてゆく。後に長屋王鈴鹿王の子孫の多くは高階姓を与えられ、臣籍降下する。

藤原四兄弟の子孫はそれぞれ南家・北家・式家・京家と呼ばれることとなる。武智麻呂は変後すぐに大納言となった。天平2(730)年に武智麻呂と並んで大納言であった多治比池守が、翌年に後任の大伴旅人が死去、議政官が不足したため、藤原宇合・麻呂兄弟・鈴鹿王・多治比県守葛城王・大伴道足という6人が参議となり、四兄弟による新政権が完成した。しかし天平4(732)年にの旱魃天然痘の流行により、政局の乱れは著しかった。

天平5(733)年、橘三千代が死去し、追善のために、翌年光明皇后によって興福寺に西金堂が建立された。阿修羅像(乾湿像)をはじめとする八部衆像は西金堂に安置されていた。、天平9(737)年四兄弟は相次いで天然痘で死去、その後も天然痘が猛威をふるった。四位以上の高官33人のうち3分の1が亡くなり、民衆も多く亡くなったと思われる。

その後、鈴鹿王を知太政官事、光明皇后の異父兄で不比等の娘婿の元皇族橘諸兄を大納言、多治比広成を中納言藤原武智麻呂の長男豊成を参議とした政権が発足した。藤原房前の長男鳥養は早世したと思われる。房前が牟漏女王との間に産まれた次男永手が北家の長になるが、伯父である諸兄から疎まれたのか、しばらくは従五位下に留まった。

諸兄は唐より帰還した玄昉や吉備真備を登用したが、宇合の長男藤原広嗣は反発し、天平12(740)年、玄昉と真備の解任を求めて反乱を起こした。しかし、朝廷の敵として討伐されることが伝わると味方が次々と離反し、鎮圧され、広嗣は弟の綱手・清成・菅成らとともに処刑された。広嗣のすぐ下の弟、宿奈麻呂は乱に関与しておらず、連座して伊豆に流されたものの、2年後に赦免された。

政情が不安定な中で、聖武天皇は恭仁宮・難波宮紫香楽宮というように、壬申の乱の際の天武天皇の進軍ルートを辿るよるに都を転々とした。その後、また都が平城京に戻るまでの間、藤原豊成平城京に留守として留められたが、豊成の異母弟仲麻呂聖武天皇光明皇后夫妻に同行したことで地位を高めることとなった。

天平15(743)年、口分田の不足と人口の減少による荒廃した土地の再開発の必要性に伴い、墾田永年私財法が発布され、墾田は開墾者の子孫による永久的な所有が認められた。しかし、墾田の私有には太政官民部省の許可が必要であった。墾田永年私財法の発布を契機として作られた荘園を初期荘園と呼び、多くの荘園が設けられた。国司に命じて開発、皇室に献上された荘園を勅旨田、臣下に与えられた勅旨田を賜田と呼ぶ。墾田永年私財法発布の翌年、安積親王薨去藤原氏にとっての不安材料にもなりえた皇子が世を去った。

唐が国際都市となったことで、唐・インド・ペルシア・アラブ・東南アジアとの交易が活発になり、日本にも白瑠璃碗・紺瑠璃杯・銀薫炉・緑地狩猟文錦・漆胡瓶・螺鈿紫檀五弦琵琶などがシルクロードよりもたらされ、正倉院に収められた。

唐をはじめとした外国との交流は、天然痘流行の1つの要因と考えられる。このような疫病の流行は、長屋王などの政争に敗れた者の祟りとされ、仏教によって国を治める鎮護国家思想が生まれた。そのため、当時は僧侶は国家の安寧のために活動するものであり、寺の外での活動は禁じられていた。そのため、道昭の弟子で、民間に布教をしたほか、支持者を動員した道路の整備や狭山池の改修を行っていた行基もその行動を咎められた。天平13(741)年の国分寺国分尼寺建立の勅や、天平15(743)年の毘盧遮那仏建立の勅の発布にも鎮護国家思想を見ることができる。しかし、後に朝廷は行基に接近、毘盧遮那仏は、民衆の支持を集めていた行基を責任者として、民衆の労働により建立が進められた。

東大寺を中心に国分寺国分尼寺が配されたほか、光明皇后によって施薬院興福寺に設けられ、病人を療養させた。

聖武天皇は皇女の阿部内親王を女性皇族で初の皇太子として(律令制の下では2人目の皇太子)、天平勝宝元(749)年に譲位した(孝謙天皇)。聖武天皇自身は史上2人目(男性として初)の太上天皇となり、出家後には沙弥勝満と号した。同年に東大寺において毘盧遮那仏の鋳造が完了した。また、寺院墾田許可令が出され、寺院による墾田の私有が赦された。

天平勝宝3(751)年には、現存する最古の漢詩集である懐風藻が編まれた。葛野王の孫、淡海三船の編と考えられる。三船は初代天皇とされる神武天皇から元正天皇までの歴代天皇に漢風諡号を贈っている。

天平勝宝4(752)年、毘盧遮那仏の鍍金が終わらない内に、インドの僧侶ボーディセーナ(菩提遷那)を開眼導師として開眼供養が行われた。ボーディセーナの持つ筆には糸が繋がれ、その糸は聖武上皇光明皇太后孝謙天皇をはじめとした多くの人々に握られた。そして、既に故人となっていた行基には大僧正の位が贈られた。同年、長親王の2人の皇子が臣籍降下文室浄三文室大市となった。このことは、流血さえ起こる皇位継承争いから先に身を引くためと考えられる。

仏像としては金銅像・塑像・乾漆像が発達し、東大寺日光・月光菩薩像、東大寺戒壇院四天王像・興福寺八部衆像といった乾漆像が伝わっている。

鑑真は、唐より5度の失敗を経て、視力を失いながらも伝戒師(仏教の戒律を授ける者)として来日、聖武上皇光明皇太后孝謙天皇に受戒、宗派としては律宗を伝えた。ほかに、「空」の思想を説く三論(中論・十二論・百論)を研究する三論宗、その付宗として「成実論」を学ぶ成実宗、「成唯識論」を学ぶ法相宗、その付宗としてヴァスバンドゥ(世親)の「俱舍論」によりアビダルマ(ブッダの教えの真理の研究)を行う俱舍宗、「大方広仏華厳経」を経典とし、毘盧遮那仏を教主とする華厳宗の6つが、奈良仏教として主流となったほか、護国のために法華経・最勝王経・仁王経が重要視された。日本の神と仏は同一であるとする神仏習合の芽生えもこのころである。

天平勝宝8(756)年、橘諸兄は官を辞し、同年、聖武上皇道祖王(天武天皇の孫、母は藤原鎌足の娘)を皇太子とすることを遺言として崩御した。諸兄の引退後は、藤原武智麻呂の次男で、道祖王の姉妹を妻の1人にしていた、仲麻呂が勢力を拡大する。

天平勝宝9(757)年、道祖王は喪中の行動を問題視されて皇太子を廃され、舎人親王の子で仲麻呂の長男真従(故人)の妻であった粟田諸姉を妻にしていた大炊王が皇太子となる。同年には養老律令も発布されている。

仲麻呂は大臣に準じる紫微内相に任じられ、石川石足の子、年足を重用した。年足の死後はその弟石川豊成を取り立てている。しかし、橘諸兄の子、奈良麻呂仲麻呂の台頭に不満を覚えて、道祖王安宿王黄文王とともに謀議して仲麻呂の殺害と黄文王を新帝として擁立することを画策した。この計画は藤原豊成の耳にも入ったが、「仲麻呂を殺すことはやめるように言って聞かせる」と言うのみで、計画を阻止には消極的であった。ところが、安宿王黄文王兄弟の弟山背王と、巨勢堺麻呂の密告などにより事前に発覚、奈良麻呂道祖王黄文王は杖刑により拷問死、安宿王流罪となったほか、多治比氏・大伴氏・佐伯氏出身の関与者も処罰された。

道祖王の兄、塩焼王は関与の証拠がなかったことで不問とされ、臣籍降下して氷上塩焼となった。 山背王は昇進し、臣籍降下後は藤原弟貞を名乗った。 藤原豊成の三男、乙縄は以前奈良麻呂と親しかったことや、藤原豊成仲麻呂暗殺計画の阻止に消極的であったことで、どちらも左遷された。

この一件で、仲麻呂の対立者の勢力は大いに減退した。

天平宝字2(758)年、孝謙天皇が譲位して、大炊王が即位した(淳仁天皇)すると、仲麻呂は藤原性に恵美の2文字を加えられ、押勝の名前を与えられ、藤原恵美押勝を名乗った。また、草壁皇子には岡宮御宇天皇諡号が与えられた。

押勝が行った政策の1つは、官職名を唐風に改めたことで、自身の任じられた太政大臣の職名も太師となっている。また、東国からの防人の派遣停止、雑徭の負担軽減、民衆の訴えを取り上げるための問民苦使を設置するなどの改革を行った。押勝の政策には儒教的な影響が見られる。

また、押勝の三男訓儒麻呂の妻には淳仁天皇の姪山縵女王を迎えた。

天平宝字3(760)年、朝廷は万年通宝(銅銭)・開基勝宝(金銭)・太平元宝(銀銭)を、流通させるためというよりは、押勝の権勢を記念するものとして発行された。他にも、私鋳銭の増加によって銭の供給が過剰になり、和同開珎の価値がさらに下がってしまったことも理由にある。万年通宝には和同開珎の10倍の価値が与えられ、平城京の工事費用の支払いや、新羅出兵の軍事費の調達のためという目的があった。押勝は、安禄山の乱による大陸の混乱を利用して新羅に遠征することを考えていたが、結局立ち消えとなった。 また、万年通宝自体も、それまで持っていた和同開珎の価値が下がってしまうため、敬遠され、市場価値はさがってしまった。

f:id:Usokusai:20220304105342j:image f:id:Usokusai:20220304105355j:image

 同年、淳仁天皇の父舎人親王崇道尽敬皇帝諡号が贈られた。

天平宝字3(760)年までの和歌を集めた万葉集は、現存する最古の和歌集であり、天皇・貴族から庶民まで約4500首を収録している。防人歌・東歌、山上憶良が貧民に同情して詠んだとされる貧窮問答歌が有名である。大伴家持の編とされる。

天平宝字4(761)年、藤原鎌足・真人(定恵)・不比等・武智麻呂の生涯を記した藤氏家伝がこのころ成立した。鎌足から不比等までは押勝の編、武智麻呂伝は僧侶延慶の編である。しかし、不比等伝は散逸した。同年、光明皇太后崩御したことにより、孝謙上皇と、淳仁天皇・藤原恵美押勝の関係が悪化した。同年に押勝の弟乙麻呂も死去した。さらに、天平宝字6(763)年には押勝の妻の1人袁比良(藤原房前娘)と石川年足が死去、光明皇太后に続いて押勝孝謙上皇の仲を取り持っていた者や補佐していた者たちがこの世をさった。氷上塩焼・白壁王(志貴親王と紀橡姫の子)を中納言に、参議には藤原弟貞の他に、自身の子真先・訓儒麻呂・朝獦兄弟・腹心の中臣清麻呂・石川豊成を任じたが、自身の身内や腹心に偏った人事が批判を集め、儒教的政策に対する僧侶からの反発もあり、押勝は孤立した。

同年、孝謙上皇は自らの病を治癒した、弓削氏出身の僧侶、道鏡を重用するようになった。このことを淳仁天皇が批判すると、孝謙上皇は反発、国家運営と裁判を自らの権限で行い、淳仁天皇は祭祀のみを行うという勅を出したことで、上皇天皇は完全に決別した。

天平宝字8(764)年、押勝は巨勢麻呂とともに挙兵、淳仁天皇を連れ出すことは叶わず、塩焼を「今帝」として新天皇に擁立し、真先と朝獦を親王のみに許されている三品に叙した。

押勝は勅の発布に必要な御璽と馬鈴を手に入れようとしたが、孝謙上皇側が先に回収、藤原恵美訓儒麻呂が奪うものの、坂上苅田麻呂(東漢氏分流)に殺害され、奪い返された。また、押勝一家は藤原姓を剥奪された。

朝廷側の吉備真備の作戦により追い詰められ、押勝の八男辛加知も殺害され、最終的に押勝は妻子や巨勢麻呂、塩焼らとともに処刑された。

760年代には飢饉があり、押勝の反乱もあって、商品の供給が不足、物価の上昇を招いた。 幼年であった押勝の遺児、刷雄は助命されたが、以降藤原恵美氏を名乗ることはなく、その後名乗る藤原氏の一族もいなかった。

巨勢麻呂の子孫は中流・下級貴族として続き、後に多くの学者や武官を排出する。乙麻呂の家系も同じく中流・下級貴族として続き、中には地方に土着して武家の祖になるものもいた。

反乱に際して藤原豊成・乙縄父子は復権、豊成は右大臣となる。しかし、藤原南家そのものの権勢は衰えてしまった。また、藤原永手は大納言に任じられ、永手の甥(藤原鳥養の子)の小黒麻呂が従五位下・伊勢守、後に大納言となった。

官職名こそ和風に戻ったものの、押勝の進めた革新的政策はその後も引き継がれることとなった。 淳仁天皇は廃位、淡路に流された。兄弟の子孫の多くは臣籍降下、兄の1人三原王の子孫は清原氏となる。 乱の同年、孝謙上皇重祚して称徳天皇となり、鎮護国家の理念と乱の死者の弔いのために百万塔陀羅尼を10万基ずつ、法隆寺東大寺西大寺興福寺薬師寺などに奉納した。

 天平神護元(765)年、淳仁廃帝は淡路からの逃亡を図ったが、捕縛され翌日に崩御した。殺害されたと思われる。同年、新政権発足を示すことと、西大寺建設費用を得ることを目的として、神功開宝が発行された。 翌天平神護2(766)年に道鏡は法王となり、仏教政治の下で権力を増大させた。 神護景雲3(769)年、「道鏡天皇とすれば天下が安定する」との宇佐八幡宮の神託があった、との奏上があった。

f:id:Usokusai:20220304105538j:image宇佐神宮

称徳天皇は真偽を確かめるために和気広虫(法均尼)を遣わそうとしたが、虚弱を理由に、弟の和気清麻呂が代理として派遣された。

清麻呂は以前の神託は虚偽の報告であると奏上したことで天皇の怒りを買い、別部穢麻呂と改名のうえで、狭虫と改名させられた姉とともに流罪となった。しかし、称徳天皇道鏡皇位に就かせることはないと明言することとなった。この事件の詳細は不明である。

称徳天皇崩御後、吉備真備の、文室浄三・大市兄弟のどちらかを次期天皇にするという意見を退け、藤原北家の永手と、藤原式家の宿奈麻呂・雄田麻呂兄弟(広嗣の弟)が推した、称徳天皇の異母妹井上内親王の夫で、天智天皇の孫の白壁王が即位した(光仁天皇)。称徳天皇の遺言により光仁天皇が即位したとされるが、偽作であるともされる。光仁天皇は父の志貴皇子に春日宮御宇天皇諡号を贈った。

宿奈麻呂・雄田麻呂兄弟は出世に伴いそれぞれ良継・百川と改名している。また、式家と親しかった広虫清麻呂姉弟も元の名前に戻って京への帰還を許される。また、道鏡は造下野国薬師寺別当として都から追放された。藤原永手の死去により、中臣清麻呂が右大臣、良継が内臣、文室大市藤原魚名(藤原永手の異母弟)が参議、石川豊成・藤原縄麻呂(藤原豊成藤原房前娘の子)が中納言となった。式家はさらに発展することとなる。 井上内親王は皇后、間に産まれていた他戸親王が皇太子であった。ところが宝亀3(772)年、井上内親王光仁天皇同母姉の難波内親王を呪詛して殺害したとして、母子は廃位され幽閉された。同年、藤原京家藤原浜成(麻呂の子)が公卿となり、光仁天皇に歌学書の歌経標式を撰上した。

その後、他戸親王の異母兄で、百済帰化氏族の高野新笠を母とする山部親王が皇太子となった。 山部親王は、良継の娘の乙牟漏と、百川の娘の旅子、他戸親王の同母姉(つまりは異母妹)の酒人内親王などを妻とした。

乙牟漏との間には小殿(後に安殿)王・神野王・高志女王、旅子との間には大伴王、酒人内親王との間には朝原女王が産まれた。

宝亀5(774)年、藤原蔵下麻呂(良継・百川の弟)・藤原是公(乙麻呂の子)が参議となったことで、藤原氏議政官は14人中11人、その中でも藤原式家出身の者は4人となった。宝亀6(775)年、井上内親王他戸親王はどちらも薨去した。暗殺を疑われている。政争の中で藤原式家の権力は増大したかに見えたが、同年、蔵下麻呂は死去、宝亀8(777)年には内大臣になったばかりの良継が死去、百川は参議に留まり、明白に衰退しはじめた。式家の衰退後には、北家の藤原魚名(房前の子)が内臣となり太政官を主導し、忠臣という前例のない地位に就いた。

宝亀10(779)年、藤原百川が死去し、式家の権勢は以前にも増して衰退、百川の後任として、南家の藤原乙縄・北家の藤原小黒麻呂が参議となった。翌年には南家の藤原継縄(乙縄の兄)・式家の田麻呂(百川の兄)が任じられるなど、人事は藤原四家のバランスが考慮された。

参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508