ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

応神天皇~推古天皇

有力者による 墳丘に石を葺き、円筒埴輪を巡らせた巨大な古墳が造られはじめた時代を、古墳時代と呼ぶ。

近畿・瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が造営された3世紀後半から、7世紀までの文化は古墳文化と呼ばれる。

また、この時代から、弥生土器から発展した土師器や、朝鮮半島から伝わった須恵器などの土器が用いられるようになった。

f:id:Usokusai:20220304011448j:image土師器

f:id:Usokusai:20220304011500j:image須恵器

4世紀には、前方後円墳が多く、大和を中心として広まったことが、ヤマト政権に地方が服属したことを示すと思われる。

f:id:Usokusai:20220304011545j:image大仙古墳

369年には百済より七支刀が贈られているが、詳細な伝承は不明である(日本書紀には百済朝貢して来たときに献上したものとある)。現在は石上神宮の所蔵である。

f:id:Usokusai:20220304011622j:image七支刀

古墳時代には大陸からの渡来と混血が進み、以降日本人の大まかな祖先が形成された。

ヤマト政権は、大王(後の天皇)を中心とした政権であった。氏姓制度の下で、豪族を氏に編成し、首長的地位の氏上が血縁者をまとめた。また、氏の統制のための姓(カバネ)を授けることもあった。

氏には葛城・平群・巨勢・蘇我などの地名由来のものと、大伴(軍事)・物部(軍事)・土師(土師器制作)・中臣(神官)・膳(食膳の主宰)などの職業由来のものがあった。葛城・平群・巨勢・蘇我などの朝廷に従事する有力豪族には臣(蘇我氏などの最有力豪族には大臣)。大伴・物部・中臣などの特定の職業や地位により政権を支える豪族には連(物部氏などの最有力豪族には大連)。筑紫・毛野などの豪族には君・国造には直。伴造の首長には造。伴造系、渡来系豪族、県主に任じられた豪族には首が授けられた。このように、百済の部司制を模したものを品部と呼ぶ。

また、地方豪族の領域内の農民の1部は直轄民となり、宮の経費を負担した(名代・子代の部)。

豪族の土地を田堵、私有民を部曲と言ったのに対し、ヤマト政権の直轄領は屯倉と呼ばれ、機内各地に設定され、田部(農民)を摘発して耕作が行われた。

国造は統治権を認められる代わりに子弟子女の出仕や馬や兵士の貢上を行った(国造制)。

実在する天皇(この当時の称号は大王)だと推定されるのは10代崇神天皇である。また、15代応神天皇から確実に存在するという説や、応神天皇からは別の王朝であるとの説もある。

応神天皇の時代に東漢氏の祖・阿知使主や、秦氏の祖・弓月君が渡来したとされる。東漢氏後漢霊帝劉宏の末裔、秦氏は秦の始皇帝嬴政の末裔を称した。

また、古事記には王仁という百済からの渡来人が、論語10巻と千字文1巻を献上したとされるが、千字文は当時成立していない。他にも古事記には須須許理(仁番)という人物が酒の醸造を伝えたという記録がある。

応神天皇崩御後、後継者だった菟道稚郎子皇子とその異母兄の大山守皇子の間で争いがあり、大山守皇子の異母弟(母方では従兄弟)で菟道稚郎子皇子の異母兄にあたる大鷦鷯皇子を味方につけた菟道稚郎子皇子が勝利した。しかし、菟道稚郎子皇子は大鷦鷯皇子が大王になるべきと主張して、しばらくの間2人で大王位を譲りあった。しかし、菟道稚郎子皇子の早世(日本書紀によれば大鷦鷯皇子に大王位を譲るために自殺)により、大鷦鷯皇子が即位した(仁徳天皇)。

仁徳天皇には、人家の煙が立っていないことに気付き、3年間の課税を免除し、宮殿の再建を延期したという善政が伝えられている。

仁徳天皇の大后は、有力豪族の葛城氏出身の磐之媛であった。

仁徳天皇の後には仁徳天皇第1皇子去来穂別皇子が即位することとなったが、同母弟の住吉仲皇子が反乱を起こした。最終的に反乱は同じく同母弟の端歯別皇子によって鎮圧されたことで、即位することが出来た(履中天皇)。履中天皇も大后には葛城氏出身の妻の1人を迎えた。大后は異母妹の草香幡梭姫皇女であった。

履中天皇崩御後は瑞歯別皇子が即位した(反正天皇)。このときから、大王位は兄弟継承が基本となる。 その後は同母弟の雄朝津間稚子宿禰皇子が即位した(允恭天皇)。允恭天皇は氏と姓の混乱や仮冒を正すために、焼けた石を熱湯の中から取り出させ、火傷が軽いか重いかで罪の有無を判断するという、盟神探湯を行わせたとされる。

允恭天皇の後継者は第1皇子の木梨軽皇子だったが、同母妹の軽大娘皇女と情を通じたことで、允恭天皇崩御後に伊予に流され、代わりに同母弟の穴穂皇子が即位した(安康天皇)。

安康天皇は、同母弟の大初瀬幼武皇子と、草香幡梭姫皇女を婚姻させようとした。しかし。大草香皇子(草香幡梭姫皇女の同母兄)が拒否したという虚偽の報告を受け、大草香皇子を殺害し、皇子の妻の中帯姫命(履中天皇皇女)を大后とした。その後、安康天皇は大草香皇子と中帯命姫の間に産まれていた眉輪王に寝首を掻かれたとされる。

大初瀬幼武皇子は、安康天皇暗殺に同母兄の八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子が関与していると疑い、八釣白彦皇子を殺害した。坂合黒彦皇子と眉輪王は葛城円の屋敷に匿われた。大初瀬幼武皇子が屋敷を包囲すると、円は娘の韓媛と屯倉を差し出して降伏しようとしたが、3人はまとめて焼き殺されたと古事記にはある(日本書紀には自害とある)。円の死により葛城氏は衰退した。

履中天皇皇子の市辺押磐皇子も殺害した大初瀬幼武皇子は即位し(雄略天皇)、新羅への遠征や吉備氏の乱の平定、養蚕の推進により王権を強化したとされる。

稲荷山古墳より刀剣類・画文神獣鏡・勾玉とともに出土した鉄剣には「ワカタケル」と読める「獲加多支鹵」の文字があった。また、江田船山古墳からも「ワカタケル」と読むと考えられる文字のある鉄刀が出土した。雄略天皇は考古学的に存在の確認された最初の天皇である。ワカタケルとある鉄剣・鉄刀の出土は、関東・九州までヤマト政権の力が及んでいたことを示すものである。

f:id:Usokusai:20220304011818j:image稲荷山古墳出土の鉄剣f:id:Usokusai:20220304012000j:image

江田船山古墳出土の鉄刀

 

雄略天皇は、宋書梁書における倭の五王の「武」だと推定されている。武は高句麗との戦争における南朝宋の支援を求める上奏文を順帝劉準に奉じている。しかし、「武」が当時の日本で「タケル」と読んだかは疑問である。そのため、武と雄略天皇が同一人物であるかは疑問も持たれる。

雄略天皇と韓媛の間の皇子、白髪皇子は生まれつき白髪であったと古事記にはある。雄略天皇は皇子に霊異があると信じて後継者とした。白髪皇子は雄略天皇崩御後に即位した(清寧天皇)。

清寧天皇は病弱で子どももいなかったが、雄略天皇によって多数の皇族が殺害されており、後継者不足であった。そこで父の市辺押磐皇子が殺害されたときに身を隠していた億計・弘計兄弟を探し出して後継者とした。清寧天皇崩御後には履中天皇皇女の飯豊青皇女が政務を行っている。扶桑略記などは歴代天皇として扱っている。その後は兄の億計は弘計に大王位に就くことを勧めて、弘計は即位した(顕宗天皇)。しかし、皇子女なく崩御したため、億計が即位した(仁徳天皇)。大后には雄略天皇皇女の春日大娘皇女を立て、安定した仁政を行ったとされる。

仁賢天皇の後には、春日大娘皇女との間の第1皇子、若鷦鷯皇子が即位した(武烈天皇)。この時期には平群真鳥が権力を握ったが、大伴金村により滅ぼされた。

武烈天皇は后も皇子女もなく崩御したため、大伴金村によって招かれた、応神天皇の5世孫を称する男大迹王が即位し(継体天皇)、武烈天皇の同母姉の手白香皇女を大后とした。継体天皇は元々越前の豪族であり、大王家とは血縁的に無関係だったという説も根強い。手白香皇女を娶ったことで正当な大王だという立場を強いものにしたと考えられる。

継体天皇の治世では、朝鮮半島の戦争において百済の支援を続けていた。ヤマト政権は兵士・馬・船の供給を求めたが、筑紫君磐井は百済と敵対していた百済と結託して反乱を起こした。1年半にも及ぶ戦闘の結果、ヤマト側の征討将軍物部麁鹿火によって磐井は討ち果たされ、磐井の子、葛子は直轄領を差し出して服属した。このころには中国や朝鮮半島の関わりにおいて馬も入ってきたと思われる。

また、儒教の経典の五教(詩経尚書易経・春秋・礼記)を講じる五教博士や、易・暦・医の博士が百済より渡来した。五教博士で渡来した最初の人物は段楊爾である。道教の伝来も古墳時代であると考えられる。 継体天皇手白香皇女を大后とする前に尾張目子媛との間に産まれていた勾皇子を後継者とした。日本書紀によれば、記録上最初に譲位した天皇である。

勾皇子は即位し(安閑天皇)、父王と同じように仁賢天皇の皇女の春日山田皇女を大后とした。しかし、皇子女なく崩御したため、同母弟の檜隈高田皇子が即位し(宣化天皇)、仁賢天皇皇女橘仲皇女を大后に立てた。継体・安閑・宣化の3大王は続けて仁賢天皇の皇女を娶ったことになる。

宣化天皇の時代の538年に、新羅に対抗して日本との関わりを深めようとして、百済王扶余明襛(聖明王)が金銅の仏像一体・幡・経典を伝えた(仏教公伝)。 宣化天皇の次代は、継体天皇手白香皇女の間に生まれた志帰嶋皇子が即位し、大后には宣化天皇と橘仲皇女の間に産まれた石姫皇女を立てた。他にも財務担当の豪族蘇我氏蘇我大臣稲目の2人の娘、堅塩媛と子姉君を妃とした。石姫皇女との間には他田皇子など、堅塩媛との間には池辺皇子・額田部皇女・桜井皇子など、子姉君との間には穴穂部皇子・泊瀬部皇子・穴穂部間人皇女などが産まれた。

この時代には仏教受容を巡って、受容派の蘇我大臣稲目と否定派の物部大連尾輿(軍事担当)、中臣連鎌子(神職担当)の間で論争があり、欽明天皇の判断で、稲目に仏像を預けさせ、拝むことを許可した。しかし、その後に疫病が流行したことで、尾輿と鎌子は異国の神の崇拝が原因だと主張し、仏像の廃棄を欽明天皇に認めさせた。この頃は、外国との交流のなかで、天然痘が流行したと考えられる。

物部氏は廃物派であるとされるが、物部氏の遺構から氏寺と思われるものが発見されたことから本質的には蘇我氏物部氏の勢力争いだったとも考えられる。

稲目の子、馬子と尾輿の娘、鎌姫との婚姻もあり、間には蝦夷が産まれたが、両氏の対立は続いた。土師氏は蘇我氏と密接な関係を持っており、蘇我氏物部氏の抗争の際にも蘇我氏に協力した。

欽明天皇の後に他田皇子が即位(敏達天皇)したときに馬子が大臣、尾輿の子守屋が大連に任じられた。 敏達天皇は広姫(息長真手王)を大后とし、間に押坂彦皇子他2皇女が産まれたが、同年に崩御したため、天皇の異母妹である額田部皇女が大后となり、間に竹田皇子他3人が産まれている。

馬子は仏教徒の司馬達人の娘、嶋を得度させて善信尼となし、他2人の女性を尼として敬い、仏教に帰依した。

馬子は585年に病となり、かつて父の代に仏像が廃棄された祟りと占いに出たため、天皇に仏法を祀る許可を得た。しかし、その後疫病が流行さは、守屋と中臣勝海(鎌子の子か)は仏を祀ったせいであると奏じ、仏法を止める許可をもらって仏殿を焼き仏像を難波の堀江に投げ込んだ。その後の疫病の流行によって天皇と守屋も病になったことから、仏の祟りと言われることとなり、馬子は仏法を祀る許可を得た。

当時、仏はそれまでの日本の神と同様に、利益をもたらし時に祟をなすものだと考えられていた。

 

その後、敏達天皇崩御し、敏達天皇の異母弟で額田部皇女の同母兄の池辺皇子が即位した(用明天皇)。馬子にとっては甥である。大后には異母妹で従兄妹の穴穂部間人皇女が立った。他にも妻に稲目の娘石付名を迎えた。石付名との間には第1皇子田目皇子穴穂部間人皇女の間には厩戸皇子来目皇子殖栗皇子などが産まれた。

 用明天皇の異母弟で従兄弟の穴穂部皇子は自身が大王になれないことを不満に思い、額田部皇女を犯そうと殖宮に赴いたが、先王の寵臣三輪逆が門を閉ざして額田部皇女を守った。その後、穴穂部皇子は馬子の甥であったものの守屋、勝海、宅部皇子(敏達天皇皇子)と組んだ。対して馬子は穴穂部皇子同母弟の泊瀬部皇子を擁立した。そして、穴穂部皇子方の宅部皇子、守屋、勝海と泊瀬部皇子方の額田部皇女・竹田皇子母子、厩戸皇子、馬子の間に戦が起こった(丁未の乱)。結果として、穴穂部皇子、宅部皇子、勝海が殺害され、守屋も敗死したことで泊瀬部皇子が即位し(崇峻天皇)、物部氏は衰退した。

崇峻天皇は馬子の娘河上娘を妻としたが、馬子と不和となり、馬子の刺客の東漢駒に殺害された。駒自身も河上娘を奪い妻としたことを理由に殺害された。口封じのためとも考えられる。

その後、馬子は額田部皇女を初の女性天皇として即位させ(推古天皇)、厩戸皇子が政権に参画した。蘇我稲目を祖父とする推古天皇や稲目の2人の娘を祖母に持つ厩戸皇子といった、蘇我系の血縁で結びついた3人により政治が動かされた。厩戸皇子推古天皇の皇女の菟道貝蛸皇女や、馬子の娘刀自古郎女などを妻にして、更に関係を深くした。刀自古郎女は山背王を産んだ。

厩戸皇子は仏教への造詣が深く、法華経維摩経勝鬘経の注釈書である三経義疏を書いた。また、厩戸皇子によって斑鳩寺(法隆寺)と四天王寺、馬子によって飛鳥寺秦河勝によって広隆寺が建立されるなど、仏教が国政にとって重要なものとなり、寺の建立が権威の象徴となったことで、古墳は小型化して八角墳などが生まれ、石室も竪穴式から横穴式となるなど、埋葬方法も変化した。

f:id:Usokusai:20220304012128j:image法隆寺f:id:Usokusai:20220304012228j:image四天王寺

 

また、司馬達人の孫、鞍作止利(鳥)は飛鳥大仏や法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像などの北魏様式の古式微笑(アルカリック・スマイル)を称えた仏像を制作した。他の北魏様式の作品としては法隆寺夢殿の救世観音像、同寺の百済観音像・広隆寺中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像などがある。玉虫厨子の須弥座絵、扇絵もまた有名である。

 f:id:Usokusai:20220304012459j:image釈迦三尊像f:id:Usokusai:20220304012539j:image百済観音像

f:id:Usokusai:20220304012652j:image半跏思惟像(広隆寺)f:id:Usokusai:20220304012710j:image中宮寺

600年には中国の統一王朝隋に第1回遣隋使を送っている。そのときの倭国王を「アメノタリシヒコ」としているが、女性の推古天皇に男性を表すヒコ(彦)を用いるとは考えられず、男性君主を装ったとも言われるが定かではない。

文帝楊堅倭国の習俗を尋ねたところ、倭国の使者は「倭王は天を兄、日を弟として、天が明けないうちに政治を行い、日が登ると政務を委ねる」という内容を伝えたが、楊堅は不合理であるとして改めるよう訓令した。

その後、倭国では徳・仁・義・礼・智の儒教の徳目をそれぞれ大小に分けた10の位を制定した冠位十二階や、儒教的、仏教的精神を重視した十七条憲法が成立した。

607年には第2回の遣隋使が行われ、小野妹子が派遣された。倭国の国書に大王を「日出処の天子」とあったことで、天子(皇帝)はただ1人という中華思想のもとにある、隋の二代皇帝煬帝楊広を激怒したが、楊広は倭国が隋と敵対していた高句麗と結託することを警戒したことで、倭国冊封体制に入らないながらも隋と国交を持つという関係を築くことに成功した。 1年後に隋より裴世清が隋より派遣されて、遣隋使の帰国とともに倭国に渡った。その年の裴世清の帰国とともに第3回遣隋使が派遣され、妹子の他に旻・高向玄理南淵請安など8人の留学生と学問僧が派遣された。 遣隋使は第4回の犬上御田鍬が派遣されたときが最後になり、旻・玄理・請安は隋の滅亡と李淵による唐の成立を目の当たりにして帰国し、それぞれ学塾を開いた。御田鍬は初の遣唐使にもなっている。

622年に厩戸皇子薨去し、妻の1人であった橘大娘(推古天皇の孫)は皇子を追悼するために天寿国繍帳という刺繍をつくらせた。中宮寺に残片が伝わっている。厩戸皇子には聖徳太子という尊号が贈られ、早いうちから神格化が行われた。

624年、馬子は元は蘇我氏領だった、大王領の葛城県の割譲を求めたが推古天皇はそれだけは聞き入れられないと拒否した。その2年後に馬子は死去した。

628年、自身の最期を悟った推古天皇は、田村皇子(敏達天皇孫で、押坂彦皇子と広姫の子)と、山背王 を呼び寄せ、田村皇子には大王になるうえでの心構えを、山背王には将来大王になるまでに精神的に成長することを説いた。

参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508