ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

応神天皇~推古天皇

 

 また、この時代から、弥生土器から発展した土師器や、朝鮮半島から伝わった須恵器などの土器が用いられるようになった。

f:id:Usokusai:20220304011448j:image土師器

f:id:Usokusai:20220304011500j:image須恵器

 

ヤマト政権は、大王(後の天皇)を中心とした政権であった。氏姓制度の下で、豪族を氏に編成し、首長的地位の氏上が血縁者をまとめた。また、氏の統制のための姓(カバネ)を授けることもあった。

 国造は統治権を認められる代わりに子弟子女の出仕や馬や兵士の貢上を行った(国造制)。

  また、古事記には王仁という百済からの渡来人が、論語10巻と千字文1巻を献上したとされるが、千字文は当時成立していない。他にも古事記には須須許理(仁番)という人物が酒の醸造を伝えたという記録がある。

 

 誉田御廟山古墳は、応神天皇が葬られた陵墓であるとされている。同じ古市古墳群の中でも他の古墳よりも大きく、他の豪族とは隔絶した権威を主張する意図が見て取れる(佐藤信 編 『古代史講義』)。

f:id:Usokusai:20220825104046j:image誉田御廟山古墳

 

 応神天皇崩御後、菟道稚郎子王子とその異母兄の大山守王子の間で争いがあった。

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 仁徳天皇には、人家の煙が立っていないことに気付き、3年間の課税を免除し、宮殿の再建を延期したという善政が伝えられている。

 仁徳天皇の大后は、有力豪族の葛城氏出身の磐之媛であった。

  「倭王」ではなく、格の低い「倭国王」なのは、宋が争っていた華北の諸王朝に対抗するうえで、その利用価値が低いと判断されたからだと思われる(河内春人『倭の五王』)。

 讃の後を継いだ弟の珍もまた宋に使者を派遣し、倭国王と安東将軍の称号に加え、「使持節」(太守を皇帝の許可なく死罪に出来る権限を持つ位)と「都督」(軍事に関する位)という、「節」と「督」それぞれの最上級の地位の承認を求め た。

 葛城氏の没落後、その地盤を継承した豪族が、高市地方に進出して蘇我氏となった説が有力視される(佐藤信 編『古代史講義』)。元々そこに拠点のあった大伴氏は、磯城十市地方へと拠点を移したと考えられる(佐藤信 編『古代史講義』氏族篇)。

 

新羅への遠征や吉備氏の乱の平定、養蚕の推進により王権を強化したとされる。雄略天皇の即位に際して、政権の軍事を担う大連に大伴室屋が任じられた。

 稲荷山古墳より刀剣類・画文神獣鏡・勾玉とともに出土した鉄剣には「ワカタケル」と読める「獲加多支鹵」の文字があった。また、江田船山古墳からも「ワカタケル」と読むと考えられる文字のある鉄刀が出土した。雄略天皇は考古学的に存在の確認された最初の天皇である。ワカタケルとある鉄剣・鉄刀の出土は、関東・九州までヤマト政権の力が及んでいたことを示すものである。

f:id:Usokusai:20220304011818j:image稲荷山古墳出土の鉄剣f:id:Usokusai:20220304012000j:image

江田船山古墳出土の鉄刀

 

  雄略天皇には女性を口説きその名前を聞こうとする歌があり、『万葉集』の最初に掲載されている。


籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児家聞かな 告らさね そらみつ大和の国は おしなべて我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ 我にこそは告らめ 家をも名をも

 

 

  。男大迹王は、琵琶湖周辺豪族出身の女性を妻として、近江国越前国大きな勢力圏を築き、朝鮮半島と独自に交流を行っていた。応神天皇の五世孫とされるが、実際には地方の有力豪族で、ヤマト政権の豪族たちに奉戴されたものだと思われる。彼は河内国樟葉宮にて即位した(継体天皇)。継体天皇は群臣の勧めで、武烈天皇の同母姉の手白香王女を大后とした。手白香王女を娶ったことで正当な大王だという立場を強いものにしたと考えられる。群臣の奉戴により即位したということも、当時の日本の王権のありようを示していると考えられる。

 

 このころには中国や朝鮮半島の関わりにおいて馬も入ってきたと思われる。

 

  また、地方豪族の領域内の農民の1部は直轄民となり、宮の経費を負担した(名代・子代の部)。

 また、加耶諸国は百済新羅より侵攻を受けることになったが、その引き換えとして、百済儒教の経典の五教(詩経尚書易経・春秋・礼記)を講じる五教博士や、易・暦・医の博士を派遣した(大津透『律令国家と隋唐文明』)。五教博士で渡来した最初の人物は段楊爾である。道教の伝来も古墳時代であると考えられる。 継体天皇は手白香王女を大后とする前に尾張目子媛との間に産まれていた勾大兄王子を後継者とした。「大兄」というのは一族の長を表す用語であり、大王の系統に関しては、同じ母を持つきょうだいの長子のことを意味する(義江明子『女帝の古代王権史』)。

  政権が統率する豪族の氏には葛城・平群・巨勢・蘇我などの地名由来のものと、大伴(軍事)・物部(軍事)・土師(土師器制作)・中臣(神官)・膳(食膳の主宰)などの職業由来のものがあった。葛城・平群・巨勢・蘇我などの朝廷に従事する有力豪族には臣。大伴・物部・中臣などの特定の職業や地位により政権を支える豪族には連。筑紫・毛野などの豪族には君、国造には直、伴造の首長には造、伴造系・渡来系豪族・県主に任じられた豪族には首が授けられた。このように、百済の部司制を模したものを品部と呼ぶ。

 

 この頃は、外国との交流のなかで、天然痘が流行したと考えられる(酒井シズ『病が語る日本史』)。

 

 

 馬子は仏教徒の司馬達人の娘、嶋を得度させて善信尼となし、他2人の女性を尼として敬い、仏教に帰依している。

 

 石付名との間には第1皇子田目王子・穴穂部間人皇女の間には厩戸王子・来目王子・殖栗王子などが産まれた。

 

 用明天皇はその後病となり、仏教に帰依することを望み、群臣に意見を問うた。結果として馬子の意見が採用され、用明天皇は帰依することになった。ほどなくして用明天皇崩御し、磐余池上陵に葬られた。当時流行していた天然痘を患ったと考えられている。

物部氏は衰退した。その財産は没収され、額田部王女方の王族や蘇我氏のものとなった。

 

その後馬子は、紛争調停の実績や経験、年齢(39歳)を考慮して、額田部王女を初の女性大王として推挙、父稲目の家のあった豊浦宮にて即位させ(推古天皇)、その甥厩戸王子が政権に参画した。

  蘇我稲目を祖父とする推古天皇や稲目の2人の娘を祖母に持つ厩戸王子といった、蘇我系の血縁で結びついた3人により政治が動かされた。厩戸王子は推古天皇の王女の菟道貝蛸王女や、馬子の娘刀自古郎女などを妻にして、更に関係を深くした。刀自古郎女は山背王を産んだ。

 中国の開皇9(589)年、隋王朝は陳を滅ぼして「中華」を統一する王朝となった。皇帝である文帝楊堅は、試験である「科挙」を通して官吏を登用し、均田制と府兵制を定めて郡県制を採用、「律(刑罰)」と「令(法律)」による律令制によって統治される律令国家を目指した(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

 594年に推古天皇が仏教興隆の詔を発したことで倭国は公的な仏教需要を表明した。

 厩戸王子によって斑鳩寺(法隆寺)と四天王寺、馬子によって飛鳥寺秦河勝によって広隆寺が建立された。飛鳥寺蘇我氏の氏寺であるとともに、僧尼を統制するための機関を持つ国家的な要素を孕んでいた(佐藤信 編『古代史講義』)。寺の建立が権威の象徴となったことで、古墳は小型化して八角墳などが生まれ、石室も竪穴式から横穴式となるなど、埋葬方法も変化した。

f:id:Usokusai:20220304012128j:image法隆寺f:id:Usokusai:20220304012228j:image四天王寺

 

また、司馬達人の孫、鞍作止利(鳥)は飛鳥大仏や法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像などの北魏様式の古式微笑(アルカリック・スマイル)を称えた仏像を制作した。他の北魏様式の作品としては法隆寺夢殿の救世観音像、同寺の百済観音像・広隆寺中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像などがある。玉虫厨子の須弥座絵、扇絵もまた有名である。

 f:id:Usokusai:20220304012459j:image釈迦三尊像f:id:Usokusai:20220304012539j:image百済観音像

f:id:Usokusai:20220304012652j:image半跏思惟像(広隆寺)f:id:Usokusai:20220304012710j:image中宮寺

 当時の倭国で造られた仏像について、和辻哲郎は、「悲哀と憧憬の結晶」であり、「成長した人間の鼻の美しさをきわめて鋭く捕え」ていると述べている(和辻哲郎『日本精神史研究』)。

 高句麗からは僧慧慈が来日、厩戸王子の師となって飛鳥寺に住み、「三宝の棟梁」と呼ばれた。この時期には他にも高句麗の僧が来日している(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

 

600年には中国の統一王朝隋に第1回遣隋使を送っている。これは高句麗が、隋との関係修復を画策するため(一度隋に侵入して撃退されている)、慧慈を通して倭国の入朝を実現させて、敵意が無いことを示す目的があったとも考えられている。隋としても「東夷」の入朝は、皇帝の徳を示すうえで好都合であった(西山良平・勝山清次 編著『日本の歴史 古代・中世編』)。

 『隋書』東夷伝倭国の記述では、そのときの倭国王の姓を阿每(アメ)、字を多利思比弧(タリシヒコ)、号を阿輩雞弥(オホケミ=大王?アメキミ=天君?)、王の妻の号を雞弥(ケミ=君?)、太子の名を利歌弥多弗利(リカミタフリ)としている。アメを姓として記述しているなど、倭国の君主号が中国の風俗で解釈されている。

 女性の推古天皇に男性を表すヒコ(彦)を用いるとは考えられず、 推古天皇が女性であることを隋に隠そうとしたとも考えられている。

 ただ、ヒコ(彦)とヒメ(姫)がそれぞれ男性と女性の名前の接尾辞として用いられるのは7世紀後半以降と推定されており、また、ワカミタフリというのも若翁(わかんどほり)、つまりは次世代の男女を問わない王族のことを意味したものであるという見解もある。

 そして、皇帝と1人の正妻=皇后がいて、世継ぎの皇太子がいるという制度が未成立だったがゆえに倭の回答が大雑把なものになったと考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。

 文帝楊堅倭国の習俗を尋ねたところ、倭国の使者は「倭王は天を兄、日を弟として、天が明けないうちに跏趺(両足の裏を見せて座る仏教の瞑想と同様の座り方)して政務を行い、日が登ると政務を委ねる」という内容を伝えたが、楊堅は不合理であるとして改めるよう訓令した。楊堅が不合理だと感じたのは、倭国の大王が夜に政務を行うことで灯りなどの余計な出費がかかり、家臣などの負担になる点だと思われる。ただ、半世紀後の倭国では日の出の後に政務を行っているため、倭国の使者による説明は誤訳されて楊堅に伝わった可能性もある(河上麻由子『古代日中関係史』)。「中華」との外交においては「冠位」が必要とされたため、この第1回遣隋使が冠位制を採用する契機であったと推測される(大津透『律令制と隋唐文明』)。

 603年、推古天皇は新たに造営された小墾田宮(雷丘東方遺跡か)に遷った。この宮は前夫(まえつきみ)の集まる場所としても用いられた(佐藤信 編『古代史講義』宮都編)。

 倭国は隋と比較して政治体制の遅れを感じて、徳・仁・義・礼・智の儒教の徳目をそれぞれ大小に分けた10の位を制定した冠位十二階を制定し個人の能力に応じて官位が与えられたほか、十七条憲法(憲法十七条)が成立した。冠位十二階は、王族や蘇我氏を含むかどうかは見解が分かれる。十七条憲法は、1条「以和為貴、無忤為宗(和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ)」2条「篤敬三宝(篤く三宝を敬へ)」などの仏教的な訓戒が見えるが、主な目的としては、大王と群臣の新たな関係秩序を確立する法として編まれたものと考えられる(石母田正説)。16条「使民以時、古之良典(民を使うに時を以てするは、古の良き典なり)」は『論語』学而編からの引用であり、隋の文化を取り入れていることが伺える(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

  蘇我氏の大臣は群臣を束ね、冠位を與える側であり、王権を代行可能な特権を得ている。ただ、群臣出身でない者も高位の官位を授かることもあり、蘇我氏は群臣層の不満を集めることになった(佐藤信 編『古代史講義』)。

 607年には第2回の遣隋使が行われ、小野妹子が派遣された。倭国の国書は、大王を「日出処の天子」と表現した。この「日出処」と「日没処」という表現は教論(仏教経典の注釈書)である『大智度論』の「日出づる処は是れ東方、日没する処はこれ西方」を出典とする表現であり、使者が二代皇帝煬帝楊広を「菩薩天子」と讃えたように、仏教に由来する表現である。推古天皇を意味する「天子」は「中華」の皇帝と対等であると主張したとされるものであるが、諸々の「天」(仏の一階級)に守護され、徳を分与された君主の一人という仏教的な文脈だとされる(河上麻由子『古代日中関係史』)

  仏教後進国の「蛮夷」が「天子」を名乗る書状は「無礼」であるとして楊広を激怒させたが、倭国が自身を大国であると主張したこと(『隋書』倭国伝)が効果があったのか、はたまた隋が高句麗征伐の準備をしている中で倭国との敵対を避けようとしたのか、倭国は厚遇された。ちなみに、600年代以降、隋は冊封に消極的になっており、また、倭国内においても安定した支配体制に冊封を必要としなくなっていた(河上麻由子『古代日中関係史』)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 晩年の厩戸王子は膳菩岐々美の飽浪宮で過ごしていた。山背王は、2人の間に産まれた舂米女王と異母きょうだい婚をするなど、膳氏との関係を深めていった。

 

 厩戸皇子には聖徳太子という尊号が贈られ、早いうちから神格化が行われた。

 

 同年の中国では、唐は隋の律令制を継承し、武徳律令を公布した。唐に対して高句麗王・百済王・新羅王は冊封され、それぞれ遼東群王・帯方郡王・楽浪郡王とされた。